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『アリゲーター 愛と復讐のワニ人間』

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『アリゲーター 愛と復讐のワニ人間』(2001)スザット・アンタラヌパコン
“Krai Thong” (2001) Suthat Intaranupakorn
 前にここで紹介した、タイ版『300』みたいな”Bang Rajan”で一目惚れし、そのあと見たタイ版「浅茅が宿」みたいな秀作怪談映画『ナンナーク』でも惚れ直した、Winai Kraibutr(例によって日本語表記が、ウィナイ・グライブットとかビナリ・クレイブートとか、ソフトによって揺れております)主演の、アニマル・パニックとエロスが合体した超怪作。
 いちおうストーリーは、むかしむかし、タイのとある村が人食いワニに襲われ、村長はそのワニを倒した男に、自分の財産と娘を与えることを公約し、一人の旅の勇者がワニ退治に出掛ける……ってな、いかにも昔話に良くあるフォーマットです。
 ワニが人を襲うシーンは、いささかチープながらも、惜しみないスプラッタぶりを見せてくれます。腕は食いちぎられるわ首は飛ぶわ、あげくは木の枝に掴まって逃れようとしていたところを、下半身丸ごと食いちぎられて内臓ドビャッってなシーンまである。
 ただ、実はこのワニは、人間の姿に変身することができる、ということが途中で判るんですが、このあたりから、だんだん映画の先行きが怪しくなってくる。
 村長の娘は、ワニ退治の勇者クライトーンと仄かな恋に落ちるんですが、ワニに攫われて水中に引きずり込まれてしまう。苦しい息の下、頭をよぎるのはクライトーンとの甘いラブシーン。ところが、気がつけば水中の洞窟にいて、自分の上にはクライトーンならぬ、ワニが人間に変身したワニ男がのし掛かっていた! 更にその洞窟には、ワニ男だけじゃなくて、その妻だか愛人だかの、二人のワニ女までいた!
 ここまでくると、もはやタダモノナラヌニオイがぷんぷん(笑)。
 ところが、ビックリするのはまだ甘かった。「英雄、色を好む」とは申しますが、主人公クライトーンの、モテモテぶりっつーか絶倫ぶりが、更に話をヘンな方向へ加速させていきます。
 とりあえずクライトーンは、無事娘を救出して陸に戻るんですが、喜んだ村長が勇者の結婚相手に定めたのは、助け出した娘ではなく、その妹の方。ここで「おや、悲恋ものになるのかな?」と思ったんですが……いやぁ、そんな読みは甘かった(笑)。
 以下、未見の方の興を削がないよう、要点は白文字で書きますが、ネタバレがお嫌でない方は、ドラッグして反転させて読んでください。
 けっきょく勇者クライトーンは、姉と妹、二人の娘を一緒に嫁にもらい、更に、再度ワニ退治に出掛けたついでに、ワニ女の一人ともセックスして、ワニ男を退治した後も、残るもう一人のワニ女(これ、いちおう勇者にとっては友人の仇だし、ワニ女にとっては夫の仇のはずなんですが)ともセックスし、尻からワニの尻尾が生えている子供も生まれてハッピーエンド!という、こちらの常識的な想像を遥かに飛び越えて、もう成層圏まで届きそうな勢いの超展開を見せてくれます(笑)。
 ってな具合の怪作なんですけど、でも、これが怪作になっちゃったのは、ひとえにこのモノガタリを、リアリズム準拠の映画にしてしまったせいだよなぁ(笑)。
 というのも、民話や伝説というフォーマットで言うと、こういった、英雄が行く先々で美女をモノにするとか、異種婚とかいった要素は、別に特別ヘンなものではないからです。
 また、セリフでも「人もワニも同じだ」というのが出てくるんですが、こういった、人間と人間以外の動植物の間に境界線を引かず、それらが赦しや愛によって合一化していくという要素は、いかにもアミニズムや仏教的なものをベースにした民話の趣があり、世界観としては実にアジア的な魅力がある。
 やれやれ、アニマル・パニックやソフト・エロスみたいなノリで民話を映画化するから、こんなヘンテコなことになっちゃうんで、もっとマジック・リアリズムっぽく撮ってくれりゃ良かったのに……(笑)。
 さて、私の最大のお目当ては、冒頭にも書いたように、主人公の勇者クライトーン役のWinai Kraibutrクンだったわけですが、う〜ん、相変わらずハンサムでカッコイイ。全編通して、ほぼずっと裸だし(笑)。
 というわけで、一緒に見ていた相棒とは、見ている間ずっと、下記のような会話が続いておりました。
「あ、出てきた、出てきた」
「脱いだ、脱いだ。相変わらず、いい身体だね」
「今回は、お歯黒じゃなくて良かった」(注/『ナンナーク』のときは、登場人物が皆、タイの伝統で、キンマというチューインガムの先祖か噛みタバコのような嗜好品を噛んでいるせいで、口の中や歯が赤褐色に染まっていたんです)
「いい男だね〜」
「あっちのゲイにも人気があるんじゃない?」
「けっこう胸毛もあるね」
「乳輪、ちょっと大きめ?」
「この腋毛がいいね」
「腋毛、いいね〜」
 等々(笑)。
 ま、ゲイのカップルが男の裸目当てで映画を見ているときの会話なんて、こんなもんです(笑)。
『アリゲーター 愛と復讐のワニ人間』(amazon.co.jp)
 さて、このWinai Kraibutrクン、今年も“Puen yai jom salad (Queens of Langkasuka)”とかゆー、史劇だかファンタジー大作だかに出ておられるようです。
 とりあえず、予告編を貼っておきませう。

 ぜひ見てみたいと思っているんですが、こーゆーのは日本では公開もソフト発売も望み薄だろうなぁ……。
【追記】日本盤DVD出ました!

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価格:¥ 3,990(税込)
発売日:2011-10-07

『紀元前1万年』

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『紀元前1万年』(2008)ローランド・エメリッヒ
“10,000 BC” (2008) Roland Emmerich
 この監督のことだから、きっと視覚的な見所は色々あるけど、大味な作品なんだろうな〜、と予想していたら……案の定その通り。う〜ん、ちょっとは裏切って欲しいもんだ(笑)。
 まあ、とにかく話の作りが大ざっぱ。
 伏線があっという間に回収されちゃって拍子抜けしたり、かと思えば、延々引っ張るなぁと思っていたら大した意味もなかったり。モノガタリの基本的な構造は、アクション・アドベンチャー系娯楽作品の王道的なものなので、それはそれで好きな系統なんですけど、ここまで細部がアバウトだと、いくら好きでも流石にかばいきれないものがある(笑)。
 あと、途中から話が、個人的に苦手なエーリッヒ・デニケン系にいきそうで、ちょっとビクビクしてたんですが、何とそれについては、オチや種明かしそのものがなかったからビックリ(笑)。
 更にクライマックスの、(ネタバレなので白文字で)死んだヒロインの復活劇の強引さには、もっとビックリ……ってか、愕然。「え〜っと、ここって感動しなきゃいけないシーンなんだろうか???」なんて思いが、つい頭を駆けめぐりました(笑)。
 オマケにトドメが、(またネタバレ)「そして彼らは故郷への長い旅路に云々」とかゆーナレーションの、次のシーンでは、もう故郷に着いちゃうとこ。思わず、一緒に見ていた相棒と同時に、「ええ〜っ、もう???」とスットンキョウな声を上げてしまった(笑)。
 演出は、まあ下手じゃないし、よく言えばテンポが良いんですが、反面、つらつら流れていくだけで、味わいもなければ感動もない(笑)。
 ただ、それでも以前は、もうちょっと映像的なハッタリが効いていたと思うんだけどなぁ。今回のマンモスの暴走とか巨大ピラミッドとかは、別に悪くはないんだけど、それでも『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』や『アポカリプト』を体験した後だと、どうしてもインパクト負けしてしまうのが残念です。
 でも、風景など実に壮大なパノラマを見せてくれますし、砂漠を流れる川面に浮かぶ帆船団とかは、なかなか美しい絵面だった。目で見る異世界という点に限って言えば、充分以上にハイクオリティ。クリーチャー系のVFXも佳良。
 あと、私は「原始人(野蛮人)萌え」属性の持ち主なので、アレコレ文句を言いつつも、実はとっても楽し〜く見られたりして(笑)。
 とにかく、主人公の男がヨロシイ(笑)。ハンサムだけど、ちょいとヘナチョコな香りも漂う好みの顔立ち。ヒゲ付き長髪付き。身体はナチュラル・マッチョ系で、映画後半はほぼ上半身裸。衣装はもちろん、獣皮の腰布……とくりゃ、もうフェチ的な意味でタマリマセン(笑)。
 あ〜あ、これで下手クソなオリジナル・ストーリーなんかじゃなく、このキャラとVFXを使った、エドガー・ライス・バローズの映画化だったら良かったのに。
 ヒロインもなかなか可愛いし、他の仲間キャラも敵キャラも、皆さん外見的には何ら問題なし。内面はカラッポだけど(笑)。
 というわけで、まあ何というか、類型的かつ記号的なキャラが繰り広げる、娯楽アクション・アドベンチャー&スペクタクルという意味では、往年のソード&サンダル映画と同じ香りもあります。
 つまり、ぶーぶー言いつつも、実はけっこう好きです、この映画(笑)。
『紀元前1万年』(amazon.co.jp)

