ゲイ・カルチャー」カテゴリーアーカイブ

『シュマリ』のホモソーシャル性とホモセクシュアル性

シュマリ 1 (手塚治虫文庫全集 BT 25)シュマリ 2 (手塚治虫文庫全集 BT 26)
 手塚治虫文庫全集で『シュマリ』が出ていたので、久々に読みたくなって購入。例によって、私の持っていた本(小学館文庫版)は、実家に置いてあって手元にはないもんで。
 で、およそ20年ぶりくらいに再読したら、中盤で描かれるシュマリと人斬り十兵衛の関係性に、やけにドキドキしちゃったりして。
 というのも、基本的にこの二人の関係は、あくまでも「男同士の固い友情」、つまりホモソーシャル的なものなんですが、今回再読したら、そこに、ホモソーシャルからホモセクシュアルへと揺らぐ、微妙な「危うさ」のようなものを感じてしまっだのだ。
 加えてこの十兵衛というキャラが、ヒゲ面の中年男だし、腕や足にはしっかり毛も生えているし……まあこれは手塚マンガの常で、コマによってあったりなかったりするんですけど(笑)、内面的にも、過去を捨てた寡黙で一本気な男、しかもめっぽう腕も立つ、という、ツボのド真ん中を付いてくるタイプで、オマケにしょっちゅう、褌一本の裸になるもんだから、なおさらドキドキしたりニヤニヤしたり(笑)。

 具体的に、どーゆートコロにドキドキしたかというと、シュマリと十兵衛は、札幌の集治監(監獄)で出会うんですが、最初はフツーに、互いにタダモノならぬ気配を感じて牽制し合うような、いかにも「男と男」の関係なんですな。
 ところが、とある事件をきっかけに、十兵衛はシュマリに一目置く……というか、その男気に惚れて、シュマリが炭坑に移送されると、自分も一緒についていくことを望む。
 で、いざ炭坑に移ると、二人は起居を共にするようになるんですが、ここでの十兵衛は、シュマリのためにたすき掛けで料理は作るわ、針仕事はするわ、弁当のオカズに気を配るわ、あまつさえ、食卓で物価の高さに愚痴をこぼしたり、厨房で後かたづけをしながら情歌めいた都々逸を口ずさんだり……と、まるでシュマリの女房のように振る舞うわけですよ。
 はぐれ者のいかつい野郎どもが、こうして二人身を寄せ合って暮らすというのは、それだけでも私的には、かなり「萌え」なシチュエーションなわけで(笑)。
 では、どこが前述の「危うさ」に通じるかというと、基本的に、「男が男に(精神的に)惚れる」という、ホモソーシャル的なリレーションシップとは、これは、二者が互いに相手を「オス同士」だと、認め合っていることが前提となるわけですよ。
 ところが、この場合の十兵衛は、シュマリの中に、自分の「オスらしさ」を越える「男性性」を見て、共に生きたいと願った結果、自らシュマリの女房役を買ってでている。つまり、「対等のオス同士」だという関係は、この段階で既に崩れているんですな。

 そこでちょっと、十兵衛がシュマリの男気に惚れた「事件」を、改めて振り返ってみると、未読の方のお楽しみを削がないように詳細は省きますが、実はこの事件は、「男根の切断」で始まり「睾丸の粉砕」で終わっている。
 となると、いささか強引ではありますが、この一連の流れを構造的に整理して考えると、以下のような構造が浮かびあがってくる。
 まず、オスだけの社会で、あるオスAが自分の強さを誇示するために、他の弱いオスを力によって去勢する。
 そこに、もっと強いオスBが現れて、オスAはオスBに負けて去勢されてしまう。
 それを見ていたオスCが、オスBの中に自分を越えるオスらしさを認め、そこに惚れ込む。
 そして、オスBが群れを離れる際、行動を共にすることを望んだオスCは、自らに状況的な去勢を施す……つまりジェンダー・ロール上でフェミナイズすることによって、オスBと「つがい」の関係になろうとする。
 どうです、こう書くと、かなり「危うい」感じでしょう(笑)。

 まあ、深読みのし過ぎだと思われるのは、重々承知のうえではあります。
 しかし、実際に十兵衛が、炭坑に移送されるシュマリについていきたいと望む場面では、彼は「道行き」なんていう、男女の駆け落ちや心中行の意味がある言葉を使っていたりするんで、こりゃ深読みもしたくなるってもんです。
 そして、もっと後になって、十兵衛の昔馴染みだったらしい「なつめ」という女が出てくると、こういった「危うさ」が、もっと深まってくるんですな。
 なつめは、十兵衛を慕って追ってきたんですが、それを十兵衛は「そんな女は知らない」と突っぱねる。そんな十兵衛に対して、シュマリはそれとなく「その女と一緒に行け」、つまり、自分ではなくその女と「つがい」になれと勧める。すると十兵衛は、こう答える。

見損なっちゃ
いけねえ
おれはおまえと
死ぬまで離れんと
決めたんだ
おれにとっちゃ
おまえさんしか
頭にないんだよ

 という感じで、こうなるともう、恋愛感情による三角関係の様相と、構造的には同じなわけです。
 もちろん全体を通じて、あくまでも「男と男のあつい友情」という枠は、外見的には崩れてはいないんですけれど、どうも私には、このシーンが「ホモソーシャルという分厚い楯の隙間から、一瞬、秘められたホモセクシュアル的な情念が噴出した瞬間」のように見えてしまう。

