投稿者「Gengoroh Tagame」のアーカイブ

“Playroom”

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“Playroom (a.k.a. Consequences)” (2006) Stephen Stahl

 アメリカのファンから「きっとコレ好きだよ」と薦められて、米盤DVDを購入してみました。
 ストーリーは、幼馴染みの悪ガキ5人組が、やがて成長してそれぞれ家庭も持った後、フットボールの試合を見に行こうと、久しぶりで5人一緒によその街に繰り出して、ついでに学生気分に戻って馬鹿騒ぎをしていると、別行動したガタイ自慢で女好きの2人が行方不明になってしまい、やがて恐ろしい事件へと発展していく……というもの。

 まあぶっちゃけた話、映画そのものは、はっきり言ってロクでもない出来です。カメラも演出もシロウトくさいし、ストーリー自体にも新味はない。
 映画のジャンルとしては、おそらく、サスペンス風味とホラー風味があるアングラなアート系……ってとこなんでしょうが、どれもこれも大した才気は感じられない。いちおう、行方不明になった2人がどういう目にあっているかということと、その行方を捜す残りの友人たちとその家族といった要素が、2本並行して進んでいくんですが、特に後者に関しては、話にしても演出にしても実にひどい出来映え(笑)。
 と言うと、何だか見るとこナシのクズ映画みたいなんですが、前者の行方不明になった2人に関してのみ、実はかなりヘンタイ指数が高くて、そそられる内容なんですな。このピンポイントだけで、DVD購入した価値があるくらい(笑)。
 というわけで、以下ネタバレ承知で、ヘンタイポイントのみ解説します(笑)。

 まずこの2人、顔も良ければ身体もマッチョと、なかなかの上物。キャラクターとしても、ガタイ自慢で女好きの体育会系バカノンケ(あ、褒め言葉よ、これ)って感じが良く出ている。
 そんな2人が、怪しい女たちに誘われて、一夜の浮気を楽しむんですが、これまた、二組一緒に同じ部屋でバコバコ犯りまくるという具合で、バカノンケ度がタップリ。
 ところが、一夜明けたら、2人ともベッドに手錠で拘束されていた。最初は、女たちの悪ふざけかと思い、ゲラゲラ笑ったりしていた2人ですが、そこに初老の男が現れて風向きが変わる。
 実はこの男は、ヘンタイ映像作家で、2人のノンケは彼の作品の「主演男優」になるのだと告げられる。部屋には他にも、レザーの全頭マスクの犬男がいたり、ロッカーの中にアダルトグッズがビッシリだったりして、ヘンタイムードがタップリ。
 とうぜん怒り狂う2人でしたが、手錠で繋がれているので抵抗もできず、初老の男に胸に跨られて「私にキスしろ」と迫られたり、身体をあちこち撫で回されたり。
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 そんなこんなで、いよいよ撮影がスタート。
 2人は巨体の用心棒たちに連行され、部屋の一角にあった鉄棒状のラックに、うつぶせで脚を大きく開いた状態で、2人並んで拘束されてしまう。背後では、昨夜2人のアバンチュールの相手だった女たちが、股間にペニバンを装着。
 こうして、怒りと恐怖に怒号をあげる2人の肛門を、後ろからペニバンがブッスリ。女たちは、そのままズコバコ腰を使い、アナルレイプされる2人は泣き叫ぶ。
 もちろん、ポルノ映画ではないので、結合部のアップとかはないんですが、このペニバンレイプのシークエンス、あれこれアングルを変えながら、尺もたっぷりとってネチっこく続く。犯される2人の熱演もヨロシク、かなりのド迫力。
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 哀れ肛虐されてしまったノンケ2人は、事後屈辱に打ちひしがれる。
 1人は何とか強がってみせる余裕は残っているものの、もう1人は身も世もなくオンナノコみたいに号泣。
 しかしそれも束の間、容赦なく第2ラウンドがスタート。
 ヘンタイ映像作家が取り出したのは、1本の金属製のディルド。「これは電流が流れる仕掛けになっていてね」と説明しながら、ディルドを金属製のベッドパイプに当てて滑らせると、バチバチと火花が飛び散る。「これを君たちの肛門にねじ込んであげよう。私はこれを『エレクトリック・ファック』と呼んでいる」
 その言葉と共に、まだ強がる余裕を残していた方の男(因みにこっちの方が、もう1人より更にマッチョ)は、用心棒たちに俯せに押さえ込まれて、そのスタンガン状のディルドで肛門を犯されてしまう。
 このシークエンスは短いんですが、汗まみれで絶叫する俳優さんの熱演や、バチバチいう電流の音響効果もあって、バイオレンス的な滋味はかなり高し。
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 そして、いよいよクライマックス。
 もう、かなりラスト近くのネタバレまでいっちゃいますので、それが嫌な方は、以下はお読みになられませんよう。
 結局、行方不明の友人を探していた残りの連中も、実は助けを求めた警察もグルだったりして、あえなく同じ囚われの身になってしまい、しかも全てを仕組んだのは友人グループの1人で、学生時代からいつもからかわれ、それに傷ついていた男の復讐だった……なんてことが明かになるんですが、ま、それはドーデモイイ(笑)。
 友人の1人は射殺され、残った3人は手術室のような部屋へ連れていかれる。
 2人が壁のラックに拘束され、1人は全裸で手術台に縛り付けられたところで、件のいじめられっ子が、積もり積もった恨みつらみを吐いた後、「まず、プライドと生き甲斐を奪うところからスタートだ、コックを切り取れ!」と宣言。
 こうして手術台の彼は、ヘンタイ映像作家に口づけされながら、電ノコで男根を切断されてしまい、それを見ながらいじめられっ子は、ズボンに手を突っ込んでマスをかく……ってな展開になります。切断後、ヘンタイ映像作家が切り取った男根をつまんで、血まみれのそれにキスする……なんてカットも。まあ、作り物なのはバレバレなんですが、血糊の量とかは、スプラッタ映画さながらにドバドバ。
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 この後は「実は昔こーゆーことがありました」とゆー、ドーデモイイ伏線が機能して、結局「主人公は助かりました」的な、これまたドーデモイイ幕引きがあるだけ(笑)。

