アメリカ人から「日本はそろそろボン・フェスティバルなんだろ? ハッピー・ボン!」というメールが来ました。え〜、ハッピー・ボンって……(笑)。
お盆ってのは、いわゆるフェスティバルとはちょっと違うんだよ、と説明しようと思ったんだけど、はて、じゃあどう説明したらいいかが判らない。祖先の霊が云々という意味では、ハロウィンに近いような気もするけれど、雰囲気はぜんぜん違うだろうし。
だいたい、お盆ってのは、果たして「目出度い」ものなんだろうか? 個人的な感覚だと、お祝いをするようなものとは趣が異なるような気がするけど、「盆と正月が一度に来たような」なんて慣用句から考えると、やっぱ目出度いものなんだろうかとも思えるし。
けっきょく、お盆というものの意味合いを、自分自身も正確に把握していないことが、改めて判ってしまいました(笑)。
このメールに限らず、最近は外国とのやりとりが何かと多いです。
ここ一ヶ月の間だけでも、イギリスとフランスからそれぞれ取材が一件ずつ、企画展に出品中のスペインのギャラリーとは、引き続き十月からの別展示に関する打ち合わせをあれこれ、来年に向けて、アメリカとオーストラリアの企画がそれぞれ一つずつ、まだ海のものとも山のものともつかない企画が、イタリアとスペインで一つずつ……ってな具合です。
イギリスとフランスの取材は、どちらも日本のエロティック・コミックに関するもので、まあ自分のことやゲイマンガについては、何を聞かれてもそれなりにお答えできるんですが、何故か決まって、日本のHENTAIマンガやYAOIマンガについても、オピニオンを求められるのが困りもの。
触手もののエロマンガとかフタナリとか、やおいやボーイズラブとかって、趣味的に楽しむことがあるだけで、ジャンル全般に関して意見や考えを述べるほどは、読み込んでもいないし知識もないしねぇ(笑)。
ただまあ、こんな取材が続けて来ると、なるほど、確かにヨーロッパでは、日本のマンガがブームなんだなぁ、とは感じます。
さて、外国ネタで続けますと、フランスとスペインから、ソード&サンダル映画の新しいDVDが、何枚か届きました。
スペインから届いたのは、まず、スティーヴ・リーヴスの『地獄の一匹狼』”Vivo per la tua morte (A Long Ride from Hell)”。
これは、ソード&サンダルではなくマカロニ・ウェスタンですが、これでアメリカ盤とヨーロッパ盤を合わせれば、リーヴスの主演作は全てDVD化されたことになります。パチパチ〜。
まだ再生チェックをしただけで、中身をちゃんと見ていないので、映画の内容についてはコメント不能(笑)。IMDbによると、リーヴスは「刑務所で過酷な扱いに耐える」らしいので、ちょっとは責め場もあるのかな? あるといいなぁ(笑)。
画質は、いささか退色気味ではあるものの、ディテールは良好。ビスタの非スクィーズ、レターボックス収録。音声はスペイン語とイタリア語で、残念ながら英語はなし。
それから、ゴードン・スコット主演の “L’Eroe di Babilonia (The Beast of Babylon Against the Son of Hercules a.k.a.Goliath, King of Slaves)”。
これはおそらく、初DVD化かな? 米盤でも、他の欧盤でも見た記憶なし。
これまた画質良好でスクィーズ収録。やはりイタリア語とスペイン語のみ。
後半でダンジョンに入れられて、鎖と金属枷で岩壁に手足と首を繋がれ、延々と悶えるシーンが続くのが美味しい(笑)。責めとしては平手打ちくらいだけど、ちゃんと(何がだ?)上半身裸だし、ヒゲ付きです(笑)。パターンとしては、前に紹介したこれと同じなんだけど、こっちの方が尺が長く、撮り方もねちっこいので、なかなかそそられました(笑)。
フランスからは、まず、リッカルド・フレーダ監督、カーク・モリス主演の “Maciste all’inferno (The Witch’s Curse)” と、前にもここで紹介した、レジ・パーク主演の “Maciste nelle miniere di re Salomone (Samson in King Solomon’s Mines)” の、2 in 1ディスク。
カーク・モリスのヤツは、ソード&サンダル meets ホラー映画の、まあ珍品に類する内容なんですが(笑)、マチステの地獄巡りのシーンに、ときどきドキッとさせられる妙な迫力があって、けっこうお気に入りの一本。米盤DVDがあるんですが、いかんせん画質がズタボロなのを残念に思っていたところ、この仏盤を発見。期待に違わず、傷なし、退色なしの、状態の良いマスターを、スクィーズ収録という、高品質DVDだったので大喜び。レジ・パークの方も同様ながら、これは既に持っているスペイン盤も高品質なので、さほど有り難みはなし。フランス語音声&字幕なしと、イタリア語音声+フランス語字幕が選択可能。
もう一枚、同じシリーズで、これまた前に何度か紹介している、ソード&サンダル meets SciFiのやはり珍作、ゴードン・ミッチェル主演の “Il Gigante di Metropolis (The Giant of Metropolis)” と、これまた、ソード&サンダル meets ホラー映画の珍作、レジ・パーク主演の『ヘラクレスの怪獣退治』”Ursus, il terrore dei kirghisi (Hercules, Prisoner of Evil)” の2 in 1。
こちらも同様の高画質で、ゴードン・ミッチェルの方は、画質が悪かった米盤や、それよりいささかマシだった独盤と比較しても、フィルムの状態が遥かに美麗。レジ・パークの方は、おそらくDVD化は初だと思うんですが、やはり同様の品質。ただ、これはいかんせん、映画の内容そのものがヒドいのだ(笑)。私もおそらく、2 in 1じゃなかったら買っていなかったと思う(笑)。音声と字幕の作りは、前のと同じ。あと、双方に共通して、同系映画のオリジナル予告編(イタリア版もあればフランス版もあり)が、6本ほどオマケで入ってます。
今回はお試し購入でしたが、この2 in 1シリーズ、他にもいろいろ出ているので、高品質に味をしめて、また幾つか買ってみる予定。他のラインナップに興味のある方は、メーカーのサイトへどうぞ。
とりあえず、今回はうっかり見落としてしまっていた、スティーヴ・リーヴスの『怪傑白魔』は、すぐに買わなきゃ(笑)。高画質ノートリミングで、あのボンデージと鞭打ちシーンが見られるかと思うと、もうウキウキです(笑)。カップリングされている、ヒルデガルド・ネフ主演のエカテリーナの映画には、あんまりそそられないけど。裸のマッチョは期待できないし、監督もウンベルト・レンツィだし(笑)。
フランスといえば、先日、レンタルで『ナルコ』というフランス映画を借りて、なかなか面白かったんですが、これに、こないだここで書いたばかりの、『ゴールドパピヨン』でベス役を演じていたザブー(ザブー・ブライトマン)が出ていたので、ちょっとビックリ。あれから20年も経ってるのに、面変わりはしていても、たいして老けてもいなかったなぁ。
主演男優に影響されて、ちょいと自分も薄汚い長髪にしてみたくなりましたが(ゲイ受けは悪いけど、個人的にはトラッシュな感じの長髪って、けっこう好きなんですよね)、相棒に猛反対されて断念しました。……まぁね、私の面相と髪質じゃ、長髪は似合わないのは判ってるけどさ(笑)。でも、昔のヒッピーとか、昨今のルーザーとかホワイト・トラッシュのスタイルって、けっこう憧れてるんだよなぁ……(笑)。
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最近お気に入りのCD
「チェレプニン:ピアノ協奏曲第1番, 第3番/祝祭音楽/交響的行進曲」アレクサンドル・チェレプニン
チェレプニンという作曲家については、チェレプニン賞という名前や、伊福部昭や早坂文雄のお師匠さんだということくらいしか知らなかったんですが、CD屋の試聴機で本盤を聴いてみたところ、一曲目の「ピアノ協奏曲第1番」の冒頭だけで、もう虜になっちゃいました。
民俗楽派を思わせるエキゾチックで力強い、ストリングスによる導入部が、もうムチャクチャかっこ良くてツボを押されまくり。そしてピアノが華麗に登場し、曲は時にゆったり、時にグイグイとドラマチックに展開していきます。ちょっとリムスキー=コルサコフみたいだな〜、なんて感じもあり、メロディも良く、久々の大当たり。
「第三番」の方は、もう少しコンテンポラリー寄りで渋め。「祝祭音楽」は、その二つの中間といった味わい。「交響的行進曲」は、再び明快でダイナミックでかっこ良い。
とゆーわけですっかり気に入ったので、これから他の作品も聴いてみることにします。
「ピアノ協奏曲1番、他」アレクサンドル・チェレプニン (amazon.co.jp)
「大草原を耕す鋤/河」ヴァージル・トムソン
これは全く知らなかったんですが、アメリカ近代の作曲家で、この二つはそれぞれ1930年代に制作されたドキュメンタリー映画用に書かれたスコアだそうな。確かにアメリカの農村風景を連想させるような、壮大でありながら、どこかフォークロリックな素朴さも感じさせるオーケストラ曲。
二曲とも、フォスターを思わせるような優しいメロディーや、民謡や賛美歌から引用された懐かしげな主題が、優美に、ユーモラスに展開していく様は、何とも楽しくて愛らしい。近代アメリカらしく、ブルーズの要素なんかも入っていて、そこだけ聴くとムード歌謡みたいな味わいもあったり(笑)。
たまに、恣意的に使用されている現代風の和声が、かえってメロディーの素朴な美しさの邪魔になっていたりもしますが、全般的には、これまたかなり好みの曲調でした。
