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“Jodhaa Akbar”

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“Jodhaa Akbar” (2008) Ashutosh Gowariker

 またまたインド映画です。
 16世紀のムガール帝国の第三代皇帝、ジャラールッディーン・ムハンマド・アクバルの、若き日の愛と戦いを描いた一大スペクタクル史劇。監督は、『ラガーン』のアシュトーシュ・ゴーワリケール。

 若くして即位したジャラールッディーンは、重臣の傀儡的な存在として周囲の王国を征服していくが、やがて長じて実権を取り戻し、政略結婚としてラージプートの王族の姫、ジョダーを娶ることになる。
 しかし、ムスリム(イスラム教徒)のジャラールッディーンに対して、ヒンドゥー教徒ジョダーは、婚姻にあたって、「改宗を要求しないこと」と「王宮内にヒンドゥー教の祭壇を作ること」という、二つの条件を出す。ジョダーの父王を含めて、周囲はその条件に動揺するが、ジャラールッディーンはそれを受け入れる。
 こうしてジョダーは、王妃としてアーグラー・フォートの王宮に入るが、夫となったジャラールッディーンには、まだ心を開いていなかった。また王宮には、ヒンドゥー教の王妃を快く思わない勢力や、税金を横領する悪徳一味などもいた。
 やがて、ジャラールッディーンとジョダーは、次第に互いに心を開いていくが、ジャラールッディーンの乳母は、王を息子のように愛するあまり、その間に入り込んだ王妃を快く思わず、何とか二人の仲を裂いて王妃を追放しようと画策する。いっぽう砦の外では、ジャラールッディーンの義弟が兄の地位を狙い、ジョダーの幼なじみの従兄も巻き込んで謀略を巡らす。
 果たして、ジャラールッディーンとジョダーの運命やいかに?

 ってのが、おおまかな内容です。
 いちおう歴史劇の形をとっていますが、監督のインタビューなどを聞いていると、実のところはフィクションの要素も多いようです。特に、王妃ジョダーに関しては、映画に描かれている姿は、かなり民間伝承的なものらしい。
 また、叙事のスタイルも、歴史を俯瞰するタイプではなく、メインのフォーカスはジャラールッディーンとジョダーのロマンスに置かれている。そういう意味では、ハリウッド史劇で例えると、ジョセフ・L・マンキウィッツの『クレオパトラ』とか、キング・ヴィダーの『ソロモンとシバの女王』なんかに感触が近い。
 ただ、それら二つがいずれも、ロマンスの部分と歴史的叙事の部分に乖離を見せていたのに対して、この”Jodhaa Akbar”では、ヒーローとヒロインの関係性の変化が、そのまま政治的なパワーゲームに反映されていくという構造なので、作劇としてはより自然で楽しめるものになっています。
 まあ、モノガタリとしては、すこぶるつきで面白い。ジョダーと従兄の仄かな恋とか、ジャラールッディーンの人知れぬ悩みとか、乳母の盲愛とか、権力欲と金銭欲に駆られた悪役どもとか、様々な要素と様々なキャラクターが絡み合い、一度見始めたら先が気になって止まらない系の大河ドラマになっています。
 エピソードや見せ場も、一大戦闘シーンもあれば決闘もあり、華麗な歌舞もあればドロドロした女の戦いもあり、スペクタクル史劇とミュージカル映画とロマンス映画と昼メロがゴチャマゼになったような、インド映画ならではのテンコモリの娯楽要素が、めいっぱい楽しめます。
 加えて、テーマとなっている宗教の違いを超えた人々の和合というものは、インド国内の問題はもちろんのこと、今日の世界全体が抱えている命題の一つでもあるので、そういった同時代性のある制作姿勢にも好感度は大。

 画面の物量とスケール感は、とにかく圧倒されるの一言。
 出てくる宮殿や砦の数々、モブシーンの人の多さ、衣装やインテリアで見られる極彩色の色彩美、何から何まで、ひたすらゴージャスで贅沢。まあ、どのくらいスゴいかというのは、例によって公式サイトをご覧あれ(笑)。
 中でも特筆したいのは、ジャラールッディーンがそれまでの征服者としてだけではなく、統治者としても民衆から受け入れられ、「アクバル(偉大なる)」の尊称を送られ、人々から讃えられる、”Azeem-O-Shaan Shahenshah”という超弩級の一大群舞。ここは本当にスゴい! イマドキのハリウッド映画では全く見られなくなった、ハレの祝祭空間としての一大スペクタクルが、8分以上に渡って、これでもかこれでもかと繰り広げられます。
 いや〜、前に『ナルニア国物語/第1章:ライオンと魔女』のときにも書きましたが、今回のこれは、マンキウィッツ版『クレオパトラ』のローマ入場シーン以来の満足感。見ていて、感激で涙が出ちゃいました(笑)。自宅のテレビで見てこれなんだから、もし劇場で見ていたら失禁していたかも(笑)。
 ロマンティックなシーンも、総じて良い出来。ウットリさせるという点では、文句なしの美しさ。例によって、キスシーンすらないんですが、二人が初めて真の夫婦となった場面での、詩的な歌詞のミュージカル・シーンなんか、下手なベッドシーンなんかよりよっぽどステキです。
 一方、戦闘シーンなんかは、正直あまり良い出来ではないです。
 物量は充分だし、CGIもそこそここなれているんですが、演出が近年のハリウッド製スペクタクル的な類型でしかなく、しかも決して上手くはない。一対一の剣戟も、殺陣が悪いのかカット割りが悪いのか、迫力にも緊張感にも欠けて、どうにもさまにならない。
 風景のスケール感とか、たっぷり引きのある構図を埋め尽くすモブとか、戦象の大群とか、鎧兜の美しいデザインとか、魅力的な要素はテンコモリなのに、この演出の締まらなさは、何とも惜しい限り。ただ、戦闘シーンで「大砲に装填された砲弾の一人称カメラ」ってのが出てきまして、ここだけは往年のダリオ・アルジェントの発想みたいで、ちょっと愉快でした(笑)。

 役者は、ジャラールッディーン王役にリティック・ローシャン。我が家では、先日『アルターフ 復讐の名のもとに』を見て以来、「鼻」というニックネームで親しまれていますが(笑)、今回は口ヒゲ付きということもあって、私としては充分にカッコよく感じられました(笑)。
 演技の方も、大帝国の皇帝らしい力強い威厳と、恋する青年的なナイーブな側面を、共に良く好演していて二重丸。エピックのヒーローとしては、文句なしのキャラクターを見せてくれます。身体一つで象と闘うシーンでは、ノリが完全にソード&サンダル映画と同じだったのも、個人的には嬉しかった(笑)。
 あと、この方、かなりのマッチョなんですが、今回は心を開かない妻の気を惹くために、わざわざ妻の部屋の前で上半身裸になって剣技(……なんですけど、やってることはボディービルのポージングみたいなもん)をするという、男心が可愛らしいシーンがあります(笑)。ここは、男の肉体美の見せ場として、マッチョ好きなら見て損はなし。もう一人、ジャラールッディーンの義弟役の男優さんも、かなりのマッチョ。入浴シーンで、目が釘付けになりました(笑)。
 ヒロインのジョダーは、アイシュワリヤ・ラーイ。”Devdas”で、その美貌の虜になって以来、私も相棒も大ファンの女優さん。相変わらずお美しいけれど、ちょっとお腹のあたりに、お肉がついたかな?
 演技的には、美しさ以外の見所は、あまりなかったような。剣戟もあるんだけれど、前述したように、この映画のアクション・シーンは、全般的にあまり良くないので……。ただ、キャラクターとしては良く立っていて、王様との恋路を応援して、幸せになって欲しいと願う気持ちには、充分させてくれます。
 クレジットでアイシュワリヤ・ラーイ・バッチャンとなっていたので、「おや、結婚したの?」とビックリしたんですが、調べてみたらアミターブ・バッチャンの息子と結婚したんですね。
 アイシュワリヤ・ラーイといえば、去年フランスに行ったとき、飛行機の中で彼女が主演している”The Mistress of Spices”という、ラッセ・ハルストレムの『ショコラ』のスパイス版みたいな映画を見まして、これは英米合作映画だし、ひょっとしたら単館上映とかがあるかも……と、期待してたんですけど、けっきょく公開もソフト化もされずじまいみたい。残念!
 音楽は、A・R・ラフマーン。前述の”Azeem-O-Shaan Shahenshah”を筆頭に、歌曲では相変わらず良い仕事をしています。変わったところでは、カッワーリのヒンディー・ポップ版といった趣の曲(映像では旋回舞踏も出てきます)なんかもあり。
 劇伴の方は、壮大なストリングスや混声コーラスに、ブラスや打楽器のアクセントといった、ハリウッド史劇のパターンと同じタイプで、民族性は意外なほど薄い。まあ、可もなく不可もなしといったところですが、ハリウッド製の方がよほどエキゾチックだというのは、ちょっと面白いですな。

 DVDはNTSC、リージョン・コードはフリー。本編ディスク2枚と特典ディスク1枚の3枚組。
 特典の内容は、監督やスタッフ、キャストなどのインタビュー、削除シーン、予告編、PR映像各種、テキストによる時代背景の解説など。削除シーンで見られる、野に住む賢者のエピソードが、いかにも民間伝承っぽくて面白かった。これ、インド人にはお馴染みの話なのかな?
 ただ、ソフトとしては大きな難点が、一つあります。パッケージはとっても豪華でキレイなんだけど、肝心の中身が……。新作映画のソフトで、シネスコ画面をいまどき非スクィーズで収録って……。画質そのものは決して悪くはないんだけど、解像度が足りないのは何ともしがたい。
 ま、インド映画のDVDでは、こーゆー難点は今に始まったことじゃないけど(笑)。

【追記】後に出たBlu-rayは、前述のDVDに対する不満も全くなく、文句なしの高画質でした。

“Saawariya”