 こんな感じで読み解いて(或いは意図的に誤読して)いくと、まだまだ他にも気になる要素が出てくる。
 例えば、なつめというキャラは、初登場時に「男装」しているんですな。
 まあ、こういった異性装というのは、手塚作品では定番のネタなので、それほど特別視することではないんですが、しかし、十兵衛が以前関係を持っていた「女」が、こういった「男装」が可能な、つまり、性差にアンドロギュヌス的な「曖昧さ」を持つキャラクターだということは確かなわけで。
 また、この場にはもう一人、オス的な獣欲の塊のような、弥十という男(これ、音が「野獣」と同じなあたりが、いかにも手塚作品っぽい)が居合わせている。
 弥十は、なつめが女であることに気付き、オスとしての欲望の手を伸ばす。それを感じたなつめは、十兵衛に庇護を求める眼差しを向けるんですが、十兵衛は全くそれに気付かない。この場面のみならず、十兵衛が女に対して、何らかのオス的な興味を示すシーンは、全体を通して皆無なんですな。
 更にもっと言うと、十兵衛が捨てた過去の中にも、男色や衆道といったものに結びつけることが可能な要素があったりする。
 とはいえ、この件に関しては、読者の知識次第で、そういう深読みも可能になるというだけで、マンガの中でそういった部分に関する言及があるわけではないですし、前述した知識というのも、一般的というよりは、かなり偏向したものだとは思いますが。
 まあ、こんなことを考えていると、どんどん「ゲイ的な興味」から「やおい的な妄想」になってしまいそうなので、ここいらへんでヤメにしておきましょう(笑)。

 そんなこんなで、もともと『シュマリ』という作品は好きだったし、十兵衛だけではなく、お峯さんとかポン・ションとか、好きキャラもいっぱいいたんですけど、今回の久々の再読では、やっぱりこの十兵衛が絡む第11章から第23章までが、特に印象に残りました。
 でも不思議なことに、最初に読んだときも……これは確か高校生の頃だから、ひゃ〜30年前だ(笑)、それから何度か再読したときも、十兵衛とシュマリの関係性にジーンときたり感動した記憶はあるけれど、こういう感じでドキドキしたっつー記憶は、全くなかったりします。
 ひょっとしたら、歳くってプラトニック・ラブに憧れるようになったのかしらん(笑)。それとも、やおい脳が進化しちゃったのかも(笑)。

“Plon naya (Spicy Beautyqueen of Bangkok)”

dvd_spicy-beauty-queen-bang
“Plon naya (Spicy Beautyqueen of Bangkok)” (2004) Poj Arnon

 今まで何度か書いてきた、ご贔屓のタイ人男優Winai Kraibutr君主演の、ドラァグ・クイーンが銀行強盗をするコメディ映画。
 監督はポジ・アーノン。日本盤DVDも出ている『チアリーダー・クイーン』や、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭で上映された『バンコク・ラブストーリー』を撮った人。
 いくらご贔屓のWinai Kraibutr君とはいえ、女装じゃ興味半減だし、コメディ映画も基本的にあまり見ないタチなのでスルーしてたんですが、英語字幕付きタイ盤DVDがバーゲン価格だったので購入してみました。
 余談ですが、このバーゲン品、ジャケの隅っこが三角形に切り取られていました。DVDでもカットアウト盤ってあるんですね、初めて見ました。……でも、カットアウト盤なんて言葉、かつてアナログ・レコードの輸入盤を買ってたような、ある年齢以上の層じゃないと知らないよなぁ、きっと(笑)。

 ストーリーとしては、様々な理由でお金に困っているトランスジェンダー系ゲイ四人組が、思い余って銀行強盗をする(その際、正体を見破られないために、ド派手なドラァグ・クイーンになる……というのが、ジャケ写のお姿)んだけど、素人集団なので何かと上手くいかないうえに、強盗に入った銀行で別の強盗集団(しかもノンケのイケメン揃い)と鉢合わせしてしまい……というドタバタコメディ。
 泥臭いコテコテな笑いが連打される中、ちょっとした人情や泣きなんかも入っている内容なんですが、まあ正直なところ、さほど面白くなかったなぁ。笑いも涙も、どちらも過剰というよりくどいといった感じで、四人組の演技も過度に狂騒的で、見ていてちょっと疲れちゃった。

 さて、お目当てだったWinai Kraibutr君。
 いくら女装強盗の映画でも、少しは男の格好をしているシーンもあるんじゃないか、とか期待していたんだけど、残念ながら完全にクロスドレッサーのキャラクターらしく、全編女装、男の姿やスッピンの男顔になるシーンは皆無(泣)。
 あと、おそらくゲイ役だろうから、ひょっとすると男とのベッドシーンがあるかしらん、なんて下心もありまして、これはホントにそーゆーシーンがあって、裸で若いオトコノコの上にまたがって、騎乗位で激しく腰を振ってくれるし、半ケツ状態のタオル一枚なんてサービス・ショットもあったんですが、悲しいかなヘアスタイルも化粧も完全に「オンナ」状態なので……チクショウ、ちっともそそられやしない(笑)。

 というわけで、個人的には立派なハズレ映画だったんですが(笑)、まあ、見所が全くなかったというわけではなし。
 まず、ちょっと興味深かったのは、四人組の一人であるショーガール(の仕事をしているゲイ)の置かれている立場について。
 このキャラクターを演じているのが、件のWinai Kraibutr君なんですが、彼の仕事仲間である他のショーガールたちは、いずれも既に性転換済みのトランスセクシュアルたち。しかし彼だけが、(おそらく)トランスジェンダーではあるものの、豊胸も性転換もしていない男性のままの身体をしている。
 で、彼は周囲のニューハーフ(と便宜上呼ばせていただだきますが)たちに、「アンタ、そんなオッパイもアソコも作らないでいたら、コメディアン扱いしかされないわよ!」「もうすぐラスベガスでショーがあるのに、どうするのよ!」と言われ、じっさいステージでもイロモノ的な扱いをされてしまう。そこに更に、年下のオトコノコの恋人を、ホンモノのオンナノコに寝取られちゃうという事件が重なり、そこでようやく、性転換手術のお金を手に入れるために、銀行強盗の計画に加わるのを決意する。
 つまり、トランスセクシュアル的な価値観が主流となっているショービジネス界内で、性転換までは望まないトランスジェンダー(あるいはトランスベスタイト)的な存在が異物的な存在になるという、マイノリティ・グループの中で、更にマイノリティとして存在してしまった者の煩悶が描かれるわけです。
 これは、セクシュアル・マイノリティの社会参加の方法という点でも、また、マイノリティによるコミュニティが内包する問題としても、なかなか興味深い視点です。セクシュアリティがグラデーション状に連続しているがゆえの、それぞれのグループ間に明白な線引きはできないという難しさや、個々の立ち位置(居場所と言ってもいいかも)を見つけることの難しさを、見て取ることができる。
 ただ、映画ではこの要素は、あくまでも「ストーリーを進行させる前提の一つ」でしかなく、問題提起やテーマ的な膨らみといった、それ以上の意味が全くないのは残念でした。