因みに米ウィキペディアによると、このトムソン氏、ゲイだったらしいです。
「大平原を耕す鋤/河」ヴァージル・トムソン (amazon.co.jp)
「エイジアン・ルーツ」竹竹 with ネプチューン
アメリカ人尺八奏者のジョン・海山・ネプチューンが、竹のマリンバ、竹のパーカションなど、竹製の楽器だけのアンサンブルを率いて演奏しているアルバム。ジャズ&ワールド・ミュージック風味のニューエイジって感じ。楽器は違いますが、雰囲気的にはフェビアン・レザ・パネみたいな感じもある。
柔らかくて、どこか懐かしい感じのする竹製楽器の奏でる音は、それだけでも魅力的。純邦楽やインドネシア音楽がジャズ風にまったり混じり合っていく様は、なんとも自然で穏やか。自然すぎて、ミクスチャー音楽的なスリリングさには欠けるなぁ、なんて贅沢を言いたくなるくらい(笑)。とにかく気持ちの良い音楽。
夏の夕暮れに、まったり楽しむにはうってつけでした。ホクホク(笑)。
「エイジアン・ルーツ」竹竹 with ネプチューン (amazon.co.jp)
「鉄腕ゴライアス 蛮族の恐怖(サントラ)」カルロ・イノセンツィ
これまでも何度か紹介してきた、DIGIT MOVIESから出ているイタリアン・ペプラム映画・アンソロジー・シリーズ第九弾は、あの「鉄腕ゴライアス」が登場。う〜ん、このBlogでこの映画を取り上げるのは、これでもう何回目だろう(笑)。
この映画、アメリカ公開時には音楽をレス・バクスターのものに差し替えられていて、おそらく私がヴィデオやDVDで親しんでいたのもそっちだと思うんですけど、今回のCDは、差し替え前のカルロ・イノセンツィによるものを発掘、復刻したもの。
とはいえ、この映画の音楽で一番印象に残るテーマ曲は、私が覚えているものとメロディーも同じで、唯一違うのは、映画で入っていた男声コーラスの有無くらい。全体的には、正統派史劇映画の劇伴といった感じで、なかなか堂々とした味わい。戦闘シーンはブラスと打楽器でダイナミックに、ヒロイン関係は流れるようなストリングスでロマンティックかつエキゾチックに聴かせてくれます。
ただまあ、レス・バクスターが大好きな私としては、できればそっちの方も復刻して欲しいな〜、というのは正直なところ。
インナー・スリーブには、例によって各国版のポスターやロビーカート、スチル写真などの画像が載ってます。個人的には、ポスターだとこれが好きだなぁ、やっぱ(笑)。
「鉄腕ゴライアス 蛮族の恐怖(O.S.T.)」カルロ・イノセンツィ (amazon.co.jp)
HOUSEとバイオニック・ジェミーとゴールドパピヨン
児雷也画伯のブログで、大林映画の最高峰『HOUSE』のサントラがCDになっていたことを知り、急いで購入。すると、それを見た熊が「自分も買う」と言うので、一緒に新宿のディスクユニオンへ。
渋谷から新宿へ行くのに、初めて副都心線に乗ってみた。JR新宿駅の混雑を通らずに、ダイレクトに新宿三丁目に出られるので、実に快適。これから新宿に行くときは、これを使おう。
ディスクユニオンで、テレビ『バイオニック・ジェミー』のサントラを見つけたので、大喜びで購入。しかし、後から良く見たら、『バイオニック・ジェミー』の中の「ゴールドマン暗殺指令」の第一話と第三話のBGM集という、えらいニッチなシロモノだった(笑)。しかも、テーマ曲は収録されておらず、テーマ曲の没バージョンが収録されているというマニアックさ(笑)。
とはいえ、テーマ曲だけだったら、別のコンピレ盤に収録されているのを持っているし、音楽そのものもラロ・シフリンとバート・バカラックとレーナード・ローゼンマンが混じったみたいでカッコイイし、聞き覚えがある曲もあるし、満足のいく一枚でした。作曲者のジョー・ハーネルのサイト(既に故人のようですが)で、少し試聴できるので、興味のある方はどうぞ。
でも、どうして『バイオニック・ジェミー』のDVDは出ないんだろう? 出たら即買いなのに……。
因みに、私の「恥ずかしい過去」の中に、「マルベル堂の通販でリンジー・ワグナーのブロマイドを買ったことがある」というエピソードがあるくらい、バイオニック・ジェミーは好き(笑)。「♪わたしのからだを〜かけぬ〜ける〜ばいお〜にっくの〜」とかゆーヘンな日本語版主題歌だって、ちょっとだったら歌えるぞ(笑)。
同じくディスクユニオンで、ジュスト・ジャカンの映画『ゴールドパピヨン』の「ディレクターズカット版」なる輸入DVDも発見。個人輸入で取り寄せようか、ちょっと悩んだ後、ついでなので購入することに。
ところが帰って鑑賞してみたら、尺は日本盤DVDと同じで、特にどこも増えているシーンはなくて、ちょいとガッカリ。どうやらアメリカ公開版はかなりカットされたものだったらしく、それと比べてのディレクターズ・カット版だったみたい。因みに日本公開時にもカットされていたシーンはあって、LDでも同様だったんだけど、それは日本盤DVDで既に復活済みだったので、あまり内容的なありがたみはなし。
ただ、日本盤には仏語音声しか収録されていなくて、LDで親しんでいた英語音声が聞けなかったのが残念だったんだけど、この米盤は英仏二カ国語収録なのは嬉しかった。特に、ウィラード役のブレント・ハフの声は、やっぱ吹き替えられた仏語じゃなくて、ご本人の喋る英語がヨロシイ。
いや、好きなんですよ、このときのブレント・ハフ。セクシーだし、カワイイし、カッコイイし。でも、この映画以外だと、B級ベトナム戦争映画の『ストライク・コマンドー2』とか、B級ファンタジー映画の『ストーム・クエスト』とか、けっこうしょーもない映画でしか見たことがない(笑)。あ、でも『ストライク…』の方は、劇中で『レイダース/失われた聖櫃<アーク>』のアクション・シーンを完全コピーしていたり、上半身裸での電気拷問シーンがあったりで、嫌いじゃないけど(笑)。改めて調べてみたら、現在まで途切れずに出演作があるし、監督業にも進出していたりと、お元気なご様子。
特典は、ジャカン監督のオーディオ・コメンタリーとインタビュー、トーニー・キテインのグエンドリン写真ギャラリー、キンゼイ博士が語るジョン・ウィリー(音声のみ)、米国版と国際版の予告編とか(国際版の方は、予告編というかプロモーション・フィルムっぽかった)……と、なかなか本格的。
というわけで、期待していた未公開シーンはなかったものの、この映画をこよなく偏愛する私としては、満足のいくお買い物でした。
そうそう、この米盤DVDを出しているメーカーですが、「セヴェリン」っつー、いかにもマニア御用達の会社名でした(笑)。
というわけで、何だか個人的な偏愛モノが三つ重なった、そんな一日でした。
『トロイ ディレクターズ・カット』
『トロイ ディレクターズ・カット』(2007)ウォルフガング・ペーターゼン
“Troy (2007 version)” (2007) Wolfgang Petersen
2004年に公開された、ウォルフガング・ペーターゼンの映画『トロイ』が、尺が30分ほど長くなったディレクターズ・カット版になって発売されたので、ホクホク喜んで買って参りました。
結論から先に申しますと、オリジナルの劇場公開版が好きな方だったら、このディレクターズ・カット版は必見。劇場公開版がディテール・アップされていて、味わいも深みも迫力も増しています。
でも、オリジナル版がそんなに好きではなかったら、このディレクターズ・カット版も、印象自体には大幅な変化はないでしょう。
未見の方には、このディレクターズ・カット版はオススメ。
どういった部分が変わっているかというと、まずはキャラクターの細かな掘り下げの部分。キャラクター像自体には大幅な変化はないんですが、シーン自体が新たに増えているものもあり、シーンは同じだがセリフが増えている部分もありで、こういった追加によって、個々のキャラクターの心情やモチベーションなどが、よりクリアで繊細なものになっています。
もう一つ目立つのは、戦闘シーン絡みの追加。血生臭い場面が増えているのと、それと同時に戦いの哀しさや虚無感も、より強調されています。特に、導入部に追加された犬のシーンと、クライマックスのトロイ落城の追加シーンは秀逸。これらの追加によって、この悲劇の持つ「人の世の哀しさ」を、オリジナル版より更に巨視的な視点から俯瞰するような、そんな味わいが加わっています。
ちょいとマニアックなファン視点でいくと、音楽の変更も見逃せないところ。
というのはこの映画、公開直前になって、音楽のガブリエル・ヤレドが降ろされてしまい、ジェイムス・ホーナーへと変わったという経緯があるんですが、今回のディレクターズ・カット版では、エンド・クレジットに追加音楽としてヤレドの名前があります。ヤレド好きの私としては、この復活劇は嬉しいサプライズ。
もちろん、メインに使用されているのはホーナーのスコアなんですが、例えばエンド・クレジットで使われていた、ジョシュ・グローバンの歌う「リメンバー・ミー」が、今回のディレクターズ・カット版では未使用だったりして、音楽の使われ方が全体的にちょっと渋めになっている印象があります。
ケレン味が減った分、物足りなさを感じる方もいそうではありますが、個人的にはオリジナルのホーナーの音楽に、悪くはないんだけどちょっと大味な感じを受けていたので、この変更は好印象でした。
『トロイ ディレクターズ・カット』(amazon.co.jp)
さて、ついでにオリジナル版とディレクターズ・カット版に共通する、映画自体の印象なんぞについて、改めて少し書いてみましょう。
まず、この映画に対する評価が決定的に分かれる点として、『イーリアス』およびトロイア戦争に絡む伝承を、この映画がかなり大胆にアレンジしていることについて、それを是とするか非とするかが挙げられます。で、私個人としては「これはこれでアリ」という是の立場です。