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“Saawariya” (2007) Sanjay Leela Bhansali

 前回に引き続き、今回もインド映画です。
 2002年の”Devdas”で度肝を抜かれ、後追いで99年の『ミモラ 心のままに』を見て、「うむ、これもなかなか……」と感心させられた後、以来、個人的に「注目すべき映画監督の一人」として、頭に名前がインプットされた、サンジャイ・リーラ・バンサーリーの待望の新作。
 モノガタリのベースになっているのは、ドフトエフスキーの『白夜』。
 未読だし、57年のルキノ・ヴィスコンティ版や71年のロベール・ブレッソン版も未見なんですが、いい機会なので、小説は今回読んでみました。そこいらへんに絡めた感想は、最後にまとめて後述します。

【追記】後にヴィスコンティ版を鑑賞したところ、そこからの引用があることが判明。

 舞台は、いつともいずことも知れぬ、時代も場所も定かではない、幻想的な夜の街。
 この架空の街には、ヴェネツィアのようなゴンドラが浮かぶ運河が流れ、モスク、巨大な仏頭、ロンドンのビッグ・ベンのような時計塔、パリにあるような凱旋門、電飾を施されたナイトクラブなどが立ち並び、遠くには煙を噴き上げて蒸気機関車が走る。看板や壁のラクガキに書かれているのは、ヒンディー(デーヴァナガリー文字)だったり、ウルドゥー(アラビア文字)だったり、英語(アルファベット)だったり。
 主人公の青年ラジは、ナイトクラブの歌手として働くために、この街へやってきた異邦人で、未来を信じる無邪気さと、天使のような善良さを持った好青年。その性格は、街頭に立つ娼婦たちの心を捕らえ、孤独な人間嫌いの老婆の心も解きほぐす。
 そんなラジは、雨でもないのに雨傘をさして橋の上に佇む、サキーナという美しい娘と出会う。ラジはサキーナに恋をし、サキーナもラジを友人として受け入れるのだが、実は彼女にはイマーンという恋人がいた。イマーンは、今はこの街を離れているが、サキーナは橋の上でその帰りを待ち続けていたのだ。
 サキーナを諦めきれないラジは、彼女に、イマーンのことはもう忘れて、彼を待つのをやめて自分と一緒になろう、と迫るのだが……。

 ってなストーリーが、幻想的な極上の映像美で綴られていきます。
 まあ、とにかく、その映像美が素晴らしい!
 ロケはいっさいなく、全てがセット撮影で、しかも全てが夜のシーンなんですが、青を基調としたその映像は、最初から最後までひたすら美しいの一言!
 バンサーリー監督は、既に”Devdas”で、トラディショナルなインド文化の美を、この上もなく豪奢で華麗にして、その美しさの極限のような映像美を見せてくれています。次の”Black”(2005)では、”Devdas”とはうって変わって、イギリスを舞台にした、クラシカルではあるもののシンプルでヨーロッパ的なものを、光と影やシンメトリカルな構図を使って、やはり極めて美しく描き出していました。
 そして、今回の”Saawariya”では、今度は自然主義に背を向けて、徹底的な人工美の世界を見せてくれるます。
 まあ、論より証拠、公式サイトで予告編を見てください。見りゃ判りますから(笑)。ホント目の御馳走、美のシャワーを浴びながらの、目眩く2時間22分。
 美術だけではなく、その演出にも目を奪われます。特に、カメラワークの素晴らしさ! ハッタリやインパクトのためではなく、しっかりとした目的を持って滑らかに、しかも美しく動き回るカメラからは、この監督の映像表現における手腕の確かさが、改めて感じられました。
 エモーションの描出などに関しては、これは”Black”のときもそうでしたが、いささか感傷的でベタな部分があります。個人的には、この監督のそれは、マイナス点ではなくオーセンティックな美点だと思っていますが、嫌いな人は嫌いでしょうね。

 ストーリーの方は、原案となっているドフトエフスキーの小説と、基本的な流れは一緒で、結末もテーマも同じです。
 モノガタリの表層だけを見れば、失恋を描いた一種のメロドラマのようなものなんですが、そこで扱われているテーマは、そういったジャンル・フィクションから予想されるような、予定調和的なものではない。恋愛をテーマにしながらも、その主眼となるのは、喜びや涙といった感情のドラマや、成就や破局といった結果のカタルシスではなく、それらの中から浮かびあがる「本質」について、受け手に向けて問いかけることにあります。
 バンサーリ監督は、『ミモラ』でも”Devdas”でも”Black”でも、同様に複雑な愛の諸相を描き、愛の本質に迫ろうとしていましたが、”Saawariya”も基本的には同様です。ただし、『ミモラ』で描かれた愛ゆえの葛藤劇や、”Devdas”の古典的な悲劇、”Black”のプラトニックな絆としての愛と比べると、”Saawariya”の瞬間的な法悦としての愛(詳しくはネタバレになるので、後ほど原作との比較を交えて詳述します)は、いささか共感や理解が難しい側面があります。
 舞台やモノガタリの背景から、現実感を完全に排除していることは、根本となる観念的なテーマを、より普遍的な寓意に昇華している効果がありますが、そのことによって、逆にリアリティを感じることができず、感情的な共感はしにくくなるというマイナス面もあります。個人的には、手法とテーマの見事な合致だと感銘を受けましたが、逆に苦手な方もいらっしゃりそうではあります。

 映画”Saawariya”は、決して難解というわけではないのですが、かといって、万人受けする娯楽作品でもありません。インド国内では興行的に失敗したらしいですが、インドの大衆娯楽映画の特徴である、予定調和的なカタルシスとは全く無縁の作品ですから、これは無理もないでしょう。
 バンサーリ監督は、前作”Black”で、歌と踊りというインド映画的なスタイルを完全に排除して、インド映画という枠組みそのものを越境しようとする姿を見せました。今回の”Saawariya”は、再び歌と踊りを交えて、様式としては再度インド映画に回帰しているように見えます。
 しかし、”Black”のストーリーやテーマは、『奇跡の人』で知られるヘレン・ケラーの物語をベースに、それを膨らませたエモーショナルな感動ドラマと言えるものだったのに対して、”Saawariya”の観念的テーマやモチーフは、実は”Black”以上に非インド映画的だとも言えます。
 こういったことから、”Saawariya”は、バンサーリ監督がインド映画にこだわりつつ、同時にそれを越境しようとた野心作と言って良いでしょう。同時に、過去の作品と共通するテーマ性や、確固たる映像スタイルなどからは、はっきりとした作家性も伺われる。インド映画ファンのみならず、広く映画好きには注目されてしかるべき才能を持った監督です。
 こうして、私にとってバンサーリ監督は、今後ますます目を離せない監督になりました。インド国内での”Saawariya”の興行的失敗が、その作家性をスポイルしてしまわないことを、切に願います。
 同時に、その作品が日本でも、公開やソフト化されますように! 普通に見られるのが『ミモラ』一本だけという、余りに残念な現状なので……。

 役者さんに関しては、まず主演のランビール・カプールですが、決して好きな顔立ちではないですけれど、天使的な側面を持ち合わせた無邪気でナイーブな青年を、好演しています。因みに顔は、相棒との間では、髪型などのせいもあり、「(ポール・マッカートニー+ジョン・レノン)÷2+ガラムマサラ」ということで一致しました(笑)。
 また、引き締まったダンサー体型を、惜しげもなく露わにして、全裸にバスタオル一枚で歌い踊る姿(メイキングを見ると、実はちゃんとパンツをはいているですけど、画面上では完全に素っ裸に見えます)は、メイル・エロティシズム的にも見逃せません。実に美しかった(笑)。
 ヒロインのソナム・カプールは、とにかく大きな目が印象的。演技的には、インド映画の女優の定型的なそれを、きちんとこなしているだけといった感じで、それ以上は何とも言えない感じではあるんですけれど、美しさと存在感は充分で、初々しい魅力もあります。
 娼婦役のラーニー・ムケルジー、イマーン役のサルマン・カーンは、いわば大物俳優のゲスト出演といったところで、少ない出番ながらも存在感は充分。個人的にラーニー・ムケルジーは、”Nayak”と”Black”で好印象だったので、この出演は嬉しい限り。サルマン・カーンは……「インド映画の二枚目の顔は苦手」という、私の法則通りなんで……(笑)。身体はけっこう好きだけど、今回は脱がないし(笑)。
 印象深いのは、老女リリアン役のゾーラー・セヘガル。95歳の現役女優というだけでビックリなんですが、ラジにリリポップと呼ばれてから後の愛らしさが、もう実にステキでした。オバアチャン好きなら必見。

 ミュージカル・シーンに関しては、これは意外なほど印象に薄い。
 もちろん、前編に渡って美麗な映画なので、ミュージカル・シーンも当然美麗なんですが、「これぞ!」というポイントには乏しい感じ。というか、何でもないフツーのシーンまでが実に美しいので、ミュージカル・シーンの印象が、その中に埋もれてしまうといった感じ。
 とりあえず、前述したメイル・ヌードのエロティシズムもあって、”Jab Se Tere Naina”はお気に入り。群舞好きの私としては、モスクで踊る”Yoon Shabnami”も好きではあるんですが、見ているだけで至高の多幸感に満たされた”Devdas”の”Dola Re Dola”(音楽と映像の融合という意味で、個人的に映画史に残ると思っているシーンです)には、正直遥かに及ばないのは残念でした。
 音楽のみに限って言えば、主題歌の”Saawariya”は、コブシまわし意外にはインドらしさはほとんどない、フォーク・ロック調の曲なんですが、ポップでキャッチーなメロディーの佳曲。歌以外の劇伴も、画面同様に極めて美しく、ロマンティックかつ幻想的で素晴らしい。
 ただ、これはDVDソフトとしてのマイナス・ポイントなんですが、歌詞の英語字幕が、最初の”Saawariya”以外は、いっさい出ないんですな。歌詞にもしっかりと意味があるインド映画で、これは欠陥としか言いようがない。