 とまあ、そんなこんなで映画としてはロクでもない出来ですが、ヘンタイ指数だけはやけに高いので、そこいらへんのツボが合う方だったら、私同様にタップリ愉しめると思います。米アマゾンの商品ページの「この商品を買った人は……」を見ても、DVD買ってるのはゲイばっかみたいだし(笑)。
 因みに、日本語による海外DVDの通販サイト、DVD Fandasiumでも扱っていました。参考までに、商品ページにリンクを貼っておきますので、興味のある方はどうぞ。

ちょっと宣伝、男色ヤクザ漫画描きました

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 先日お知らせした、私も参加している、筒井康隆氏の小説を16名の作家がマンガ化したアンソロジー単行本『筒井漫画涜本ふたたび』、本日発売です。
 というわけで、私が担当した「恋とは何でしょう(『男たちの風景』より)」から一コマをご紹介。
 ご覧のように、ゲイのヤクザの話で、濡れ場もアリの内容。

 さて、実は最初に編集の方からこのお話しを伺ったとき、お受けするかどうか、ちょっと迷いました。
 というのも、もし最初から「単なる価値観の違いをネタにする」ような作品を求められているのだとしたら、それはやりたくなかったんですな。自分のマンガが、読者によってネタ的に消費されるのは、それは作者の関わる立場ではないけれど、作者みずから進んで露悪趣味的にネタ的な作品を描くのは、ちょっと私の信義に反するので。
 でも、編集氏から「真っ向からゲイのラブストーリーとして描いて欲しい」(因みにマンガ化する小説は最初からご指定がありました)と伺い、それならば……と、喜んでやらせていただいた次第です。
 結果、この作品は筒井康隆氏の短編小説をマンガ化したものですが、同時に、きちんと100%「ゲイのゲイによるゲイのためのゲイマンガ」にもなったと思います。

 前にも書いたように、小説のマンガ化作品なので、今後、私個人名義のマンガ単行本に収録されることも、まずないと思います。
 つまり、これを逃すと後はない(笑)ので、ぜひお買い求めを!
 因みに、収録作のうちゲイマンガは私の作品だけですが、他の収録作品も、明智抄、いがらしみきお、伊藤伸平、折原みと、雷門獅篭、菊池直恵、鈴木みそ、大地丙太郎、高橋葉介、竹本健治、とり・みき、萩原玲二、畑中純、みずしな孝之、Moo.念平(50音順・敬称略)……と、マンガ好きなら買って損はない、錚々たる顔ぶれです。正直、こんなところに混じっちゃっていいのかしらん、と、ちょっとビクビク気分なくらい。
 あと、私の単行本は本棚に並べられないという方でも、この単行本なら、親兄弟や友だちに見られても、ちっともヤバくないですよ〜(笑)。

