投稿者「Gengoroh Tagame」のアーカイブ

“Le Grand Voyage”

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“Le Grand Voyage” (2004) Ismaël Ferroukhi
(米盤DVDで鑑賞→amazon.com

 2004年制作のフランス/モロッコ/ブルガリア/トルコ映画。
 車で陸路メッカ巡礼に出た、フランスに暮らすモロッコ移民の老父と、その運転手となったフランス生まれでイスラムに縁のないハイティーンの息子を描いたロードムービー。

 レダはフランスで生まれ育ったモロッコ移民二世のハイティーンの青年。使用言語はフランス語で、アラビア語はモロッコ方言しか判らない。ある日、敬虔なムスリムである老父が、自家用車で陸路ハッジ(メッカ巡礼、ムスリムにとって重要な五行の一つ)に出ることになり、その運転手を命じられる。
 大学受験を控えていたレダは反発するが、結局は父親の運転手として共にハッジに出る。二人の車はフランスからイタリア、スロベニア、クロアチア、セルビア、ブルガリア、トルコ、シリア、ヨルダン…と、様々な国を走り抜けてサウジアラビアへと向かう。
 旅の途中、謎の老婆や調子のいい男など、様々な人々に出会ったり、車が雪に埋もれてしまったり、言葉が通じなかったり詐欺にあったりといった、旅行ならではのトラブルにも巻き込まれながら、世代も文化的背景も異なる父と息子は、共に行動しながらも衝突を繰り返すのだが、やがて……といった内容。

 良い映画。
 作りすぎないエピソードのリアル感、点景によって浮かび上がってくる、父と息子それぞれのキャラクター像、それを支える俳優の演技と存在感、ユーモアや感動やしんみりなどの配分など、見所がいっぱい。
 全体的には地味な作りながら、父子の旅行きに起きる細々としたエピソードを楽しみつつ、互いの心の相反を経ての相互理解がドラマ的なうねりとなり、クライマックスのメッカに至るまで、全く飽きることも弛緩することもなく、お見事。
 そうやって描かれるドラマからは、物理的な距離だけではなく心理的な推移も含めた、人生の縮図としての《旅》の姿が浮かび上がってきます。イスラムを良く知らない二世の目を通して、エピソードや世界が描かれていくので、ムスリムでない人間にとっても内容的な敷居の高さがないのも良い。 
 ラスト(ちょっとネタバレを含むので白文字で)、父親が参拝に行ったまま夜になっても帰って来ず、心配して探しに行ったレダが、死体安置所で父親の亡骸と再会するという展開は、ちょっと唐突に感じられる人もいるかとは思いますが、じっさいメッカ巡礼では毎年のように、混雑による将棋倒しなどから「死者○○人」といったニュースが報じられるので、こういったことも決して珍しくはないんですよね、きっと。ここいらへんは、多少の事前知識が必要とされる部分かも知れません。

 IMDbによると、この監督の劇場用長編映画としては処女作らしいですが、それでこの仕上がりは見事。またWikipediaによると、ハッジ期間中のメッカでロケを許された最初のフィクション作品だそう。
 美しい音楽や印象的な風景、そして鑑賞後のしんみりとした余韻も忘れがたく、モチーフに興味のある方なら、まず見て損はない一本。

ペンネームを変えます……というエイプリルフールネタでした

 エイプリルフールネタで、

 ここんところ、ちょっと嫌なことなどあったので、心機一転、ペンネームを変えることにしました。
 というわけで、本日から《田亀源五郎》改め《おかめ源五郎》になります。
 引き続きのご愛顧を!
という内容でした。

『牛』”The Cow (Gaav)”

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『牛』(1969)ダリウシュ・メールジュイ
“The Cow (Gaav)” (1969) Dariush Mehrjui
(米盤DVDで鑑賞→amazon.com

 1969年制作のイラン映画。原題”گاو‎”。ダリウシュ・メールジュイ監督。
 田舎を舞台にしたリアリズム劇で、アッバス・キアロスタミやモフセン・マフマルバフといったイラニアン・ニュー・ウェーブは、この映画から始まったんだそうな。

 イランのとある田舎の村。
 村に一頭だけいる牝牛の飼い主である中年男ハッサンは、自分の牝牛を我が子のように可愛がっていた。しかし彼が所用で村から離れている間に、牝牛が急死してしまう。彼の心中を慮った村人たちは、牝牛をこっそり古井戸に埋め、彼には「牝牛が逃げた」と言うことにする。
 やがて帰ってきたハッサンは、牝牛が逃げたと聞かされて嘆き悲しむのだが、喪失の悲しみは次第に彼の心を蝕み、村人たちの心配する中、やがては自分が牝牛だと思い込んで、牛小屋から出てこなくなってしまい……といった内容。

 ストーリーとしては極めてシンプル。
 村の家畜を狙う外部の盗賊とか、ハッサンの甥と村娘との仄かな恋情とかいった、サイド・エピソード的なものも一応はあるものの、基本はハッサンの牝牛に対する愛情と、それを喪って次第に精神に変調をきたしていく様子と、それを何とかしようとする周囲の村人たちのドラマ。
 ハッサンが牝牛をどれだけ愛しているかというのは、優しく話しかけ、精魂込めて手入れをし、牝牛のためにお土産にお守りを買ってくる……といったエピソードの数々から、痛いほど良く伝わってくるし、だからこそその牝牛が死んでしまった時の、妻の動揺や村人たちの心配も判る。そして、誰も悪気があるわけではないし、逆に《良かれ》と思ってしているのに、にも関わらずそれが裏目に出て、悲劇的な結末を迎えてしまう。
 最後、(ネタバレを含むので白文字で)どんなに手を尽くしても牛小屋から出ようとしないハッサンを、村人たちは無理やり縛り上げて町の病院に連れて行こうとするのだが、抵抗し、言うとおりに歩こうとしないハッサンに、友人が業を煮やして、つい「歩け、この獣!」と怒鳴りながら、木の枝で彼を家畜のように打ち据えてしまい、そのあと我に返る……なんて場面は、そんな気持ちも判るだけに、尚更ゾッとするような痛ましいような、そんな気持ちに捕らわれて心を揺さぶられます。