【追記】後にBlu-rayで再購入したところ、こちらはちゃんと歌詞の英語字幕が出たので一安心。

 購入したDVDはPAL、リージョンコードは5。スクィーズのワイド収録。
 インド映画のDVDって、正規盤でもジャケットだけが豪華で、肝心の本編は画質が悪いことも多いんですけど、これは流石にSony/Columbia映画だけあって、DVDもSONY Pictures Entertainment India盤なので、画質は極めて美麗。Blu-rayディスクも発売されただけのことはあります。
 オマケはメイキング、プレミア・ナイトの映像、未使用シーン、予告編。

 では、最後にまとめて、ドフトエフスキーの『白夜』との比較も交えた、ヤヤコシイ感想をあれこれ。
 ネタバレも含みますので、お嫌な方は読まれないように。

 映画”Saawariya”でも小説『白夜』でも、最終的に主人公の恋は破れます。主人公は、モノガタリの終盤になって、ようやくヒロインの心を自分に向けさせることに成功し、ヒロインも帰らぬ恋人を待つことはやめ、主人公と一緒になろうと決心するんですが。その刹那、恋人の帰還によって、一瞬だけ成就した恋は、脆くも崩れ去る。
 しかし、モノガタリの本質、その着地点は、壊れた恋による「涙」や、喪失の切なさといった、感傷的なロマンティシズムではない。小説『白夜』(小沼文彦・訳、角川文庫版)は、下記のエピグラフで始まり、下記の独白で締めくくられます。

「それとも彼は、たとえ一瞬なりともそなたの胸に寄り添うために、この世に送られた人なのであろうか?」 トゥルゲーネフ

ああ! 至上の法悦の完全なひととき! 人間の長い一生にくらべてすら、それは決して不足のない一瞬ではないか?

 ここで見られる、たとえ最終的には破れた恋(或いは愛)ではあっても、ほんのひとときでもそれが成就した瞬間があったのなら、それは至福ではないかと問いかけが、映画”Saawariya”のテーマでもあります。
 だからこそ主人公ラジは、サキーナが去った後、映画の前半でラジがサキーナに、「『アンハッピー』と戦って打ち負かせ」と言って、ボクシングの真似をして見せたのと同じ場所で、ひとりボクシングのポーズをとって、微笑みを浮かべて去っていく。そしてラジ自身も、前述した『白夜』の巻頭言のように、天使的な存在として世界(=この架空の街)に出現し、映画オリジナルの登場人物である、老婆リリポップや娼婦たちに、ひとときの至福の瞬間を与えていく。
 この様に同じテーマを扱いつつも、それと同時に、小説から映画へのトリートメントとして、必要とされるであろう様々な変更も、そこかしこできちんと見られます。
 例えば、メイン・キャラクターの性格は、『白夜』(「私」とナースチェンカ)ではかなり特異なもので、小説世界ならいいんですが、現実に身近にいたら、イタい人認定されて周囲から引かれまくること間違いなしなんですが(笑)、”Saawariya”のラジとサキーナは、そこまでエキセントリックではない。二人の関係が近付いていく様子も、『白夜』よりは自然なプロセスを踏んで描かれます。
 また、ヒロインが、最終的に主人公ではなく、戻ってきた恋人を選ぶ場面でも、『白夜』では言葉もなく去ってしまい、その後、ナースチェンカから届いた手紙を読む「私」の場面で締めくくられますが、”Saawariya”では、別れの場面に延々と葛藤のシーンを挿入することで、エモーショナルなクライマックスを描出し、手紙云々のくだりは省かれる。
 映像言語的にも、『白夜』のナースチェンカには、彼女を溺愛する盲目の祖母がいて、その祖母は、孫娘が勝手にどこかにいってしまわないよう、自分の衣と孫娘の衣をピンで止めているという、印象深いエピソードがありますが、”Saawariya”では、同じエピソードを用いつつ、更にそれを、サキーナとイマーンの間の恋愛感情の芽生えと発展を示す、図像的な表現へと展開して見せる。
 あるいは、もっと些末なことで、『白夜』ではオペラだった要素を、”Saawariya”ではクラシック・インド映画に、それぞれ「歌(と音楽)」という共通要素を介して置き換えている。つまり、原作における文化的背景を、監督自身の属する文化のそれに、きちんとアダプテーションして描いているわけです。
 映画と小説という二つのメディアの、マーケットや特性の違いという点でも、また、この監督が『白夜』を元にした映画を作るにあたって、原典の精神を生かすと同時に、いかに自分自身の作家性を盛り込んだかという点でも、文芸小説の映画化として、実に見事な成果と言って良いと思います。

“The Legend of Bhagat Singh”

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“The Legend of Bhagat Singh” (2002) Rajkumar Santoshi
 20世紀初頭、インド独立運動のために戦った伝説的な闘士、バガット・シンの生涯を描いたインド映画です。
 この、バガット・シンという人物、米Wikipediaによれば、インド独立運動にあたって最も重要な役割を果たした人物の一人とのことですが、正直私は、この映画を見るまで、その名前を聞いたことすらありませんでした。1907年生まれ、1931年没で、アナーキズムと社会主義思想の元に、独立のため武力闘争を繰り広げた人物らしいです。
 映画は、バガット・シンが少年時代に英国軍による暴虐を目にしたことや、大学の学友との交流を通じて、次第にインドの独立運動に身を投じていく様子が描かれます。
 その合間合間に、いかにもインドの娯楽映画らしく、家族愛や婚約者とのロマンスなども描かれますが、基本的には、硬派な社会派歴史映画といった感じ。
 バガット・シンは、独立のためには武力も辞さないという思想の持ち主なので、当然のように非暴力を唱え続けたマハトマ・ガンジーとは相剋もあり、映画ではそういった要素も描かれます。
 その中には、英雄視されているバガット・シンが捕らえられ、最終的に処刑される際に、ガンジーなら止めることができたはずなのに、そうしなかったと非難するような描写もあり、これは、ガンジーといえば民衆からは聖人のように受け止められているとばかり思っていた自分には、けっこう新鮮な驚きでした。
 映画の内容が内容のため、英語字幕の鑑賞だと内容把握のハードルも高く、自分でもかなり情報を掴み損ねているとは思うんですが、全体的にバガット・シンは、あくまでも悲劇の英雄として描かれ、その武力行使の是非について問うような要素は、あまり見られなかったように思えます。
 映画から受けるバガット・シンのイメージは、何となくマイケル・コリンズと通じるものがあり、映画全体のイメージも、ニール・ジョーダン監督の『マイケル・コリンズ』を、パワーゲームの要素や善悪の観点を、もうちょっと大衆娯楽的にシンプルにしたような感じがしました。
 特に、善悪の描写に関しては、イギリス側の暴虐などが、誤解を恐れずに言えば「水戸黄門」とか「暴れん坊将軍」的な、いわゆる絵に描いたような絶対悪なので、ここはいささかシンプルに過ぎるような気はしました。講談小説とかならともかく、20世紀以降を舞台にした歴史映画としては、ちょいと視点が偏りすぎのきらいがあります。
 ただ、大河ドラマ的な見所としては、ストーリー的な面白さも、物量的なスケール感もたっぷりあり、大いに楽しめる出来映えです。
 インド映画につきもののミュージカル・シーンも、それが劇中劇だったり抵抗運動歌として処理していたりと、話のシリアスさから浮きすぎないように(とはいえ、ヒーローとヒロインが風光明媚でロマンチックな場所で、互いに愛を歌いあい踊りあうといった、インド映画的な「お約束」シーンも、もちろんあるんですけどね)、上手い具合に配慮されている。今や大御所の感のある、A・R・ラフマーンの音楽も、いつもながら民族的な土臭さとキャッチーなポップさが上手く同居していて、聴きごたえあり。
 主演は、アジャイ・デーヴガン。
 前回の記事で、インド映画の主演男優の顔は、どうにも苦手なタイプが多いといったことを書きましたが、この人も例外にあらず(笑)。
 ただ、『ミモラ 心のままに』の時と比べると、今回はシーク教徒の役なので、つまりヒゲがある(笑)。特に前半は、フルフェイスのモジャモジャ。後半は口ヒゲだけになっちゃいますけど、個人的にヒゲは、フルフェイスで30点、ムスタッシュで10点アップという感じなので(笑)、割とカッコ良くは見えました(笑)。
 演技の方も、静かで内向的な役だった『ミモラ』のときとはうって変わって、思想的にも肉体的にもパワフルな悲劇のヒーロー像を、実に力強く演じていて、大いに説得力あり。
 ヒロインは、これまたインド映画の例に漏れず、実に美人なんですけど、役柄的な重要度が低いせいもあって、あまり印象には残らず。
 さて、実はこの映画、私的にはもう一つ、大いに見所がありまして。
 ま、ぶっちゃけ、毎度おなじみの「責め場」なんですけどね(笑)、その責め場が、質も量も実に充実している(笑)。
Bhagatsingh_01 まず、最初の見所は、少年時代のバガット・シンが、イギリス軍による民衆への暴虐を目撃するシーン。
 これ、パブリックな場でのフロッギングなんですな。村の広場で、幾人ものインド人男性が、かたやウィッピング・ポストに縛られ、かたや地面を這わされながら、ビシバシ鞭打たれている。
 縛られている方は、上半身裸で尻も丸出し、這わされている方も、上半身裸で足蹴にされながら鞭に追い立てられ、そして周囲にも、刑を受けた後の被虐者たちが重なり合っている……ってな場面を、いかにもインド映画らしく、往年のスペクタクル映画を想わせるスケールで見せてくれます。
 同様の見所は後半にもあり、今度は捕らえられた活動家たちが、イギリス軍の拷問部屋で責められるシーン。
 上半身裸の男たちが、天井から逆さ吊りにされ、壁に磔吊りにされ、殴られ、鞭打たれ、それを他の被虐者たちが、怯えて見守る。で、これまたスケール感たっぷりのセットで見せてくれる。
 更に、加虐者たちが、前述したように絵に描いたような悪役的に描かれるので、それが災い転じて福となり(……って、そうなのか?)、拷問シーンの残虐さにもいっそう拍車がかかる。
 というわけで、拷問マニアだったら、この二つのシーンは、ちょっと見逃せないですぞ(笑)。
Bhagatsingh_02 主人公バガット・シン自身が責められる場もあり、まずは前半、警察に捕らえられて、両手を鎖で吊られ、首と脚にも鉄枷を嵌められた状態で、警棒でタコ殴り。
 残念ながら、このシーンは着衣ですけど、いちおうそのすぐ後に、釈放されて家に帰った主人公が服を着替えると、その裸身に殴打の痕が残っているのを、主人公の母親が目撃する、ってな場面があります。アジャイ・デーヴガンは、けっしてマッチョってわけじゃないですけど、肉付きはなかなか良くて、けっこうそそられる裸身です(笑)。
 次に後半、捕らえられ、獄中でハンストをする主人公に、よってたかって無理矢理ミルクを飲ませようとする、ってな、ちょっと変わったシーンがあります。
 ここも着衣なのは残念ですが、絵的には完全に「水責め」と同じですし、主人公が頑なに口を閉じていると、加虐者が「え〜い、鼻から飲ませろ、鼻にホースを突っ込め!」なんて怒鳴ったりするのが、ちょっと嬉しい(笑)。
 この「ミルク責め」は、もうちょっと後になってから、今度は仲間たちも一緒に、集団でやられるシーンもあります。
 そしてもう一つ、両手両脚と首にも鎖をかけられ、大の字に腹這いにされての鞭打ちシーン。
 嬉しいことに、ここでようやく上半身裸に。しかも面白いのは、これ、氷の板の上に腹這いにさせられてるんです。で、その背中を鞭打つ。氷の冷たさを表現するために、加虐者が部屋の隅にある火鉢で手を温める、なんてディテールも描いてくれるのが、また嬉しい(笑)。
 というわけで、責め場的にも、実に見所の多い、ア〜ンド、見応えのある映画でした(笑)。
 私が所持しているDVDはアメリカ盤。リージョン・コードはフリー。ワイド画面のスクィーズ収録。前述したように、英語字幕付き。
 ジャケットが違うから、同じ品物じゃないみたいだけど、珍しく日本のアマゾンでも輸入DVDを扱っていたので、ご参考までに下にリンクを貼っておきます。
“The Legend of Bhagat Singh”(amazon.co.jp)