 もう一点、死生観の違いも、ちょっと興味深い。
 ネタバレを承知で説明すると、終盤、主要キャラクターの一人が死んでしまい、オチもそれを基に締めくくられるんですが、これはおそらく日本人の感覚だと、この「死」の訪れにはちょっと引いてしまうし、オチも「え〜っ、それでい〜のぉ?」ってな感じの印象だと思います。
 ただ、前生があっての今生があり、今生があって後生があるといった、仏教的な死生観が濃厚な社会(じっさい映画の中でも、ギャグの一つではありますが、主要キャラクターの一人が托鉢のお坊さんに、「生まれ変わったら、もっと小顔にしてください」とか願いながらお布施をするシーンがあります)だと、今生における死の持つ重みや意味合いが、我々の感じるところのそれとは、かなり感覚的に異なるのかもしれないな、なんて思いました。
 タイ映画を見ていると、こういった死生観の差異が目に付くことが、けっこうありますね。日本でも、「親の因果が子に報い」といった言葉に、まだ説得力があった近世までは、結構こういう感覚だったのかも。

つれづれ

 最近聴いているCD。
 ここんところ、ちょっとクラシックづいています。

ピエルネ:シダリーズと牧羊神、ハープ小協奏曲他(再プレス) ガブリエル・ピエルネ『シダリーズと牧羊神、他』
マルティノン/フランス国立放送管弦楽団

 初めて聴く作曲家で、フランス近代の人。
『シダリーズと牧羊神』が、瀟洒で楽しくて実にヨロシイ。特に、第一曲「牧神たちの学校(小牧神の入場)」の楽しさといったら!
 全体的に、印象派がちょっとロマン派に回帰したような感じなので、何となくフランスつながりで、ドリーブとドビュッシーを足して二で割ったみたいだな〜、なんて思ったり。

レブエルタス作品集 シルベストレ・レブエルタス『センセマヤ、他』
サロネン/ロスアンジェルス・フィルハーモニック

 これも初めて聴く作曲家で、20世紀メキシコの人。
 土俗的なダイナミズムを感じる『センセマヤ』、ひねくれたマリアッチみたいな『オチョ・ポル・ラディオ』、などなど、民族性タップリで面白い曲多し。
 特に、組曲形式の『マヤ族の夜』が、雄大で荘厳な第一曲「マヤ族の夜」、軽妙で楽しい第二曲「ハラナスの夜」、ロマンティックで美麗な第三曲「ユカタンの夜」、ドラマティックで土俗的な第四曲「エンカミィエントの夜」など、どれもツボを突かれまくり。
『ガルシア・ロルカへの讃歌』も、前にヒナステラを聴いたときもそうだったけど、これまたラテン版ストラヴィンスキーみたいで面白い。
 最近いただいた本。
 ポット出版さんからいただきました。

二人で生きる技術─幸せになるためのパートナーシップ 二人で生きる技術─幸せになるためのパートナーシップ
大塚隆史

 日本におけるオープンリー・ゲイの表現者としての大先輩、大塚隆史さんの最新著書。
 大塚さんが長年取り組んでおられる、恋愛の次段階としての「パートナーシップ」を、いかに育み保持していくかといった命題を、御自身の波瀾万丈のライフ・ヒストリーも交えて、平易な文章で論考されておられます。
 タイトルに「技術」とあるように、信頼のおける人間関係を築いていくための、ある種の指南書的な側面もあるので、そういったことで悩んだことがある人であれば、ゲイだろうとノンケだろうと、この本から何かヒントを得ることができるかも知れません。

『ゲイエロ3』打ち合わせ

daisuke_takakura
 前回の続き。
 上の図版は、『日本のゲイ・エロティック・アート vol.3』収録予定作家のお一人、高蔵大介さんの作品(『さぶ』1996年7月号より)。

 というわけで、『さぶ』の発掘作業も完了したので、セレクトした分をポットさんに持参して(って、実際は持ち歩ける量ではないので、宅急便で送ったんですけど)、『日本のゲイ・エロティック・アート vol.3』の打ち合わせをしてきました。
 とりあえず現状の進捗状況は、収録図版の粗セレクトが完了した状態。
 集めることのできた全ての図版の中から、最終的に収録できる点数の数倍に相当する量をセレクトした、いわば「一次選考」が終わった状態です。
 これで、本の全体像が朧に見えてきた(つまり、出来ることの可能性と限界を、同時に把握できた)ので、それを踏まえて、最終的にどういった構成にするかを話し合います。
 今回、作品の収集をしている段階で、過去の既刊二冊とは異なった構成にしたい部分が出てきたので、予算や技術も踏まえて相談したり、本のサブタイトルをどうするか検討したり。
 サブタイトルに関しては、自分独りでずっと考えていたときには、かなり煮詰まってしまっていたんですが、今日の打ち合わせで担当編集者さん二人を交えて話し合っていたら、ビックリするほどスンナリと結論を出せました。「うわ〜、やっぱブレーンストーミングって大事!」と、改めて感心したり。