というのも、トロイア戦争の話というのは、それを基に娯楽映画を作ろうとすると、モノガタリの幕切れをどうするか、そのトリートメントがかなり難しいと思うんですよ。で、トロイア戦争を描いた映画を見るにあたっては、それをどうクリアするかというのも、個人的に興味が惹かれるポイントだったりするわけです。
以下、ちょっと『トロイ』及び他のトロイア戦争ものの映画に関するネタバレ含みます。お嫌な方は、この段は飛ばしてください。
まず、ロバート・ワイズの『トロイのヘレン(DVD題「ヘレン・オブ・トロイ」)』では、パリスとヘレネーの恋を軸に描きつつ、ラストでヘレネーはメネラーオスの元に戻る。これは伝承通りといえばそうなんですが、娯楽映画としては、何となく終わり方がスッキリしないというか、いまいち釈然としない感が残ります。見所は多々ありますが、映画全体としては、あまり成功しているとは思えないというのが正直な印象。
TVムービーの『トロイ・ザ・ウォーズ』でも、やはりヘレネーとパリスの恋を軸にしており、二人の末路に関しては、やはり同種のスッキリしない感があります。。ただしこの作品では、イーピゲネイアの生け贄のエピソードを入れることによってアガメムノーンを悪役にし、モノガタリの最後に、クリュタイムネストラによるアガメムノーンの殺害を持ってくることでカタルシスを作り、娯楽作品的なバランスを保っています。
イタリア史劇の『大城砦』では、映画の冒頭が、ヘクトールの死体を引きずり回すアキレウスのシーンで始まり、主人公はそれを見守るアエネイアースです。モノガタリはトロイアの落城で終わりますが、そこから脱出するアエネイアースと、そこに「この一行が後のローマの始祖となる」というナレーションをかぶせることによって、悲劇でありながらも前向きな、娯楽映画としては実に良いバランスのエンディングになっている。
トロイア戦争ものというと、その後日譚であるエウリピデスのギリシャ悲劇を、マイケル・カコヤニス監督が映画化した『トロイアの女』なんかも忘れがたいですが、これはいわゆる娯楽映画ではないので、そういったトリートメントは見られません。また、逆に言うと、こういった原典の忠実な映像化というスタンスでは、ハリウッド的なビッグ・バジェットによる映像化は不可能でしょう。
というわけで、ふんだんに金を掛けて作られる大作娯楽映画の場合、原典に忠実であれと期待すること自体が、そもそも無理のある話なんですな。その無理を承知の上で、ではいかにトリートメントを加えて、映像作品としての魅力を見せているか、というところに、私としては最も興味が惹かれるわけです。
『トロイ』の初見時には、憎々しく描かれたアガメムノーンを見て、ひゃー、どうすんのよ、こいつが最後まで生きてたら、観客は納得しないんじゃないの、とか、しかも、イーピゲネイアもクリュタイムネストラもカッサンドラも出てこないし、どーやってオチをつけるんだろう、と、他人事(笑)ながら心配になっちゃったんですが、メネラーオスが殺された時点で、覚悟が決まった……というか、もう何が出ても驚かない心構えはできました(笑)。
つまり、この映画の場合は、とにかく娯楽作品的なフォーマットが最重要視されている。エピソードの取捨択一も、そこが基準になっているので、巧拙はともかくブレはない。正直なところ、アキレウスの死のタイミングが変更されたり、木馬を城内に入れるに至るくだりのあたりとか、エピソード的な破綻や無理がないとは言えないんだけれど、それでも苦労と工夫の跡はしのばれる。
そんなこんなで、この映画における大胆なアレンジは、これはこれでアリだというのが、私個人の評価。
その他の魅力としては、モノガタリの中に、戦いとは、名声とは、神とは、信仰とは、といった様々なテーマを盛り込まれているところとか、全体が群像劇として描かれていることなどがあります。
特に後者に関しては、当代の人気俳優、期待の新人、往年の名優、出ると嬉しいバイプレイヤー、といったキャスティングの妙味も加わって、実に充実していました。キャラクターは良く立っているし、皆さん存在感や魅力もタップリ。
アクション・スペクタクルとしても、モブやセットの物量的なスケール感はすごいし、かと思えば、演舞を思わせるような美しくてシャープな剣劇もある。古代幻想としてのトロイア戦争の視覚化という点では、文句なしの素晴らしさ。
美術面の検討も素晴らしくて、特に衣装は素晴らしい。衣装デザインのボブ・リングウッドは、かつてジョン・ブアマンの『エクスカリバー』とデヴィッド・リンチの『砂の惑星』で、感動して名前を覚えた方だったんですが、古代的な質感を損なわず、それでいて優美さも持ち合わせているこの映画の衣装デザインは、本当に好き。
木馬も良かった。どっから材料を調達するんだというツッコミどころを、見事な発想でクリアしつつ、同時に造形的にも美しいのが素晴らしい。映画に登場した歴代の「トロイの木馬」の中では、問答無用で一等賞。
あと、『300』の登場で、ちょっと印象は霞んじゃったけど、マッチョ映画としても見応えあります(笑)。ネイサン・ジョーンズは、この映画で名前を覚えたんだっけ(笑)。
『タブウ』およびヴァルター・シュピース追補
前回の記事を書いた後、ヴァルター・シュピースについて、もう少し詳しく知りたくなったので、とりあえず手頃そうな『バリ島芸術をつくった男 ヴァルター・シュピースの魔術的人生』(伊藤俊治・著/平凡社新書)という本を読んでみた。
結論から言うと、残念ながらF・W・ムルナウとの関係については、シュピースのドイツ時代のバイオグラフィー関係や、交友がバリ移住後にも続いていたということ、ムルナウの『ノスフェラートゥ』がシュピースの写真作品に与えた影響(特に魔女ランダを撮影したもの)などについて、軽く触れられているのみで、特に目新しいものはなかった。
しかし、「南海を舞台にした映画を共同でつくるというプランも二人の間にはあった」という記述があり、これは『タブウ』という映画の成立要因を考えるにあたっては、なかなか興味深い事実だと言えそうだ。
またこの本は、シュピースとムルナウの関係については、前述した通りではあるが、シュピースという作家の生涯や、彼がどのようにしてバリの文化に関わり、バリ舞踏やバリ絵画が現在知られるような形に至ったのか、その経緯や時代背景や思想はどういったものであったのか、などといったことについては、とても判りやすく解説されているので、シュピースやバリ芸術に興味のある方ならば、読んで損はない内容である。
さて、それとは別に、私がこの本を読んで、もう一カ所、興味を惹かれた部分があった。それは、1983年にシュピースが、「同性愛の罪」によって逮捕されたことに関する、その時代的な背景についての記述である。(ただし本書では、この部分以外には同性愛者について述べている部分はないので、「同性愛者としてのシュピース」の実像を本書から伺い知ることは、残念ながらほとんど出来なかった)
では、まず以下の引用をお読みいただきたい。
「1930年代末になると、ファシズムの影が濃くヨーロッパを覆いつくし、それが世界中に広がってゆくようになった。ヒットラーの台頭と日本のアジア侵略は、インドネシアを統治しているオランダ政府にも大きな影響を与えた。(中略)
そして何十年もの間、暗黙に了解されてきた慣習が突然、秩序にとって危険なもののように見えはじめ、いわゆる"魔女狩り"が主として性道徳上の問題(特にホモセクシュアル)に対して向けられていった。ジャーナリズムも同調し、そうした人々に対し悪意のこもったキャンペーンを始めるようになり、家宅捜索状が出され、警察が容疑者たちを次々と取り調べ始めた。
(中略)わずか数ヶ月間に、インドネシアでは風紀紊乱(ホモセクシュアル)による容疑者が百人以上も逮捕され、多くの人々が同じ事態が自らの身にも起こるのではないかという不安におびえ暮らしているありさまだった。自殺、免職、結婚の解消などが相次ぎ、バリでもそうした状況を免れることができなかった」
私が興味を惹かれたのは、こうしたカタストロフが起きる以前の状況、すなわち同性愛が「何十年もの間、暗黙に了解されてきた」という状況である。
では、なぜそれに興味を惹かれたのか。
それは、その状況が現在の日本と同じだからである。
日本では、欧米で見られるヘイトクライムのような、いわゆる目に見える形としての「ゲイ差別」は、幸いにして殆ど見られない。また、ある種の宗教的基盤のような、同性愛を絶対的な悪とみなす価値基準も、おそらくは文化的に存在していない。
ただし、どの社会でも一定数はいるであろう、同性愛を道徳的に悪しとする層は、日本社会の中にも確実に存在するであろう。じっさい、ネット上の匿名の場においては、本気なのか露悪趣味的な行為に過ぎないのかは別としても、そういった論調にお目に掛かることは、決して珍しくはない。
では、なぜそれが実社会で表面化していないかといえば、それは単に、そういった人々を後押しする大義名分が存在しないということと、そういった行為自体が、現在の社会というシステムの中で「良くないこと」とされているからである。仮に、宗教右派のような思想が後押しをすれば、同性愛批判は「正しい」という信念のもとに表面化するであろうし、社会というシステム自体がそれを制約しなければ、やはり同様の結果になる。欧米におけるキリスト教右派による活動などは、前者に相当するし、中東などのイスラム国家における同性愛差別は、前者と後者と共に相当する。
つまり、極論を恐れずに言うならば、日本における「ゲイ差別がない」状況というのは、社会というシステムによって「何となくそういう状況に置かれている」ということでしかない。
これは前述した「何十年もの間、暗黙に了解されてきた」という、1930年代の「同性愛者狩り」が始まる前オランダ領インドネシアの状況と、実は何ら変わることはないのだ。