 映像はモノクロームで、画面は極めて力強し。
 平穏な村の日常を描く静的な画面と、ハッサンの狂気や、村に忍び込んだ盗賊などを描く動的な画面のコントラストも素晴らしい。イタリアン・ネオレアリスモとの近似性というのも、これがイラン映画の新たな潮流を生んだというのにも納得。
 エモーショナルな要素が、ハッサンの牝牛に対する愛情という部分のみに集約していて、余分なドラマ的な作りがないのも佳良。基本的には現実の無情さを描きながらも、あちこちにそこはかとないユーモアも忘れない作劇も佳良。
 作品世界全体を俯瞰する視点の高さや、悲劇的であると同時に仄かな救いも感じさせる、鑑賞後の余韻も味わい深し。

 『牛』から、牝牛が消えた後、村人たちが心配してハッサンを訪ねると、彼の様子がおかしいことに気づき……といったシーンのクリップ。

“Pehlivan”

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“Pehlivan” (1985) Zeki Ökten
(トルコ盤DVDで鑑賞、米アマゾンで入手可能→amazon.com

 1985年製作のトルコ映画。監督はユルマズ・ギュネイと組んで『敵』『群れ』(どちらも未見)などを撮ったゼキ・オクテン。主演は『群れ』と同じくタルク・アカンで、この”Pehlivan”では第35回ベルリン国際映画祭名誉賞を受賞。
 タイトルの意味は「レスラー」で、文字通りトルコの国技であるオイルレスリング(ヤールギュレシ)を扱った内容。

 老いた父親と妻と三人の子供と共に暮らす主人公は、全国的な不況によって失業中。望む職が見つからないまま、仕方なくリビアに出稼ぎに行くことを考えつつ、近在の村で祭りがあると、そこで開催されるオイルレスリング大会に参加して、僅かばかりの現金や賞品の家畜を手に入れている。
 しかし家計は苦しくなる一方で、更に長いことドイツに住んでいた親戚が、当地のトルコ人排斥運動のあおりで帰国し、主人公の家に同居し始める。主人公は、友人であるレスリングの口入れ屋や、往年の名レスラーだった大工と組み、一攫千金を目指して大きな大会での優勝を目指すのだが……という内容。

 演出は極めてリアリズム志向。
 作劇にフィクション的な過剰さや虚飾がなく、家族や友人の心の動きを描く日常的な光景や、社会情勢を反映したエピソードなどが、淡々と、しかし力強く、まるでドキュメンタリー映画のように綴られていく。素晴らしく見応えあり。
 音の使い方も見事。エモーショナルな劇伴音楽ではなく、実際のオイルレスリングの試合や村祭りで奏でられる音楽がメインで、それがドラマの素朴な力強さをより引き立てる効果に。
 加えて自然音の使い方や、クライマックスの無音効果などは、もうお見事の一言。
 役者陣も、主人公とその老いた老父を筆頭に、いずれも素晴らしい存在感と説得力。
 そんな主人公の肉体的な存在感をメインに、繰り広げられる数々のレスリングシーンも見所の一つなのだが、村祭りの試合から師匠との練習、そしてクライマックスの延々と続く大会の模様など、その充実度にも大満足。
 更に主人公の《逞しい肉体》という要素が、きちんとエロティシズムにも繋がっているのが良い。
 夫の身体をオイルマッサージしながら、夫婦が次第に欲情していくシーンがあるのだが、オイルに濡れた手で分厚い胸板を撫で回す様や、屈んだ妻の襟元から覗く乳房のたわみといった具合に、抑えた描写ながらもエロティシズムもばっちり。
 というわけで、元々オイルレスリング好きの私としては、もう文句なしに楽しめました。
 ただし結末は見る人を選ぶと思います。予定調和的な快感を保証する娯楽作ではなく、そのアンチ・クライマックス的な幕の引き方には、賛否両論ありそう。
 個人的には、このエンディングは高評価。ドラマが一瞬にしてブツンと途切れて、映画の世界から現実に放り出されてしまうような感じなんですが、全体がリアリズム準拠なので、その効果も大。「ああ、現実ってこういうものだよな……」などと、しみじみ思いました。

 私が最近見たアンチ・クライマックス系のトルコ映画(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督作品や、セミフ・カプランオール監督『蜂蜜』『』、東京国際映画祭で見た『ホーム』『われらの大いなる諦め』など)と比較すると、まだまだ娯楽寄りの要素はありますし、日常的な表現のデリケートさも、あそこまで徹底してはいませんが、それでも題材に興味がある方なら、まず見て損はないと思います。

“Deli Deli Olma”

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“Deli Deli Olma” (2009) Murat Saraçoglu
(トルコ盤DVDで鑑賞、米アマゾンで取り扱いがあったんですが、現在は品切れの模様→amazon.com