 また、実はこのシリーズ、限られた予算内で最良の結果を出すために、画集としては(おそらく)イレギュラーなページ構成になっています。
 そのこともあって、今回も、制作費の見積もりを作るために、ラフな台割り(本全体のページ構成を決める表のこと)を用意して、「この折り(一般的に、本は16ページ分を一枚の大きな紙に印刷して、それを折りたたんで裁断して作るので、この16ページを一単位にしたものを『折り』といいます)は、表を四色(カラー)裏を一色(モノクロ)でいきます」とか、「こっちの折りは、両面一色でいけます」とか、説明しながら細部を詰めていきました。
 さて、これで最終的に収録可能な図版点数の、ガイドラインができました。
 ここまでが、今日の成果です。

 この後、仮決定したページ構成を踏まえて、粗セレクトした作品の中から、最終的な掲載作品を絞り込んでいきます。これがまた、楽しくも辛い作業。というのも、どうしても「涙をのんで収録を断念せざるをえない」作品が、多々でてくるので。
 掲載作品が決定したら、次は文章原稿の執筆に取りかかります。これがまた、調べ物とか取材とかが必要になるし、そもそも文章書きの専門ではない私にとっては、なかなか厄介な作業です。
 文章ができたら、次は翻訳(このシリーズは、日本のゲイ・アートをより海外にも喧伝するために、全テキストを日本語と英語で併記しています)して、これでようやく本に必要な原稿が全て揃うわけです。
 こういった一連の作業を、集中して一気呵成に出来ればいいんですが、残念ながら他の仕事の都合もあるので、その合間合間に長いスパンで進めていかなければなりません。事実、今月はもう、これ以上の時間的な余裕がないので、最終的な掲載作品の絞り込みを始められるのは、来月上旬以降になるでしょう。

 本の完成までには、まだ時間がかかりそうです。
 とはいえ、一番メインの図版収集作業が完了したので、ちょっと一安心。

『さぶ』の山

sabu
 ここ数日、『日本のゲイ・エロティック・アート vol.3』の準備で、『さぶ』の山と格闘中。
 メインの目的は、高蔵大介さんのイラストのセレクトなんですが、それ以外にも、初期に活躍していらした鈴木節さんの作品とか、幾つか抑えておきたいものがあるので、古くは昭和50年代年代初頭のバックナンバーから紐解いております。
 というわけで、薄い中綴じの頃から、平綴じになったけれどまだ薄い頃、厚みを増していった頃、表紙絵が三島剛さんから木村べんさんに変わった頃、本文印刷が活版からオフセットに変わり用紙も変わった頃……と、歴代の『さぶ』を、開いては閉じ、付箋を貼っては積み重ね……といった作業の繰り返し。

 しかし、改めて創刊当初の『さぶ』を見ると、ゲイ雑誌誕生以前の「よろず変態雑誌」の頃の香り、つまり『風俗奇譚』とかと同種のテイストが、まだけっこう残っていますね。
 最初期の『さぶ』で小説挿絵を描かれている「風間俊一」という人は、おそらく、『日本のゲイ・エロティック・アート vol.1』で採り上げた江戸川重郎や、『vol.2』の天堂寺慎などと同様に、ヘテロ雑誌に描かれていた職業イラストレーターでしょう。イラストレーション的に手慣れたテクニックと、男性のエロティシズムをフェミニンに描写しているという特徴が、全く共通しています。
 また、『風俗奇譚』などでは良く見られるものの、私がリアルタイムに親しんだ80年代以降の『さぶ』では全く見られなくなっていた、素人女装の投稿告白などという記事も、この頃の『さぶ』には、まだ僅かながら載っていますし、アメリカのフィジーク誌から転載したと思しき、ブルース・オブ・ロサンジェルスの写真や、エチエンヌやトム・オブ・フィンランドのイラストレーションが載っているのも、やはり『風俗奇譚』と同じです。
 とはいえ、そういった記事と並行して、日本のゲイ・エロティック・アーティストたちも、『vol.1』で採り上げた三島剛は、もちろん創刊号から参加していますし(三島剛さんは『さぶ』という誌名の名付け親でもあります)、『vol.2』の林月光、遠山実、児夢(GYM)といった面々も、すぐに誌面に登場します。
 また、長らく『さぶ』の名物コーナーだった読者の投稿写真ページ「俺のはだか」や、森本浩史さんの「縄と男たち」なども、中綴じの頃から既にスタートしているし、小説執筆陣にも、花田勇三さん、土師志述さん、愛場幹夫さん、いけはらやすあき&でぶプロさん、真須好雄さん……といった、平綴じになってからの『さぶ』でも見覚えのある名前が、既に登場しています。
 こういうのを見ていると、それからおよそ十年後、私がデビューした頃の『さぶ』とも、シームレスな繋がりを感じられて、ちょっと嬉しい気分になりますね。まるで、両親や親戚の若い頃の写真アルバムを見ている気分。

 中綴じ時代の『さぶ』は、総ページ数が160ページ程度と、薄い本ですが、中身の方は、本の厚さと反比例するかのように、実に濃厚な印象。
 というのも、まず、イラストレーションの扱いが大きい。カラーやモノクロのグラビアページを使って、前述したような錚々たる作家陣が、その腕と妄想力をふんだんに発揮してくれている。
 例えば、昭和53年8月号を例にとると、この号だけで、三島剛さんの褌テーマの巻頭カラー口絵4ページ、林月光さんの巻末カラー絵物語「月光・仮面劇場」4ページ、児夢さんの学ランテーマのモノクロ連作口絵4ページ、水影鐐司さんのラグビー部テーマのモノクロ連作口絵4ページというゴージャスさ。
 更に、児夢さんと水影さんのカラーイラストも1ページずつ。小説挿絵では、三島さん、林さん、水影さんの他に、前述した『vol.3』収録予定の鈴木節さん、更には吉田光彦さんや渡辺和博さんといった『ガロ』系の方々まで。
 男絵好きにとっては、これはもうたまらなく魅力的な誌面。
 また、本文に情報ページや広告ページが殆どなく(メイトルームの数も、まだ200そこそこと、決して多くない)、読み物ページは主に小説に占められ、加えて、その小説のラインナップが「濃い」のも、雑誌全体の充実感に繋がっているようです。
 この頃の『さぶ』には、現代物の恋愛小説とか、エロな体験告白といった、昨今でも良く見かける「身近」な設定の小説も、もちろんあるんですが、それと同じくらい、いや、ひょっとしたらそれより多いくらいの比率で、時代物、任侠物、軍隊物……といった、今どきでは殆ど見られなくなった、フィクション性の強い設定の小説が掲載されている。中には、時代物伝奇小説の連載まであったり。
 これらの小説は、ポルノ的なエロ描写そのものに限って言えば、今読むと実に「大人しい」ものなんですが、反面、情景描写や情緒表現を含めて、しっかり「小説」にしようという心意気の感じられるものが多く、即物的なポルノグラフィーとはまた違った味わいがあります。