つれづれ

 会社員時代の友人夫妻二組と連れだって、リンゼイ・ケンプ・カンパニーの公演『エリザベス1世〜ラストダンス〜』を見物。生のリンゼイ・ケンプを見るのは、これが初めて。
 思いの外、ダンスよりも演劇的要素の比重が高かったのと、演出自体も比較的オーソドックスだったことに、ちょっと肩すかし感もありましたが、とにかくケンプ老の存在感が圧倒的。他のパフォーマーとレベルが違いすぎると感じてしまうほどで、なるほど、こりゃ唯一無二の人なんだな、と実感。
 そして、カーテンコール。
 パフォーマンス中の重々しい所作とは、うって変わった軽やかな足どりで、白いローブを翻しながら颯爽と会釈するケンプ老。その姿は神々しいほどに輝いており、思わず拍手にも力が入ってしまいました。
 いや〜、ご健在なうちに生のパフォーマンスが見られて、ホント良かった。

 その数日後、家の近所で大学時代の友人二人とランチ。
 互いの近況や共通の知人の情報などで、話に花を咲かせていると、誰それのご母堂が亡くなられたとか、誰それが糖尿病になってしまったとか、以前と比べて健康絡みの話題が多くなってきて、「お互いに歳をとったんだね〜」なんて笑い合ったり。
 ただ、二人とも子持ちの既婚女性なので、話題が子育てとかPTAとかになると、私は完全に置いてきぼり状態(笑)。

 家では、相変わらずDVDで映画鑑賞三昧。
 で、ここんところ数日連チャンで、『木靴の樹』『シベリアーダ』『ペレ』と続けて見ていたら、相棒から「ヨーロッパの貧しい農村の映画は、ここいらへんでやめにして、そろそろ豪華で派手なヤツが見たい!」とクレームが(笑)。
 そんじゃあ、歌と踊りとアクションがあるインド映画にしようと、『アルターフ 復讐の名のもとに』を鑑賞。社会派なテーマを、見事に大衆的な娯楽作に昇華していてお見事。
 相棒も、おおむね満足はしてくれたものの、主演のリティック・ローシャンの顔を、「目はいいんだけど、この鼻と鼻の穴はありえない。クリスチャン・ベール(どうやら、今現在これが相棒にとって「変な鼻の男優」の代名詞らしい)もビックリ」と、手厳しい評価(笑)。
 ただまあ、相棒がインド映画の二枚目男優に手厳しいのは、今に始まったことではなく、サルマーン・カーンのことは「ヒキガエルみたいな目」とか言っていたし、シャー・ルク・カーンに至っては「余りにもイヤな顔だから、顔は見ないようにしている」などと、インド映画ファンが聞いたら殴り殺されそうな暴言を吐いております(笑)。
 まあ、確かにインド映画の男優って、正直私も「う〜ん、これのどこが二枚目なんだ……」とか思うことが多いですけどね(笑)。好きな顔の男優って、アニール・カプールくらいしか思いつかないし(笑)。

 そして『アルターフ』の翌日は、何だかアジアな気分が続いていたので、タイ映画『わすれな歌』を鑑賞。で、見てから気が付いた。ヨーロッパからアジアに変わっただけで、また「貧しい農村」に戻っちゃってました(笑)。
 そうそう、その『わすれな歌』の中に、主人公の男が芸能界デビューの代償として、エロ社長に言われるままにヌード写真を撮られたあげく、男色関係を強要されそうになるシーンがあるんですけど(因みに、主人公は脱走兵という設定もあって、なかなか良い身体をしています)、その写真撮影のシーンが、履いているカラフルなビキニといい、腰に手を当てたり腕を伸ばしたりする、ミョ〜に気取ったヘンなポーズといい、相棒と二人で「まるで昔の『薔薇族』や『さぶ』のグラビアみたい!」と大ウケ(笑)。ホント、懐かしの岩上大悟先生の写真みたいな雰囲気でした。

木靴の樹 [DVD] 木靴の樹 [DVD]
価格:¥ 2,625(税込)
発売日:2008-09-26
シベリアーダ [DVD] シベリアーダ [DVD]
価格:¥ 9,240(税込)
発売日:2007-09-21
ペレ [DVD] ペレ [DVD]
価格:¥ 3,990(税込)
発売日:2000-11-24
アルターフ 復讐の名のもとに [DVD] アルターフ 復讐の名のもとに [DVD]
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発売日:2003-03-26
わすれな歌 [DVD] わすれな歌 [DVD]
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発売日:2003-05-30

nihonkacchushi01
 本は、大日本絵画・刊の『日本甲冑史 上巻』を購入。弥生時代から室町時代までの日本の甲冑や武具を、少年雑誌で活躍した挿絵画家、中西立太(小林源文のお師匠さんなんだそうです)がカラーとモノクロのイラストで、詳細に図解している好著。
 甲冑の全体像から細かな構造、更には、その着用手順から下に着る衣のことまで、実に見やすく図解されているので、これは今後、時代物を描く際には手放せない資料になりそう。
 因みに、同じ出版社と著者による、『日本の軍装 幕末から日露戦争』『日本の軍装 1930~1945』の二冊は、以前から自分が軍人ものを描く際に、いつも手元に用意する本だったりします。
 この手の本は、図解だったり写真だったり、他にも色々と出ておりますが、このシリーズは、内容・使い勝手・値段など、様々な点からオススメです。写真ものだと、質感や雰囲気は掴めるけれど、構造とかが判りにくいことがままあるんですが、このシリーズは、カラー・イラストで全体像を見せて、細部の構造や階級章の色々など、データ的な部分はモノクロの図解で説明してくれるので、作画資料としては本当に使いやすい。

 音楽は、特に目新しいものは聴いてないですね〜。
 ここんとろ、ちょっとザラついた音が欲しい気分が続いているので、HangedupとかSilver Mt. Zionとか、それ系のポスト・ロックの旧譜を、引っ張り出してきて良く聴いています。
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 あとはまあ、サンマが安くて美味しいので、そればっか喰ってます(笑)。
 そんなこんなが、最近のワタクシ(笑)。