Samson & Delilah (Opera Spanga)

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“Samson and Delilah” (2007) Corina Van Eijk
 オランダのオペラ・カンパニー、オペラ・スパンガによる、サン=サーンスの『サムソンとデリラ』のオペラ映画。
 アメリカのファンから、「このフィルム、アメ〜ズィングな熊男責めがあるし、貴殿にはぜったいにオススメ!」みたいなメールを貰いまして(Thank you, Cecil!)、興味を持って探してみたところ、オランダ盤(おそらく)DVDを見つけたので買ってみました。
 因みに、サムソンとデリラの話は私の好物の一つ(っつーか、ぶっちゃけ性的な原風景の一つ)なので、DVDも、1949年制作のセシル・B・デミル版はもとより、84年のTV版や、96年のニコラス・ローグ版など、見つけるたびに、ついつい買っちゃってます(笑)。

 さて、私はオペラは疎いので、このオペラ・スパンガがどんなカンパニーなのか、まったく判らない。検索してみても、日本語の情報は何も見つからず。ただ、サイトは見つかりまして、それによると、監督のコリーナ・ファン・エイクという女性は、このカンパニーの芸術監督らしいです。
 サン=サーンスのオペラの方も、これまで聴いたことがなく今回が初体験。そもそも、サン=サーンス自体、『動物の謝肉祭』くらいしか聴いたことがない……と、見る前は思ってたんですけど、いざ映画を見てみたら、アリア「あなたの声に心は開く」だけは、聞き覚えがあった。でも、おそらく私の場合、この曲との最初の出会いは、正統派のオペラじゃなくて、クラウス・ノミだと思うけど(笑)。

 映画の内容は、モノガタリはそのままに、舞台を現代の戦場に置き換えたものになっています。
 まず、戦場とおぼしき砂漠で、捕虜らしきゲリラ風の男たちが処刑されていく。それを見守る仲間たちは、嘆きながら祈り、合唱する。
 そして、サムソン登場。やはりゲリラ兵風の出で立ちで、パッと見、キューバ革命時のカストロみたいな感じ。仲間たちを「立ち上がれ」と鼓舞します。
 そこにやってきたのは、ダゴンの神官ならぬ、洒落たスーツを着て、ガードマンと美女を引き連れた、いわゆる資本主義風の金持ち男。見物にでも来たのか、見張りの兵士に袖の下を握らせ、美女の尻に跨ったりと、享楽的な態度を示す。
 ここでゲリラ軍が、サムソンに率いられて蜂起。敵の兵士たちは殺され、美女は犯され、金持ち男も殺される。それを司令部でモニターしていた、ダゴンの祭司長と部下の兵士たちは、こりゃあかん、すわ退却と、パソコンのデータを消去して逃げ去る。
 勝ったゲリラ軍は、長老を囲んでお祝いをしますが、敵軍はそこに、着飾らせた女兵士たちを送り込む。女たちを率いるのは、美女デリラ。
 むさい男所帯に現れた、露出度の高い服を着た女たちに、ゲリラ軍はメロメロに。サムソンも、デリラから目を離すことができず、それを諫めていた長老までもが、オンナノコに股間をまさぐられてアハ〜ン状態。
 ……とまあ、こんな感じで進んでいきます。

 というわけでこの映画は、古典を古典の世界観のまま再現するのではなく、古典を現代的な視点で解釈し、解体/再構成することによって、そこから新たな意義を掘り起こそうとするタイプの作品。
 方法論としては、さほど目新しいものではありません。また、このテのアプローチがされた作品って、モノによっては「舞台を現代に置き換えただけじゃん。……で、それがどうしたの?」で終わってしまうことも、ままある。
 しかしこの映画の場合は、映画作品としての出来は別にしても、アプローチの是非に関して言えば、これはかなり成功している、と、個人的には感じました。どこがどう成功しているかというと、これはちょっと長くなるし、内容もヤヤコシクなってしまうので、後ほどまとめて書くことにします。

 では、ヤヤコシイコトは別にして、映像作品としての出来はというと、まずまずといったところ。
 映像表現は、ケン・ラッセルとかデレク・ジャーマンとか、あるいはジュリー・テイモアとかいった、ちょっと古いタイプの前衛風。80年代に『アリア』というオムニバス映画がありましたが、あれが好きな方だったら、本作も充分に楽しめるはず。ただ、飛び抜けた個性とか先鋭性には乏しいので、そこいらへんはちょっと物足りない。個人的には、好きなタイプの作風なんですけどね。美術も、低予算なりに頑張っていて、雰囲気を出すことには成功している。
 尺が100分と、オペラ映画にしては短めなのも、私としては見やすくて良かった。ただ、オペラ好きにはマイナス・ポイントかも。
 ビデオ撮りらしく、ハイライトに飛びがあったり、エッジにカラーノイズがあるのは、ちょっと残念。

 表現のスタイルではなく内容の方は、これはかなりアグレッシブで面白い。
 まず、しょっぱなの囚人の処刑シーンからしてスゴい。
 直接表現ではないので、注意して見ていないと判りにくいんですけど、この囚人は性器を切除されてから、仲間の前に引き出されて、息絶えるまで放置されるんです。しかも、切り取られた性器は床のバケツに捨てられ、それを犬がむさぼり食うという凶悪さ。
 前述の有名なアリア「あなたの声に心は開く」もスゴい。
 英語字幕で説明しますと、このシーンでデリラは “Open your heart to my tenderness, come and worship drunkness”(私の語学力では上手く訳せませんが、「優しさに心を開いて、こちらに来て、杯を交わしましょう」って感じなのかな?)と歌いながら、車のボンネットに座って脚を開く。サムソンはうっとりした顔で、その前に跪く。そして、デリラが “Open my tenderness”(私の柔らかいトコを開いて!)、”Drink up”(飲み干して!)と歌うのに合わせて、サムソンがクンニリングスするんです。コンサバなクラシック好きが見たら、憤死しそう(笑)。
 こんな具合に、その露悪的とも言える挑戦的な内容は、大いに見応えあり。

 役者の方は、皆さんオペラ歌手です。口パクではなく、ご本人が演じ、ご本人が歌っている。
 サムソン役のCharles Alvez da Cruz(読みは、シャルル・アルヴェス・ダ・クルス……でいいのかな?)は、高音域になるといささか線の細さを感じさせる部分もなきにしもあらずですが、全体的には必要充分以上に魅力的な歌声でした。
 ルックスの方も、まあ、すンご〜く濃い顔なんですが、ハッキリ言ってタイプ(笑)。チャームポイントのヒゲを、途中で剃っちゃったりもするんですが(まあ、美女とデートするとなると、ヒゲも剃って身だしなみも整えて……ってのは、ノンケさん的には当たり前なんでしょうけど、ムサいの&ヨゴレてるの好きの私に言わせりゃ、「勿体ない!」って感じ)、ヒゲなしでも充分いい男。
 しかも、後述しますがヌードもあれば責め場もある。デリラとの濡れ場では、逞しい臀球丸出しでコトに勤しんでくれるし、お待ちかねの責め場(内容は後述)では、チ○コも丸出しで大熱演。
 というわけで、歴代のサムソン役者の中でも、個人的には一等賞(笑)。因みに二番目が、ニコラス・ローグ版のエリック・タール。有名なデミル版のヴィクター・マチュアは、どっちかつーと嫌いな顔(笑)。
 デリラ役のKlara Uleman(クララ・ウレマン?)は、お世辞にも傾城の美女とは言い難いお顔ですし、トウもたっておられるんですが、まあオペラ歌手にそーゆーことを求めるのが、そもそも筋違いなわけで。
 声がメゾ・ソプラノのせいもあってか、最初は必要以上にオバサンに見えちゃって閉口したんですけど、表現力はスゴい。ダゴンの祭司長との掛け合いや、前述のサムソンとの掛け合いなど、かなりの迫力で圧倒されます。そうなってくると、ちゃんと魔性の美女に見えてくるから面白い。

 では、責め場の解説。
 サムソンとデリラというと、怪力を失って捕らえられたサムソンが、両眼を潰され石臼を挽かされるというのが、責め場的な見所ですが、この映画では、内容がちょっと違う。
 捕らえられて盲目になるのは同じなんですが、檻の中に入れられたサムソンは、石臼ではなくエアロバイクを漕がされて、発電をさせられます。で、我が身を嘆きながら脚が止まったりすると、檻の外から看守にどやされる。そうやって自転車を漕ぎ続けるサムソンを、敵の兵士たちがタバコふかしながらニヤニヤ見物。やがてサムソンが、自転車から降りて神に祈りだすと、今度はそこにホースで放水責め。
 で、この一連のシーンで、サムソンは文字通り、一糸も纏わぬ素っ裸。う〜ん、こりゃエロい(笑)。エロさでいったら、過去見たサムソンとデリラの中でも、これがダントツ!
 一番のサムソン役者が演じる、一番の責め場。これだけで、もう私の偏愛映画の殿堂入りは確定です(笑)。