筒井漫画涜本ふたたび 筒井漫画涜本ふたたび
価格:¥ 1,680(税込)
発売日:2010-04-09

 さて、ちょっと余談。
 短編集『男たちのかいた絵』は、高校時分に読んだことはあったんですが、拷問され好きなマゾのヤクザの話と、せんずり好きのサドのヤクザの話を覚えていただけで、他の話は忘れちゃっていました。
 で、マンガ化のお話しをいただいて改めて再読するまで、この「恋とは何でしょう」の内容も忘れていたんですが、短編とはいえ文庫で30ページ近くある。でも、マンガは16ページで(最終的にはお願いして18ページで)というお話し。もう、マトモに全部描こうとしたら、どう考えても収まりっこない。
 というわけで、マンガ化するにあたって、原作小説を解体・再構成させていただいております。ストーリーの大筋は同じですし、エピソードやセリフもほぼ原作通りなんですが、全体の構成を「マンガ」と「ゲイ」に併せてアレコレいじくっています。
 この作業、けっこう難儀したんですが、それでもやっていて実に面白かった。メディア翻訳みたいな面白さもあるし、腕試しみたいなやりごたえもあるので。
 原作を未読の方でしたら、読み比べることで二度お楽しみいただけると思うので、興味のある方はぜひお試しあれ。

男たちのかいた絵 (新潮文庫) 男たちのかいた絵 (新潮文庫)
価格:¥ 460(税込)
発売日:1978-10

稲垣征次さんが個展開催

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 明日4月9日から18日まで、渋谷「マリアの心臓」で稲垣征次さんの個展「金閣寺」が開催されます。
 場所、開館時間、休館日などの詳細は、こちら
 どんな絵でも、印刷物で見るのとオリジナルの原画で見るのとは、天と地ほどの違いがありますが、ここ数年の稲垣さんの作品は、以前と変わらぬ緻密さに加え、金属系顔料の色鉛筆によるテクスチャー表現など、印刷物では絶対に再現不可能なものです。そういった新作に加えて、「薔薇族」時代のモノクローム鉛筆画も多数ご出展予定とのこと。
 因みに、会場の「マリアの心臓」は人形美術館でもあるので、稲垣さんの耽美でエロティックな作品と同時に、天野可淡や恋月姫といった有名な創作人形作家の作品も、併せてお楽しみになれるはず。
 皆様、この機会に、ぜひお出かけくださいませ。

表現規制を正当化する思想とゲッベルスの演説

 先月、何度かこのブログにエントリーをアップした「非実在青少年」規制問題ですが、残念ながら、現時点では審議続行で結論が先延ばしになっただけであり、まだ根本的な解決はされていません。
 また東京都のみならず、福岡県ではヤクザ漫画の販売規制が始まり、大阪府では女性向けコミック、ボーイズラブ・コミックも含めた規制に向けての動きが、京都府でも現職知事がマニフェストに同種の要項を盛り込むなど、その内容や場所がどんどん拡大しつつあるようです。
(全体の詳細はまとめサイトなどを参考に)
 そんな中で、先日、フリッツ・ラングの映画『怪人マブゼ博士(マブゼ博士の遺言)』のDVD(紀伊國屋書店)に封入されていた解説書を読んだところ、興味深い文章を見つけました。
 1933年3月28日、ナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの「ドイツ映画産業会議」における映画改革についての演説内容です。
 現在の日本で進行中の、表現規制に関する動きと比較すると、特にここで書いた記事の後半部や、同記事の最期で引用している規制推進派の発言と読み比べると、その思想的・レトリック的な類似がいよいよ興味深く思われるので、ここに紹介することにしました。

「映画は自由だが、一定の道徳的・社会的見解を考慮する必要はあり、社会の根本的な考えを認めなければならない。映画の危機の原因は道徳的なものにあり、検閲はそういったものに対立する作品に対してである。映画を画一化したり業界を弾圧する意図はなく、逆に業界団体は映画製作に大きな力を持つだろう」
(「運命の映画『怪人マブゼ博士』/小松弘」から筆者による要約)

 比較対象として、より判りやすくするために、前述した以前の記事で引用した発言も、内容の順番を揃えて要約してみます。

「言論や表現の自由は、それが社会のモラルや品格を損なうものであれば、その権利は必ずしも保障されるものではない。規制によって悪質な出版社にペナルティーを科して消していけば、健全な出版社を生かすことになり、出版業界全体のためにもなる」