『怪傑白魔』フランス盤DVD

Whitewarrior_dvd_french
『怪傑白魔』(1959)リッカルド・フレーダ
“Agi Murad il diavolo bianco” (1959) Riccardo Freda
 前にここで書いた、スティーヴ・リーヴス主演の『怪傑白魔』(米題”White Warrior”、仏題”La Charge des Cosaques”)のフランス盤DVDが届いたので、レポートしてみませう。
 とりあえず、映画の内容から。
 帝政ロシア時代のコーカサス地方を舞台に、白装束に身を包んだヒーローが活躍する、アクション・スペクタクル。原作はトルストイの『ハジ・ムラート』(未読)なんだそうですが、内容はかなり大幅に変更されているみたい。
 スティーブ・リーブスは、もちろん主役の怪傑白魔ことハジ・ムラート役。白馬に跨り、白いマントをなびかせて、ロシア軍の砦を陥落させたり、長老の娘と恋仲になったりと大活躍。ところがある日、屋外デートの最中にロシア軍に襲われ、負傷して捕虜になってしまう。
 捕らえられたハジ・ムラートは、ロシア軍から「降伏して、こっちの味方になれ」と拷問を受けるが、果敢にそれに耐え抜く。そんな姿を見ていて、ロシア軍側のお姫様は、捕虜に仄かな恋心を。
 いっぽう抵抗軍側では、かねてからハジ・ムラートを妬んでいた男が、長老を暗殺して、その娘でハジ・ムラートの婚約者でもある美女を我がものにし、自分が首魁に収まろうと奸計を巡らす。
 さて、囚われのハジ・ムラートの運命は、そして恋の行方は……? ってな感じの、肩の凝らない痛快アクション娯楽作。
 ストーリー的には、後半、ヒーローがずっと囚われの身になってしまうので、アクション・スペクタクル的な動きがなくなってしまうし、ドラマのクライマックスが、ロシア軍との戦いではなく、味方の中の裏切り者との戦いなので、ちょいと盛り上がりに欠ける上に、モノガタリ全体のスケールも小さく縮んでしまうといった物足りなさはあります。
 それでも前半の砦の攻防戦とかは、けっこう見応えがありますし、撮影がマリオ・バーヴァだということもあり、ロマンチックで静かな見せ場でも、ちゃんとこっちをウットリさせてくれます。登場人物も、皆さんクリシェのカタマリのような人物造形ではありますが、このテの娯楽作的には、キャラクターも良く立っていて魅力的。ヒーローものと割り切って見れば、充分以上に楽しめる佳品といったところでしょうか。
 主演のリーブスは、ヒゲもエキゾなコスチュームも良く似合っていて、いつもながらの美丈夫ぶり。基本的には着衣主体の映画ですけれど、前半の宴会でのレスリング・シーンと、後述するボンデージ&責め場シーンで、しっかり自慢の肉体美も披露してくれます。
 ヒロインの方も、素朴で心の強い村娘といった風情ジョルジア・モル、ゴージャスな貴族風のシーラ・ガベル、共になかなか美しく、役割分担の持ち味を良く出していて好演。
 悪役のレナート・バルディーニとジェラード・ハーターは、まあ、可もなく不可もなく、といったところ。
Whitewarrior01 で、まあ、私がこの映画を、その本来の出来映え以上に愛している理由として、スティーヴ・リーヴスの責め場、ってのがあるんですが(笑)、そのご紹介をば。
 まず、これは責め場ではなく、単なるボンデージなんですけど、傷ついて捕らえられたリーヴスは、上半身裸に包帯を巻かれて、ベッドで医師の手当てを受けた後、隙をついて脱走を試みる。しかし失敗して、再度ベッドに寝かされると、今度は脱走防止に、両手をベッドに縛られる……ってな塩梅。これ、両手を挙げたバンザイ・スタイルってのが、実にヨロシイ(笑)。
 そして、傷が癒えた後は、まず、鞭打ち。
 上半身裸でY字刑架に縛られて、ヒゲ熊獄吏に背中を鞭打たれます。背中にはちゃんと鞭痕が走っているし、打たれた直後、身体をのけ反らして苦悶する横顔もちゃんと見せるあたり、実に神経が行き届いた演出(そうなのか?)。
 因みにこのシーン、前にここで紹介した洋書”Lash!”でも、「映画で見るステキ鞭打ちシーン100」の中の一つにリストアップされてます(笑)。
Whitewarrior02 それから、今度は身体の前後を逆にして縛られて、焼きゴテ責め。
 このシーン、尺は短いし、焼きゴテが当てられる部位はフレームアウトして見られないんですけど、華やかなパーティーシーンを挟んで見せられるので、残酷度や無惨度は高い。
 因みに、これより前段では、別の捕虜(細身だけど、いちおうヒゲモジャで上半身裸)が同様の責めにかけられるシーンがあります。で、この捕虜は拷問された後、リーヴスを屈服させるための道具として、その眼前で処刑されてしまう。
 という具合に、拷問されるスティーヴ・リーヴスを愛でるという点(笑)では、『鉄腕ゴライアス 蛮族の恐怖』と『逆襲!大平原』と、この『怪傑白魔』が、私にとっての三冠王(笑)。
Whitewarrior_gashitsu 仏盤DVDの品質は、シネスコのスクィーズ収録、画質良好、退色も傷もほぼ見あたらずの高品質。
 DVDは過去にアメリカ盤やスペイン盤が発売されていますが、それらと比較しても、画質はずっと良いです。もちろん、色はおろか人物まで画面外に切れちゃってるアメリカのトリミング盤と比べると、雲泥の差。
 アメリカのノートリミング盤(スペイン盤も、おそらく同一マスター)と比較しても、ここでアップしたキャプチャ画像は、縮小しているので判りにくいと思いますが、まず、ディテールの再現度がぜんぜん違う。それと責め場とか、画面が暗めだったり、コントラストがキツめになっても、シャドウ部の潰れがないのが良い。
 ただし音声はフランス語とイタリア語のみ、字幕はフランス語のみなのが残念。
 カップリングされている”Catherine de Russie”は、まだ未見。

“Queens of Langkasuka”とか”Stara Basn”とか”Alatriste”とか

Adboard 先日、ここで予告編を貼ったタイ映画”Queens of Langkasuka”ですが、バンコク在住の旧友が「街中にはサインボードが出てるよ〜」と、写真を撮って送ってくれました。(サンキュー、せいたろー!)
 う〜ん、いいな〜、バンコク行きゃ見られんだよな〜……って、そのためだけにホイホイ渡航できるほど、あたしゃリッチじゃゴザイマセンが(笑)。
 願わくば日本公開、それが無理ならDVDスルーを望みたいところですが、2000年の“Bang Rajan”といい、2001年の”The Legend of Suriyothai”といい、タイの大作史劇系は全く公開もソフト化もされなかった現状を鑑みると、やっぱり期待薄だろうなぁ……。
【追記】日本盤DVD出ました!

ランカスカ海戦 ~パイレーツ・ウォー [DVD] ランカスカ海戦 ~パイレーツ・ウォー [DVD]
価格:¥ 3,990(税込)
発売日:2011-10-07

 因みに、”The Legend of Suriyothai”ってのは、本国では怪物的なヒット作だったそうで、十六世紀中頃のビルマとの戦いで、自ら象に乗って戦ったスリヨータイ女王の生涯を描いた伝記ドラマです。
 私が見たのは、フランシス・フォード・コッポラが米国公開用に再編集した142分版(オリジナルは185分)だけなんですが、とにかくインテリアやエクステリア関係がスゴい。何でも監督が王族の人らしく、普段は撮影できないような宮殿だか何だかの中も、この映画には使われているらしく、タイの古典的建築美術の豪奢さがタップリ堪能できる。
 モノガタリの方も、バトルあり、ロマンスあり、宮廷内のドロドロ劇ありの、盛りだくさんの面白さ。バトルシーンが、物量は充分なのに不思議と迫力に欠けるのは残念だったけど、象に乗って戦う時とか、その操り方を見たのは初めてだったし(具体的には、メインの輿を挟んで前後に操象師が乗り、頭側の人が手旗みたいので方向を示すと、尻側の人がそっちに象を動かす)、そーいったディテールのアレコレだけでも面白かった。
 こういった大作が、いずれも日本語字幕付きで見られないのは、ホント残念。
 とはいえ、個人的に嬉しいニュースも、最近二つほどありました。
 まずは、前に何度か触れたことのある、ポーランド製ファンタジー映画”Stara Basn”が、『THE レジェンド 伝説の勇者』(言いたかないけど、ヒドい邦題……)っつータイトルで、11月に日本盤DVDが発売されるってこと。
 これ、中盤の見せ場とクライマックスに出てくるCGがショボショボなのが、ほんっと〜に残念なんだけど、基本的には、ジョン・ブアマンの『エクスカリバー』みたいな、渋くて重厚なエピックものだし、主演の(っても、これはヒーローものというよりは、様々な人物が絡む宿命劇といった内容なので、必ずしも出ずっぱりってわけじゃなんですけどね)ミハウ・ジェブロフスキーはカッコイイし、ヒロインはキレイだし……と、個人的にお気に入りの一本だったので、日本語字幕付きで見られるのはホントーに嬉しい。
【追記】後に何と500円DVDになってしまった……。

THE レジェンド -伝説の勇者- [DVD]
価格:¥ 500(税込)
発売日:2011-11-21

 もう一つは、ヴィゴ・モーテンセン主演のスペイン映画”Alatriste”が、これは幸いタイトルも『アラトリステ』のまんまで、ようやく12月に公開されるということ。
 え〜い、いつまで待っても公開されないもんだから、今年の頭にシビレをきらして、スペイン盤DVDを買っちまったい(笑)。ただ、私の頭では英語字幕についていけない部分がアレコレあって、いまいちヨーワカラン部分が多々あったから、無事に日本公開が決まって万々歳(笑)。
 とゆーわけで、内容よりも映像ばっかが印象に残ってるんですが、これがまた渋い色調の画面構成が重厚で、美術関係が大いに見応えがあって、しかも出てくる男どもが、モーテンセンを筆頭に、いい具合にバッチくて(笑)実にカッコいい。
 そんなこんなで、この調子で”Queens of Langkasuka”と、あと“1612”も、何とか日本公開されないかな〜、と祈る、今日この頃です。