 そんなこんなで、今回の目的は、あくまでもイラストレーションのセレクトだけのはずなのに、ついつい文章も読みたくなっちゃって、難儀しております。読み始めたらきっと止まらなくなって、作業がぜんぜん進まなくなっちゃいますから、もう、我慢我慢の日々(笑)。
 それでもやっぱり、花田勇三さん(叙情的な筆致でホモソーシャル的な世界を薫り高く描いた、「男と男の叙情誌」という『さぶ』のキャッチフレーズを体現するような作家)とか、渚剣さん(任侠や軍隊といった男っぽい世界を舞台に、凌辱・拷問・切腹といった男責め小説を描いた作家)の小説が出てくると、「ちょっと休憩がてら……」とイイワケして、一、二編、読んじゃったり(笑)。
 あ〜、作業がはかどらない(笑)。

つれづれ

 どうでもいい独り言。
 ク○フーとD○Cが、どーしてもアタマの中でスムーズに繋がってくれないんだよね〜。理解はしていても、イメージのギャップを、どーしてもアタマが納得してくれないカンジ。「美」のベクトルの向きが、なんか正反対なんだもん。
 ……と、あんまり余所様のコメ欄で雑談を続けるのもアレなので、こっちに書きました。判る人だけに判るネタ(笑)。
 さて、イタリアの出版社から、以前契約を交わしたイタリア語単行本(短編集です)が、先々週無事に発売されたとの連絡がありました。ただ、まだ見本が届かず。
 本のタイトルは”Racconti estremi”で、これは「エクストリーム・ストーリー」という意味だそうな。
 詳しい紹介は、実際に本が届いて内容を確認してからにしますが、とりあえず表紙画像だけなら、出版社のサイトで見られます。
 DVDネタ。

ヴァレンティノ [DVD] 『ヴァレンティノ』(1977)ケン・ラッセル
“Valentino” (1977) Ken Russell

  久々に鑑賞。テレビ放映されたのを見て以来だから、20年ぶりくらい?
 この映画あたりから、ラッセルの勢いが衰えてきたという印象があったんですけど、改めて再見すると、これはこれで力もあるし、見所も多いな。
 冒頭の、斎場に乱入する群衆のシーンとか、レスリー・キャロン絡みのシーンのブッ飛び具合とか、シンメトリックだったりデコラティブだったりする構図の数々とかは、やっぱり「ラッセル印!」ってカンジの悪趣味スレスレのケレン味が素晴らしい。窓の外でファンたちが、ポエトリー・リーディング(っつーかシュプレヒコールっつーか)するシーンとかも好き。
 ただ、留置所のシーンなんかは、これでも充分エグいんですけど、ラッセルにしては物足りない感じがしてしまうのは否めないし、映画のラスト、ボクシングの試合以降の映像力がイマイチ弱いせいで、全体の印象も弱くなってしまった感はあり。
 ああ、あとメールヌード絡みで、ルドルフ・ヌレエフのフルヌードが、引き締まった裸身(特にお尻)が美麗極まりない……ってのは記憶通りで嬉しかったんですけど、今回のDVDでは醜いボカシがなくなって、フロント部分がチラチラ「見え」るのも、少し得した気分だった(笑)。
 ゲイ絡みだと、男同士でタンゴを踊るシーンがちょっと有名ですけど、実は私は個人的には、こーゆー耽美趣味にはあんまりピンとこない。ホモセクシュアルにデカダンな幻想は抱いていない、とでも言うか。
 とはいえ、私は自分のことを「耽美作家」だと思っているんですけどね(笑)。ただ、私にとっての「美の追求」というものが、「体毛を執拗に描き込む」とか「ヒゲのマッチョが苦悶する」とかいった、あまり一般的には共感されにくそうなものだ、というだけで。「道徳的功利性を廃して美の享受・形成に最高の価値を置く立場」(広辞苑)という点では、耽美主義以外の何者でもない、と、自分では思っています。
 閑話休題。
 しかし、どーしてラッセルの映画って、比較的どーでもいいものばかりDVD化されて、マジでスゴいヤツは出ないんだろうなぁ。
 まあ、『トミー』や『マーラー』が出たのは嬉しいし、『ヴァレンティノ』『アルタード・ステーツ』『クライム・オブ・パッション』もいいんですけど(『サロメ』『レインボウ』『白蛇伝説』になると、私的にはわりと「どーでもいい」部類)、やっぱ『恋する女たち』『恋人たちの曲/悲愴』『肉体の悪魔』『ゴシック』という、個人的に大々々好きな4本を、何とかDVD化して欲しい。

イベント『PLuS+ 2009』のご案内

 ご案内をいただいたので、ご紹介します。
 10月11日(日)、大阪で「エイズの予防啓発と、陽性者への支援・共生、コミュニティの活性化をテーマとした、お祭り型複合イベント」の『PLuS+ 2009』が開催されます。
 メイン会場の扇町公園、およびその周辺会場で、講演、トークショー、音楽やパフォーマンスのライブ、クラブ・イベント、イラスト展など、様々なイベントが開催されます。
 タイムテーブルなど具体的な情報は、公式サイトへ。
 当日、お時間のある方は、ぜひどうぞ!