 規制の内容自体に対する云々も問題ですが、個人的にはそれよりも、こういった規制の根本に潜むロジックの類似にこそ、これまで何度も述べてきたような、行政が「健全な社会」を要求すること(そのために「不健全なフィクション」を排除すること)と、それを社会が無自覚に受け入れてしまうこと(当時のナチスの支持率は50%近くだったそうな)に対する恐ろしさを感じてしまい、危機感がますます募ります。
 というのも、これらのロジックは「健全」「モラル」「道徳」「品格」といった、実態が極めて曖昧ながらも、それを是とするのが「社会通念として正しい」とされているものを利用したものだからです。それはそのまま、無自覚に受け入れられやすいということにつながってしまう。
 更には、それぞれの主張を個々の「人格」にまで拡大解釈されやすい、という側面もあります。規制派からすると、それに反対する「人物」は「不健全」なのだという情報操作もできるし、規制されたくない派にとっても、自分がモラルに欠けている人間とは思われたくないとか、ポルノ好きだとは公言しにくいとかいった、反対するのに及び腰になっても無理からぬポイントがありす。
 だからこそなおさら、「思考」や「表現」といったフィクション世界の問題と、「人格」や「犯罪」といったリアル世界の問題は、はっきりと分離して考えるべきであり、それを無意識に混同してしまう危険性や、意図的に混同しようとする忌まわしさを、私は改めて強調しておきたい。
 因みに、この映画『怪人マブゼ博士(マブゼ博士の遺言)』は、その完成と同じ年にアドルフ・ヒットラーが首相に就任、つまりナチス政権が誕生して上映禁止となり、監督フリッツ・ラングが故国ドイツを捨てて亡命する、そのきっかけとなった作品でもあります。

フリッツ・ラング コレクション 怪人マブゼ博士(マブゼ博士の遺書) [DVD] フリッツ・ラング コレクション 怪人マブゼ博士(マブゼ博士の遺言) [DVD]
価格:¥ 5,670(税込)
発売日:2007-04-28

 解説書によると、上映禁止の理由は「公的な秩序と安全を脅かす」といった曖昧なものであり、当時上映禁止処分になった映画には、こういった理由が不明のものが少なからずあったらしい(記事中ではジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『にんじん』が例として挙げられています)です。
 これもまた、私が前にこの記事の後半で述べたような、「曖昧な基準で恣意的に内容を審査できるルール」の「いかがわしさ」を示す実例と言えましょう。

アイスクリームで犬男

 Klondikeという、アメリカのアイスクリーム会社のコマーシャル。

 どーゆーターゲット層狙いなんだ、このCMは(笑)。「犬派マゾ」を自認していらした沼正三先生に、ぜひ見ていただきたかったぞ。

ちょっと宣伝、来月上旬発売の『筒井漫画涜本ふたたび』にマンガ描いてます

 実業之日本社さんから4月上旬発売(配本は8日、店頭に並ぶのは10日前後だそうな)される、筒井康隆氏の小説を様々なマンガ家がマンガ化したアンソロジー単行本、『筒井漫画涜本ふたたび』(「涜」は旧字の「氵」に「賣」になります)に、私もマンガを一本描いております。
 去年ここでちょっと書いた、「一般向けも二つほど(うち一つは、まだ世に出ていませんが)」ってヤツですな。
 私が担当したのは、短編「恋とは何でしょう(『男たちのかいた絵』より)」で、これでお判りの方もいらっしゃるでしょうが、一般向け書籍とはいえ、中身はバリバリのゲイマンガです。因みに、濡れ場アリ(笑)。
 執筆陣は、以下のごとく(五十音順・敬称略)。明智抄、いがらしみきお、伊藤伸平、折原みと、雷門獅篭、菊池直恵、鈴木みそ、大地丙太郎、高橋葉介、田亀源五郎、竹本健治、とり・みき、萩原玲二、畑中純、みずしな孝之、Moo.念平(計16名)。
 作品の性格上、今後、私の単著の単行本に収録されたり、どこかに再録されたりすることもないと思うので、ぜひこの単行本でどうぞ!