『落下の王国』

『落下の王国』(2006)ターセム
“The Fall” (2006) Tarsem Singh
 前にここで予告編を紹介しましたが、期待通り、目の御馳走テンコモリでした。
 冒頭のモノクロームのシーンから、映像の美麗さに目を奪われましたが、その後も、次から次へと繰り出される、スケール感タップリな美麗映像の数々には、本当に圧倒されます。石岡瑛子の見事な衣装とも相まって、その計算尽くされたシャープな構図と色彩設計による美麗映像は、まるで動くファッション写真のよう。
 ただ、私の個人的な好みから言うと、美しさの質が極めてデザイン的で、ファイン・アート的な力強さには欠けるのが、ちょっと物足りないという感じもあり。
 いささか乱暴な説明になりますが、例えば、表現手法的に似たものがあるパゾリーニとかパラジャーノフには、強烈な個性と作家性が感じられるんですけど、このターセム監督の作風からはそういった個性ではなく、アーティスティックな作品から感銘を受けたアート・ディレクターが、それをコマーシャル向けに再構築したような、そんなニュアンスが感じられるんですな。
 前作『ザ・セル』の時も、コンテンポラリー・アートの引用の仕方などで、同様の印象は受けていたんですけれど、今回は、前作にあったグロテスク趣味や残酷趣味のようなものが後退し、より間口の広い(であろう)「美しさ」が前面に出ているせいもあって、それがより強くなった気がします。
 まあ、でもそれは良し悪しではなく、あくまでも私の好みの問題なので、かえってそこが良いと感じられる方もいらっしゃるでしょうし、とにかく前述したように、映像美は本当にスゴいです。劇場で見られて良かった〜、と、つくづく思いました。
 モノガタリ的には、半身不随の男が語る空想のお伽噺と、現実の病院で繰り広げられるドラマが、次第に交錯していくんですが、これといって目新しいものはなし。
 この映画では、空想はあくまでも空想のままで、現実の状況の変化によって、その内容も自在に変更が可能なので、現実と虚構の関係性も、前者が主で後者が従という構造は崩れず、逆転はおろか拮抗すらしない。空想のお伽噺を物語ることによって、それが現実の生活も変えていくという展開も見せますが、これも基本的には、そういった変化の起因となっているのが、現実の少女の行動や言葉なので、やはり前述の構造は崩れていない。そういう意味では、この映画で描かれている「物語る」という行為は、「モノガタリを作る」というよりは、「ごっこ遊びをする」のに近いのかもしれません。
 そこいらへんが、私の趣味的には、ちょっと食い足りない感もあるんですが、しかし、それを補って余りあるのが、この映画の持つ「愛らしい魅力」でした。
 前に、この監督について「日常の描写はあまり上手いとは思えない」といったことを書いているんですけれど、今回のそれは、前作『ザ・セル』のそれと比較すると、格段に良い。どうやら「あまり上手くない」のは、アクションやサスペンスといった、エンターテイメント的な動きのあるドラマツルギーの部分だけだったみたい。
 今回見せる日常の描写は、繊細でかなり良いです。空想世界の華麗なインパクトだけではなく、現実世界の方も、地味ではあるけれど負けず劣らず魅力的に描いてくれる。
 そして、それを更に後押しするのが、主役の少女の魅力。
 決して美少女ではないし、それどころか、最初にひと目みたときは、「うわ、何じゃ、このオバサンみたいなオンナノコは」とか思っちゃったんですけど(笑)、次第に表情といい仕草といい、マトリョーシカみたいな体型といい(笑)、もう何とも愛くるしく見えてくる。
 そしてラスト、それまではどちらかというと悲劇的だったり恐ろしげだったりしていた「落下」のイメージが、朗らかで楽しげなイメージに反転するんですが、これが実にお見事! 締めくくりの少女のモノローグと相まって、観賞後には楽しさと共に、愛らしい幸福な余韻が残る。
 映画の中で、モノガタリや現実世界は、この少女によって最終的に「救われる」構造になっているんですけれど、この映画そのものも、やはりこの少女に救われた感じがします。
 他に、幾つか印象に残ったこと。
 言葉と映像の関係という点で、ちょっと面白い仕掛けがありました。
 具体的に言うと(一種のネタバレなので白文字で)、空想のお話には「インド人(インディアン)」のキャラクターが登場するんですけれど、実はこれは、お話を聞いている少女が、そう思いこんでいるだけなんですな。映画のラスト、一瞬ですけれど、どうやら語り手の青年は「ネイティブ・アメリカン(インディアン)」として話していたのだということが、観客には判るような仕組みになっている。
 これは、ディスコミュニケーションの中で生まれたコミュニケーションを描いているとも言え、同種の構造は、ラストのカットアップのシーンでも、映像が本来描こうとしていたものとは違うものを、少女が見ているという形で描かれます。ここいらへんは、英語圏で生活する非英語圏の人間という、監督自身と同じ設定を上手いこと生かしていて、なかなか面白いなぁと思いました。
 こういった具合に、この映画には作家自身のプライベートな様々が盛り込まれているようで、他にも幾つか興味深いものがありました。
 プログラムによると、映画には監督自身の失恋体験が反映されているらしいんですが、その結果、思わず「女性嫌悪?」とか思ってしまうくらいの、成人女性へのあんまりな描き方になったのだとしたら、ちょっと大人げないなぁ、なんて気もします(笑)。まあ、別れた女への腹いせみたいのが、そんな形で出たのだとしたら、ある意味ほほえましいという気もしますけど(笑)。
 また、お伽噺の中でのメイン・キャラクターは、いちおう「山賊」なんですな。そして現実世界でも、「盗み」が展開の鍵を握っていて、その是非に関する会話も出てくる。で、この監督の作風は、前述したように自作中に他者の作品を「引用」することが多いんですけど、ひょとしてそれを「盗用」だと誹られて(本国ではそうか知りませんが、少なくとも日本では、『ザ・セル』のとき、そのことを痛烈に非難している評を読んだ記憶があります)、それが反映されて「山賊」やら「盗み」やらが出てきたのかな? なんて、つい深読みしたくなっちゃいますね。
 『ザ・セル』のコンテンポラリー・アート同様に、今回もバリ島のケチャやメヴレヴィー教団の旋回舞踏が引用されていましたが、まあ確かに、この監督の引用手法は極めて感覚的で、あまりコンセプチュアルな感じはしません。それを安易さと捉えて、批判したくなる気持ちも、まあ判らなくはないですけどね。

『アリゲーター 愛と復讐のワニ人間』

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『アリゲーター 愛と復讐のワニ人間』(2001)スザット・アンタラヌパコン
“Krai Thong” (2001) Suthat Intaranupakorn
 前にここで紹介した、タイ版『300』みたいな”Bang Rajan”で一目惚れし、そのあと見たタイ版「浅茅が宿」みたいな秀作怪談映画『ナンナーク』でも惚れ直した、Winai Kraibutr(例によって日本語表記が、ウィナイ・グライブットとかビナリ・クレイブートとか、ソフトによって揺れております)主演の、アニマル・パニックとエロスが合体した超怪作。
 いちおうストーリーは、むかしむかし、タイのとある村が人食いワニに襲われ、村長はそのワニを倒した男に、自分の財産と娘を与えることを公約し、一人の旅の勇者がワニ退治に出掛ける……ってな、いかにも昔話に良くあるフォーマットです。
 ワニが人を襲うシーンは、いささかチープながらも、惜しみないスプラッタぶりを見せてくれます。腕は食いちぎられるわ首は飛ぶわ、あげくは木の枝に掴まって逃れようとしていたところを、下半身丸ごと食いちぎられて内臓ドビャッってなシーンまである。
 ただ、実はこのワニは、人間の姿に変身することができる、ということが途中で判るんですが、このあたりから、だんだん映画の先行きが怪しくなってくる。
 村長の娘は、ワニ退治の勇者クライトーンと仄かな恋に落ちるんですが、ワニに攫われて水中に引きずり込まれてしまう。苦しい息の下、頭をよぎるのはクライトーンとの甘いラブシーン。ところが、気がつけば水中の洞窟にいて、自分の上にはクライトーンならぬ、ワニが人間に変身したワニ男がのし掛かっていた! 更にその洞窟には、ワニ男だけじゃなくて、その妻だか愛人だかの、二人のワニ女までいた!
 ここまでくると、もはやタダモノナラヌニオイがぷんぷん(笑)。
 ところが、ビックリするのはまだ甘かった。「英雄、色を好む」とは申しますが、主人公クライトーンの、モテモテぶりっつーか絶倫ぶりが、更に話をヘンな方向へ加速させていきます。
 とりあえずクライトーンは、無事娘を救出して陸に戻るんですが、喜んだ村長が勇者の結婚相手に定めたのは、助け出した娘ではなく、その妹の方。ここで「おや、悲恋ものになるのかな?」と思ったんですが……いやぁ、そんな読みは甘かった(笑)。
 以下、未見の方の興を削がないよう、要点は白文字で書きますが、ネタバレがお嫌でない方は、ドラッグして反転させて読んでください。
 けっきょく勇者クライトーンは、姉と妹、二人の娘を一緒に嫁にもらい、更に、再度ワニ退治に出掛けたついでに、ワニ女の一人ともセックスして、ワニ男を退治した後も、残るもう一人のワニ女(これ、いちおう勇者にとっては友人の仇だし、ワニ女にとっては夫の仇のはずなんですが)ともセックスし、尻からワニの尻尾が生えている子供も生まれてハッピーエンド!という、こちらの常識的な想像を遥かに飛び越えて、もう成層圏まで届きそうな勢いの超展開を見せてくれます(笑)。
 ってな具合の怪作なんですけど、でも、これが怪作になっちゃったのは、ひとえにこのモノガタリを、リアリズム準拠の映画にしてしまったせいだよなぁ(笑)。
 というのも、民話や伝説というフォーマットで言うと、こういった、英雄が行く先々で美女をモノにするとか、異種婚とかいった要素は、別に特別ヘンなものではないからです。
 また、セリフでも「人もワニも同じだ」というのが出てくるんですが、こういった、人間と人間以外の動植物の間に境界線を引かず、それらが赦しや愛によって合一化していくという要素は、いかにもアミニズムや仏教的なものをベースにした民話の趣があり、世界観としては実にアジア的な魅力がある。
 やれやれ、アニマル・パニックやソフト・エロスみたいなノリで民話を映画化するから、こんなヘンテコなことになっちゃうんで、もっとマジック・リアリズムっぽく撮ってくれりゃ良かったのに……(笑)。
 さて、私の最大のお目当ては、冒頭にも書いたように、主人公の勇者クライトーン役のWinai Kraibutrクンだったわけですが、う〜ん、相変わらずハンサムでカッコイイ。全編通して、ほぼずっと裸だし(笑)。
 というわけで、一緒に見ていた相棒とは、見ている間ずっと、下記のような会話が続いておりました。
「あ、出てきた、出てきた」
「脱いだ、脱いだ。相変わらず、いい身体だね」
「今回は、お歯黒じゃなくて良かった」(注/『ナンナーク』のときは、登場人物が皆、タイの伝統で、キンマというチューインガムの先祖か噛みタバコのような嗜好品を噛んでいるせいで、口の中や歯が赤褐色に染まっていたんです)
「いい男だね〜」
「あっちのゲイにも人気があるんじゃない?」
「けっこう胸毛もあるね」
「乳輪、ちょっと大きめ?」
「この腋毛がいいね」
「腋毛、いいね〜」
 等々(笑)。
 ま、ゲイのカップルが男の裸目当てで映画を見ているときの会話なんて、こんなもんです(笑)。
『アリゲーター 愛と復讐のワニ人間』(amazon.co.jp)
 さて、このWinai Kraibutrクン、今年も“Puen yai jom salad (Queens of Langkasuka)”とかゆー、史劇だかファンタジー大作だかに出ておられるようです。
 とりあえず、予告編を貼っておきませう。