しかし、その同じ「暗黙の了解」が、1930年代、ほんの数年のスパンで、社会のパラダイム・シフトによって崩れた。それまで表面化していなかったものが、大義名分や社会不安の影響といった後押しを得て、政治的な力となって顕在化したのだ。これは見方を変えれば、状況次第ではそうなって然るべき潜在需要が、かつての「暗黙の了解」の時代の中でも、既に存在していたのだとも言えよう。
そして、シュピースはその犠牲となった。(ただし、シュピースは後に釈放はされている。彼の直接的な死因となった、収容所間の移送中の爆撃において、その拘留理由となったのは、ドイツのオランダ侵攻による「敵国人」であるということだった)
このことは、同性愛を「何となく」寛容している「暗黙の了解」というものが、社会というシステム自体が変化していく局面においては、いかに脆弱なものであるかということを指し示している。
では、同様のことが現在起こったならば、いったいどうなるだろう。
欧米に関しては、同性愛者側からの抵抗がはっきりと出て、簡単に同じ結果にはならないであろうことが、充分想像できる。目に見える差別に晒されてきた欧米の同性愛者たちは、現時点において既に、政治的にも経済的にも、ある程度以上の行動力は持ち合わせているからである。
しかし、日本ではどうだろう。
これまで日本では、前述のように表面化したゲイ差別がないためもあり、団結や主張、或いは防衛の必要はなかった。権利を侵害されることはないが、同時に権利を主張することもなかった、あるいはする必要がなかったのだ。
日本におけるゲイのライフスタイルは、一例を挙げれば、その多くがウィークデイやデイタイムは「普通に生活」しながら、夜や週末や自宅のパソコン・モニター上でのみ「ゲイライフ」を満喫するという、「日常と分離した非日常としてのゲイ」なのである。よって、そういった非日常としてのゲイ・ビジネスは、ある程度以上には盛んであるし、社交を目的にするにせよ、性的な充足を目的にするにせよ、そういった場には事欠かないという、楽しいゲイ・ライフを満喫できる恵まれた状況にある。
しかし、例えばLGBT向けのTVネットワークであるとか、書店で普通に買えるエロだけではないLGBT雑誌であるとか、あるいは同性婚であるとか、そういったものになると、これらはいずれもゲイ文化、あるいはゲイという主体が、日常レベルでも機能している、あるいは消費の対象となっているがゆえに、初めて機能しうる類のものである。だが、日本では「日常」において、ほとんどのゲイが「姿の見えない存在」である以上、マーケット自体が存在しないのと同様なので、当然のように、前述したような類のものも存在しえない。
このことは、例えばカミングアウトしていないゲイが、家族や友人、仕事の同僚などの前で、明確に「ゲイ向け」の商品を購入することができるかどうかを考えれば、分かりやすいであろう。現時点での日本のような、日常化していないゲイ・マーケットの消費層にとっては、「ゲイ向け」というそのものズバリではないが、「ゲイ受けのする」とか「実はゲイらしい」といった、ゲイ・コミュニティー内である程度の共通認識がありつつ、しかし「ゲイとは何の関係もない」というエクスキューズも可能な「商品」までが、精一杯なのである。
こういった現象の是非は別にして、それが結果として、日本のゲイの置かれている現状が、欧米におけるそれとは異なっている状況をもたらしている。それは、政治や経済といった「日常」においては、日本のゲイ・コミュニティーは全く力を持っておらず、また、行動を起こそうともしていないということである。
過去に何度か、ヘテロセクシュアルのサイドから、政治的に、あるいは経済的に、欧米同様にゲイという潜在人口を期待したアプローチをしたことはあった。しかし、そのいずれもが期待された成果は得られなかった。つまり、他ならぬゲイ自身が、それに賛同することなくオミットしたのだ。このことからは必然的に、多くの日本のゲイ自身が、ゲイがあくまでも「非日常」のままであることを望んでいるのであろうと思わされる。ゲイが日常化することを希望する人口は、却って少数派なのであろう。
こういった現状を踏まえて、社会的なパラダイム・シフトが起こった場合、日本のゲイがそれに抵抗できる力を持ち合わせているかを考えると、残念ながら個人的には、どうも悲観的な予測しかできない。
しかも恐ろしいことに、前述した1930年代のオランダ領インドネシアにおける「同性愛者狩り」は、同種の行為で知られるナチス・ドイツによって行われたのではなく、ナチスに対立しつつ、その影に脅かされていたオランダにおいて、社会的不安を背景にして生まれている。ファシズムという、いわば分かりやすい「悪」の所産ではなく、それに対峙する存在であるかのような、本書の表現を借りると「普段は明晰で合理的な考え方を持つオランダ人たち」の手によってなされたのだ。これは、こういった「同性愛者狩り」が、ナチスの優性思想などとは異なる類の、より普遍的な人間社会のありようである可能性を指し示しているようで、ある意味で、絶滅収容所よりもそら恐ろしいものを感じる。
日本は差別もなく、ゲイにとっては住みやすい国かも知れない。しかし、その安穏さの立脚基盤は、慣習的な曖昧さに基づいているものであるがゆえに、同時にひどく脆弱である。そして、こうした曖昧さは、ゲイにとってのカタストロフが起こった際には、何の力にもなりえないであろう。
本書でヴァルター・シュピースの晩年について読み、改めて、そんなことについて考えさせられた。
『タブウ』
『タブウ』(1931)F・W・ムルナウ
“Tabu: A Story of the South Seas” (1931) F.W.Murnau
ムルナウが同性愛者だと知ったとき、私はムルナウの作品は『吸血鬼ノスフェラートゥ 恐怖の交響楽』『ファウスト』『サンライズ』の三本を見たのみで、正直なところ意外に思った。1920年代から30年代という活動時期から鑑みても、それっぽい直截的な描写はなくて当然なのだが、それにしても、彼の映画からそれらしき気配を感じたことが全くなかったからである。
その後、『ファントム』『最後の人』『フォーゲルエート城』などを見たときも、その印象は変わらなかった。見れば見るほどこの監督が好きになり、以前は自分の中で「ラング>ムルナウ」だったのが、いまではすっかり「ムルナウ>ラング」に逆転してしまったものの、同性愛的な要素に関しては、あくまでも「ああ、言われてみれば……う〜ん、そう深読みもできるかなぁ……?」といった程度の印象だった。
そんな状況で、今回初めて『タブウ』を鑑賞した。
そして、驚いた。
そこには、同性愛者としてのムルナウの存在が、はっきりと刻印されていたからである。
モノガタリは、南太平洋を舞台とした、寓話的とも言えるシンプルなラブ・ストーリーである。
文明の力未だ及ばずの楽園、ボラボラ島に暮らす若い男女が恋に落ちる。しかし娘が、神に身を捧げる乙女に選ばれたことにより、二人の恋は禁忌(タブウ)の恋になってしまう。互いを諦めきれない二人は、やがて手に手をとって島から逃げ出す。駆け落ちした二人は、より文明化された島へと辿り着き、そこでひっそりと幸せに暮らす。だが、そこに追っ手が迫る。二人は再び脱出を試みるが、貨幣という「文明による堕落」が、それを阻む。
ここをもう少し詳しく説明すると、かつて二人が暮らしていた島には、貨幣の概念がなかった。しかし、今度の島では、船に乗るにもお金がいる。貨幣の概念を知らなかった二人は、一度は追求の手を「買収」によって逃れることができるのだが、一方で、それと知らずに抱えてしまっていた「負債」が、最終的に二人の脱出行の障害になってしまうのだ。
以下、ネタバレになるので、お嫌な方は、次の段は飛ばしてください。
【ここからネタバレ】
脱出の道を喪い、娘は、愛する若者の命を救うために、自分は追っ手と共に島に戻ることを決意する。一方若者は、負債を返済するために、鮫が潜むタブウの海域に潜り、真珠を採ろうと決意する。結果として若者の試みは成功するのだが、家に戻ったときには、既に娘は書き置きを残して姿を消した後だった。
若者は、恋人を連れ去る船を追う。最初はカヌーで、そして泳ぎで。帆に風をはらんで疾走する帆船を、泳いで、泳いで、泳ぎまくって、ひたすら追いかける。そしてついに、船から垂れたロープを掴む。しかし、追っ手の老人は、娘を船倉に押し込むと、若者の握ったロープを無情にも切断する。船は進み、若者は次第に引き離されていく。そしてついに若者は力尽き、大海に沈んで消えてしまう……。
【ここまでネタバレ】
こういったモノガタリが、職業俳優ではない素人の現地人の演技と、南太平洋の美しい自然の情景に彩られながら綴られていく。
手法としてはドキュメンタリー的だが、主題としては、民俗学的な記録映画的なものではなく、やはり寓意的な愛のモノガタリが前面に出ている印象が強い。
寓話的世界とドキュメンタリー的な世界の齟齬もあって、私が個人的にムルナウのベストだと思う『吸血鬼ノスフェラートゥ』『最後の人』『サンライズ』の三本と比べると、若干見劣りする感はあるものの、それでも充分以上に見応えのある名作であることには変わりなく、しかも、以下で述べる同性愛的な要素も併せて鑑みると、私にとって忘れがたい一本となりそうな作品だった。
では、この映画に見られる同性愛的な要素について。
最も直截的にそれを感じられるのは、映画の冒頭で映し出される、ポリネシアの青年たちの美しい裸身であろう。南国の楽園で、若者たちのしなやかな裸身が、画面から飛び出さんばかりに躍動する。