 2009年製作のトルコ映画。タイトルの意味は”Piano Girl”。

 トルコの雪深い寒村で暮らすロシア系移民の、最後の一人となった老人と、村の様々な人々との交流を描いたヒューマン・ドラマ。主演はトルコのベテラン・スター俳優タルク・アカンとシェリフ・セゼル……と、ユルマズ・ギュネイ監督の『路』コンビ。
 その昔、オスマン帝国対ロシア帝国の戦争の後、ロシア皇帝によって追放されたモロカン派の人々が、トルコのカルス地方に強制的に移民させられた。そして時は流れロシア人たちは少しずつ死んでいき、最後に残った二人の従兄弟同士のうち片割れも死に、ついに年老いた男ミーシカだけが一人残される。
 村人たちは、一人ぼっちになってしまったミーシカのことを、あれこれ案じるのだが、この村には村中の皆から怖れられている気性の激しいパピュクという老婆がいて、この老婆がロシア人を蛇蝎の如く嫌っているので、村人たちも大っぴらにミーシカを助けることができない。
 そんな中、パピュクの孫で音楽が大好きな少女エルマが、ミーシカがピアノを弾いているのを見たことをきっかけに、彼と仲良くなり家に出入りするようになる。しかしそれを知ったパピュクは烈火の如く怒り、しかも自分の息子がこっそりミーシカにツケで食糧を売っていたと知り、強引にその支払いを迫る。
 支払いに窮したミーシカは、街で売ればかなりの金額になると、父から譲り受けたピアノをパピュクに渡す。エルマは喜ぶが、パピュクはピアノを家に置いておきたくないので、息子が賭で負けた精算の代わりに、ピアノを別の家族に渡してしまう。村では西洋音楽に全く馴染みがなく、ピアノは粗大ゴミのように扱われてしまい、エルマは子供ながらに何とかそれを大事に扱わせようと奮闘する。
 そんな中、エルマの音感の良さに注目した学校の音楽教師が、彼女に音楽学校の奨学制度の試験を受けさせたいと提案する。村から将来のピアニスト、つまり歌手や女優のような有名人が出るかもと、村人たちはこぞって賛成するのだが、祖母のパピュクだけは断固反対。
 そんな最中ミーシカが病に倒れてしまう。果たしてエルマの将来は、そしてパピュクは何故そんなにミーシカのことを目の敵にするのか? ……といった内容。

 なかなか見応えのある作品。
 雪深い寒村の風景は見事に美しいし、村人たちの様子も実に生き生きとして魅力的。エルマをメインにした子供たちのエピソードも楽しく、エルマがミーシカのことを、次第に本当のおじいちゃんのように慕っていくあたりもジーンときます。
 ミーシカとパピュクの過去の因縁に関しては、まあある意味想像通りといった感じで意外性はないんですが、このエピソードを通じて、異国へ強制的に移民させられた人々の悲しみや、民俗や言語の違いだけではなく、宗教の違いによって同化することができない人々間の悲劇などを、くっきり浮かびあがらせるのが上手い。
 メインのストーリー以外でも、村の茶店で定例開催されるサズ(楽器)の弾き語り&即興詩による歌合戦のアレコレとか、いい歳した男たちがパピュクの剣幕の前ではいつもタジタジとなってしまい、手も足も出なくなるといったユーモアとか、ピアノに隠されていた謎とか、あれこれ楽しいディテールがテンコモリ。
 ミーシカを心配して村の男たちが彼の家を訪ねると、彼が編んだソックスとか彼が焼いたロシアのデニッシュとかがあるので、おそらく彼がずっと独身であったことも踏まえて(これは理由があるんですが)「……やっぱり彼はオカマだ」なんてヒソヒソ言い交わすのを、ユーモラスに描いたシーンもあり。
 強いて言えば、ちょいとテンコモリ過ぎて、これは別になくてもいいんじゃないかというエピソードもあるし、どうせなら少女エルマの視点で一貫させた方が構成としてスマートになったのではないかという気もしますけど、良い意味での通俗性を持ち合わせた、面白さも感動もある標準以上の出来であることは間違いなし。IMDbでも7.1点という評価。
 役者陣も上々。ミーシカ役、タルク・アカンのおじいちゃんっぷりが実に良いんですが、対するパピュク役、シェリフ・セゼルの烈女っぷりも、またお見事。エルマ役の少女も文句なく愛らしく、その他いろいろ愛すべきキャラクターもいっぱい。
 あと、極めて個人的なことですが、ちょうどこういった雪深い時期に同地方を旅したことがある(1月にイランのタブリーズから鉄道で国境を越えてトルコのドゥバヤジットへ行った)ので、出てくる風景や村の光景等、見ているだけでも、なんかいちいち懐かしかったり嬉しくなったり(笑)。

 ただ、後味がちょっと微妙なところがあるので(ヒューマン・ドラマ的な感動というより、ちょっと苦いものを飲み込んだようなトラジックな気持ちになる)ので、そこは好みが分かれるところ。私の好みとしては、全体のテイストと照らし合わせても、もうちょっと暖かみのあるエンディングにして欲しかったかなぁ……という気はします。
 ここいらへんは、前に“Vizontele”の感想で書いたような、これがトルコ映画的な特徴なのかな……なんて思ったり。

『ジュデックス』+”Nuits Rouges”

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『ジュデックス』(1965)ジョルジュ・フランジュ
“Judex” (1965) Georges Franju
(イギリス盤DVDで鑑賞→amazon.co.uk

 1963年製作のフランス映画。監督は『顔のない眼』のジョルジュ・フランジュ。
 1910年代にルイ・フイヤード監督が撮ったサイレント活劇映画へのオマージュとして、謎の覆面義賊団と女盗賊一味の闘いを描いた映画。