つれづれ

 締め切りが重なっていた仕事が、先週末に全て無事終了しました。
 月産枚数的としては、別にキツくもなんともなく、逆に楽なくらいの分量だったんですが、Aの締め切りの二日後がBの締め切り……ってな塩梅だったのと、合間にマンガ以外の用件も入っていたせいで、頭の切り替えとかペース配分が、ちょっと難しかった感じ。
 おかげで、実作業以上に「終わった〜!」感が強い。よく考えると、仕事量としては、大したことないんだけど(笑)。

 で、その締め切り明けと前後して、”Gay Pride Sale! Top 10 Deals of the Week”という件名のメールが来ました。
 パッと見、よくあるエロ系の迷惑メールみたいですが、実はそうではなく、アメリカの大手旅行会社ORBITZのメルマガです。
 中身を見ると、「トロントのゲイ・フレンドリーなホテル、30%OFF。トロント映画祭をプラス・アルファでエンジョイしましょう!」とか、「トラベル・オークションを利用すれば、国際便が40%以上OFFになります。収益はLGBTチャリティに寄付されます」とか、「フォート・ローダーデール(何でも『アメリカのベニス』なんですって)とプエルト・バジャルタ(メキシコのリゾート地だそうな)でゲイ・リゾート。5泊以上で100ドルOFF、2泊でも10%OFF!」とか、「スタイリッシュでラグジュアリーでカルチャーでアドベンチャーなゲイ・ツアー、50ドルOFF!」とかいった惹句と一緒に、キャンペーン商品へのリンクが並んでおります。
 で、これを見ていたら、前にも何度か書いたような、「ゲイの存在が日常化した結果、目に見えるオーバーグラウンドな形としてのゲイ・マーケットが確立し、それが一般企業にとっても、収益およびパブリック・イメージの両方において、プラスになると判断されている状況」の、格好のサンプルだなぁ、なんて思い、ちょっと紹介してみました。
 日本でも、JTBとかHISから、こーゆーキャンペーン・メールが来たら、楽しいのにね。
 周囲を見ると、クラブ・イベントで東京や大阪や北海道や博多なんかを頻繁に行き来していたり、定期的に沖縄に行ったりしているゲイがけっこういるので、ビジネスの可能性としては、決してないわけではなさそう。ただ、そういった「ゲイ向け商品」を堂々と買える層が、果たしてどれだけ存在するのか……というのが、毎度ながらネックになるだろうけど。
 あ、でも大手旅行会社という括りを外せば、日本でもこことかここみたいな、ゲイ向けの旅行業そのものは存在します。

dvd_underworld3
 映画は、DVDで『アンダーワールド ビギンズ』を鑑賞。
 吸血鬼と狼男の抗争を描いた『アンダーワールド』シリーズの、れっきとした正統の3作目……なんだけど、ジャケが何だか、レンタル屋に大量に並んでいるバッタモンみたい(笑)。
 1作目は、アイデアや世界設定の背景描写や凝った美術なんかが良くて、けっこうお気に入りでした。対して2作目は、そういった特徴があまり見られず、良くある大味なアクション・アドベンチャーといった感じで、イマイチ好きになれなかったんですけど、この3作目は、内容的には時間を遡り、1作目のプリクエル。
 つまり、1作目で私が魅力を感じていた部分を、クローズアップして膨らませた内容なので、かなり満足しました。ただ、「美人でカッコいいオネエチャンがスタイリッシュに戦うアクション映画」としてのファンにとっては、映画の設定が中世ヨーロッパなのでガン・アクションはないし、ストーリーの主眼が狼男側にあるので、ヒロインがちょいサブ的な存在になっているから、イマイチかも知れません。
 で、これって、いわばホラー風味のダーク・ファンタジーなわけですが、ストーリーとしては「奴隷の反乱」と「種族を越えた禁断の恋」なので、実は吸血鬼と狼男という設定を使わないでも、充分に成り立つ内容ではあります。じっさい、DVD収録のメイキングでも、監督が「『スパルタカス』+『ロミオとジュリエット』」とか言ってましたし。
 というわけで、設定の必然性という意味では、この映画単品で考えると苦しいんですけど、まあ、シリーズものなので、そこいらへんも気にはなりません。

 話そのものは良くできていて、シリーズを見ている人間には、結末がどうなるかは既に判っているんですけど、それを「どう持って行くか?」という点で、最後まで興味を削がない筋運びは、なかなか佳良です。スケール感はさほどありませんが、それでも、こぢんまりした範囲内で必要充分なものだけを描くという、全体的にタイトな構成が小気味よく、エピック・アドベンチャーとしては手堅い出来映え。
 美術は、これはもう大健闘。それほど大予算ではないみたいですが、それでここまでしっかり見せてくれるとは。美しさと説得力の両方を兼ね備えた、文句なしの出来映え。で、メイキング見ていたら、美術監督の顔に見覚えが……『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズの人でしたか、ナルホド(笑)。
 訳者さんも、いずれも佳良。シリーズ通して、ちゃんと同じ役を同じ人が演じているのは、やっぱりいいですね。シリーズを見てきた人間にとっては、「あ、あいつがこんなところに!」ってなサービスもある。メイン・キャラの内面描写が掘り下げられて、キャラクター像に深みが出ているのもヨロシイ。
 メイン・キャラの新顔、新ヒロインのロナ・ミトゥラは、前にTV版『スパルタカス』のときに好印象でしたが、今回も同様の感想。ただ、役の上で「前2作のヒロイン(を演じていたケイト・ベッキンセール)に似ている」という設定で、確かに雰囲気は似ているんだけど、個人的にはケイト・ベッキンセールよりも、Gacktに似てるな〜、と思いました(笑)。