このシークエンスにおいて、それを捕らえるムルナウの「目」に、意識的にせよ無意識的にせよ、同性愛的な視点が存在するのは、後述するように、ムルナウが死んだときに一緒だったのが、フィリピン人のボーイフレンドだという点からも明かであろう。また、映画には乳房も露わな娘たちの裸身も出てくるが、この青年たちの裸身を撮るときのような、肉体の美しさそのものに耽溺しているようなニュアンスは見られない。
いささか唐突ではあるが、私はこの一連のシークエンスを見ながら、何とはなしに、シチリアのタオルミナで古代ギリシャ憧憬に基づく青少年のヌード写真を撮り続けた、やはり同性愛者であったヴィルヘルム・フォン・グローデン男爵の写真を連想していた。
そして、もう一つの同性愛的な要素は、禁忌(タブウ)の愛という映画の主題そのものである。
禁断の愛すなわち同性愛の暗喩と捉えるのは、いささか安直に過ぎるかもしれない。しかしこの映画の場合、監督自身が同性愛者であるということと、特定の愛がタブウとなる背景が、共同体というシステムに起因していることが明示されているという点からも、やはり同性愛のアレゴリーであると考えたくなってしまう。
ここで重要視したいのは、この映画は未だ文明化されていない南国の島を楽園的に描きながらも、同時にそれが二人の愛をタブウとする原因でもあるという点だ。則ちここで描かれている南国は、例えばゴーギャンが描いたような、非文明的であるがゆえの愛と生命に満ちた楽園では、決してないのだ。
同時にこの映画には、前述したような文明批評的な要素も出てくる。では、非文明と対比された文明化された社会によって、二人の愛は救われるのかというと、これまたそうではない。文明社会は文明社会で、これまた二人の愛に代表される「純粋さ」を阻害してしまうのだ。
原始社会が愛を阻む禁忌となり、それを人文化された文明が救うという構図ではなく、逆に、近代社会で叶わぬ純粋な愛が、原始の楽園で許容されるという構図でもなく、どちらもが純粋な愛の成就を阻害する。このことは、後述する、この映画の制作の原動力となった、ムルナウとヴァルター・シュピースとの関わりを考え併せると、よりいっそう興味深いものに映る。
DVDには、小松宏という方による詳細な解説書が付いているので、この映画の成り立ちについて、詳しく知ることができる。
それによるとムルナウは、「かつて生活を共にしたワルター(ママ)・シュピースが彼のもとを去って南洋の島に行って以来(中略)いつしか南海の島々を自分の船で探検するという夢を抱くようになっていた」とある。そしてムルナウは、帆船を購入し、それをバリ号と名付ける。これは、シュピースが暮らしていたのはバリ島で、彼はそこから「何通もの手紙をムルナウのもとに送ってきており、このいまだ見ぬ島はムルナウにとって憧れの場所になっていた」ことに起因している。
やがてムルナウは、ドキュメンタリー作家のロバート・フラハティーと出会い、南太平洋を舞台に共同で『トゥリア』という映画を撮ることを計画する。そして様々な要因で企画変更を経た後、『トゥリア』ではなく『タブウ』という映画が完成する。そして、解説書に記載されている粗筋を読む限り、この『トゥリア』の内容は、文明批評的な要素のある悲恋ものではあるものの、『タブウ』のような禁忌としての愛や、その純粋な愛が、非文明にも文明にも阻害されるという構造は見あたらない。
撮影のためにタヒチに赴くにあたって、ムルナウはフラハティーとは別行動で、一ヶ月先んじて、自らのバリ号で出発した。しかし「様々な港に寄港しながらタヒチに向かったため、彼がタヒチのパペーテに到着したのは、フラハティーに遅れること1ヶ月」だったとある。このとき、ムルナウがバリ島のシュピースのもとを訪れたかどうかは、残念ながらこの解説からは判らない。
ここで、私がこの映画の成立背景を考えるにあたって、極めて重要だと思いつつも、しかし解説書にはそれに関する記載が一切ない、ある「事実」がある。
それは、ムルナウ同様に、ヴァルター・シュピースもまた、同性愛者であったということだ。
解説には「かつて生活を共にした」とあるが、シュピースはムルナウの恋人であった。そして、やがてムルナウの元からバリ島へと去るが、前述したようにその存在は、引き続きムルナウに影響を与え続ける。余談になるが、ちょっとコクトーとランボーを連想させる関係だ。
西洋社会から南国の「楽園」へ逃れた、かつての恋人に影響され、自らも「楽園」への憧れを抱いた、同性愛者としてのムルナウ。そして、そのムルナウが、いざ自ら楽園に赴いて描き出した、純粋な愛がシステムによって禁忌とされ、文明からも非文明の楽園からも拒絶され、押しつぶされていくモノガタリ。
つまり、この『タブウ』という映画は、制作過程や表現手法という点ではフラハティーの存在が大きいが、その起因と結果を見ると、内容的にはムルナウとシュピースという、同性愛者としての二人の関係を踏まえて、考察されるべき作品ではないかと思うのだ。
こういった事情は、知る人には既に周知の事実なのかも知れない。また、これ以上の論考を進めるには、シュピースの伝記なり何なりを紐解く必要がありそうなので、考察はここで留めることにする。じっさい、ネットで検索してみると、『バリ、夢の景色 ヴァルター・シュピース伝』という書籍に、「影を共有した二人/同性愛者たちの夢の景色/孤独なムルナウの足跡と『夢の景色』の行方/ムルナウの失楽園/死してノスフェラトゥとなったムルナウ」という、興味深い章立てがあるのが見つかった。
ただ、このDVDに付属した解説が、丁寧ではあるものの、同性愛的に関しては触れることなく、しかしそういった要素は暗示しているような、そんな、どこか奥歯に物が挟まったような物言いが多いのが気になった。
それで、ここで自分なりに補完してみようと思った次第である。
こういった、奥歯に物が挟まったような物言いは、解説の他の部分にも見られる。
例えば、ムルナウの死に関する記述。
ムルナウはこの『タブウ』の完成させた後、その公開を待たずして自動車事故で亡くなってしまうのだが、これに関して解説書では「ムルナウとフィリピン人の少年を乗せた」と書かれているのみで、そのフィリピン人の少年がムルナウのボーイフレンドであるとは明記されていない。もし、事故の際の同乗者が、監督の細君であったり、あるいは女性の恋人であったならば、こういう書き方はされるまい。はっきりと、「妻と」とか「恋人と」とか書かれるであろう。
また、映画としての総論が述べられる部分も然りである。少々長くなるが、以下の引用をお読みいただきたい。
ムルナウの作品には多くの場合彼の個人的な世界が反映されているように見える。彼の作品における愛の純粋性や孤独の価値といったものはその表れの事例とも看做されよう。そのような意味で見ると、『タブウ』はムルナウの最もパーソナルな映画といってよいかもしれない。(中略)ムルナウは理想郷だけでは満足しなかった。そこに彼は自分の宿命を投影した。まさにこの作品がムルナウの最もパーソナルな映画である理由はここにある。タブーに触れることが、避けられない宿命として語られる。(中略)ムルナウは(中略)この映画によって希望を求め(中略)自らを待ち受ける運命を予言した。『タブウ』はその意味で、ムルナウにとっては自己発見の映画であり、同時に自己否定の映画でもあった。(中略)映画が完成した時点で、これはフラハティーの世界とは極めて遠くはなれているムルナウの個人的な告白の映画になった。
このように、この『タブウ』がムルナウのパーソナルな告白といった要素を持ち合わせていることに触れつつ、しかし、具体的にそれが何であるのかについては、一切触れることなく曖昧にぼかされた内容になっている。
この結論部分に限らず、シュピースに関する記述同様に、この解説文中には、ムルナウが同性愛者であったという記述は一切ない。これは、ムルナウの他の作品ならいざ知らず、この『タブウ』のクリティカルな解説としては、余りに片手おちであるように、私には感じられる。
また、それと同時に、同性愛という言葉を周到に避けながらも、しかし知っている人には判るような、この暗示めいた文章が生み出された、その由縁が気になる。これは、ある種の「配慮」によるものなのだろうか。だとしたら、この解説文の内容を批判する気はないが、しかし、そういった「配慮」をすること自体が、同性愛に対して差別的なのだという指摘はしておきたい。理由はどうあれ、その根底には、同性愛とは隠匿すべきものだという思想が隠れているのだから。
そして、私にとって最大の悲しむべきことは、ムルナウが自らの『タブウ』に踏み込んで描いたこの映画のテーマが、21世紀の現代日本においても、いまだに「タブー」のように扱われているという、シンプルにして恥ずべき事実だった。これは、この映画を撮ったムルナウの精神そのものにも反しているだろう。
前述したように、ムルナウはこの映画の公開を待つことなく、自動車事故によって夭逝した。それから7年後、シュピースは「同性愛の罪」によって逮捕される。そして釈放と再逮捕を経て、1942年、船によって身柄を移送中に、日本軍の爆撃を受けて死亡した。このように『タブウ』は、同性愛者の表現者による最後の作品が、作家の人生における同性愛者としての側面と、不思議な符帳を見せているという点で、パゾリーニの『ソドムの市』やファスビンダーの『ケレル』と似たものを感じさせる。
またこの作品を、上に述べてきたような同性愛的な視点で読み解いていくと、映画のクライマックス、泳いで、泳いで、泳ぎまくる青年の姿に、同性愛者としてのムルナウの姿が重なって浮かびあがり、その結末には涙を禁じ得ないだろう。
『タブウ』は、同性愛の映画ではない。
しかし、同性愛者ならば必見の映画である。
『タブウ』DVD(amazon.co.jp)
『モンゴル』
モンゴル(2007)セルゲイ・ボドロフ
Mongol (2007) Sergei Bodrov
いや、お見事!