 銀行創立20周年と娘ジャクリーヌの再婚を祝う舞踏会を控えた悪徳銀行家ファブローの元に、ラテン語で《裁き》を意味する「ジュデックス」の署名と共に、「これまでの罪を償うために財産を人々に返還せよ、さもなくば舞踏会の日の深夜に命を奪う」という内容の脅迫状が届く。
 ファブローは探偵を雇うが、自分は相変わらず罪業をなじりに来た老人を車ではねる等の悪行を繰り返し、更には孫娘の家庭教師マリーに結婚を迫る。ジュデックスの手がかりは何も掴めないまま、いよいよ祝賀仮面舞踏会が開かれるが、会場に鳥の仮面を付けた謎の手品師が現れる。
 そして時計が十二時を打った瞬間、ジュデックスの警告通りファブローは息絶え、手品師はひっそりと会場を後にする。父の死後、ジャクリーヌは父のしてきた悪行を知って家屋敷や財産を処分することにし、婚約者も彼女から去る。しかし家庭教師のマリーは、恋人と共にファブローの財産を狙っていた。
 そんな中、数人の覆面男たちが、ファブローの遺体を墓地から盗み出す。実はファブローは仮死状態にされていただけで、そのままジュデックスの秘密基地に幽閉され、「お前は死刑の予定だったが、娘さんの行いで救われ、終身刑に変更する」という宣告を受ける。
 一方、マリーと恋人は、夜中にファブローの屋敷に忍び込むが、それをジャクリーヌに見られてしまう。マリーたちは、ジャクリーヌを眠らせて連れ去ろうとするが、ジュデックスがそれを助ける。ジャクリーヌが目覚めたとき、その傍らには鳩の入った鳥籠と、「何かあったら、すぐにこの鳩を放ちなさい、私が助けに行きます」というジュデックスからの手紙が残されていた。
 やがて、ファブローが生きていることを知ったマリーたちは、まず彼を助けて財産を奪おうと企み、その前に口封じのためにジャクリーヌを殺そうとうるが……といった内容。

 なるほどサイレント時代の活劇映画へのオマージュらしく、まさに《奇想天外》という言葉が相応しいストーリー。
 意外であればあるほど良しといった感じで、リアリティも伏線もへったくれもない展開に偶然に偶然が重なって、まあ何とも楽しく転がっていきます。登場人物や道具立ても、つば広帽に覆面黒マントのハンサム義賊、黒い全身タイツに身を包んだ変装が得意な女盗賊、マヌケな探偵と冒険好きの少年、曲馬団の美少女軽業師、廃墟となった古城の地下にある秘密基地、電気仕掛けの様々な空想科学系不思議小道具……といった感じで、レトロ風味がいっぱい。
 モノクロ映像は美しく、活劇ながらも所々にハッとするような詩的なイメージも。映画はアイリス・インで始まり、エピソードの合間合間には、中間字幕調の装飾的な章題が置かれ、いかにも無声映画へのオマージュという雰囲気はタップリ。監督自身による、自分が幼少期に見た映画の想い出の再現といった感じもあり。
 サイレントの活劇映画っぽい強引な作劇は、思わず笑っちゃうところもあったりして、個人的には(ちょっとネタバレ気味なので白文字で)「敵と取っ組み合っていたら、相手の指輪で生き別れになっていた実の息子だと判る」と「壁を昇りあぐねていると、偶然そこに曲馬団の馬車が通り知り合いの軽業師が乗っている」の二つが大爆笑でした(笑)。

 キャストは、私の知っているところでは、ジャクリーヌにエディット・スコブ、軽業師の美少女にシルヴァ・コシナ。
 音楽は『顔のない眼』同様モーリス・ジャールで、これまたステキな曲を聴かせてくれます。特に仮面舞踏会のシーンは、音楽の良さと画面のファンタジックさが相まって忘れがたい出来。
 そんなこんなで、レトロ好きならタップリ楽しめる一本ですが、前述のように作劇やキャラクターも含めて、意図的にアナクロに徹しているので、レトロ趣味がない方には敷居が高いでしょう。
 しかしこうやって見ると、オマージュ元のルイ・フイヤードの映画も見てみたくなるなぁ……DVD出たけどスルーしてた『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』見てみようかしらん。

『ジュデックス』から、ファンタジックな美しさが忘れがたい仮面舞踏会のシーン。

“Nuits Rouges” (1974) Georges Franju
『ジュデックス』と同じく、ジョルジュ・フランジュ監督がクラシック活劇映画へのオマージュとして撮った1974年度作品。
 こちらはカラーで、元々はTVシリーズだったものを、再編集して長編映画に仕上げたものらしいです。

 とある学者の執事が金に困り、主がテンプル騎士団の財宝の握っていると、情報屋にたれ込む。その情報は、地下基地に潜む紅い覆面の男を頭とした覆面ギャング団一味に伝わり、学者はギャングに襲われ口を割らないまま殺されてしまう。
 警察が捜査に乗り出した頃、学者の甥で船乗りの青年が帰還する。しかし直後に本物の甥が現れ、先に現れたのは偽者だと判明する。偽者の手引きをしたことで執事は警察に拘束されるが、何も自白しないまま、ギャング団のマッドサイエンティストによってゾンビ化された刺客に殺されてしまう。
 甥は警察とは別個に、ガールフレンドと、彼女の友人で詩人かつ探偵の男と共に、3人で事件の謎を探り始める。それを知ったギャング団のボスの右腕で、キャットスーツに身を包んだ美女の殺し屋は、ガールフレンドを誘拐しようと計画するのだが…といった内容。

 奇想天外というかシッチャカメッチャカというか、これまた何とも奇天烈なストーリー。
 隠し扉だの地下基地だのゾンビ化手術だの彫像の中に潜む悪漢だの、次から次へと繰り出されるガジェットや仕掛けは実に楽しく、クライマックスはギャング団とテンプル騎士団の銃撃戦というブッ飛び具合。
 ただ『ジュデックス」とは異なり、手法的にはっきりとサイレント活劇へのオマージュを打ち出しているわけではなく(せいぜいアイリス・インが多用されるくらい)、時代設定も制作当時の《現代》なので、レトロ活劇の魅力というよりは、単に古臭くてユルい活劇映画に見えてしまう感もあり。
 また、キャラクターや役者にあまり魅力がないのも、『ジュデックス』と比べて痛いところ。美人殺し屋のゲイル・ハニカットは、峰不二子みたいでなかなかヨロシイんですが、肝心のヒーロー(甥っ子)やヒロイン(ガールフレンド)に魅力がなく、影も薄いのが何とも残念。
 とはいえ、その女殺し屋がキャットスーツ&覆面で、夜の屋根の上で暗躍するシーンや、主人公と探偵が、マネキンに化けていたゾンビ軍団に襲われるシーンや、赤覆面のボスが、バイクで下水道(?)を逃走するシーンなどに、ちらほら魅力的な映像もあり。
 まあ全体のノリはユルいんですが、テンポそのものは決して悪くなく話もサクサク進みますし、DVDも『ジュデックス』のオマケみたいにしてついてきたものなので(英盤で『ジュデックス』『Nuits Rouges』の二枚組)、レトロ好きなら軽いノリで楽しめると思います。