 ぜひ見てみたいと思っているんですが、こーゆーのは日本では公開もソフト発売も望み薄だろうなぁ……。
【追記】日本盤DVD出ました!

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発売日:2011-10-07

『紀元前1万年』

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『紀元前1万年』(2008)ローランド・エメリッヒ
“10,000 BC” (2008) Roland Emmerich
 この監督のことだから、きっと視覚的な見所は色々あるけど、大味な作品なんだろうな〜、と予想していたら……案の定その通り。う〜ん、ちょっとは裏切って欲しいもんだ(笑)。
 まあ、とにかく話の作りが大ざっぱ。
 伏線があっという間に回収されちゃって拍子抜けしたり、かと思えば、延々引っ張るなぁと思っていたら大した意味もなかったり。モノガタリの基本的な構造は、アクション・アドベンチャー系娯楽作品の王道的なものなので、それはそれで好きな系統なんですけど、ここまで細部がアバウトだと、いくら好きでも流石にかばいきれないものがある(笑)。
 あと、途中から話が、個人的に苦手なエーリッヒ・デニケン系にいきそうで、ちょっとビクビクしてたんですが、何とそれについては、オチや種明かしそのものがなかったからビックリ(笑)。
 更にクライマックスの、(ネタバレなので白文字で)死んだヒロインの復活劇の強引さには、もっとビックリ……ってか、愕然。「え〜っと、ここって感動しなきゃいけないシーンなんだろうか???」なんて思いが、つい頭を駆けめぐりました(笑)。
 オマケにトドメが、(またネタバレ)「そして彼らは故郷への長い旅路に云々」とかゆーナレーションの、次のシーンでは、もう故郷に着いちゃうとこ。思わず、一緒に見ていた相棒と同時に、「ええ〜っ、もう???」とスットンキョウな声を上げてしまった(笑)。
 演出は、まあ下手じゃないし、よく言えばテンポが良いんですが、反面、つらつら流れていくだけで、味わいもなければ感動もない(笑)。
 ただ、それでも以前は、もうちょっと映像的なハッタリが効いていたと思うんだけどなぁ。今回のマンモスの暴走とか巨大ピラミッドとかは、別に悪くはないんだけど、それでも『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』や『アポカリプト』を体験した後だと、どうしてもインパクト負けしてしまうのが残念です。
 でも、風景など実に壮大なパノラマを見せてくれますし、砂漠を流れる川面に浮かぶ帆船団とかは、なかなか美しい絵面だった。目で見る異世界という点に限って言えば、充分以上にハイクオリティ。クリーチャー系のVFXも佳良。
 あと、私は「原始人(野蛮人)萌え」属性の持ち主なので、アレコレ文句を言いつつも、実はとっても楽し〜く見られたりして(笑)。
 とにかく、主人公の男がヨロシイ(笑)。ハンサムだけど、ちょいとヘナチョコな香りも漂う好みの顔立ち。ヒゲ付き長髪付き。身体はナチュラル・マッチョ系で、映画後半はほぼ上半身裸。衣装はもちろん、獣皮の腰布……とくりゃ、もうフェチ的な意味でタマリマセン(笑)。
 あ〜あ、これで下手クソなオリジナル・ストーリーなんかじゃなく、このキャラとVFXを使った、エドガー・ライス・バローズの映画化だったら良かったのに。
 ヒロインもなかなか可愛いし、他の仲間キャラも敵キャラも、皆さん外見的には何ら問題なし。内面はカラッポだけど(笑)。
 というわけで、まあ何というか、類型的かつ記号的なキャラが繰り広げる、娯楽アクション・アドベンチャー&スペクタクルという意味では、往年のソード&サンダル映画と同じ香りもあります。
 つまり、ぶーぶー言いつつも、実はけっこう好きです、この映画(笑)。
『紀元前1万年』(amazon.co.jp)

Samson & Delilah (Opera Spanga)

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“Samson and Delilah” (2007) Corina Van Eijk
 オランダのオペラ・カンパニー、オペラ・スパンガによる、サン=サーンスの『サムソンとデリラ』のオペラ映画。
 アメリカのファンから、「このフィルム、アメ〜ズィングな熊男責めがあるし、貴殿にはぜったいにオススメ!」みたいなメールを貰いまして(Thank you, Cecil!)、興味を持って探してみたところ、オランダ盤(おそらく)DVDを見つけたので買ってみました。
 因みに、サムソンとデリラの話は私の好物の一つ(っつーか、ぶっちゃけ性的な原風景の一つ)なので、DVDも、1949年制作のセシル・B・デミル版はもとより、84年のTV版や、96年のニコラス・ローグ版など、見つけるたびに、ついつい買っちゃってます(笑)。

 さて、私はオペラは疎いので、このオペラ・スパンガがどんなカンパニーなのか、まったく判らない。検索してみても、日本語の情報は何も見つからず。ただ、サイトは見つかりまして、それによると、監督のコリーナ・ファン・エイクという女性は、このカンパニーの芸術監督らしいです。
 サン=サーンスのオペラの方も、これまで聴いたことがなく今回が初体験。そもそも、サン=サーンス自体、『動物の謝肉祭』くらいしか聴いたことがない……と、見る前は思ってたんですけど、いざ映画を見てみたら、アリア「あなたの声に心は開く」だけは、聞き覚えがあった。でも、おそらく私の場合、この曲との最初の出会いは、正統派のオペラじゃなくて、クラウス・ノミだと思うけど(笑)。

 映画の内容は、モノガタリはそのままに、舞台を現代の戦場に置き換えたものになっています。
 まず、戦場とおぼしき砂漠で、捕虜らしきゲリラ風の男たちが処刑されていく。それを見守る仲間たちは、嘆きながら祈り、合唱する。
 そして、サムソン登場。やはりゲリラ兵風の出で立ちで、パッと見、キューバ革命時のカストロみたいな感じ。仲間たちを「立ち上がれ」と鼓舞します。
 そこにやってきたのは、ダゴンの神官ならぬ、洒落たスーツを着て、ガードマンと美女を引き連れた、いわゆる資本主義風の金持ち男。見物にでも来たのか、見張りの兵士に袖の下を握らせ、美女の尻に跨ったりと、享楽的な態度を示す。
 ここでゲリラ軍が、サムソンに率いられて蜂起。敵の兵士たちは殺され、美女は犯され、金持ち男も殺される。それを司令部でモニターしていた、ダゴンの祭司長と部下の兵士たちは、こりゃあかん、すわ退却と、パソコンのデータを消去して逃げ去る。
 勝ったゲリラ軍は、長老を囲んでお祝いをしますが、敵軍はそこに、着飾らせた女兵士たちを送り込む。女たちを率いるのは、美女デリラ。
 むさい男所帯に現れた、露出度の高い服を着た女たちに、ゲリラ軍はメロメロに。サムソンも、デリラから目を離すことができず、それを諫めていた長老までもが、オンナノコに股間をまさぐられてアハ〜ン状態。
 ……とまあ、こんな感じで進んでいきます。

 というわけでこの映画は、古典を古典の世界観のまま再現するのではなく、古典を現代的な視点で解釈し、解体/再構成することによって、そこから新たな意義を掘り起こそうとするタイプの作品。
 方法論としては、さほど目新しいものではありません。また、このテのアプローチがされた作品って、モノによっては「舞台を現代に置き換えただけじゃん。……で、それがどうしたの?」で終わってしまうことも、ままある。
 しかしこの映画の場合は、映画作品としての出来は別にしても、アプローチの是非に関して言えば、これはかなり成功している、と、個人的には感じました。どこがどう成功しているかというと、これはちょっと長くなるし、内容もヤヤコシクなってしまうので、後ほどまとめて書くことにします。

 では、ヤヤコシイコトは別にして、映像作品としての出来はというと、まずまずといったところ。
 映像表現は、ケン・ラッセルとかデレク・ジャーマンとか、あるいはジュリー・テイモアとかいった、ちょっと古いタイプの前衛風。80年代に『アリア』というオムニバス映画がありましたが、あれが好きな方だったら、本作も充分に楽しめるはず。ただ、飛び抜けた個性とか先鋭性には乏しいので、そこいらへんはちょっと物足りない。個人的には、好きなタイプの作風なんですけどね。美術も、低予算なりに頑張っていて、雰囲気を出すことには成功している。
 尺が100分と、オペラ映画にしては短めなのも、私としては見やすくて良かった。ただ、オペラ好きにはマイナス・ポイントかも。
 ビデオ撮りらしく、ハイライトに飛びがあったり、エッジにカラーノイズがあるのは、ちょっと残念。