実は、見る前はちょっと不安でした。というのも、監督のセルゲイ・ボドロフには、『コーカサスの虜』と『ベアーズ・キス』で好感を持っていたけれど、身の丈サイズの世界を描くのに長けたタイプという印象で、それがスケールの大きな時代劇を撮るというのが、どうもピンとこなかったからです。
しかし、いざ『モンゴル』を見てみたら……う〜ん、すごい! 作家としての懐の深さを見せつけられた感じで、ほとほと感服しました。
内容的には、後のチンギス・ハーンとして知られるテムジンの、前半生を追いかけたものですが、いわゆる歴史劇とは、アプローチの仕方がちょっと異なっています。
というのも、歴史劇というものは、基本的に「何が起きたか」という叙事の要素に重きが置かれますが、この映画の場合は、そこはあまり重要なことではなく、「そういう場で、人が何を感じているか」という点にフォーカスが置かれている。
そういうわけで、歴史の絵解きを期待すると、そこいらへんはちょっとはぐらかされるかもしれない。テムジンという人間が、いかにしてそれを成し遂げたか、というパワーゲーム的なプロセスの部分が、ドラマからバッサリ省略されていてるからです。
では、ドラマの視点が個に終始していて、マクロな視点がないかというと、これまた違う。というのも、この映画には主役が二人いて(……というか「二つあって」の方が正確か)、テムジンという人間と並んで、モンゴルという場所そのものも、また一つの主役なのである。そして、その「地」を捉える視点が、歴史よりも更にマクロに引いた、神話的なスケールの巨視になっている。
このことは、ドラマを「モンゴルという地で起きた歴史事件」というよりは、「モンゴルという神話的な土地を描いたもの」といった感触にしている。そして、それと童子に、その中で蠢く「人」という個にフォーカスを置き、そこで生まれる様々な感情といった普遍的な「人の生」も、同時に描かれる。
ここいらへんは、映画の肌触りとして、イヌイットの神話的世界を描いたカナダ映画『氷海の伝説』なんかに近い。或いは、パゾリーニの『アポロンの地獄』や『王女メディア』にも、ちょっと似た感覚がある。
そして、こういった複数の視点の、バランス配分が実に素晴らしい。
映画では、テングリ(天の神)絡みのシーンで、幾つかの超常的なものが描かれる。これは、神話世界に属する要素だ。それが、リアリズムを損なわない範囲で(つまりファンタジー映画にはなってしまわないバランスで)、静かに、しかし印象的に描かれる。
そして、テムジンという人物を描くという、歴史劇としての要素。前述したように、叙事に関しては割愛要素が多いし、生い立ち等の内容も、かなりフィクションが含まれているようだが、何を考え、どういういきさつで、彼が「それ(具体的には世界帝国の樹立だが、この映画ではそこまでは描かれないので、モンゴル統一ということになる)」を行うに至ったのか、或いは、彼にそれを可能にせしめた、他と違う何が備わっていたのか、といったことは、さりげなくではあるが、しっかりと描かれている。
また、当時のモンゴルの風習や、人の価値観。これも、歴史劇に属する要素で、人間の行動原理が、現代人的なものとははっきりと異なった、いかにも、その時その地でそうであったろうと思わせるものになっている。こういった、キャラクターの非現代性が、現代人にとっては新奇に映る風習などの細やかな描写と相まって、歴史劇的な説得力が生まれている。
しかし、こういった現代人とは異なる行動原理を備えたキャラクターであっても、その場その場で生まれる感情そのものは、現代と変わらぬ普遍的なものだ。例え、それぞれのキャラクターの持つ行動原理や当時の価値観には、馴染めなかったり理解し難かったりするものがあっても、その行動によって生まれる愛とか怒りとか悲しみとかいった、感情そのものには容易に共感することが可能である。このことによって、この映画は人間ドラマとしての普遍性も獲得している。
そして、それを映像表現として、実に見事に見せてくれる。たっぷり引きのある雄大な風景と、人物の極端なクローズアップ。悠然と構えて動かぬカメラと、グラグラと揺れる手持ちカメラ。カメラの視点がドラマの視点と重なり、映像とテーマが密接に離れがたく組み合わさっている印象。
でもって更にスゴいのは、この映画が娯楽映画的な完成度も、きちんと外さずに抑えているところ。
扱うテーマに比して、ドラマのテンポは意外なほど早い。アンドレイ・タルコフスキーやテオ・アンゲロプロスと比べればもちろんのこと、テレンス・マリックがダメな人でも、この映画なら大丈夫なんじゃないかというくらい、娯楽映画的なテンポの良さがある。
また、ある意味でラブ・ストーリーが前面に出ているので、エモーショナルなキャッチーさもある。復讐譚的なツカミも効果的だし、ストーリー的に興味を引きつける娯楽要素が多い。作品の持つ多層性によって、様々なレベルでの楽しみ方が可能になっている、懐の深い内容だ。
ただし、多層的であるが故の弱さもあって、例えば前述したように、歴史の絵解きを期待するとはぐらかされるというケースもあるし、エピック的なカタルシスを期待してしまうと、これまた同様にちょっと物足りなさが残るかも知れない。
しかし、息をのむような壮大な風景を捉えた圧倒的な映像美は、それを見るだけでも損はないし、テムジン、その妻ボルテ、盟友ジャムカといった、魅力的な面々が繰り広げるキャラクタードラマも、大いに魅力的だ。クライマックスの大合戦シーンなど、スペクタクル的に明解な見所もあるし、この大合戦を含め、大小取り混ぜての繰り広げられる戦闘シーンは、アクション映画的な魅力も充分にある。
このアクション・シーンというのも、映画を見る前は、ボドロフ監督によるそれというのがちょっと想像できなかったのだが(失礼を承知で白状すると「え〜、迫力のある戦闘とか撮れんの?」とか思ってました)、これまた主観と客観の切り替えや、SEの大小やカメラのスピードで生み出される間合い、更には血しぶきが飛び散るタイミングまで、不思議なリズム感があって、すっかり魅せられてしまいました。
あと音楽も、期待通りホーミーやモリンホールの響きがふんだんに使われ、オルティン・ドーみたいな歌も出てきたし、他にもアンビエント的な音響とかあったり、あと、エンド・クレジットでモンゴル版ヘビメタみたいのまで出てきたりして(正直、個人的な趣味から言うと、このモンゴリアン・ヘビメタは、ちょっとイマイチな感じでしたが)、サントラ買う気満々で映画館を出たんですが……残念、出てないのね。ロシアのCD通販サイトも調べたけど、見つからなかった。発売希望。
役者さんは、まずテムジン役の浅野忠信。ライバル役のスン・ホンレイが、アクも押しも強いので、ちょっと押されちゃいそうな感じはあるんですが、しかしそれに負けない静かな存在感があって、演じるキャラクターとも見事に合致してマル。
ジャムカ役のスン・ホンレイ、親しみやすさと豪放さを併せ持った、いかにも魅力的なサブキャラに相応しい存在感でマル。
ボルテ役のクーラン・チュラン。かなり個性的なお顔というか、「欧米ウケはするが日本人ウケはしない」タイプの顔の女性ですが、少女的な純粋感から始まって、女性的な強さ、母性的な包容力と、ドラマの進行に伴って、魅力の幅がどんどん拡がっていってマル。
他には、子役のテムジン、テムジンの母などが印象に残ったかな。敵役が少し弱いのと、テムジンの配下あたりに、もう一つキャラの立った人物が欲しいところ。
どーでもいい追補。
捉えられたテムジンに、敵役が「いいか、この『木のロバ(……だったかな?)』に乗せて拷問してやるぞ!」みたいなシーンがあって、「うわ、どんな拷問?」と楽しみにしていたのに、そのシーンがなかったのは、ちとガッカリ(笑)。
ただ、檻に入れられて見せ物にされているテムジンの顔が、垢に覆われて魚鱗のようになっている特殊メイクは、ちょっと他の映画で見た記憶がないので、なかなか新鮮でした。
『ウルフハウンド 天空の門と魔法の鍵』
『ウルフハウンド 天空の門と魔法の鍵』(2007)ニコライ・レベデフ
“Volkodav iz roda Serykh Psov” (2007) Nikolai Lebedev
ロシア製エピック・ファンタジー映画。劇場未公開のDVDスルー作品ながら、本国ではかなりの大作であったらしく、総合的なクオリティは高し。
平和な村が襲撃され、父と母が殺され、一族で唯一生き残った息子が……という、既視感たっぷりのイントロに代表されるように、アクション・アドベンチャー系のファンタジーとしては、設定等にとりたてて目新しいところはなし。また、二時間を超える尺にもかかわらず、それでもまだ内容を詰め込みすぎなので、世界観の説明に舌足らずなところがあったり、キャラクターが掘り下げ不足だったりという感も否めない。
とはいえ、風景などロケーションの雄大さや、セットの規模やモブの数など、スケール感はタップリ。CGIのクオリティも高いので、いかにもエピック・ファンタジー的な絵面や雰囲気は、存分に満喫できます。
姫君が婚礼に出立するシーンや、生け贄の儀式のシーンなどで、独特な所作やディテールを積み重ねて、異文化の肌触りを描出しようとしている姿勢も、ファンタジー作品として好ましい。
ちょっと説明不足の世界観も、超常現象などの魔法的な要素が、RPG的なアイテムの性能ではなく、多神教世界におけるそれぞれの信仰に基づいて顕現するあたり、創作ファンタジーから少し神話寄りに振れたような魅力はある。世界観と魔法がリンクしていない似非ファンタジーとは異なり、そこいらへんのセオリーは比較的硬派な印象なので、ここを掘り下げ不足なのは勿体ないなぁ。
詰め込みすぎのエピソードも、モンタージュや回想シーンを上手く使って、物足りなさや意味不明感が出るギリギリ手前で、何とかクリアできている印象。キャラクターも同様で、すごく良いというわけではないものの、かといって全く印象に残らないほどでもない。
そんなこんなで、エピック・ファンタジー好きなら、そこそこ楽しめる出来映えだと思います。少なくとも、凡百の安手のファンタジー映画よりは、質量共によっぽど満足度は高いはず。映画が無名だとか、知っているスターが出ていないとかいう理由でスルーしてしまっては、ちょっと勿体ないかも。
ただ、美術や衣装などのデザイン全般は、もう一頑張りして欲しかった。悪役の仮面や甲冑とかが、ちとダサイ(笑)。
演出等は、完全にハリウッド映画的なパターンなので、ロシア映画ならではの味わいとかは全くなし。また、完全に創作エピック・ファンタジーなので、スラブ的な雰囲気とかもなし。音楽もケルトっぽかったりするし。
ハリウッド的でクセがないという点では、『ナイトウォッチ』よりも更に薄味なので、ここいらへんは、かつてのソ連製歴史&ファンタジー映画好きとしては、ちょっと淋しい感じもしますね。アメリカ映画とは違った、独自の味わいがあるファンタジー映画という点では、2003年制作のポーランド製ファンタジー映画”Stara Basn”(邦題『THE レジェンド 伝説の勇者』)の方が、滋味があってヨロシイ。
役者は、主人公のアレクサンドル・ブハロフは、大男でヒゲで汚い長髪と、私の萌えツボを刺激する造形ながら、顔があまり好きではないタイプのせいか(笑)、あんまり印象に残らない。これがもっとタイプの役者だったら、偏愛度もアップするのに、残念。しかも、脱がないし(笑)。
ヒロインのオクサナ・アキンシナは、可愛さと凛とした美しさがあって佳良。他にもいろいろキャラは出てきますが、これといって特筆するようなものはなし。どうも全般的に「そこそこ」感に留まってしまうのが、この映画の最大の弱点かも。
個人的に一番目を奪われたのは、冒頭に出てくる主人公の親父さんなんですけどね。裸エプロン(……って書くと語弊があるか)で槌を振るう、ヒゲのマッチョの鍛冶屋さん。でも、すぐ死んじゃう(笑)。