 YouTubeに予告編があったので、下に貼っておきます。
 上記の責め場も、ちょびっとだけど見られますよ(笑)。

 DVDは、ヨーロッパ盤なのでPAL方式。リージョン・コードは、私が購入したイギリスのアマゾンの表記によると、リージョン2。ただ、ディスク・パッケージには何も書かれていないので、ひょっとしたらフリーかも。
 16:9のスクィーズ収録。音声は、フランス語。字幕は、英語、ドイツ語、スペイン語、ポーランド語、ドイツ語、フランス語から選択可能。オマケは、メイキングと予告編、それとキャストやスタッフのプロフィール。

 では、以下は「ヤヤコシクなるから後述する」といった諸々について。

 この映画を教えてくれた人の説明によると、「プロットはアラブ対イスラエルに置き換えられている」とのことでした。ところが、実際に全編を通して見てみると、必ずしもそういうわけではなかった。
 確かに、歌詞に「イスラエル」という言葉が頻出しますし、伝承の舞台がパレスチナであるせいもあって、パッと見は、中東戦争なんかを連想します。
 しかし、前述のようにヘブライ人(ユダヤ人)側のスタイルは、キューバ革命のゲリラみたいな感じですし、ペリシテ人側も、砂漠迷彩のヘルメットや軍装などを見ると、アラブどころかその反対に、イラク戦争時のアメリカ軍っぽい。
 かと思うと、ゲリラ軍の年長者たちが、頭から布をかぶって長老になったときなんかは、いかにも昔のスペクタクル映画に出てくるヘブライ人のスタイルを連想させます。同様に、クライマックスのダゴン神殿は、内装がモスク風だったりミナレットがあったりもします。
 つまり、この映画で描かれている「戦争」とは、元々の「ヘブライ対ペリシテ」(あるいは「ヤーウェ対ダゴン」)でもなく、かといって現代の「イスラエル対アラブ」や「アメリカ対アラブ」(あるいは「ヤーウェ対アッラー」)でもないわけです。
 では、何なのかというと、これは、そういったもの全般に対するアレゴリーなんですな。単純な置き換えではなく、古今東西における宗教や思想をベースにした対立や、戦争全般に対する寓意。
 前述したような現実的なモチーフの数々は、そこから現実への連想を引き起こすことによって、その寓意が、過去も現代も変わらぬ恒久的なものなのだと、より効果的に印象づける役割を果たしている。
 この手法は、なかなか面白かった。

 もう一つ興味深いのは、この映画の宗教に対する視線。
 前述したように、サムソンとデリラの時代におけるヘブライ人とペリシテ人の対立とは、平たく言えば信仰の違いによる宗教戦争なんですが、実のところ現代における戦争も、何かと宗教によってその正当性、すなわちそれが「正義の戦争である」と主張される。
 よく知られたところでは、イスラム世界におけるジハード(聖戦)という思想や、第二次世界大戦時の日本での神道の使われ方なんかがそう。キリスト教文化圏でも、有名な賛美歌「見よ、十字架の旗高し」(生ぬるく訳されていますが、原題は “Onward,Christian Soldiers”、つまり「進め、クリスチャン兵士」。歌詞の内容も、イエスの十字架を掲げて、戦争に進軍せよ……というもの)が、同様に戦争における宗教的な正義を謳っており、じっさいに第二次世界大戦中に、ハリウッドのプロパガンダ映画で使われている。
 よって、このサムソンとデリラという話を、伝承のままに描くと、そこにはどうしても宗教的正義という視点が存在してしまうんですが、この映画はそれを批判的に描いている。冷笑的と言ってもいいかも知れない。
 それを端的に表しているのが、映画のタイトルバックです。
 タイトルバックでは、線画によるイラストで、カナブンのような虫の群れが、土中から這い出してくる様子が描かれる。そこに、誰かによってページをめくられている本が現れ、その上を虫が這い回る。読書の邪魔をされ、手は虫を払いのけ、ついには指先で押し潰してしまう。
 で、この「本」が曲者。
 出てくる本は三種類。まず、飾り枠と花文字と挿絵の入った本。次に、飾り枠と文字だけの本。最後に、巻物状のもの。つまりこれらは、キリスト教の聖書(もしくは祈祷書)、イスラムのコーラン、ユダヤ教のトーラー(律法)なわけです。
 このイラストは、映画の最後に再び登場します。
 サムソンがダゴン神殿を破壊し(といっても、この映画では電気をショートさせるんですけど)、悲鳴を上げるデリラのクロースアップの後、三冊の本の上に突っ伏し、頭から血を流して死んでいる、三人の宗教的指導者の絵が現れる。
 現実に振りかざしてきた宗教的正義というものが、それぞれの宗教にとって「邪魔なものを追い払い殺傷する」行為でしかなく、サムソンとデリラでは、ユダヤ教が正義でダゴン信仰が悪とされているが、どっちもどっち、みんな同じだよ、と、痛烈に皮肉っているわけです。
 これ以外にも、宗教(および宗教的指導者)に対する冷笑的な視線は、ダゴン軍が司令部を引き払うシーンや、ヘブライ人の長老が女たちに誘惑されるシーン、クライマックスのダゴン神殿のシーンなどで、他にも幾つか見られます。そして、これらのシーンで、現実の宗教に近い具体的なモチーフが引用されているのは、おそらく、前述したような連想効果を狙った、意図的なものでしょう。
 こういったアグレッシブさには、かなりグッときました。