 表現のスタイルではなく内容の方は、これはかなりアグレッシブで面白い。
 まず、しょっぱなの囚人の処刑シーンからしてスゴい。
 直接表現ではないので、注意して見ていないと判りにくいんですけど、この囚人は性器を切除されてから、仲間の前に引き出されて、息絶えるまで放置されるんです。しかも、切り取られた性器は床のバケツに捨てられ、それを犬がむさぼり食うという凶悪さ。
 前述の有名なアリア「あなたの声に心は開く」もスゴい。
 英語字幕で説明しますと、このシーンでデリラは “Open your heart to my tenderness, come and worship drunkness”(私の語学力では上手く訳せませんが、「優しさに心を開いて、こちらに来て、杯を交わしましょう」って感じなのかな?)と歌いながら、車のボンネットに座って脚を開く。サムソンはうっとりした顔で、その前に跪く。そして、デリラが “Open my tenderness”(私の柔らかいトコを開いて!)、”Drink up”(飲み干して!)と歌うのに合わせて、サムソンがクンニリングスするんです。コンサバなクラシック好きが見たら、憤死しそう(笑)。
 こんな具合に、その露悪的とも言える挑戦的な内容は、大いに見応えあり。

 役者の方は、皆さんオペラ歌手です。口パクではなく、ご本人が演じ、ご本人が歌っている。
 サムソン役のCharles Alvez da Cruz(読みは、シャルル・アルヴェス・ダ・クルス……でいいのかな?)は、高音域になるといささか線の細さを感じさせる部分もなきにしもあらずですが、全体的には必要充分以上に魅力的な歌声でした。
 ルックスの方も、まあ、すンご〜く濃い顔なんですが、ハッキリ言ってタイプ(笑)。チャームポイントのヒゲを、途中で剃っちゃったりもするんですが(まあ、美女とデートするとなると、ヒゲも剃って身だしなみも整えて……ってのは、ノンケさん的には当たり前なんでしょうけど、ムサいの&ヨゴレてるの好きの私に言わせりゃ、「勿体ない!」って感じ)、ヒゲなしでも充分いい男。
 しかも、後述しますがヌードもあれば責め場もある。デリラとの濡れ場では、逞しい臀球丸出しでコトに勤しんでくれるし、お待ちかねの責め場(内容は後述)では、チ○コも丸出しで大熱演。
 というわけで、歴代のサムソン役者の中でも、個人的には一等賞(笑)。因みに二番目が、ニコラス・ローグ版のエリック・タール。有名なデミル版のヴィクター・マチュアは、どっちかつーと嫌いな顔(笑)。
 デリラ役のKlara Uleman(クララ・ウレマン?)は、お世辞にも傾城の美女とは言い難いお顔ですし、トウもたっておられるんですが、まあオペラ歌手にそーゆーことを求めるのが、そもそも筋違いなわけで。
 声がメゾ・ソプラノのせいもあってか、最初は必要以上にオバサンに見えちゃって閉口したんですけど、表現力はスゴい。ダゴンの祭司長との掛け合いや、前述のサムソンとの掛け合いなど、かなりの迫力で圧倒されます。そうなってくると、ちゃんと魔性の美女に見えてくるから面白い。

 では、責め場の解説。
 サムソンとデリラというと、怪力を失って捕らえられたサムソンが、両眼を潰され石臼を挽かされるというのが、責め場的な見所ですが、この映画では、内容がちょっと違う。
 捕らえられて盲目になるのは同じなんですが、檻の中に入れられたサムソンは、石臼ではなくエアロバイクを漕がされて、発電をさせられます。で、我が身を嘆きながら脚が止まったりすると、檻の外から看守にどやされる。そうやって自転車を漕ぎ続けるサムソンを、敵の兵士たちがタバコふかしながらニヤニヤ見物。やがてサムソンが、自転車から降りて神に祈りだすと、今度はそこにホースで放水責め。
 で、この一連のシーンで、サムソンは文字通り、一糸も纏わぬ素っ裸。う〜ん、こりゃエロい(笑)。エロさでいったら、過去見たサムソンとデリラの中でも、これがダントツ!
 一番のサムソン役者が演じる、一番の責め場。これだけで、もう私の偏愛映画の殿堂入りは確定です(笑)。

 YouTubeに予告編があったので、下に貼っておきます。
 上記の責め場も、ちょびっとだけど見られますよ(笑)。

 DVDは、ヨーロッパ盤なのでPAL方式。リージョン・コードは、私が購入したイギリスのアマゾンの表記によると、リージョン2。ただ、ディスク・パッケージには何も書かれていないので、ひょっとしたらフリーかも。
 16:9のスクィーズ収録。音声は、フランス語。字幕は、英語、ドイツ語、スペイン語、ポーランド語、ドイツ語、フランス語から選択可能。オマケは、メイキングと予告編、それとキャストやスタッフのプロフィール。

 では、以下は「ヤヤコシクなるから後述する」といった諸々について。

 この映画を教えてくれた人の説明によると、「プロットはアラブ対イスラエルに置き換えられている」とのことでした。ところが、実際に全編を通して見てみると、必ずしもそういうわけではなかった。
 確かに、歌詞に「イスラエル」という言葉が頻出しますし、伝承の舞台がパレスチナであるせいもあって、パッと見は、中東戦争なんかを連想します。
 しかし、前述のようにヘブライ人(ユダヤ人)側のスタイルは、キューバ革命のゲリラみたいな感じですし、ペリシテ人側も、砂漠迷彩のヘルメットや軍装などを見ると、アラブどころかその反対に、イラク戦争時のアメリカ軍っぽい。
 かと思うと、ゲリラ軍の年長者たちが、頭から布をかぶって長老になったときなんかは、いかにも昔のスペクタクル映画に出てくるヘブライ人のスタイルを連想させます。同様に、クライマックスのダゴン神殿は、内装がモスク風だったりミナレットがあったりもします。
 つまり、この映画で描かれている「戦争」とは、元々の「ヘブライ対ペリシテ」(あるいは「ヤーウェ対ダゴン」)でもなく、かといって現代の「イスラエル対アラブ」や「アメリカ対アラブ」(あるいは「ヤーウェ対アッラー」)でもないわけです。
 では、何なのかというと、これは、そういったもの全般に対するアレゴリーなんですな。単純な置き換えではなく、古今東西における宗教や思想をベースにした対立や、戦争全般に対する寓意。
 前述したような現実的なモチーフの数々は、そこから現実への連想を引き起こすことによって、その寓意が、過去も現代も変わらぬ恒久的なものなのだと、より効果的に印象づける役割を果たしている。
 この手法は、なかなか面白かった。

 もう一つ興味深いのは、この映画の宗教に対する視線。
 前述したように、サムソンとデリラの時代におけるヘブライ人とペリシテ人の対立とは、平たく言えば信仰の違いによる宗教戦争なんですが、実のところ現代における戦争も、何かと宗教によってその正当性、すなわちそれが「正義の戦争である」と主張される。
 よく知られたところでは、イスラム世界におけるジハード(聖戦)という思想や、第二次世界大戦時の日本での神道の使われ方なんかがそう。キリスト教文化圏でも、有名な賛美歌「見よ、十字架の旗高し」(生ぬるく訳されていますが、原題は “Onward,Christian Soldiers”、つまり「進め、クリスチャン兵士」。歌詞の内容も、イエスの十字架を掲げて、戦争に進軍せよ……というもの)が、同様に戦争における宗教的な正義を謳っており、じっさいに第二次世界大戦中に、ハリウッドのプロパガンダ映画で使われている。
 よって、このサムソンとデリラという話を、伝承のままに描くと、そこにはどうしても宗教的正義という視点が存在してしまうんですが、この映画はそれを批判的に描いている。冷笑的と言ってもいいかも知れない。
 それを端的に表しているのが、映画のタイトルバックです。
 タイトルバックでは、線画によるイラストで、カナブンのような虫の群れが、土中から這い出してくる様子が描かれる。そこに、誰かによってページをめくられている本が現れ、その上を虫が這い回る。読書の邪魔をされ、手は虫を払いのけ、ついには指先で押し潰してしまう。
 で、この「本」が曲者。
 出てくる本は三種類。まず、飾り枠と花文字と挿絵の入った本。次に、飾り枠と文字だけの本。最後に、巻物状のもの。つまりこれらは、キリスト教の聖書(もしくは祈祷書)、イスラムのコーラン、ユダヤ教のトーラー(律法)なわけです。
 このイラストは、映画の最後に再び登場します。
 サムソンがダゴン神殿を破壊し(といっても、この映画では電気をショートさせるんですけど)、悲鳴を上げるデリラのクロースアップの後、三冊の本の上に突っ伏し、頭から血を流して死んでいる、三人の宗教的指導者の絵が現れる。
 現実に振りかざしてきた宗教的正義というものが、それぞれの宗教にとって「邪魔なものを追い払い殺傷する」行為でしかなく、サムソンとデリラでは、ユダヤ教が正義でダゴン信仰が悪とされているが、どっちもどっち、みんな同じだよ、と、痛烈に皮肉っているわけです。
 これ以外にも、宗教(および宗教的指導者)に対する冷笑的な視線は、ダゴン軍が司令部を引き払うシーンや、ヘブライ人の長老が女たちに誘惑されるシーン、クライマックスのダゴン神殿のシーンなどで、他にも幾つか見られます。そして、これらのシーンで、現実の宗教に近い具体的なモチーフが引用されているのは、おそらく、前述したような連想効果を狙った、意図的なものでしょう。
 こういったアグレッシブさには、かなりグッときました。