筒井漫画涜本ふたたび 筒井漫画涜本ふたたび
価格:¥ 1,680(税込)
発売日:2010-04-09

カラヴァッジオ画集 “Caravaggio: The Complete Works”

 昨年暮れにTASCHEN(タッシェン)から出た、カラヴァッジオ(ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ)の大判画集のご紹介。

Caravaggio: The Complete Works “Caravaggio: The Complete Works”

 書名に「コンプリート・ワークス」とあり、TASCHENのサイトでも”entire oeuvre”と謳われているように、現存しているカラヴァッジオ作と確定されたペインティングを全て収録した内容です。
 カラヴァッジオというと、私が現在の作風に至るにあたって、大いに影響された歴史的な画家の中でも、その筆頭的な存在(ホント、これとかこれとか、どれだけ影響されたことか)ですので、先日の外遊から帰国後に、すぐ注文しました。
 で、先日それが届いたんですが、画集としての作りは、これはもう問答無用で素晴らしい。

 まず、その版型の大きさからして素晴らしい。どのくらい大きいかというと、このくらいデカい(笑)。
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 厚みもタップリ4センチ。もちろんハードカバーで、造本や印刷精度も文句なしの品質。

 図版もぜいたくに掲載されており、基本的にはこういった具合に、全体像が丸々掲載されているんですが、
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それと同時に、作品によってはこんな感じで、寄りのディテールもしっかり見せてくれる。
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 こういったクローズアップに関しては、TASCHENのサイトに「この画集のために原画からの複写を新たに行っている」と書かれているように、それこそ画家の筆裁きまで生々しく感じられるような、素晴らしいクオリティ。

 また、それらの中には、見開き全体やフォルド(折り込み)を使ったものもあり、もうこんな感じで、そのド迫力ったらない。
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 カラヴァッジオ作品以外にも、その源泉である先達の作品や、後続画家による模写などのヴァリエーション違いの作品を、小さい図版ながらもフルカラーで、解説文(テキストは英語)と共に多々収録。
 ただし、カラヴァジェスキやテネブリズム全般までを抑えているわけではないので、そこいらへんも好きな私としては、もうちょっと範囲を拡げてくれたら、もっと嬉しかったのに、なんて思いはあります。
 そういうわけで、それなりのお値段でもあるので、カラヴァッジオに興味がない方だと、あまり縁のない本ではありますが(まぁ画集ってのは基本的にそうか)、カラヴァッジオ好きにとっては、これはもう「マスト!」と言える一冊だと思います。
 というわけで、私は大喜びでして、暇があるとペラペラ捲っております。
 ただ、デカくて本棚に入らないので、どこにしまおうか置き場所に難儀中(笑)。

『劇画 家畜人ヤプー」沼正三/石ノ森章太郎、復刊!

 紹介しよう、しようと思いつつ、件の「非実在」関係のせいで、すっかり遅くなってしまいました。
 ポット出版さんから、沼正三・作の天下のマゾヒズム奇書『家畜人ヤプー』を石ノ森章太郎がマンガ化した、『劇画 家畜人ヤプー』が復刻されました。