つれづれ

 アメリカ人から「日本はそろそろボン・フェスティバルなんだろ? ハッピー・ボン!」というメールが来ました。え〜、ハッピー・ボンって……(笑)。
 お盆ってのは、いわゆるフェスティバルとはちょっと違うんだよ、と説明しようと思ったんだけど、はて、じゃあどう説明したらいいかが判らない。祖先の霊が云々という意味では、ハロウィンに近いような気もするけれど、雰囲気はぜんぜん違うだろうし。
 だいたい、お盆ってのは、果たして「目出度い」ものなんだろうか? 個人的な感覚だと、お祝いをするようなものとは趣が異なるような気がするけど、「盆と正月が一度に来たような」なんて慣用句から考えると、やっぱ目出度いものなんだろうかとも思えるし。
 けっきょく、お盆というものの意味合いを、自分自身も正確に把握していないことが、改めて判ってしまいました(笑)。
 このメールに限らず、最近は外国とのやりとりが何かと多いです。
 ここ一ヶ月の間だけでも、イギリスとフランスからそれぞれ取材が一件ずつ、企画展に出品中のスペインのギャラリーとは、引き続き十月からの別展示に関する打ち合わせをあれこれ、来年に向けて、アメリカとオーストラリアの企画がそれぞれ一つずつ、まだ海のものとも山のものともつかない企画が、イタリアとスペインで一つずつ……ってな具合です。
 イギリスとフランスの取材は、どちらも日本のエロティック・コミックに関するもので、まあ自分のことやゲイマンガについては、何を聞かれてもそれなりにお答えできるんですが、何故か決まって、日本のHENTAIマンガやYAOIマンガについても、オピニオンを求められるのが困りもの。
 触手もののエロマンガとかフタナリとか、やおいやボーイズラブとかって、趣味的に楽しむことがあるだけで、ジャンル全般に関して意見や考えを述べるほどは、読み込んでもいないし知識もないしねぇ(笑)。
 ただまあ、こんな取材が続けて来ると、なるほど、確かにヨーロッパでは、日本のマンガがブームなんだなぁ、とは感じます。
 さて、外国ネタで続けますと、フランスとスペインから、ソード&サンダル映画の新しいDVDが、何枚か届きました。
Dvd_longride_es スペインから届いたのは、まず、スティーヴ・リーヴスの『地獄の一匹狼』”Vivo per la tua morte (A Long Ride from Hell)”。
 これは、ソード&サンダルではなくマカロニ・ウェスタンですが、これでアメリカ盤とヨーロッパ盤を合わせれば、リーヴスの主演作は全てDVD化されたことになります。パチパチ〜。
 まだ再生チェックをしただけで、中身をちゃんと見ていないので、映画の内容についてはコメント不能(笑)。IMDbによると、リーヴスは「刑務所で過酷な扱いに耐える」らしいので、ちょっとは責め場もあるのかな? あるといいなぁ(笑)。
 画質は、いささか退色気味ではあるものの、ディテールは良好。ビスタの非スクィーズ、レターボックス収録。音声はスペイン語とイタリア語で、残念ながら英語はなし。
Dvd_king_of_slaves それから、ゴードン・スコット主演の “L’Eroe di Babilonia (The Beast of Babylon Against the Son of Hercules a.k.a.Goliath, King of Slaves)”。
 これはおそらく、初DVD化かな? 米盤でも、他の欧盤でも見た記憶なし。
 これまた画質良好でスクィーズ収録。やはりイタリア語とスペイン語のみ。
 後半でダンジョンに入れられて、鎖と金属枷で岩壁に手足と首を繋がれ、延々と悶えるシーンが続くのが美味しい(笑)。責めとしては平手打ちくらいだけど、ちゃんと(何がだ?)上半身裸だし、ヒゲ付きです(笑)。パターンとしては、前に紹介したこれと同じなんだけど、こっちの方が尺が長く、撮り方もねちっこいので、なかなかそそられました(笑)。
Dvd_maciste_enfer フランスからは、まず、リッカルド・フレーダ監督、カーク・モリス主演の “Maciste all’inferno (The Witch’s Curse)” と、前にもここで紹介した、レジ・パーク主演の “Maciste nelle miniere di re Salomone (Samson in King Solomon’s Mines)” の、2 in 1ディスク。
 カーク・モリスのヤツは、ソード&サンダル meets ホラー映画の、まあ珍品に類する内容なんですが(笑)、マチステの地獄巡りのシーンに、ときどきドキッとさせられる妙な迫力があって、けっこうお気に入りの一本。米盤DVDがあるんですが、いかんせん画質がズタボロなのを残念に思っていたところ、この仏盤を発見。期待に違わず、傷なし、退色なしの、状態の良いマスターを、スクィーズ収録という、高品質DVDだったので大喜び。レジ・パークの方も同様ながら、これは既に持っているスペイン盤も高品質なので、さほど有り難みはなし。フランス語音声&字幕なしと、イタリア語音声+フランス語字幕が選択可能。
Dvd_giant_metropolis もう一枚、同じシリーズで、これまた前に何度か紹介している、ソード&サンダル meets SciFiのやはり珍作、ゴードン・ミッチェル主演の “Il Gigante di Metropolis (The Giant of Metropolis)” と、これまた、ソード&サンダル meets ホラー映画の珍作、レジ・パーク主演の『ヘラクレスの怪獣退治』”Ursus, il terrore dei kirghisi (Hercules, Prisoner of Evil)” の2 in 1。
 こちらも同様の高画質で、ゴードン・ミッチェルの方は、画質が悪かった米盤や、それよりいささかマシだった独盤と比較しても、フィルムの状態が遥かに美麗。レジ・パークの方は、おそらくDVD化は初だと思うんですが、やはり同様の品質。ただ、これはいかんせん、映画の内容そのものがヒドいのだ(笑)。私もおそらく、2 in 1じゃなかったら買っていなかったと思う(笑)。音声と字幕の作りは、前のと同じ。あと、双方に共通して、同系映画のオリジナル予告編(イタリア版もあればフランス版もあり)が、6本ほどオマケで入ってます。
 今回はお試し購入でしたが、この2 in 1シリーズ、他にもいろいろ出ているので、高品質に味をしめて、また幾つか買ってみる予定。他のラインナップに興味のある方は、メーカーのサイトへどうぞ。
 とりあえず、今回はうっかり見落としてしまっていた、スティーヴ・リーヴスの『怪傑白魔』は、すぐに買わなきゃ(笑)。高画質ノートリミングで、あのボンデージと鞭打ちシーンが見られるかと思うと、もうウキウキです(笑)。カップリングされている、ヒルデガルド・ネフ主演のエカテリーナの映画には、あんまりそそられないけど。裸のマッチョは期待できないし、監督もウンベルト・レンツィだし(笑)。
 フランスといえば、先日、レンタルで『ナルコ』というフランス映画を借りて、なかなか面白かったんですが、これに、こないだここで書いたばかりの、『ゴールドパピヨン』でベス役を演じていたザブー(ザブー・ブライトマン)が出ていたので、ちょっとビックリ。あれから20年も経ってるのに、面変わりはしていても、たいして老けてもいなかったなぁ。
 主演男優に影響されて、ちょいと自分も薄汚い長髪にしてみたくなりましたが(ゲイ受けは悪いけど、個人的にはトラッシュな感じの長髪って、けっこう好きなんですよね)、相棒に猛反対されて断念しました。……まぁね、私の面相と髪質じゃ、長髪は似合わないのは判ってるけどさ(笑)。でも、昔のヒッピーとか、昨今のルーザーとかホワイト・トラッシュのスタイルって、けっこう憧れてるんだよなぁ……(笑)。

最近お気に入りのCD

Cd_tcherepnin_pc1「チェレプニン:ピアノ協奏曲第1番, 第3番/祝祭音楽/交響的行進曲」アレクサンドル・チェレプニン
 チェレプニンという作曲家については、チェレプニン賞という名前や、伊福部昭や早坂文雄のお師匠さんだということくらいしか知らなかったんですが、CD屋の試聴機で本盤を聴いてみたところ、一曲目の「ピアノ協奏曲第1番」の冒頭だけで、もう虜になっちゃいました。
 民俗楽派を思わせるエキゾチックで力強い、ストリングスによる導入部が、もうムチャクチャかっこ良くてツボを押されまくり。そしてピアノが華麗に登場し、曲は時にゆったり、時にグイグイとドラマチックに展開していきます。ちょっとリムスキー=コルサコフみたいだな〜、なんて感じもあり、メロディも良く、久々の大当たり。
「第三番」の方は、もう少しコンテンポラリー寄りで渋め。「祝祭音楽」は、その二つの中間といった味わい。「交響的行進曲」は、再び明快でダイナミックでかっこ良い。
 とゆーわけですっかり気に入ったので、これから他の作品も聴いてみることにします。
「ピアノ協奏曲1番、他」アレクサンドル・チェレプニン (amazon.co.jp)

Cd_thomson_plow_that_broke「大草原を耕す鋤/河」ヴァージル・トムソン
 これは全く知らなかったんですが、アメリカ近代の作曲家で、この二つはそれぞれ1930年代に制作されたドキュメンタリー映画用に書かれたスコアだそうな。確かにアメリカの農村風景を連想させるような、壮大でありながら、どこかフォークロリックな素朴さも感じさせるオーケストラ曲。
 二曲とも、フォスターを思わせるような優しいメロディーや、民謡や賛美歌から引用された懐かしげな主題が、優美に、ユーモラスに展開していく様は、何とも楽しくて愛らしい。近代アメリカらしく、ブルーズの要素なんかも入っていて、そこだけ聴くとムード歌謡みたいな味わいもあったり(笑)。
 たまに、恣意的に使用されている現代風の和声が、かえってメロディーの素朴な美しさの邪魔になっていたりもしますが、全般的には、これまたかなり好みの曲調でした。
 因みに米ウィキペディアによると、このトムソン氏、ゲイだったらしいです。
「大平原を耕す鋤/河」ヴァージル・トムソン (amazon.co.jp)

Cd_asian_roots_takedake「エイジアン・ルーツ」竹竹 with ネプチューン
 アメリカ人尺八奏者のジョン・海山・ネプチューンが、竹のマリンバ、竹のパーカションなど、竹製の楽器だけのアンサンブルを率いて演奏しているアルバム。ジャズ&ワールド・ミュージック風味のニューエイジって感じ。楽器は違いますが、雰囲気的にはフェビアン・レザ・パネみたいな感じもある。
 柔らかくて、どこか懐かしい感じのする竹製楽器の奏でる音は、それだけでも魅力的。純邦楽やインドネシア音楽がジャズ風にまったり混じり合っていく様は、なんとも自然で穏やか。自然すぎて、ミクスチャー音楽的なスリリングさには欠けるなぁ、なんて贅沢を言いたくなるくらい(笑)。とにかく気持ちの良い音楽。
 夏の夕暮れに、まったり楽しむにはうってつけでした。ホクホク(笑)。
「エイジアン・ルーツ」竹竹 with ネプチューン (amazon.co.jp)

Cd_il_terrore_dei_barbari「鉄腕ゴライアス 蛮族の恐怖(サントラ)」カルロ・イノセンツィ
 これまでも何度か紹介してきた、DIGIT MOVIESから出ているイタリアン・ペプラム映画・アンソロジー・シリーズ第九弾は、あの「鉄腕ゴライアス」が登場。う〜ん、このBlogでこの映画を取り上げるのは、これでもう何回目だろう(笑)。
 この映画、アメリカ公開時には音楽をレス・バクスターのものに差し替えられていて、おそらく私がヴィデオやDVDで親しんでいたのもそっちだと思うんですけど、今回のCDは、差し替え前のカルロ・イノセンツィによるものを発掘、復刻したもの。
 とはいえ、この映画の音楽で一番印象に残るテーマ曲は、私が覚えているものとメロディーも同じで、唯一違うのは、映画で入っていた男声コーラスの有無くらい。全体的には、正統派史劇映画の劇伴といった感じで、なかなか堂々とした味わい。戦闘シーンはブラスと打楽器でダイナミックに、ヒロイン関係は流れるようなストリングスでロマンティックかつエキゾチックに聴かせてくれます。
 ただまあ、レス・バクスターが大好きな私としては、できればそっちの方も復刻して欲しいな〜、というのは正直なところ。
 インナー・スリーブには、例によって各国版のポスターやロビーカート、スチル写真などの画像が載ってます。個人的には、ポスターだとこれが好きだなぁ、やっぱ(笑)。
「鉄腕ゴライアス 蛮族の恐怖(O.S.T.)」カルロ・イノセンツィ (amazon.co.jp)