 さて、嬉しいことにこの映画、やましい部分のお楽しみ(笑)も、ちゃんとありました。
 まず、映画の設定で、この時代、狼男は奴隷にされてるんですが、狼に変身できないように「内側に銀の鋲が突き出た首輪をされた、髭筋肉長髪濃度濃いめの薄汚い野郎ども」なんですな。で、それが貴族的な吸血鬼にこき使われている。
 ……はい、個人的なフェチアイテムと設定系のSM好き心を、何個もまとめてクリア(笑)。
 で、責め場もあります。主人公の鞭打ち。それも2回。
 1回目は、ウィッピング・ポストに両手を拡げて縛られ、上半身裸の背中を、鉤付きの長鞭でフロッギング。もちろん、背中はズタズタに裂けちゃいます。簡単には死なない狼男という設定を上手く使った、ナイス責め場(笑)。
 2回目は、床に跪かされ、両腕を鎖に繋がれて立ち上がれない状態で、やはり背中をフロッギング。ここではシャツを着てるんですが、鞭打たれてちゃんと破けるのでご安心(笑)あれ。
 まあ、主人公の身体自体は、マッチョと呼ぶには細いんですけど、でもちゃんと撮影用に鍛えてはいるので、ナチュラルな感じの筋肉美はあります。とにかく筋肉量が欲しい御用向きには、1作目にも出ていたサブキャラの黒人さんがスゴい身体なので、そちらをオススメしませう(笑)。
 あとは、狼男なんで、変身が解けて人間の姿に戻ったときには、服は破けてスッポンポンになっているわけで、男のフルヌードが何度も出てきますし(ズボンや下着だけ破け残る……なんて、無粋なこともゴザイマセン)、奴隷なんで、鎖に繋がれてたり牢に入れられてたりするし、人間の姿のまま、けっこうエグめに惨殺されていったりもしますんで、ソッチ系目当てでも、けっこうオススメできる内容でした(笑)。
『アンダーワールド ビギンズ』(amazon.co.jp)

Rainbow Arts 2009

 ご案内をいただいたので、ご紹介します。
 毎年恒例のLGBTのアーティストたちによるグループ展、Rainbow Artsが、本日25日より新宿で始まります。今年で早くも10回目の開催になるそうです。
 お近くにおいでの際は、ぜひお立ち寄りください。
Rainbow Arts 10th Exhibition 2009
日時:2009年7月25日(土)〜8月1日(土)
   7月25日(土) 16:00〜20:00(オープニングパーティー)
   26日(日)〜31日(金) 10:00〜20:00
   8月1日(日) 10:00〜17:00(クロージングパーティー)
会場:全労済ホール スペース・ゼロ(新宿区)
   〒151-0053
   東京都渋谷区代々木2-12-10全労済会館B1
  (TEL 03-3375-8741)
入場料:無料
http://www.rainbowarts.info/

ちょっと宣伝、イギリスで出版された世界のエロティック・コミックスの本

book_erotic_comics
“Erotic Comics: vol. 2: From the 1970s to the Present Day” Tim Pilcher
 去年、イギリスのジャーナリストだというティム・ピルチャーから取材を受けたんですが、それが無事に出版されたということで、謹呈本が届きました。
 う〜ん、これも1月には出ていたものが、送られてきたのは半年遅れ……まあ、ちゃんと送ってきただけマシか(笑)。
「エロティック・コミックス グラフィック・ヒストリー vol.2 70年代から現在まで」という本で、版元はILEXというイギリスの出版社。デジタル・ペイントのHOW TO本やDTPなどの素材集、ポップ・カルチャーのアート・ブックなんかを出している会社のようで、カタログにはタトゥーのクリップアート集(CD-ROM付き)なんてのもあって、これはちょっと欲しいかも(笑)。ってか、表紙の男が好み(笑)。

 で、この「エロティック・コミックス vol.2」は、ポップ・カルチャーのガイド的なアート・ブックです。
 内容は、「USAのポルノ」「ゲイ&レスビアン・コミックス」「ヨーロピアン・エロティック」「乳首と触手:日本の実験」「オンライン・コミックス」という五つの章に分かれており、私の作品は「日本の実験」の章に数点掲載されています。
 英語のコミックスを中心に、それにヨーロッパの作家などを加えた、全ページフルカラー、大きな図版をふんだんに使って、様々なエロティック・コミックを紹介する内容。
 収録作家は、私も知ってるメジャーどころだと、まず序文からしてアラン・ムーアだったりします。因みに、著者のピルチャー氏とやりとりしていたとき、ちょうどその話が決まって、大コーフンしてるメールを貰ったのを、良く覚えてます(笑)。
 ロバート・クラムも載ってますし、アラン・ムーア&メリンダ・ゲビーの『Lost Girls』、サイモン・ビズレーの描いたエロ絵なんてのもある。
 エロティック・コミックの大御所では、私が勝手に「お尻の神様」と呼んでいる、イタリアのパオロ・セルピエリ。とにかく、女性のお尻を描かせれば天下一品なアーティストなんですが、実は男の肉体やチ○コも激ウマで、嬉しいことにアナル・ファックされている男の絵なんてのも描いてくれるので、私も二冊ほど画集やコミック本を所有しています。
 ゲイ系では、トム・オブ・フィンランド、パトリック・フィリオン、ラルフ・コーニッヒ、ハワード・クルーズ、雑誌『Gay Comix』や『Meatmen』の作家たち、などなど。レスビアン・コミックスが幾つか見られたのも収穫。
 他にも、個人的に気に入ったものを幾つか列挙しますと、『ロケッティア』のデイブ・スティーブンスが描くベティ・ペイジや、マーヴェルものとかを手掛けているフランク・チョーのエロティック・コミックスは、流石の洗練された描線が魅力。
『Cherry』や『Omaha, the Cat Dancer』といった、カートゥーン系のエロティック・コミックスも、日本では見られないタイプなので、なかなか新鮮。特に、デフォルメはカートゥーン系なんだけど、塗りがコテコテなので何とも言えない「濃さ」がある、『SQP』という70年代の本なんて、実にヨロシイ。
 日本の肉弾エロ劇画みたいな画風の『Faust』や、表紙デザインもカッコよければ中の絵もカッコいい『Black Kiss』は、入手可能なんだったら、ぜひ本を買いたいところ。他にも、アメリカのオルタナティブ・コミックとかイギリスのアンダーグラウンド・コミックとか、面白い絵が多々あります。
 ただ、日本に関しての章は、正直、ちょっとアレだな〜、と思う部分アリ。それに関しては、まとめて後述します。