 ”Nuits Rouges”から、覆面&キャットスーツの美人殺し屋と警察が、夜のパリの屋根の上でまったり対決するシーンのクリップ。

レ・ヴァンピール-吸血ギャング団- BOX クリティカル・エディション [DVD] レ・ヴァンピール-吸血ギャング団- BOX クリティカル・エディション [DVD]
価格:¥ 12,600(税込)
発売日:2008-11-29

“Bol”(『BOL ~声をあげる~』)

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“Bol” (2011) Shoaib Mansoor
(インド盤DVDで鑑賞、米アマゾンで入手可能→amazon.com

 2011年製作のパキスタン/ウルドゥ映画。ショエーブ・マンスール監督作品。タイトルの意味は《話す》。
 イスラムにおける父権的&女性蔑視的なドグマに囚われた父親と、その妻や娘たちの辿る悲劇を描いた社会派ヒューマン・ドラマ。パキスタン映画の興行成績を塗り替えた大ヒット作だそう。IMDbでも8.0/10という高評価。
【追記】アジアフォーカス・福岡国際映画祭2012で上映、福岡観客賞受賞。

 死刑執行直前の一人の若い女囚が、最後の願いとしてマスコミの前で話しをすることを望み、「私は殺人者ではあるが犯罪者ではない」と前置きしてから、自らの個人史を語り始める。
 彼女は貧しいが子沢山、それも女児ばかりの家に生まれた年長の娘だった。父親は熱心な宗教的求道者として周囲からは尊敬を勝ち得ていたが、ドグマに囚われ妻や娘たちを家に閉じ込め、学校にも行かせず外出もさせないという男だった。
 父は男児の誕生を望んで、繰り返し繰り返し妻を妊娠させるが、生まれてくるのは女児ばかりだった。そしてようやく息子が授かるが、その子は半陰陽と判断され、父親はその存在を恥じて家に閉じ込める。成長した彼はトランスジェンダー的な振る舞いを見せるようになる。
 ヒロインはそんな弟を独り立ちさせるために、母や妹たちや開かれた価値観を持つ隣家の息子の助力を得て、絵が得意な彼を、父親に内緒でトラックに絵を描くペンキ屋に弟子入りさせる。ペンキ屋の親方は彼の才を認めるが、彼の中性的な物腰が他の同僚やトラック運転手から目を付けられ、ついに親方のいない間に乱暴されてしまう。
 母や姉たちは、出掛けたまま帰って来ない彼のことを案じるが、父親は「そのままどこかで死んでくれればいい」とまで言う。そして、乱暴されたあと縛られて放置されていた彼は、ヒジュラ(男女以外の第三の性。多くは女性化した男性で、歌舞や売色等を生業とする)に助けられ、家まで送り届けられる。父親はそれを無視して扉を開けようとしないが、母や姉たちがそれに気付いて彼を迎入れる。
 事情を聞いた母や姉たちは、彼を無理に一人前の男にしようとした自分たちが間違っていたと悔やむが、この事件で父親はますます息子を疎むようになり、ついにはその寝室に忍び込み……といった内容で、ここまでが前半。
 後半はこれが皮切りとなり、父親が預かっていたモスクを建てるための募金の使い込みや、そんな父親が娼館の主と金銭的な取引をして、そこの娘の腹を借りることになるという事件が絡み、そんな父親と独立心のあるヒロインの対立は、ますます激しさを増していき、結果この一家はどんどん泥縄に……となっていきます。

 これはお見事。大いに見応えあり。
 前述したTGの息子の部分だけでも、かなりズッシリとしたテーマなんですが、それはまだほんの序の口。後半は、ドグマによって抑圧される女性とそれを容認してしまう社会、男児を重視する社会が産み出す様々な歪みといった、問題提起や告発に繋がっていき、それがダイナミックなストーリーのうねりと共に描かれていきます。
 死刑直前のヒロインの独白でストーリーが始まることによって、過去に何が起きたのかということと、そして現在のヒロインはどうなるのかという、二本柱で全体を牽引していくので、もう先が気になってたまらない。で、その語られる内容が、特に狙ってツイストを入れてくるわけではないのに、それでも驚くべき展開になっていくので、とにかく最初から最後まで目を離せない感じ。
 とはいえ、ひたすら重くて暗いというわけでもなく、ユーモア描写こそありませんが、それぞれのキャラクターをじっくり描き込んだ波瀾万丈の大河ドラマといった趣で、重いテーマながらもグイグイと力強く引き込んで見せていきます。
 そして、現実の残酷さと希望の双方を踏まえたラストには、思わずウルウル。

 演出も見事。冒頭、向かい合った男女が会話しているシーン……と思いきや、カメラが動くと、二人の間に鉄格子があることが判るカットから「おっ」と思わされましたが、全編に渡って、落ち着いたカメラワークと構図で見せる、しっかりとした重厚な出来映え。
 インド映画同様に、パキスタン映画にも歌や踊りは必須のようで、この映画にも何回か歌舞が登場しますが、挿入歌的な見せ方、ラジオから流れる歌に合わせて踊る、音楽のライブ場面……といった具合に、極力ストーリーに溶け込ませて自然に見せようという工夫があるので、あまり腰を折られる感はなし。
 もちろん、ドラマの置かれている社会事情を考慮しないと、理解や感情移入がしにくいであろう部分もありますし、こういうテーマだとどうしても、一部の音楽シーンが冗長に感じられる部分もあるんですが、しかし重厚なヒューマンドラマとして文句なしの見応え&良作。