“The Savage Sword of Conan”

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“The Savage Sword of Conan”
 前回の画集“Conan: The Ultimate Guide to the World’s Most Savage Barbarian”に引き続き、またまた「蛮人コナン」本をご紹介。今回はアメコミ版です。

 現在、コナンのコミックスは、米ダークホース社から、私の知っている限りでは4つのシリーズで刊行中です。”Conan Ongoing series”と”Conan miniseries”と銘打たれた2つが新作、”The Cronicles of Conan”と”The Savage sword of Conan”が復刻本。
 まあ、流石に私もそれらをコンプリート買いしているわけじゃありません。全部合わせると20冊以上にはなるしね。で、だいたいは好みのアーティストが描いている本だけ、ぽちぽちツマミ買いしているんですが、今回紹介する”The Savage Sword of Conan”シリーズだけは、今のことろ一番のお気に入りでコンプしてます。

 私も最近知ったんですが、かつてコナンのアメコミ版は、同じマーヴェルから”Conan the Barbarian”と”The Savage Sword of Conan”の二種類が出ていたらしいです。で、”Barbarian”の方が本文もカラーの普通のアメコミ(ちょっと語弊があるけれど、まあいわば低年齢層向け)で、本文が白黒の”Savage Sword”がアダルト向けというラインだったらしい。因みに、前述のダークホース刊の4種のうち、”The Cronicle of Conan”が、この”Barbarian”をリマスタリング(っつーか、彩色をデジタルでやり直したというか)して合本にしたシリーズです。

 で、アダルト版の方の”Savage Sword”の合本版ですが、現時点では3冊が刊行済みで、4巻が近日発売予定。
 書影を見ての通り表紙はカラー(当時の表紙絵を使用)ですが、本文はわら半紙っぽい紙に黒の一色刷り。ちょいと耐久性に不安がある紙質ではありますが、印刷そのものは、粗悪な紙に見られがちな、にじみやかすれ等はいっさい見あたらず、極めてクリアーな品質。本文中に、当時の雑誌の表紙がモノクロで掲載されているんですが、これもグレーの階調がきちんと出ているので、ひょっとしたら見た目よりちゃんとした紙なのかも知れません。
 ページ数は、一冊当たり驚きの550ページ近く。薄い用紙なのに本の厚みは2センチ以上あって、見応えタップリ。

 さて、私が何故この”SavageSword”シリーズを気に入っているかというと、それはやはり絵の魅力、これに尽きます。白状しちゃうけど、私はアメコミって、もっぱら「見る」だけで、ほとんど「読む」ことはないです(笑)。
 そして、このシリーズの絵は、やはりアダルト向けラインだったせいか、いわゆる昔のアメコミ風とは異なった、もっと作家性の強い、コミックの絵というよりは「ペン画」を思わせるものが多く、これが実に何とも良いのですよ。

 では、具体的な絵の話。
 アメコミでは、様々な作家が同じシリーズを描き継ぐのが常ですが、私が何と言っても大好きなのは、ペンシラーがジョン・ブシェマ、インカーがアルフレッド・アルカラというコンビ。(日本のマンガと異なり、アメコミの制作はシステマチックに分業化されていて、鉛筆で絵を描く人とインクでペン入れする人、別々のアーティストだったりします)
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 まあ、上のサンプル画像を見ればお判りと思いますが、ハッチングの強弱だけで、明暗から立体感から質感から、ダイナミックかつ繊細に見せてくれて、もうペン画として本当にクオリティが高い。全コマこんな調子で描かれているもんだから、ページをパラパラめくっているだけでウットリです(笑)。しかもね〜、内容は半裸のマッチョだし、しょっちゅうとっ捕まって縛られたりするし(笑)。

 他にも、魅力的なアーティストは沢山います。
 1巻を例にとると、ページは少ないんですが、ペンと鉛筆のミクスチャーで魅せる、ジェス・ジョドロマンの絵は見逃せない。
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筆のタッチがダイナミックな、パブロ・マルコスも良い感じ。
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 もちろん、バリー・ウィンザー・スミスも描いているし(ただ正直なところ、私は彼のコミック版の絵は、その世評の高さほど好きではないです。一枚物のイラストレーションは、すごく良いと思うんだけど、コミックになると、顔の造形のクセの強さやデッサンの弱さが気になるし、出来不出来のムラも大きいような気がします)、お懐かしや、アレックス・ニーニョも描いている。
 他にも一枚絵で、ニール・アダムス、ジェフリー・ジョーンズ、エステバン・マロート……と、ツルモトルーム版『スターログ』の愛読者にはタマラナイ名前が並びます(笑)

 2巻では、やはり相変わらずジョン・ブシェマ+アルフレッド・アルカラが絶好調で、しかも嬉しいことに本の8割方はこのコンビの作画。
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ニール・アダムス+ザ・トライブのコンビも見応えあり。
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 3巻では、上でちょっと苦言を呈してしまったバリー・ウィンザー・スミスが、今度は本領発揮で素晴らしい作画を。
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太目の線でコントラストを効かせた、アーニー・チャンも良い。
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一枚絵だけど、1巻で既出のジェス・ジョドロマンの再登場も嬉しいところ。
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 というわけで、興味のある方は、まず1巻を入手してみることをオススメします。それが気に入ったら、2巻3巻も気に入ること間違いなし。
“The Savage Sword of Conan vol.1” (amazon.co.jp)
“The Savege Sword of Conan vol.2” (amazon.co.jp)
“The Savage Sword of Conan vol.3” (amazon.co.jp)
(何故かアマゾンでは3巻の書影が違っている……)
 ただ、ひとつだけ惜しいのは、当時のカバー画がモノクロで収録されているところ。いちおう、表紙と裏表紙に一点ずつカラーでも掲載されているんだけれど、せっかくなら全部カラーで見たかった。
 あ〜あ、画集の紹介のときに紹介した、お気に入りのアール・ノーレムの表紙絵なんか見てると、特にそう思っちゃうんだよなぁ……残念。

“Conan: The Ultimate Guide to the World’s Most Savage Barbarian”

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“Conan: The Ultimate Guide to the World’s Most Savage Barbarian”

先日ここで “Conan, The Phenomenon: The Legacy of Robert E. Howard’s Fantasy Icon”という、ロバート・E・ハワードが生み出した「蛮人コナン」の図像的イメージを、その誕生から現在に至るまで辿った画集を紹介しましたが、最近また、それとは別の切り口のコナン本を入手したので、そのご紹介。
 どんな内容の本なのかというと、まず、日本でも発売されているような、歴史物のムック本を想像してください。『ビジュアル図解・××史』みたいな、地図や写真、出土品や想像図なんかをタップリ使って、テキストでそれを補足する……みたいなタイプの大判本。
 そんな感じで、ハイボリア時代と蛮人コナンの生涯を、編年体で解説した、フルカラー&ハードカバーの大判本です。

 トッド・マクファーレンによる序文に続き、「ハイボリア時代とは」「地図」「主な神々」なんつー、ファンタジー設定好きには嬉しくなっちゃうような導入を経て、いよいよコナンの一代記が、「キンメリア時代」「盗賊時代」「傭兵時代」「黒海岸時代」などなど綴られていきます。で、そこで出てくるイベントやキャラクターなどが、後述するような様々な図版で紹介されていく……ってな構成。
 資料性という意味では、こういったコナンの物語を年代記的に体系化するという行為そのものが、ハワードの死後に別の作家によって行われた、いわば二次創作とも言えるような行為なので、果たしてこういった内容の本に、どれほどの正当性があるかどうかは疑問です。
 しかしまあ、そういった原理主義的な考え方はともかく、これは、一人の作家が生み出したキャラクターが時と共に一人歩きを始め、その結果生まれたキャラクター・ブックだと考えればいいでしょう。
 アメコミなんかが好例ですが、こういった、キャラクターを軸として、そこにある種のファン心理が収束していき、結果として個人の創作力を越えた広大なユニバースが形成されていくというのは、創作の一つの姿や可能性として、作家としてもかなり興味深いものがありますね。

 さて、コナンやハイボリア時代ってのは架空のものですから、もちろん遺跡だの出土品だのがあるわけじゃない。
 しかし、そこはそこ、1930年代初頭にハワードの筆によって誕生して以来、様々な作家とメディアに受け継がれながら、現在にいたるまで長い歴史のあるコナンのことですから、ヴィジュアル資料は多岐豊富なわけです。この本では、小説版の表紙絵からアメコミ版の決めゴマ、アンティーク調の創作地図からゲーム版の美術設定ボードと思しき図像まで、古今の様々な作家による様々なコナン像が、これでもかこれでもかってくらい、ふんだんに収録されております。その豊富さといったら、私も初めて見るような絵ばっかり。
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 ただ、純粋な画集として楽しむには、図版の作者のクレジットが明確ではなかったり、レイアウト効果重視でトリミングや切り抜き版を多用していたり……と、難点もなきにしはあらず。
 しかし、それでもこの膨大な図版枚数と、それらをまとめて見る機会の少なさという点を考えると、そういった難点も相殺して余りあるという印象。参考にアップしたサンプル画像をご覧頂ければ判りますが、全ページこんな感じで、それが160ページ以上続くんですから、満足度はかなり高い。