劇画家畜人ヤプー【復刻版】 『劇画 家畜人ヤプー【復刻版】』
作・石ノ森章太郎、原作・沼正三

 去年の秋だったか、この本を復刻する予定だと、ポットの沢辺さんに聞いたとき、私は、絶版になっていたとは知らずに、ちょっとビックリしました。このマンガが最初に世に出たのは1971年、私が実際に読むことができたのは、83年に復刊されたときでしたが、作品自体が有名だし「あの石ノ森章太郎が」というネームバリューもあるので、てっきりその後も地味に版を重ね続けているのだとばかり思っていたもので。
 というわけで、まずは復刻自体に乾杯。オマケに今回は、丸尾末広氏の解説付き。愛蔵版として所有するのに相応しく、ハードカバーのしっかりとした造本、黒とシルバーをベースに、隠し味に紅を効かせた(余談ですが、昨年フランス人に聞いたんですけど、黒と赤ってのは、彼らにとってはとても「日本的」な配色なんですって)シックな装丁。
 さて、装画も含んだ『家畜人ヤプー』のヴィジュアライゼーションというと、「白い女神崇拝」というテーマとヨーロッパ的な耽美趣味が良く合っていた村上芳正氏、サイケ感覚と奇形化した肉体描写の合体が、ローラン・トポルの『マゾヒストたち』のような味わいの宇野亜喜良氏、「完結編」初出時の奥村靫正氏、最近のマンガ化の江川達也氏、現行文庫版の金子國義氏……といった具合に、様々な絵師が手掛けているわけですが、その中でもこの石ノ森版は、小説家の個性とマンガ化の個性が、かなり良く合っているのではないか、と、個人的に思っております。
 まあ、解説でも指摘されているように、確かにちょっと絵が荒いきらいはありますし、デフォルメ、特に肉体描写に関しては、70年代のマンガではいたしかたないこととはいえ、やはりマンガ的な記号表現のみでそれを描く限界が感じられてしまい、肉体の持つリアルな説得力という意味では物足りない。
 それでも、石ノ森キャラの「お姉さん」的な風情は、女尊男卑で統べられた超未来社会のドミナ、サディスティン像には良く合っていると思うし、現在の目で見ると既にレトロ・フューチャーになってしまっているとはいえ、SF的な描写もお手の物。
 それに何と言っても、流石は早熟の天才にしてベテラン作家の手によるマンガ化、その、マンガとしての読みやすさが素晴らしい。膨大なテキスト量、それも俗に言う「説明セリフ」が、動きのない会話で延々と続くにも関わらず、コマ割りや構図の工夫で、その単調さを最小限に抑えて見せる手腕は、やはり「マンガ家・石ノ森」ならでは。
 ここで「What if」を語っても、余り意味のないことだとは思うが、もし、誰か他の作家が『ヤプー』をマンガ化するとしたら誰がいいだろう……などと考えてみると(因みに丸尾氏は解説中で池上遼一氏の名前を挙げておられる)、私なんかは、「『白い女神』的なドミナ美女」と「男女共に解剖学的なリアリズムのある肉体描写」という二点から、三山のぼる氏(残念ながら既に鬼籍にはいられてしまったが)の描く「ヤプー世界」を見てみたい、と、個人的には思うのだが、しかし、この石ノ森版のマンガ的な完成度、マンガとしての読みやすさは、やはりそういったものとは別種の「技術力」だと思う。
 もう一つ、私がこの石ノ森版を愛好する理由として、マゾ側の主人公、瀬部麟一郎の造形がある。
 小説版でも石ノ森版でも、この、現代から未来世界に「拉致」されて、「日本人・瀬部麟一郎」から「ヤプー(家畜人)・リン」にされてしまう主人公は、いちおう「西ドイツの大学に留学中、柔道五段」という、いわば「文武両道の男らしい日本男児」である。
 ところが小説版では、それは最初のキャラクター設定的に語られるのみで、ストーリー中では全くというほど機能していない。やはりこれは、マゾヒストの作者が己のマゾヒズムを投影しているせいか、未来世界に拉致されてから後の麟一郎のキャラクター描写に、およそ「文武両道の男らしい日本男児」らしさが見られないのだ。
 全裸のまま家畜同様に扱われ、体内に寄生虫を入れられ、糞尿や経血を餌として与えられ、皮膚や口唇の加工といった様々な肉体改造をされ、あまつさえ去勢もされ、決して後戻り出来ない道へ堕ちていき……といった展開にも関わらず、それに対する心理的な抵抗や絶望感が余りにも乏しいので、端で見ていると「いとも易々と」家畜人としての自分の運命を享受していくように見えるほどだ。で、ついつい「これだったら『原ヤプー』も『土着ヤプー』も、大して変わらなさそうだな」なんて、余計なことを考えてしまう。
 こういったことが、私が小説版を読んでいて、最も物足りなさを感じてしまう部分なのだが、この石ノ森版は、その「物足りなさ」を「絵」による「表現」によって、ある程度カバーしてくれる。
 具体的に言うと、石ノ森版の麟一郎は、その外見そのものが、さほど個性的ではないが、それでも「青年マンガのヒーロー」的な造形になっている。つまり前述したような、設定で語られながらストーリー中では抜け落ちてしまっている「男性的」な要素が、キャラクターの絵そのものによって補われているのだ。
 もう一つ、麟一郎の「表情」がある。基本的なエピソードの展開は、小説もマンガも同じだとはいえ、その場面場面で描かれる「キャラクターの表情」は、心理を表現するという点で、ある意味で文章を越える説得力をもたらす。つまり、テキストでは描かれなかった麟一郎の戸惑い、怒り、苦痛、屈辱、諦念などの感情が、その表情によって何よりも雄弁に語られる。
 これらが、私にとって石ノ森版の最大の魅力である。
 さて、石ノ森版について語ろうとする余り、ついオリジナルの小説を批判するような文言が続いてしまったが、過去にもあちこちで語ってきたように、私にとっての沼正三の『家畜人ヤプー』および『ある夢想家の手帖から』は、マルキ・ド・サドや西村寿行などと並んで、作家としての私に大いに影響を与えた作品であり、大いにリスペクトしている作品でもある。
 前述したような「不満点」は、あくまでも私の個人的な「ポルノグラフィー脳」から出る反応であり、正直、ポルノグラフィー的な観点での愉しみ方だけ言えば、私にとっての『ヤプー』は「麟一郎の去勢」あたりでストップしてしまうのだが、『ヤプー』の魅力はそれだけではない。他に類のない綺想小説として、イマジネーション迸る幻想小説として、十代の私が夢中になり、そして未だにその呪縛から逃れ切れていない感のある小説だ。
 リビドーに基づくイマジネーションの暴走と、それによって拡がっていく、有無を言わせぬほどパワフルな世界観というものは、ポルノグラフィーなど、エロティックなフィクションならではの醍醐味である。その中でもこの『ヤプー』は、最大にして最強(最凶かも知れないが)の存在だ。
 特に「『ヤプー』って良く聞くけど、実際にはまだ読んだことない」という方には、この石ノ森版はオススメである。
 原作小説のペダントリーや言葉遊びの嵐に挫折してしまった人にも、このマンガ版は、そのエッセンス、美味しくて食べやすい部分だけを味見できるだろう。実際の小説は、後年になって書かれた続編(完結編)も含めると、この石ノ森版は冒頭部分のみ、まだ全体の四分の一くらい(?)ではある。ただ『ヤプー』の「良いところ」は、全てこの冒頭部分に集約されている(ぶっちゃけ個人的には、後年に書かれた「続き」は、全く面白いとは思えなかった)ので、この部分だけでも全体のイメージを掴むには充分だ。
 もちろん、小説既読で石ノ森版は未読の方にも、前述したような「新たな魅力」も発見できるのでオススメしたい。
 余談。
 私が『ヤプー』を読むたびに「羨ましい」と思うことが一つある。それは、男女という性差の存在だ。
 私自身でも、こういった「世界レベルでの支配・被支配」を、サドマゾヒズム的なスタンスで描いてみたい、という希望はあるのだが、いかんせん「ゲイもの」だと、「人種」はともかくとして「男女」のような絶対差が存在しない。世界を真っ二つに分けることができないのだ。
 というわけで、この『ヤプー』とか、洋物のフェムダムのような、そういった「男女」という「違い」が「問答無用で活かされている」SMものに触れると、いつも「ゲイSMフィクションの限界(笑)」を感じてしまうのである。