あとは、人間じゃないんですけど、何と言っても主人公のペット……というより相棒のコウモリ! コウモリ萌え! コウモリがこんなにカワイイ映画は初めてかも(笑)。このコウモリのおかげて、個人的に映画の点数が10点以上はアップしました(笑)。
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『マラソンの戦い』『大城砦』『怪傑白魔』他のサントラCD
以前にも何度か紹介したことのある、Digitmoviesの復刻サントラシリーズから、スティーヴ・リーヴス主演映画のサントラ盤CDが幾つかリリースされたので、まとめてご紹介。
“La Battaglia di Maratona (O.S.T.)” by Roberto Nicolosi
The Italian Peplum Soundtrack Anthologyシリーズ第七弾、『マラソンの戦い』のサントラ。音楽はロベルト・ニコロージ。
タイトル・バックで流れる、あの優美なテーマ曲が入っているだけでも「買い!」でありますが、他にも、キャッチーでメロディーが良く立った曲が多く、映画を離れて単独した音楽として聴いても、なかなか粒ぞろいの好盤です。
ロマンティックな雰囲気の曲は、流麗なストリングスや木管で、しっとりと、時にコケティッシュな表情も交えて、実にウットリと聴かせてくれます。舞踏のシーンで流れていた、フィンガー・シンバルや縦笛や竪琴を使った、ちょいと異教的なムードの曲も、幻想の古代ギリシャといった雰囲気が良く出ている佳曲。
戦闘シーンの曲では、吹き鳴らされる金管や、ストリングスのスタッカートで責めてきますが、いささかお行儀が良すぎるというか、悪くはないんだけど、エピック的なスケール感や高揚感には、ちと欠ける感あり。
『マラソンの戦い』サントラCD
“La Guerra di Troia / La Leggenda di Einea (O.S.T.)” by Giovanni Fusco
The Italian Peplum Soundtrack Anthologyシリーズ第六弾、『大城砦』と、その続編”La Leggenda di Einea” (a.k.a. “The Avenger”, “War of the Trojans”)をカップリングした二枚組。音楽はジョヴァンニ・フスコ。一般的には、ミケランジェロ・アントニオーニ監督とのコンビで知られている作曲家らしいです。
『大城砦』の方は、最初のファンファーレは印象に残るんだけれど、全体的にはちょっと地味な感じです。とはいえ、戦闘シーンなどでかかる、低音のストリングスのスタッカートや、鳴り物で素早くリズムを刻みながら、そこに高らかに金管がかぶる曲なんかは、スピード感があってなかなかカッコいいです。不協和音を多用しているせいか、古代っぽいザラっとしたニュアンスが多いのも佳良。
もい一枚の”La Leggenda di Einea”は、映画自体の出来がアレなわりには、音楽の方は大健闘。ひっそりとした打楽器をバックに、哀感を帯びたメロディーを木管が密やかに奏でているところに、不意に異教的な金管のファンファーレが登場するテーマ曲なんか、かなり好きなテイスト。
全体的には、地味といえば地味なんですが、渋いながらもじっくり聴かせてくれる曲が多い。低音のストリングスをメインに、エモーションを抑えながらじわじわじわじわ展開して、そこにパッと金管が切り込むという曲調が多し。和声のせいか、ちょいとストラビンスキーみたいな感じもあります。ああ、あとレナード・ローゼンマンっぽい感じもするなぁ。この映画に関しては、私は映画よりサントラの方が好き(笑)。
『大城砦/La Leggenda di Einea』サントラCD
“Agi Murad il Diavolo Bianco / Ester e il Re / Gli Invasori” by Roberto Nicolosi & Angelo F. Lavagnino
これはItarian Peplumシリーズではなく、Mario Bava Original Soundtracks Anthologyシリーズの第六弾。リーヴス主演のリッカルド・フレーダ監督作『怪傑白魔』(マリオ・バーヴァは撮影監督)に、『ペルシャ大王』(未見)と『バイキングの復讐』(このあいだ米盤DVDを買ったんだけど、まだ見てまへん……)をカップリングした二枚組。音楽は『マラソンの戦い』と同じく、ロベルト・ニコロージ。『ペルシャ大王』のみ、『ポンペイ最後の日』のアンジェロ・フランチェスコ・ラヴァニーノが、一緒にクレジットされています。
『怪傑白魔』は、映画が近世ロシアを舞台にした痛快冒険アクション作品なので、音楽も同様に、時に勇ましく時に軽快に、でも基本は明るく楽しく……ってな塩梅。キャッチーなメロディーで弾むような曲調が多いんですけど、明朗さが前面に出ているせいか、ちょいと長閑な印象もあり。
ちょいとビックリしちゃうのは、民族音楽を模したと思しき一曲がありまして、コサック・ダンスなのか、テンポの速いバラライカ(?)にドンチャン打楽器がかぶる曲調なんですが、これが何だかやけにガチャガチャしていて、民族音楽っつーよりは、アヴァン・ポップかトイ・ポップみたいに聞こえる(笑)。かなり「ヘン」な曲です(笑)。
『ペルシャ大王』の方は、ファンファーレとティンパニによる雄大なテーマ曲、木管とストリングスによるエキゾでロマンティックなスロー・ナンバー……と、さながらこのテの映画の劇伴の見本市。『マラソンの戦い』同様、ロマンティックな雰囲気は、かなり聴かせてくれます。あと、イマ・スマックみたいな女声スキャット入りのエキゾチカ・ナンバーが入っていたのが、私的に収穫。
『バイキングの復讐』は、もうちょいエピック寄りな感じですが、あんまり印象に残らず、それよりやっぱり、たまに入るロマンティックな曲の方に耳を奪われる。ロベルト・ニコロージさんは、ロマンティックで優美な曲では、実に良いお仕事をなさるなぁ。ピアノとストリングスによる、ひたすらスウィートな「愛のテーマ」は、これがバイキングの映画だと思うと、ちょっと「ん?」って感じもするんですが、それを別にすれば、とってもキレイなムード・ミュージック。
『怪傑白魔/ペルシャ大王/バイキングの復讐』サントラCD
『マラソンの戦い』+ “War of the Trojans” 新盤DVD
先日アメリカで、スティーヴ・リーヴス主演の史劇二本、『マラソンの戦い』と”War of the Trojans”(輸入DVDショップとかで、同時収録作が『大城砦』になってたりしますが、これは間違い)が収録された新盤DVDが、”The Steve Reeves Collection”と銘打って発売されたので、ご紹介。
二本とも、既に米盤DVDは何種か発売されおり、同じ組み合わせの”Gods of War”というソフトもありますが、今回の新盤の売りはワイド画面のスクィーズ収録。それに惹かれて購入してみたら、画質もかなり良好になっていて、なかなか「当たり」の好ディスクです。
ジャケが例によって、『マラソンの戦い』でも”War of the Trojans”でもなくて、『ヘラクレス』の画像なのは、まあご愛敬(笑)。
というわけで、それぞれのレビューをばいたしませう。
『マラソンの戦い』(1959)ジャック・ターナー
“The Giant Marathon” (1959) Jacques Tourneur
伊語原題”La Battaglia di Maratona”。監督は『キャットピープル』(もちろんナスターシャ・キンスキーのリメイク版じゃなくて、オリジナルの方ね)のジャック・ターナー。
いちおう、紀元前5世紀のギリシャとペルシャの戦争を題材にした、スペクタクル史劇なんですが、まあイタリア製のソード&サンダル映画ですから、本格的なものでは勿論ないです。歴史をネタに、ヒーローの恋と冒険を描いた、娯楽アクション作品、といった味わい。
前半部分は、リーヴス演じるオリンピック競技の優勝者と、ミレーヌ・ドモンジョ演じるヒロイン、ヒロインの婚約者で実は売国奴の敵役、主人公に色仕掛けで近付く敵役の情婦といった面々が繰り広げる、すれ違い恋愛劇。そして後半は、ペルシャ軍とギリシャ軍の戦闘スペクタクル、といった塩梅になっています。
正直、映画のストーリーそのものは、恋愛部分と戦争部分のギャップがキツかったり、展開が恣意的に過ぎて鼻白んだりと、イマイチな感じもするんですけど(冒頭でイーリアスを朗読するドモンジョに、女友達が「パリスとヘレネーのくだりを読んで!」とせがむシーンがあったりして、個人の恋愛劇と国家間の戦争劇をモノガタリ的に絡ませて描く、という狙いは判るんですけどね、あまり成功しているとは言えない)、各々のシーンには、そういった欠点を凌駕して余りある見所が多い。それらの映像的な見所を見るだけでも、充分におつりがくるくらいの充実した内容です。
では、見所を幾つかご紹介。
まずしょっぱなのタイトルバック。青空の下で健康的な筋肉青年たちが、白いブリーフ状の腰布一枚で、様々なオリンピック競技を繰り広げるという、まるで「動く『フィジーク・ピクトリアル』誌」みたいな、実に美しい絵面で楽しませてくれます。
ただ、クレジットの文字が邪魔なんだよな〜(笑)。例えばこーゆーのとか、もうホント、「文字どけろ!」と言いたくなる(笑)。まあ、これは一番極端な例ですけど、こんな具合に終始文字がかぶってくるもんだから、実にフラストレーションが溜まる(笑)。これが、昨今の気の利いたソフトだったら、ノン・クレジット版オープニングとかが、ボーナスで入ったりするんだけど……(笑)。
恋愛中心の前半では、ロマンチックで美しい美術の数々が楽しめます。昼間のシーンは、白大理石、色とりどりの衣装、瑞々しい緑、咲き乱れる花……と、まるでサー・ローレンス・アルマ・タデマの絵のような味わい。夜のシーンは、いかにも撮影担当のマリオ・バーヴァらしい、大胆な色彩設計による夢幻的な雰囲気が素晴らしい。
リーヴス(ヒゲなし)は古風なハンサムだし、相手役のミレーヌ・ドモンジョも文句なしの愛らしさ。美男美女の組み合わせで、しっかりロマンティックに魅せてくれます。特にドモンジョは、リーヴス映画のヒロインとしては、『ヘラクレス』シリーズのシルヴァ・コシナ、『ポンペイ最後の日』のクリスティーネ・カウフマン、『逆襲!大平原』のヴィルナ・リージ、等々と比肩する美しさ。
余談ですが、ミレーヌ・ドモンジョというと、あたしゃ『悲しみよこんにちは』くらいしか見たことないんですけど、先日、相棒と一緒に『あるいは裏切りという名の犬』を見ていたら、バーの老マダムの顔がアップになったとたん、相棒が「うわ、これ、ミレーヌ・ドモンジョじゃない!」と、驚いて大声を上げてました(笑)。お元気なようで、何よりです。
さて、アクション・スペクタクルになる後半も、おそらく予算はさほどないであろうに、ミニチュアやマット画や合成などを上手く使って、なかなかのスケール感と物量感を感じさせてくれます。邦題にもなっているマラトンの戦いも、ローアングルや一人称カメラなどを上手く使っていて、かなりの迫力。
ところが、このマラトンの戦い、実はこの映画の本当のクライマックスではない。マラトンの戦いでアテナイに守備兵がいなくなっているのに乗じて、裏切り者である件の敵役は、海からアテナイを攻めようと企てる。そしてそれを知った主人公が、マラトンからアテナイまで走り抜き(……と、ここで、例のマラソン競技の起源となった伝説が、内容を大幅にアレンジされて登場します)、仲間を率いてペルシャ船団に立ち向かう……ってのが、真のクライマックス。
そして、この真のクライマックスが、もう問答無用で素晴らしいのだ!