 また、画集的な意味で、特に個人的に嬉しかったのは、収録作家陣の豊富さ。カバー絵を描いている、私も大好きなアレックス・ロスから始まって、もちろんフランク・フラゼッタやボリス・バレジョーなんて有名どころもあるんですけど、それより今まであまり見る機会のなかった、アダルト・アメコミ版のカラー表紙絵の方が、扱いも大きく多数収録されていること。
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 クレジットがないので良くは判りませんが、私の判ったところでいうと、前にここで紹介したことのある、男性向けパルプ雑誌の表紙絵とかも描いていたイラストレーター、アール・ノーレムの描くコナンなんか、実にヨロシイですな。サンプル画像にある、怪物に組み伏せられているヤツとか、手鎖で女の上に立っているヤツとかがそうです。

 そんなわけで、前回のコナン本に引き続き、これまたマッチョ絵好きにはオススメできる画集でした。
“Conan: The Ultimate Guide to the World’s Most Savage Barbarian” (amazon.co.jp)

『トロイ ディレクターズ・カット』


『トロイ ディレクターズ・カット』(2007)ウォルフガング・ペーターゼン
“Troy (2007 version)” (2007) Wolfgang Petersen

 2004年に公開された、ウォルフガング・ペーターゼンの映画『トロイ』が、尺が30分ほど長くなったディレクターズ・カット版になって発売されたので、ホクホク喜んで買って参りました。
 結論から先に申しますと、オリジナルの劇場公開版が好きな方だったら、このディレクターズ・カット版は必見。劇場公開版がディテール・アップされていて、味わいも深みも迫力も増しています。
 でも、オリジナル版がそんなに好きではなかったら、このディレクターズ・カット版も、印象自体には大幅な変化はないでしょう。

 未見の方には、このディレクターズ・カット版はオススメ。
 どういった部分が変わっているかというと、まずはキャラクターの細かな掘り下げの部分。キャラクター像自体には大幅な変化はないんですが、シーン自体が新たに増えているものもあり、シーンは同じだがセリフが増えている部分もありで、こういった追加によって、個々のキャラクターの心情やモチベーションなどが、よりクリアで繊細なものになっています。
 もう一つ目立つのは、戦闘シーン絡みの追加。血生臭い場面が増えているのと、それと同時に戦いの哀しさや虚無感も、より強調されています。特に、導入部に追加された犬のシーンと、クライマックスのトロイ落城の追加シーンは秀逸。これらの追加によって、この悲劇の持つ「人の世の哀しさ」を、オリジナル版より更に巨視的な視点から俯瞰するような、そんな味わいが加わっています。

 ちょいとマニアックなファン視点でいくと、音楽の変更も見逃せないところ。
 というのはこの映画、公開直前になって、音楽のガブリエル・ヤレドが降ろされてしまい、ジェイムス・ホーナーへと変わったという経緯があるんですが、今回のディレクターズ・カット版では、エンド・クレジットに追加音楽としてヤレドの名前があります。ヤレド好きの私としては、この復活劇は嬉しいサプライズ。
 もちろん、メインに使用されているのはホーナーのスコアなんですが、例えばエンド・クレジットで使われていた、ジョシュ・グローバンの歌う「リメンバー・ミー」が、今回のディレクターズ・カット版では未使用だったりして、音楽の使われ方が全体的にちょっと渋めになっている印象があります。
 ケレン味が減った分、物足りなさを感じる方もいそうではありますが、個人的にはオリジナルのホーナーの音楽に、悪くはないんだけどちょっと大味な感じを受けていたので、この変更は好印象でした。
『トロイ ディレクターズ・カット』(amazon.co.jp)

 さて、ついでにオリジナル版とディレクターズ・カット版に共通する、映画自体の印象なんぞについて、改めて少し書いてみましょう。
 まず、この映画に対する評価が決定的に分かれる点として、『イーリアス』およびトロイア戦争に絡む伝承を、この映画がかなり大胆にアレンジしていることについて、それを是とするか非とするかが挙げられます。で、私個人としては「これはこれでアリ」という是の立場です。
 というのも、トロイア戦争の話というのは、それを基に娯楽映画を作ろうとすると、モノガタリの幕切れをどうするか、そのトリートメントがかなり難しいと思うんですよ。で、トロイア戦争を描いた映画を見るにあたっては、それをどうクリアするかというのも、個人的に興味が惹かれるポイントだったりするわけです。

 以下、ちょっと『トロイ』及び他のトロイア戦争ものの映画に関するネタバレ含みます。お嫌な方は、この段は飛ばしてください。

 まず、ロバート・ワイズの『トロイのヘレン(DVD題「ヘレン・オブ・トロイ」)』では、パリスとヘレネーの恋を軸に描きつつ、ラストでヘレネーはメネラーオスの元に戻る。これは伝承通りといえばそうなんですが、娯楽映画としては、何となく終わり方がスッキリしないというか、いまいち釈然としない感が残ります。見所は多々ありますが、映画全体としては、あまり成功しているとは思えないというのが正直な印象。
 TVムービーの『トロイ・ザ・ウォーズ』でも、やはりヘレネーとパリスの恋を軸にしており、二人の末路に関しては、やはり同種のスッキリしない感があります。。ただしこの作品では、イーピゲネイアの生け贄のエピソードを入れることによってアガメムノーンを悪役にし、モノガタリの最後に、クリュタイムネストラによるアガメムノーンの殺害を持ってくることでカタルシスを作り、娯楽作品的なバランスを保っています。
 イタリア史劇の『大城砦』では、映画の冒頭が、ヘクトールの死体を引きずり回すアキレウスのシーンで始まり、主人公はそれを見守るアエネイアースです。モノガタリはトロイアの落城で終わりますが、そこから脱出するアエネイアースと、そこに「この一行が後のローマの始祖となる」というナレーションをかぶせることによって、悲劇でありながらも前向きな、娯楽映画としては実に良いバランスのエンディングになっている。
 トロイア戦争ものというと、その後日譚であるエウリピデスのギリシャ悲劇を、マイケル・カコヤニス監督が映画化した『トロイアの女』なんかも忘れがたいですが、これはいわゆる娯楽映画ではないので、そういったトリートメントは見られません。また、逆に言うと、こういった原典の忠実な映像化というスタンスでは、ハリウッド的なビッグ・バジェットによる映像化は不可能でしょう。

 というわけで、ふんだんに金を掛けて作られる大作娯楽映画の場合、原典に忠実であれと期待すること自体が、そもそも無理のある話なんですな。その無理を承知の上で、ではいかにトリートメントを加えて、映像作品としての魅力を見せているか、というところに、私としては最も興味が惹かれるわけです。

『トロイ』の初見時には、憎々しく描かれたアガメムノーンを見て、ひゃー、どうすんのよ、こいつが最後まで生きてたら、観客は納得しないんじゃないの、とか、しかも、イーピゲネイアもクリュタイムネストラもカッサンドラも出てこないし、どーやってオチをつけるんだろう、と、他人事(笑)ながら心配になっちゃったんですが、メネラーオスが殺された時点で、覚悟が決まった……というか、もう何が出ても驚かない心構えはできました(笑)。
 つまり、この映画の場合は、とにかく娯楽作品的なフォーマットが最重要視されている。エピソードの取捨択一も、そこが基準になっているので、巧拙はともかくブレはない。正直なところ、アキレウスの死のタイミングが変更されたり、木馬を城内に入れるに至るくだりのあたりとか、エピソード的な破綻や無理がないとは言えないんだけれど、それでも苦労と工夫の跡はしのばれる。
 そんなこんなで、この映画における大胆なアレンジは、これはこれでアリだというのが、私個人の評価。
 その他の魅力としては、モノガタリの中に、戦いとは、名声とは、神とは、信仰とは、といった様々なテーマを盛り込まれているところとか、全体が群像劇として描かれていることなどがあります。
 特に後者に関しては、当代の人気俳優、期待の新人、往年の名優、出ると嬉しいバイプレイヤー、といったキャスティングの妙味も加わって、実に充実していました。キャラクターは良く立っているし、皆さん存在感や魅力もタップリ。
 アクション・スペクタクルとしても、モブやセットの物量的なスケール感はすごいし、かと思えば、演舞を思わせるような美しくてシャープな剣劇もある。古代幻想としてのトロイア戦争の視覚化という点では、文句なしの素晴らしさ。
 美術面の検討も素晴らしくて、特に衣装は素晴らしい。衣装デザインのボブ・リングウッドは、かつてジョン・ブアマンの『エクスカリバー』とデヴィッド・リンチの『砂の惑星』で、感動して名前を覚えた方だったんですが、古代的な質感を損なわず、それでいて優美さも持ち合わせているこの映画の衣装デザインは、本当に好き。
 木馬も良かった。どっから材料を調達するんだというツッコミどころを、見事な発想でクリアしつつ、同時に造形的にも美しいのが素晴らしい。映画に登場した歴代の「トロイの木馬」の中では、問答無用で一等賞。
 あと、『300』の登場で、ちょっと印象は霞んじゃったけど、マッチョ映画としても見応えあります(笑)。ネイサン・ジョーンズは、この映画で名前を覚えたんだっけ(笑)。