ちょっと宣伝、「田舎医者(中編)」です

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 本日発売の雑誌「バディ 5月号」に、マンガ「田舎医者(中編)」掲載です。
 ゴツメガネキャラ萱野先生のセックス・アドベンチャーは、まだまだ続く! 今度のお相手は、マゾの太目中年とサドの白ヒゲクマ男!?
 ……な〜んて、予告編風にしてみたりして(笑)。
 相変わらず、明るくエロエロに攻めておりますので、よろしかったら先号と併せて、ぜひお読みくださいませ。
 来月号掲載の完結編もお楽しみに!

Badi ( バディ ) 2010年 05月号 [雑誌] Badi ( バディ ) 2010年 05月号 [雑誌]
価格:¥ 1,500(税込)
発売日:2010-03-20

 それはそうと、同じ号に掲載のマンガで、野原くろ先生の「下宿のお兄さん」と、前田ポケット先生の「虹色サンライズ」、続きがスッゲ〜気になるんですけどッ????

「非実在青少年」規制問題に関する追補と警鐘

 今回は、少し「ゲイ寄り」な内容です。
 前回で終わりにしようと思っていたんですが、エントリーをアップした後に、下のまとめ記事を読んだところ、これはもう一言つけくわえておくべきだと思ったので。
「非実在青少年」問題とは何なのか、そしてどこがどのように問題なのか?まとめ〜Giazine
 とりあえず、私が最も気になったのは、以下の部分。

「マイノリティに配慮し過ぎた挙句、当たり前の事が否定されて通らないというのはどうしても納得出来ない」
「説明や調査データを示す必要も無いくらい規制は当たり前の事だ。正論でガンと言ってやれば良い」

 前のエントリーで私が参照として挙げた、「東京都小学校PTA協議会会長」にして「東京都青少年問題協議会委員」である新谷珠恵氏の発言だ。
 詳細を知りたくなり、実際の原典(第28期東京都青少年問題協議会 第8回専門部会議事録(PDF)/p.26〜27)に当たってみた。 すると、こういう内容だった。