まず、完全武装のペルシャ軍に大して、主人公率いるアテナイ勢は、兵士ではなくオリンピック競技の仲間たち。しかも、水際ということもあってか、冒頭の競技シーンと同じ、素っ裸に白フン一丁というスタイル。兜やマントや手っ甲脚絆の類すらないので、メールヌード比率は『300』も顔負け。「鎧兜の軍団 vs 白い海パン一丁のアスリート軍団」とゆー、映画史上前代未聞の戦闘シーン(ホントか?)が繰り広げられるのだ!
とはいえ、何も男の裸がいっぱい出てくるから素晴らしいと力説しているわけでもなく(まあ、もちろんそれも素晴らしいんですが)、戦闘の内容そのものも見応えがあるんですな。
例えば、先の尖った長い棒を海底に立てて、敵の船を座礁させるとか、船の先端がトゲトゲの付いたペンチ状になっていて、それで相手の船を鋏んで砕くとかいった、アイデアのユニークさ。実現性に疑問はあるけれど、ミニチュアと、大仕掛けなセットと、大規模な水中撮影を駆使して見せる画面は、迫力も臨場感もタップリ。
他にも、攫われたヒロインは船首に縛られるわ、海パン軍団が得物を手に海に飛び込み、水中から敵船の舟板を引っぺがしたり、舵をへし折ったりという戦法をとるわ、それをペルシャ兵が船上から矢で射殺すわ、海に落ちた兵士たちが短剣片手に水中で戦うわ……と、もう目が釘付けになる面白さです。
他に、ソード&サンダル映画好きにとってのマニアックな見所としては、チョイ役なんですが、リーヴス演じる主人公の盟友となるスパルタ人を演じているのが、セルジオ・チャンニこと、後に”Hercules Against the Moon Men”などのC級ヘラクレス映画のスターとして活躍する、アラン・スティールだったりします。ヒゲなし、脱ぎ場なし。
残念ながら(?)責め場とかはないんですけど、個人的には、前述したクライマックスの水中戦で、白パン一丁のアスリートどもが、次々と矢で射殺されていくシーンは、重力から解放された肉体の動きの美しさと、派手な血煙の効果が相まって、なかなかそそられます。「裸のマッチョが殺されるシーンが好き!」とゆー、あまり他人には言えない趣味をお持ちの同志の方(笑)には、このシーンはオススメ(笑)。
あと、前述したように、リーブスはかなりのシーンで、その肉体美を惜しみなく披露してくれますので、特殊趣味をお持ちでない方でも、お楽しみどころは盛りだくさんです。槍を投げるシーンとかで見せる、古代彫刻さながらの、筋肉がピンと張りつめた肉体美とか、メールヌード好きにはたまらないはず。リーヴスの股間のドアップとかもありますぜぃ(笑)。
あと、個人的には、前述のクライマックスの他にも、上半身裸のリーヴスが汗まみれになって、苦しげにマラトンからアテナイまで走り抜くシーンなんかもお気に入り。
ソフトとしては、既発売の旧盤はビスタの非スクィーズ収録でしたが、この新盤はシネスコのスクィーズ。しかも、画質もかなり向上しています。
もちろん、経年劣化かデュープのせいかシャドウ部が潰れていたり、フィルムの傷やコマ落ちが目立つシーンもありますが、色は良く残っているし、映像のボケもそれほど気になりません。ソード&サンダル映画のアメリカ盤DVDとしては、充分に上々の部類。ただし、PAL盤も含めて比較すると、退色も傷も全くといっていいほど見あたらない、スペイン盤DVDには負けます。
参考までに、それぞれのジャケをアップ。左が旧米盤、真ん中が同カップリングの旧米盤、右がスペイン盤。
では、続いて、もう一本のカップリング作をご紹介。
“War of the Trojans” (1962) Giorgio Venturini
最初に書いたように、これはトロイア戦争を描いた『大城砦』ではなくて、その続編にあたる”La Leggenda di Enea”(伊語原題)です。他にも、”The Avenger”や”The Last Glory of Troy”といった英題でも知られていますが、どうやら日本では未公開らしいです。
前作『大城砦』で、生き残りを率いてトロイアを脱出した、リーヴス演じるアエネイアスとトロイア人たちの後日譚。ウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』は未読なんですが、ネットで梗概を調べてみたところ、この映画は叙事詩の前半部分はバッサリ割愛して、放浪の果てにイタリアに辿り着いたアエネイアス一行が、ラティウムの王ラティヌスと、その娘ラウィニアに出会い、戦いでトゥルヌスを打ち負かし、後のローマの礎となる国を築くという、後半部分のみを映画化したものです。
ただ、残念ながら映画の出来は、あまり良くないです。
前作『大城砦』と比べると、予算が大幅にダウンしているらしく、ほとんどのシーンが、トロイア人たちが村を築いている野っ原と、ラティヌス王の宮殿と、その前のちんまりとした広場だけで進行するので、話のスケールに比べて、絵的に物足りないことはなはだしい。
また、登場人物が色々といるんですが、いずれもキャラは立っていないし、魅力にも欠ける。その生き死にも、どうやら原典の叙事詩に即して描かれている様子ですが、およそ盛り上がりに欠ける。
では、単純なアクション・スペクタクル的な面白さはというと、これまた乏しく、とにかく見せ場らしい見せ場がないのが辛い。リーヴス演じるアエネイアスは、どちらかというと内省的で、戦いを忌避する性格なので、ヒーロー的な活躍も見られないし。
何度かある合戦シーンも、人海はそこそこ使っているものの、見せ方が下手なのか、どうも盛り上がりに欠ける。クライマックスが、チャリオットで仇敵と一騎打ちという見せ場を持ってきながら、場所は前述の野っ原だし、しかも途中から森に入ってしまい、最終的にはチャリオットからも降りて、ギャラリーなしの河原で斬り合いのタイマン勝負っつーショボさなのも痛い。
そんなこんなで、全体的にどうもパッとしない、退屈な内容になっちゃってます。
ただ、細かい部分で面白い要素もなくはなく、例えば、アエネイアスがラティヌス王の宮殿で、トロイア戦争を描いたフレスコ画を見て、喪われた祖国と戦いの記憶に苦しむあたりは、『大城砦』のシーンを使ったモンタージュの効果もあいまって、リーヴスが微妙な表情の変化だけで、なかなか良い演技を見せてくれます。
実際この映画では、戦いをエピックとして堂々と謳い上げるのではなく、その空しさを嘆いているかのような、どこか厭世的な空気が終始漂っている。これはどうやら、原典に見られる平和志向が反映されたものらしいんですが、そのスペクタクルな戦闘シーンに飽いているような雰囲気が、今になって見ると、何となくソード&サンダル映画の流行の終焉していく様子そのものにも見えるのが面白い。
あと、細かいところでは、合戦シーンで、砦に射込まれた敵の矢を、女子供が楯を担いで走り回って、拾い集めては再利用するなんてディテールが見られるのが、ちょっと新鮮で面白かった。タイトルバックのデザインも、なかなかカッコイイ。
とはいえ、リーヴス主演のソード&サンダル映画の中では、やはり出来はかなり下の方。脱ぎ場も一カ所だけだしね(笑)。
画質は、『マラソンの戦い』同様、既発売の旧盤と比べると向上しています。ただし、色の抜け具合とか絵のボケ加減とか、『マラソン…』よりは数段落ちる画質。良くなった、というよりは、マシになった程度かな。PAL盤では、ドイツ盤とイタリア盤が出ていますが、それらはいずれもこの米盤(新盤)と比べても、遥かに良好な画質です。
あと、イタリア盤と比べてみると、米盤とドイツ盤では冒頭シーンがカットされていて、イタリア盤の方が五分ほど長い。
下のジャケは、左がドイツ盤、右がイタリア盤。
というわけで、カップリングの”War of the Trojans”はイマイチなものの、前述したように『マラソンの戦い』は一見の価値ありですし、リージョンコードもフリーなので、リーヴスのファンなら買って損はない一枚でしょう。
オススメです。
“The Steve Reeves Collection / The Giant Marathon + War of the Trojans” DVD (amazon.com)