画集”Conan, The Phenomenon”

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“Conan, The Phenomenon: The Legacy of Robert E. Howard’s Fantasy Icon”
 ロバート・E・ハワードの「蛮人コナン」の図像的イメージを、その誕生から現在に至るまで辿った大判画集。
 版元は、現在フルカラーでコナンのコミックスを刊行しているダークホース社。おそらく、自社コミックスのPR的な意味もあるのでしょう。

 ハワードのコナンといえば、ヒロイック・ファンタジーの祖でもあり、そのイメージは「裸で大剣を振り回す、マッチョの野蛮人」という感じですが、そんなイメージがいかにして確立し、そして定着していくかを、豊富なカラー図版で追うことができるので、なかなか面白く見応えのある画集でした。
 例えば、初出時の1930年代の”Weird Tales”誌では、マーガレット・ブランデージによるカバー画の中に、コナンの姿を見ることができるんですが、現在のコナンのイメージとは全く異なっています。
 ブランデージの絵の特徴は、女性的なしなやかなエロティシズムと怪奇性にあるので、例え上半身裸で剣を振り回している男を描いても、粗野とか野蛮とかいったイメージとはほど遠いもので、描かれたコナンも、まるでルドルフ・ヴァレンティノか何かのように見える。ブランデージの作風に、ハワードのそれが合致していないんでしょうな。これがハワードではなく「ジョイリーのジレル」のC・L・ムーアだったら、イメージ的にピッタンコなんですけどね。

 で、そうなるとブランデージよりも男性的な作風で、エドガー・ライス・バロウズ作品の挿画などで有名なJ・アレン・セント・ジョンや、その一世代後のロイ・G・クレンケルが描くコナンなんてのを見たくなるんですが、残念ながらそういうものは存在していないのか、この画集には収録されていませんでした。
 ただ、セント・アレン・ジョンに関しては、前述の”Weird Tales”誌のカバー絵が一点掲載されています。残念ながらハワードではなく、『火星の黄金仮面』で知られる、バロウズ・フォロワーのO・A・クラインが書いた、金星もののカバー・ストーリーらしいのですが、コナンというアイコンを考えるにあたっては、図像学的な共通点もあって興味深いです。
 この、ハワードとバロウズという比較は、作品の内容的な共通点はもとより、図像学的には、アメリカではフランク・フラゼッタが、日本では武部本一郎や柳柊二が、いずれも双方の作品の挿画で人気を博しているので、コナンからもうひとつ幅を拡げて、「空想世界で戦う裸のマッチョ」の図像学を考えると、いろいろと面白い発見がありそうな気もします。

 さて画集では、それから時代が下って、50年代にノーム・プレスから出版された、コナンの単行本のカバー画も見ることができます。
 これらは、エムシュ(エド・エムシュウィラー)やフランク・ケリー・フリース、あと私の知らないところで、ジョン・フォルテやデヴィド・カイルという作家による絵なんですが、興味深いことのこれらのカバー画からは、「野蛮人」といったニュアンスは全く感じられず、絵の内容やタイポグラフィなどのデザインも含めて、まるで古代ローマ帝国を舞台にした歴史小説か、あるいはアーサー王伝説か何かのような書物に見えるという点。
 前述したバロウズとの共通要素も皆無と言って良く、キャラクターも裸のマッチョですらなく、前述したような普通のコスチューム・プレイ(念のため、これ、いわゆる「コスプレ」のことじゃないからね!)風に描かれているんですな。作風はともかく、図像学的な共通点だけに絞れば、まだ30年代のブランデージの描くコナンの方が、現行のイメージに近いというのが面白い。
 ただ、このノーム・プレス版の中にも、50年代末期に、ハワードではなくビョルン・ニューベリイ&L・スプレイグ・ディ・キャンプ名義によるコナンの単行本で、ウォーリー・ウッドがカバー画を描いているものが載っています。
 で、これが再びバロウズ的なイメージへの再接近を見せていて、しかも顔を顰めて歯をむき出しているコナンの表情など、バロウズ的なものには余り見られない「野蛮」というニュアンスがかいま見えているのが興味深い。この後に来る、フラゼッタによってイメージが確立するに至る、その橋渡し的な感じがします。

 さて、この後60年代になって、ランサー版の単行本カバーで、いよいよフランク・フラゼッタが登場します。で、やはりこれが、現在に至るコナンのイメージを決定し、しかも、オリジンであると同時に完成形でもあるというのが、以降の作家によるコナン像を見ていくと、良く分かります。
 60年代のランサー版では、他にボリス・バレジョーや、私の知らないところでジョン・ドゥイロという人のカバー画も載っています。ドゥイロの方は図版が小さいこともあって良く分からないんですが、この時期のバレジョーに関しては、完全にフラゼッタのフォロワーと言って良いでしょう。後にバレジョーは、フォトリアリズムという点ではフラゼッタを越える技術力を生かし、同傾向の作風のジュリー・ベルと組んで、共にファンタジー・アートのマエストロになりますが、その作品は物語絵というよりはピンナップ的な世界であり、ハワード的や、あるいはバロウズ的なものといったニュアンスからは遠くなっていきます。
 70年代のアメコミ版も、80年代から90年代のアーノルド・シュワルツェネッガーやラルフ・モーラーによる映画やテレビ版も、いずれもイメージの源泉は、フラゼッタの描くコナンにある。
 アメコミ版では、バリー・ウィンザー・スミスが、後にラファエロ前派やアールヌーボー絵画への接近によって、フラゼッタとは異なった味付けを見せますが、それらはあくまでも描画法や装飾性といった表層レベルのもので、コナンというイコンの造形そのものに関しては、やはりフラゼッタ直下のものにある。
 同時期のものでは、ケン・ケリーによるイラストレーションも画集には収録されていますが、これも完全にフラゼッタを踏襲したものになっています。

 ここで興味深いのは、コナンを描くにあたって、フラゼッタとケリーの作品は酷似しているがゆえに、その二つを見比べると、フラゼッタの作品には他の作家にはない、イラストレーション的には特異と言ってもいいような、ある特徴があることが判ります。
 イラストレーションというものは、基本的に「絵解き」ですから、特に物語絵のい場合は、そこには「説明」の要素が不可欠です。ケリーの絵を見ると、「なぜコナンがそういうポーズをとっているのか」といった、物語的な流れがはっきりと読み取れる。しかし、フラゼッタには、意外なほどそれがない。ある一瞬を切り取ったタブローとして、迫力はものすごいんですが、良く見るとキャラクターのポーが不可解だったりする。
 例えば、有名な赤マントのゴリラとコナンが戦っている絵を見ると、コナンのポーズもゴリラのポーズも、鑑賞者にとって「分かりやすい」決定的瞬間とは異なっている。仮に自分がこういうシーンを描くとすると、まず最初に思い浮かぶのは、コナンが剣を振りかざし、いまにもゴリラに斬りつけようとするという瞬間のポーズでしょう。しかしフラゼッタの絵では、剣を持った腕は水平に真っ直ぐ後ろへと伸びている。となると、これは斬りつけた剣を後ろに引いた、その瞬間のようにも思えますが、ゴリラ側のリアクションがそれに合致しない。ここには「これがこうなってああなりました」といった物語的な説明要素が、絵解きとしてのイラストレーションにしては、実に希薄なんですな。こういった特徴は、前述のケリーや、あるいは現在の作家の作品には、全く見られない。他の作家は、皆、イラストレーション的にもっと「明解」な画面構成にしている。

 では、フラゼッタの絵の、こういった特徴は欠点なのかというと、それが全く違うというのが、また面白い。フラゼッタの作品で重視されているのは、そういう「説明」ではなく、激しい動きを見せる複数の人体が絡み合い、それが朧な背景と共に、もやもやと画面にとけ込みながら、全部が一体化して巨大なうねりとなり、強烈なマッスとムーヴマンを醸し出すという、その「表現」そのものにあるからです。ある意味でミケランジェロ的とも言える、この表現力に、鑑賞者は圧倒される。
 こういったファインアート的な特徴が、フラゼッタを他の同傾向のファンタジー・アーティストとは一線を画した、孤高のマエストロにしているのではないか、なんてことを、この画集を見ながら感じました。