「(前略)何でそういった人のことまでそんなふうに考えなきゃいけないのかなと思います。(中略)マイノリティに配慮しすぎたあげく、当たり前のことが否定されて通らないというのはどうしても私は納得できない。(中略)そういう団体の方たちに対する説明とか調査データもそうなんですが、極論を言うと、示す必要もないくらい当たり前、正論でガンと言っていいのではないかなと、そのくらい強く私は思います」

 婉曲な言い回しと語調のせいで、要約された記事ほどラディカルな印象ではないが、私が「気になった」部分に関しては、全く同じである。
 それは、世界を「当たり前」と「そうでないもの」に分けて考え、何の疑いもなく自分を「当たり前」に属するものとして定義し、その主観に基づく価値観を「正論」と表現することについても、やはり何の疑問も抱いていない、ということである。
 以前のエントリーでも危惧として述べたことではあるが、これははっきりとした言質だったので、改めて紹介してみた。
 こういった「無自覚の正義」による言動が、どれだけ恐ろしい可能性を孕んでいるのか、「当たり前」ではないセクシュアル・マイノリティならば、なおさら良くお判りいただけるのではないだろうか。
 私にとって身近なことろで言えば、以前このブログでも紹介したトルコの青年アーメット・イルディスも、2008年夏、そういう「当たり前」な人々の名誉を傷つけたという理由で、「正論」として実の家族の手で殺害されたのだ。
 元の発言を読むと、その主張をグローバル・スタンダードに基づくもののように言っているが、自分の主張を正当化するために、一部の既成事実を利用しているに過ぎないようにも見える。
 児童の保護というお題目にしても、同様だ。仮に、そもそもの発想の根本はそこにあったとしても、やはり前回のエントリーで私が想像したように、「目的」の達成のための「手段」として、意図的に「実在」と「非実在」の区別を排除した、抽象概念としての「子供のイメージ」を利用しているだけなのではないか。
 それが「教育」や「行政」の現場に存在し、その考えに基づく「法」が、知らないうちに密かに成立しそうになり、そして今も、成立の危機は去っていない……というのが、現状なのだ。
 しかも、幾らでも拡大解釈が可能なやり方で。
 それでもまだ「でもこの規制って、オタクやロリコンの問題でしょ? ゲイには関係ないじゃん」と思われる方には、昨今はネット上のコピペでも良く見かける、反ナチスを謳ったマルティン・ニーメラーの詩をもって、私の言に代えさせてただこう。

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、
(ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった、)
私は共産主義者ではなかったから。
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった、
私は社会民主主義ではなかったから。
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった、
私は労働組合員ではなかったから。
彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった、
私はユダヤ人などではなかったから。
そして、彼らが私を攻撃したとき、
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった。
<参照元>〜Wikipedia日本語版

 最後にもう一つ。
 この問題に関して、私はTwitter上で、こんなことを呟いていた。

過去、行政が表現、特に絵画について、主観に基づく「健全・非健全」という定規を用いて介入した先例はと考えると、やはり最初に思い出されるのは、ナチスが唱えた「退廃芸術」かな。(original)
表現活動全般に拡げて、行政が創作物の内容を制限したり、創作者自身をも断罪した例と言えば、旧ソ連のあれこれ(社会主義リアリズムとかジダーノフ批判とかパステルナークとかソルジェニーツィンとかモソロフとかパラジャーノフとか……ああ、きりがない)とか。文革もそうか。(original)
だいたい、あんまり「健全、健全、健全……」と強調されるのを見ていると、「それって優生学?」って感じ。(original)

 いささか軽口めいたものだが、下記の新谷氏の発言を見ると、どうやら冗談ごとではないようにも思えてくる。

「(前略)雑誌・図書業界のためにも、きちんとした規制をしてあげることが、結局、悪質な業者、悪質も出版社が淘汰されていくということにもなるので、(中略)健全な業者、出版社を生かすために、どんどん悪質なものはペナルティーを科して消していくというような仕組みがかえって皆さんのためにもいいのではないかと思いました。(中略)言論の自由とか表現の自由とおっしゃいますけれども、それはプラスα、芸術性のあるときだと思います。(中略)やはり社会としてのモラルとか、品格とか、いろいろなものへの影響、そういったもののマイナスを考えれば、自由とか、そういったものの権利とかプラス、そういったものも減じられるというか、なくなると私は思います。(後略)」(第7回議事録(PDF)/p.35)

 この内容、特に、後半で語られる「モラル」と「芸術性」を念頭に置いて、ぜひもう一度、ここで例に挙げた、ムーアとレイトン、二つのヴィーナス像の逸話を思い出していただきたい。