 女性映画でもあり、社会派映画でもあり、ヒューマニズム映画でもあり、波瀾万丈の大河ドラマでもあり、ストーリーの面白さ、考えさせられるテーマ、胸を打たれるエモーショナルな展開の数々……と、見て損はない一本。

【余談】DVDのジャケやメニュー画面で一番デッカい二枚目男性が、実はストーリー的にはわりとどーでもいい隣家のお兄ちゃんだったので、ちょっとビックリ(笑)。

単行本『田舎医者/ポチ』表紙色校到着

 4月13日にポット出版さんから刊行予定の新マンガ単行本『田舎医者/ポチ』の表紙色校正が出たので、昨日チェックしてきました。
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 今回は、ちょっとレトロな暖かみのある感じにしたかったので、用紙も純白ではなく生成り系の色合いで、紙としての風合いもあるものを希望したところ、かすかにクリーム色がかって細かな繊維が混入しているテクスチャーの用紙を用意していただけて、結果、もうバッチリの仕上がりです。
 上の写真だと、わりと色彩が鮮やかめに出ちゃってますが、現物はもうちょい浅く沈んだ感じ。
 印刷面の保護も、紙の風合いを損なわないように、通常用いられるPP貼り(透明ビニールようなシートを圧着する)ではなく、マットニスを引いていただくことになっています。
 因みに、私がイメージとして編集さんに提案したのは、《ハトロン紙でカバーをかけるのが似合う本》というもので、イラスト自体もそういった雰囲気を目指して、通常とはちょっと異なるテイストのものを描いてみました。
 本がお手元に届いた際には、そんなちょっとレトロな風合いをお楽しみいただけるかと思いますので、お楽しみに。

 本の発売時期ですが、店頭に並ぶのはゲイショップが最も早く、おそらく4月10日頃になるとのこと。一般書店の店頭は、それより少し遅れて13日頃から。
 ポット出版で直接予約いただいた方、特に先着60名様のサイン本をご予約された方には、見本が刷り上がってポット出版に届いた段階で、私がサインを入れてお送りすることになるので、ゲイショップに並ぶよりも少し早めにお送りできると思います。なお、サイン本の予約は既に定員に達してしまいましたが、通常の予約は引き続き受け付け中ですので、どうぞご利用ください。申し込みページは、こちら
 ネット書店等に関しては、これは各ショップの在庫云々や、間に入る取り次ぎ云々が絡んできますので、正確なところは出版社側では把握できないとのこと。アマゾンなどで発売当初に予約および購入が集中してしまい、発売後すぐに品切れになってしまうことがままありますが、そういった状況には出来るだけ小まめに対応してくださるとのことです。
 発売当初でアマゾンで品切れになった場合、足下を見た業者がプレミア価格を付けてマーケット・プレイスで販売するなんてことも、わりとちょくちょく見かけますが、もしそんなことになっても、他のネット書店には在庫がある場合もありますし、少し待てばアマゾンの在庫も復活しますし、本の在庫自体がなくなって入手不可能になるわけではないので、どうか焦らないようお願いいたします。(過去の単行本で品切れになっているものに関しては、また事情が異なりますので、それはお間違えのないように)

 それでは、発売までいましばらくお待ちくださいませ。

“Badrinath”

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“Badrinath” (2011) V. V. Vinayak
(インド盤Blu-rayで鑑賞、私が利用した購入先はここ

 2011年制作のインド/テルグ映画。
 寺院の守護者となるべく育てられた無双の武芸者と、神を信じない娘とのロマンスを、ブッ飛び級のスケールで描いたアクション大作。

 古来からインドの寺院は、その知識を狙う外敵や、植民地支配を目論む帝国主義者、そして現代はテロリストなどに狙われてきた。
 そんな寺院の守護者を育てるべく、ヒマラヤ奥地の秘寺バルディナースに子供たちが集められ、腕の1振りで百人の敵を倒す古武道が教えられる。中でも抜きんでいたのは、元々は修行者ではないものの「門前の小僧が経を詠む」的にスカウトされた、武芸に秀で信仰にも篤いバードゥリという若者だった。
 ある日バードゥリは、老人が孫娘を連れて寺院にお参りに来る途中、発作を起こして倒れたのを救う。老人は一命をとりとめるが、美しい孫娘のアラカナンダは、幼い頃に眼前で両親が寺院の聖火の事故によって焼死していたため、神を信じることができず、逆に憎んでいた。
 アラカナンダは初めバードゥリと反発しあうが、彼女の心は次第に彼の信仰心によってほぐされていき、やがて彼を愛するようになる。そして結婚を夢見るようになった彼女を、バードゥリの両親も未来の嫁候補として歓迎するのだが、そんな折り、バードゥリのグルである寺院の老師が、彼を自分の後継者にすると決める。
 しかしそれは即ち、バードゥリは妻帯が許されなるということも意味していた。アラカナンダの気持ちを知っているバードゥリの両親はそれを嘆くが、人並みの人間の幸せを越えたグルになるという名誉もあり、その申し出を受諾する。老師は、このことはバードゥリには教えるなと命令し、その結果アラカナンダも、自分の恋心を彼に伝えるきっかけを失ってしまう。
 しかしアラカナンダは、この寺院が冬の間は雪に閉ざされ、寺院の扉も封印されるのだが、その封印時に祭壇に供えられた灯明が、再び扉が開けられる半年後にまだ燃えていたら、灯明に供え物をした願掛けが成就するという話を聞き、そこに望みを託すことにする。彼女はバードゥリに、好きな相手と結婚できるよう願掛けしたいと、その相手がバードゥリ自身であることは伏せたまま、彼の助力を得て寺院に備える秘境に咲く花を取りに行く。
 その一方で、地方の悪辣な有力者と結婚しているアラカナンダの叔母が、悪党と結婚したことで親族から縁を切られ、また、以前公衆の面前でアラカナンダに侮辱されたことを根に持って、彼女を自分の息子の嫁にすることで、屈服させ跪かせようと企んでいた。密かに紛れ込んでいたスパイによって、アラカナンダがバードゥリに恋をしていると知った叔母一家は、彼を殺して彼女を強奪するよう、息子に命令する。
 更にもう一方、寺院の僧侶たちの中にも、バードゥリがアラカナンダを愛しており、彼らの仕える神を裏切って娘を選んだのではないかと疑いを持っており、その話はバードゥリの老師の耳にも届いてしまう。
 果たして二人の運命はいかに……? ってな内容です。