 話が逸れましたが、80年代末から現在に至る、様々な作家によるコナン像を見ていくと、キャラクターの造形はフラゼッタの流れを継承している感が強いとはいえ、その中にある種の流行のようなものや、あるいは個々の作家による個性の打ち出し方の違いなどが見えてきて、これまたなかなか面白い。
 流行という点では、フラゼッタやアメコミ版、映画版で見られた、革パン一丁というコスチュームは、現在では廃れています。どの作家の描くコナンも、チュニック様の衣で上半身も覆っていたり、あるいは上半身は裸でも、ボトムは鎖帷子やキルトのような長めの腰布であったりして、ボディービル的なニュアンスの強いかつてコスチュームよりは、だいぶ歴史物っぽいリアリズムを踏まえた傾向になっている。そして、そういったアレンジを見ていると、これはケルト風だな、とか、こっちはネイティブ・アメリカン風だな、とかいう感じで、それぞれのイメージ・ソースが分かりやすいのも特徴です。

 個々の作家の個性で言えば、ゲイリー・ジャンニの描く作品は、アラビアン・ナイトのようなオリエンタル世界への接近を見せ、画面構成や描画法にも、レオン・ベリー、エドウィン・ロード・ウィークス、グスタフ・バウエルンファイントといった、19世紀末のオリエンタリズム絵画からの影響が色濃いように見えます。グレゴリー・マンチェスの作品は、ネイティブ・アメリカン風のニュアンスが見られるし、マッスとしての筋肉のリアリズムにこだわりながら、それを粗めの筆致で的確に描くタッチは、N・C・ワイエスやハワード・パイルあたりの、20世紀初頭のアメリカン・リアリズムのイラストレーターたちとの共通点が伺われます。
 他にも、マイク・ミニョーラの描くコナンを見ると、ミニョーラは何を描いてもミニョーラだなぁと思ったり、前述したフルカラーのコミックス版の、ケイリー・ノード&デイヴ・スチュワートは、正直あんまり好きじゃなかったんですが、画集に収録されているカラーリング前のモノクロの鉛筆ドローイングを見ると、おやおや着色前の段階だとけっこう好きだぞとか思ったり。

 ただ、全体的な傾向としては、”Weird Tales”から始まりフラゼッタの頃まではまだ残っていた、怪奇というかホラーというか、そういったムードは、現在では完全に消えてしまっています。
 それと同時に、朦朧とした世界の中での「個」を描いたヒロイック・ファンタジーから、細部まで作り込まれた明解な世界の中での英雄の活躍というエピック・ファンタジー、あるいはハイ・ファンタジー的な世界への接近を見せているように感じられます。見返しに使われている絵なんかは、ハワードのコナンというよりも、まるで『指輪物語』のヘルム峡谷の戦いを描いたものみたいです。

 テキストの方はちゃんと読んでいないんですが、序文はマイケル・ムアコック(……ん? あんた、アンチコナンじゃなかったっけ?)。ハワードのバイオグラフィーも、豊富な写真入りで載っています。上半身裸になって、銃やナイフを構えていたり、友人と剣を交わしているコスプレ写真(こっちは現在日本でいうところの「コスプレ」の意です)なんてのもある。
 という感じで、ハワードのファンやヒロイック・ファンタジー好きにはもとより、ハワードのコナンは読んだことなくても、マッチョ絵が好きな人ならたっぷり楽しめる充実した画集です。オススメ。
amazon.co.jpで購入

『マラソンの戦い』『大城砦』『怪傑白魔』他のサントラCD

 以前にも何度か紹介したことのある、Digitmoviesの復刻サントラシリーズから、スティーヴ・リーヴス主演映画のサントラ盤CDが幾つかリリースされたので、まとめてご紹介。
Cd_battaglia_maratona“La Battaglia di Maratona (O.S.T.)” by Roberto Nicolosi
 The Italian Peplum Soundtrack Anthologyシリーズ第七弾、『マラソンの戦い』のサントラ。音楽はロベルト・ニコロージ。
 タイトル・バックで流れる、あの優美なテーマ曲が入っているだけでも「買い!」でありますが、他にも、キャッチーでメロディーが良く立った曲が多く、映画を離れて単独した音楽として聴いても、なかなか粒ぞろいの好盤です。
 ロマンティックな雰囲気の曲は、流麗なストリングスや木管で、しっとりと、時にコケティッシュな表情も交えて、実にウットリと聴かせてくれます。舞踏のシーンで流れていた、フィンガー・シンバルや縦笛や竪琴を使った、ちょいと異教的なムードの曲も、幻想の古代ギリシャといった雰囲気が良く出ている佳曲。
 戦闘シーンの曲では、吹き鳴らされる金管や、ストリングスのスタッカートで責めてきますが、いささかお行儀が良すぎるというか、悪くはないんだけど、エピック的なスケール感や高揚感には、ちと欠ける感あり。
『マラソンの戦い』サントラCD
Cd_guerra_di_troia“La Guerra di Troia / La Leggenda di Einea (O.S.T.)” by Giovanni Fusco
 The Italian Peplum Soundtrack Anthologyシリーズ第六弾、『大城砦』と、その続編”La Leggenda di Einea” (a.k.a. “The Avenger”, “War of the Trojans”)をカップリングした二枚組。音楽はジョヴァンニ・フスコ。一般的には、ミケランジェロ・アントニオーニ監督とのコンビで知られている作曲家らしいです。
『大城砦』の方は、最初のファンファーレは印象に残るんだけれど、全体的にはちょっと地味な感じです。とはいえ、戦闘シーンなどでかかる、低音のストリングスのスタッカートや、鳴り物で素早くリズムを刻みながら、そこに高らかに金管がかぶる曲なんかは、スピード感があってなかなかカッコいいです。不協和音を多用しているせいか、古代っぽいザラっとしたニュアンスが多いのも佳良。
 もい一枚の”La Leggenda di Einea”は、映画自体の出来がアレなわりには、音楽の方は大健闘。ひっそりとした打楽器をバックに、哀感を帯びたメロディーを木管が密やかに奏でているところに、不意に異教的な金管のファンファーレが登場するテーマ曲なんか、かなり好きなテイスト。
 全体的には、地味といえば地味なんですが、渋いながらもじっくり聴かせてくれる曲が多い。低音のストリングスをメインに、エモーションを抑えながらじわじわじわじわ展開して、そこにパッと金管が切り込むという曲調が多し。和声のせいか、ちょいとストラビンスキーみたいな感じもあります。ああ、あとレナード・ローゼンマンっぽい感じもするなぁ。この映画に関しては、私は映画よりサントラの方が好き(笑)。
『大城砦/La Leggenda di Einea』サントラCD
Cd_agi_murad“Agi Murad il Diavolo Bianco / Ester e il Re / Gli Invasori” by Roberto Nicolosi & Angelo F. Lavagnino
 これはItarian Peplumシリーズではなく、Mario Bava Original Soundtracks Anthologyシリーズの第六弾。リーヴス主演のリッカルド・フレーダ監督作『怪傑白魔』(マリオ・バーヴァは撮影監督)に、『ペルシャ大王』(未見)と『バイキングの復讐』(このあいだ米盤DVDを買ったんだけど、まだ見てまへん……)をカップリングした二枚組。音楽は『マラソンの戦い』と同じく、ロベルト・ニコロージ。『ペルシャ大王』のみ、『ポンペイ最後の日』のアンジェロ・フランチェスコ・ラヴァニーノが、一緒にクレジットされています。
『怪傑白魔』は、映画が近世ロシアを舞台にした痛快冒険アクション作品なので、音楽も同様に、時に勇ましく時に軽快に、でも基本は明るく楽しく……ってな塩梅。キャッチーなメロディーで弾むような曲調が多いんですけど、明朗さが前面に出ているせいか、ちょいと長閑な印象もあり。
 ちょいとビックリしちゃうのは、民族音楽を模したと思しき一曲がありまして、コサック・ダンスなのか、テンポの速いバラライカ(?)にドンチャン打楽器がかぶる曲調なんですが、これが何だかやけにガチャガチャしていて、民族音楽っつーよりは、アヴァン・ポップかトイ・ポップみたいに聞こえる(笑)。かなり「ヘン」な曲です(笑)。
『ペルシャ大王』の方は、ファンファーレとティンパニによる雄大なテーマ曲、木管とストリングスによるエキゾでロマンティックなスロー・ナンバー……と、さながらこのテの映画の劇伴の見本市。『マラソンの戦い』同様、ロマンティックな雰囲気は、かなり聴かせてくれます。あと、イマ・スマックみたいな女声スキャット入りのエキゾチカ・ナンバーが入っていたのが、私的に収穫。
『バイキングの復讐』は、もうちょいエピック寄りな感じですが、あんまり印象に残らず、それよりやっぱり、たまに入るロマンティックな曲の方に耳を奪われる。ロベルト・ニコロージさんは、ロマンティックで優美な曲では、実に良いお仕事をなさるなぁ。ピアノとストリングスによる、ひたすらスウィートな「愛のテーマ」は、これがバイキングの映画だと思うと、ちょっと「ん?」って感じもするんですが、それを別にすれば、とってもキレイなムード・ミュージック。
『怪傑白魔/ペルシャ大王/バイキングの復讐』サントラCD