 版形は、LPジャケット・サイズのハードカバー。ページ数は190ページ強。前述したように、全ページフルカラーで、紙質や印刷も上等。
 幸い、日本のアマゾンで購入可能です。ポップ・カルチャー、エロティック・カルチャー、サブカルチャーなんかに興味のある方だったら、問答無用に楽しめるはずなので、そういう方にはオススメです。私の絵も、無修正でドカ〜ンと載ってますんで(笑)。
book_erotic_comics_sample
“Erotic Comics: vol. 2: From the 1970s to the Present Day”(amazon.co.jp)
表紙違いのアメリカ版もあるみたい。
 先日紹介した、『エロスの原風景』と御一緒に、いかがでしょう?

 では、前述した、ちょっとアレな日本に関する章について。
 まず気になったのは、私の絵は「SHONEN-AI」と「YAOI」の章で使われていていて、それ自体、ちょっとどうよと思うんですが、更に困ったことに、この二つの章に掲載されている図版が、私の絵以外は「小説June」の表紙画像だけ。
 ただ、これに関しては、筆者のピルチャー氏が、やおいとゲイを混同している、というわけではなかったりします。
 じっさいテキストを読むと、例えば「SHONEN-AI」の章では、SHONEN-AIというジャンルは少女マンガのフォーマット内のもので、竹宮惠子の『風と木の詩』に端を発し、青池保子の『エロイカより愛をこめて』や吉田秋生の『BANANA FISH』が生まれたが、今日ではその言葉は既に廃れており、Boy’s Loveという言葉にとってかわられた、と説明したうえで、そのBoy’s Loveには、かつてのSHONEN-AIの要素が含まれるが、ロマンスだけではなくセックスの要素も含まれており、それがYAOIである、などと続けられる。
 そして、次の「YAOI」の章では、こちらもまたBoy’s LoveあるいはBLの源流を、雑誌「June」のmale/male “tanbi” romanceとして、それが「ヤマなし、オチなし、イミなし」の同人誌文化との相互作用を経て、「性的にも直截的なホモセクシュアル・ストーリー」という、現在の形になったとしているので、こうした説明は、決して間違っていないと思う。
 また、私の図版についているキャプションを見ると、私がカバー絵を描いたアンソロジー『爆男』を、ちゃんと「ゲイ・コミック」と明示しているし、拙作『雄心〜ウィルトゥース』を、「ゲイ・コミックとやおいコミックの中間に位置するもの」と解説しているので、これまた正確(ま、これは私本人に取材しているんだから、当たり前なんだけど)。
 一方、やおい寄りの視点からも、本文中には、「ボーイズラブのマーケットは女性や少女をターゲットにしているが、一部のゲイやバイセクシュアルの男性にも読まれている」とした上で、「こだか和麻のような日本のBLマンガ家たちは、西洋の読者に自分たちの作品を説明する際、ゲイではなくやおいなのだと、慎重に区別している」と書いてある。
 というわけで、テキストをちゃんと読めば、筆者はちゃんと、ゲイマンガとやおいマンガを、混同していないということが判るんですけど、でも、だからといって、この二章の図版が、ほぼ私の絵だけだってのは……誤解も生みそうだし、私自身、居心地が悪い(笑)。
 私のところにきた取材も、ゲイマンガ家としてでしたし、質問内容もそういうものだったんですけどねぇ……。
 やおいマンガに関しては正確な論考があるのに、ゲイマンガに関する章はなく、なのに私の絵だけが載ってるってのは、ちょっとモヤモヤ。
 ひょっとすると、権利関係の問題なのかもしれませんね。図版の使用許可をとれるところが、見つけられなかったのかも。
 ピルチャー氏は日本語ができないっぽいし(少なくとも、私とのやりとりは、全て英語でした)、彼に限らず、海外の出版社なりジャーナリストなりが、作家とコンタクトをとりたくて、あるいは、何らかの権利関係をクリアにしたくて、日本の作家やマイナー系出版社に英語でメールを出したんだけど、返事が来ない、みたいな話は、私も何度か耳にしたことがあります。
 ただ「YAOI」の章には、YAOIは既に西洋でも広く知られており、2001年にはサンフランシスコでYAOI-Conも開かれ、出版する会社もここ数年で増えた……なんて書いてあるんだから、海外ルートからでも何とでもなりそうなのに。
 それ以外でも、日本のエロティック・コミックに関しては、前述したようなテキストと図版の齟齬が目立ち、例えば、「LOLICON」の章なんかも、テキスト部分には吾妻ひでおの『海からきた機械』や同人誌「シベール」、内山亜紀、藤原カムイ、雑誌「レモン・ピープル」なんて名前が見られるのに、図版は水野純子の作品や、アメリカで出版された、昆童虫の『ボンデージフェアリーズ』や、唯登詩樹の単行本の書影だけ。
 まあ、ここいらへんは出版コード的に、内山亜紀とかを載せるのが、難しいせいかも知れませんが。
 他に図版で見られるのは、天竺浪人、ふくしま政美、士郎正宗、大暮維人、うたたねひろゆき、玉置勉強、などなど。
 テキストでは、前述したようなモチーフ的な特異性以外にも、日本の出版におけるセンサーシップについて等も書かれており、「松文館裁判」の件が詳細に紹介されていたりします。