 いや、これは面白かった!
 特に今あらすじを説明した前半までは絶好調。スペクタクル、アクション、ロマンス、歌と踊りが、ジェットコースター・ムービーばりのテンポで次々と展開していき、息をもつかせぬ面白さ。
 まぁストーリーとしては、比較的シンプルな予定調和もので、もうちょっと大きな仕掛けがあってもいいかな……とは思うんですけど、それでもストーリー的な「この後どうなる?」要素が、ヒーローとヒロインのロマンス、それによる信仰と世俗愛の相克、ヒーローと老師の間の信頼や誤解、ヒロインと悪い近親者の間の因縁……などなど、上手い具合に複数要素を絡て引っ張っていくので、全体の牽引力や「目が離せない!」感は上々。
 そこに加えて、暴れ出す象だの、秘境に咲く花だの、善人だけが打たれることの出来る滝だの、閉ざされた寺院の中で点され続ける灯明だの、神の力が宿った土塊だのといった、細かなガジェットやエピソードを色々入れてくるので、それらがテンポの早さとも相まって、なかなかの効果に。
 ただ、後半はちょっとテンポが悪くなり、クライマックスも尻すぼみ感があるのが惜しい。
 前半では比較的控えめだったお笑い場面が、後半の、よりによって事態が逼迫してきた状況下で、しょっちゅう挿入されるもんだから、どうしても見ていてイライラするし、インド映画的には問題なくても、やはりそれがテンポを殺してしまっていることは否めない感じ。ふんだんに入る歌と踊りも、ちょっと後半は多すぎるかなという気も。
 とはいえクライマックスは、ヒーローとヒロインとヒーローの老師という3者の関係を、ヒロインの恋情と共に揺れ動く、信仰心の喪失/復活/再喪失といったモチーフに絡めながら、エモーショナルにグイグイ盛り上げてくれるので、展開自体は上々。前述した尻すぼみ感というのは、悪役が最後を迎えるシーンに映像的な外連味や盛り上がりが乏しいのと(まぁそれ以前が色々スゴ過ぎたので、それらと比べるとどうしても見劣りしてしまう……という要因もありますが)、ハッピーエンド後の余韻が乏し過ぎるので、あくまでも「気分的な盛り上がりが物足りない」という話であって、ストーリーの決着や、それに持っていく作劇自体は、充分以上に佳良だと思います。

 映像的な見応えとしては、まずスペクタクル面で、ヒマラヤの秘寺の大セット。色鮮やかな美術、いかにもインド映画らしいモブと小道具大道具の物量作戦、自然の雄大さ、プラスCG合成による「ないわ〜w」ってな光景……などなど、スケール感と目の御馳走感がバッチリ。
 アクションは、ワイヤー系のアクロバティックなものですが、寺院を占拠したテロリスト軍団やら、恋敵の差し向ける刺客軍団などを相手に、マッチョな肉体美ヒーローが独り剣を片手に、バッタバッタとなぎ倒していくという塩梅なので、これまた文句なしにカッコいい。
 血飛沫は派手に飛び散り、腕や首が飛んだりもするんですが、後者に関しては、一瞬見せてホワイトアウトというパターン。最初は効果のうちかと思ったんですが、後に白いマスクで画面の半分が隠される場面もあったので、どうも検閲とかそっち系の要因らしいですな。
 歌と踊りは、寺院のセットを使った大群舞あり、MTV系のカッコいい(……多分)セットを使ったヒップホップ系あり、ヒーローとヒロインがいきなりスイスだかどっかの雪山や古城にワープして歌い踊るとゆーお約束もあり、テルグ映画っぽいテンポの早い泥臭い系もあり……と、どれも楽しく、これまた大満足。
 音楽自体も上々です。

 主人公バードゥリ役のアル・アルジュンという男優は、私は今回が初見ですが(オープニング・クレジットでは『スタイリッシュ・スター』というキャッチコピーがw)、なかなかのハンサム君で肉体も見事、アクションと踊りもバッチリ(ただし踊りに関しては、動きの速いコレオグラフィーが連続すると、ちょっと息切れ感が見える部分もあり)で、こういう映画のヒーローとして文句なしの百点満点。
 特に肉体美はかなりのもので、しかもテロリスト相手の大殺陣の見せ場では、何故か上半身裸にハードゲイ風のレザーのハーネスなんか着けてたりして、かなりのお得感が(笑)。一緒に見ていた相棒も、横で大喜び(笑)。
 アラカナンダ役のタマンナ・バディア(?)は、個人的に高評価のタミル映画”Paiyaa“などでヒロイン役をやっていた女優さんで、私はこの人、美人だし、気品もキュートさもあるし、大好きです。老けメイクで老師役を演じているプラカシュ・ラジも、タミル映画の親分役や悪党役でよく見るお顔。

 というわけで、前半=文句なしの面白さ、後半=ちょい弛緩あり、ってな感じで、前述したように締めがもう一つ惜しい感もあるんですが、それでも、とにかく見所は盛りだくさんだし、インド映画に馴染みがあってもなくても、たっぷり楽しめる快作だと思います。

予告編。

“Omkareshwari”〜寺院のセットや絢爛たる色彩美による、冒頭の群舞シーン。こーゆーのって見てるだけでも嬉しくなっちゃう(笑)。

“Nath Nath”〜いかにもテルグ映画っぽい、テンポの速い楽しい系。歌詞がテーマソング的で、エンド・クレジットもこの曲でした。

“Nacchavuraa”〜ロマンティック&セクシー系のミュージカル・シーン。う〜ん、いい曲。大好き。映像的には、ずぶ濡れになったり、見晴らしのいい場所や外国にワープはお約束だけど、雪山系はいつ見ても、風邪ひきやしないか心配になりますな(笑)。

“Kto nigdy nie żył…”

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“Kto nigdy nie żył…” (2006) Andrzej Seweryn
(ポーランド盤DVDで鑑賞、米アマゾンで入手可能→amazon.com

 2006年制作のポーランド映画。英題”Who Never Lived”。
 自分がHIV+だと知った若いカソリックの神父と、その周囲の人々の織りなす様々な人間模様を描いたヒューマン・ドラマ。主演はご贔屓ミハウ・ジェブロフスキー。

 若きヤン神父は、ワルシャワで麻薬中毒の若者たちをサポートしており、彼らからも慕われている。しかし今日もまた一人の若者がオーバードーズで死に、葬式の場で露わになった世代間の断絶に、彼は怒りを含んだ説教をする。
 そんなある日、彼は教会の上層部から、現在の任を離れてローマへ行くよう命令される。自分が世話をしているジャンキーたちのことを、教会が日頃から快く思っていないことを知っている彼は、その命令を拒否するために、枢機卿に掛け合おうとする。
 しかしその最中、ヤン神父は健康診断の結果HIV+だと告げられる。彼は思い悩んだ末に、母親にそれを打ち明けるが、保守的なカトリック信者である母親は、息子の病気を労るどころか、逆に非難する。彼は治療と祈りの生活のために、ワルシャワから遠く離れた田舎の修道院に入る。
 修道院で農作物を作りながら、静かな生活を送り始めたヤン神父だったが、そこでもHIVに対する偏見は根強く、シャワー室で一緒になった修道士は逃げだし、彼の育てた作物は村に出荷されることがなかった。そしてついに彼は、希望と信仰を失い、独り修道院を出てしまう。
 雨の夜道、ヤン神父は通りがかった車と接触事故を起こしそうになり、運転していた3人の若者と、そのまま行動を共にするようになる。彼らはこれから、人気歌手のコンサートに行く途中だったが、その歌手とは、ヤン神父がかつてサポートしていた麻薬中毒者の兄であり、旧知の間柄だった。
 若者たちはそんな事情を知らないまま、しかも中の一人の女性は、次第に彼に惹かれていくのだが……といった内容。

 まず、HIV+になった聖職者という、テーマ自体が意欲的。
 作品としては、社会派的な重く考えさせられるものというよりは、HIV+の神父というファクターを通じて、人間の生きる意味ということを宗教的要素と絡めながら、ポジティブなメッセージ的に観客に伝えようといった感触。
 HIVの扱いに関しては、いわゆる難病もの的に煽るわけではなく、またそこから病気以上の余計な付加要素を見いだしたがる風潮に対しても、はっきり否とという態度を示しつつ、それと共にどう生きるかということを焦点にした、ある種の啓蒙映画的なニュアンスが見られます。
 その反面、こうあるべし、こうあって欲しいといった形に、ストーリー的な決着を迎えるので、ハートウォーミングで後味も良いものの、いささか甘さが感じられるのは否めない。作劇的にも、主人公個人のドラマとしては佳良なんですが、後半のエピソードの組み方などには、伝えたいテーマのためにストーリーを《作り》すぎてしまったという感じの、ちょっとご都合主義的な部分も散見されます。

 映像は佳良。
 前半のワルシャワを舞台にしたパートは寒色系、中盤の修道院では暖色系、後半のロードムービー的な部分ではニュートラルな色調と、全体が良く計算されており撮影も美麗。特に修道院パートの美しさが良く、それが逆に、何かの拍子で露呈する病気への偏見を引き立てる効果に。
 主人公ヤン神父を演じるミハウ・ジェブロフスキーは、贔屓目をさっ引いても見事な出来。前述したように映画として好感が持てる反面、いささか甘さや食い足りなさがある内容を、その演技でしっかり保たせている感。特に修道院に入って以降の、毛もじゃヒゲもじゃが良い……ってのは、単に私の好みですけど(笑)。
 もう一つ、主人公の友人で人気歌手でもあるRobert Janowskiという、おそらく実際にも音楽スターらしい人が出演していて、映画自体のテーマをこの人の歌の歌詞に託している部分があるんですが、この部分が前述したように、メッセージ性としては効果的な反面、ドラマとしては甘さになっている感があります。

 総合的には、主人公の内面を軸にした部分は文句なしで、青春群像劇的な要素は、魅力的ではあるけれどちょっと半端、しかし志とクオリティは高し……って感じでした。
 信仰という要素が密接に絡んでくる(タイトルにもある『人が生きる意味とは』というテーマが、キリスト教的な背景思想に基づいたそれなので)のは、ちょっと日本人には敷居が高いですが、決して悪くない作品だと思います。
 若干の食い足りなさがあるのは否めませんが、重いテーマならではの悲痛だったり感動的だったりする場面をあれこれ挟みつつ(出荷されなかった自分の育てた作物に、ヤン神父が自ら火を放つシーンなんか、ちょっと泣きそうになりました……)、最終的には明らかなメッセージ性を持たせた、青春映画的な爽やかさすら感じるエンディングへ持っていった佳品。

 予告編が見つからなかったので、映画の名場面を繋いだファンメイドのクリップを。音楽は映画で使われているのとは異なりますが、作品の雰囲気は良く掴んでいるかと。