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スペインの企画展、プレスシートが公開されました

 先日ここで書いた、私が出品しているスペインはバルセロナの企画展ですが、プレスシートが公開されました。
 ARTZ21のサイトの”visit the gallery”から入り、ENGLISH > EVENTS > Love Pryde Showと辿って、FOR MORE INFO CLICK HEREをクリックすると、英語版プレスシートのPDFファイルがダウンロードできますので、興味のある方はどうぞ。
 因みに、掲載されている作品は、もちろん無修正版(笑)。

スペインのイベントと企画展に出品

banner-lovepryde2008
 今年の夏に、スペインはバルセロナのギャラリーが企画するイベント&展覧会に、作品を10点ほど出品します。
 8月1日から7日まで、バルセロナでLOVEBALLという、ヨーロッパ最大規模級(だそうです)のゲイ・イベントが開催されるんだそうですが、その時期に併せて、同市のアート・スペースARTZ21が企画開催するLove Pryde Showというイベント&展覧会に、私もオファーを受けて招聘参加することになりました。
 もっとも、スペインに行くのは作品のみで、残念ながら私自身は日本でお留守番(笑)。イベントは楽しそうだし、行ってみたいけど、急なことだったし、バルセロナには二回行ったことがあるので、今回はまあいいか、と、渡西は見送りました。

 イベントの方はクラブ・イベントで、8月1日の夜に開催。私の作品がどのように使われるのかは判りませんが、おそらくプロジェクター投影とかじゃないかと。プレスシートには「我々はファニーでゴージャスでアヴァンギャルドな、世界の挑戦的なアーティストを紹介します」とか書いてあるので、おそらく日本で言うと「デパートメントH」みたいなイベントではないかと、勝手に想像しております。
 展覧会の方は、同市内にあるARTZ21のギャラリーで、LOVEBALL開催期間中から9月末まで、2ヶ月間の開催予定。こちらは普通に、作品の展示と販売。私を含めて6作家の展示らしいですが、ARTZ21のサイトで参加作家の作品を見ると……むむ、けっこう皆さんコンテンポラリー・アートしている感じで、私は浮いているような……。まあ、あちらがいいって言うんだから、そーゆーことはあんまり気にしないようにしよう(笑)。

 話がきてから時間があまりなかったことと、個展ではないということもあって、出品作は全て旧作から。スペインでの展示は初めてなので、反応を見るという意味からも、色々なタイプの作品を混ぜたサンプラー的なラインナップにしてみました。実は、このギャラリーからは、秋に開催予定のもう一つの企画展にも出品を頼まれているので、今回の結果をそれ用の傾向と対策にもするつもり。
 また、純粋な新作ではありませんが、この企画展用に、新たに限定のオリジナル・プリントを3種ほど作ってみました。いずれも既に発表済みの作品ではありますが、プリント用にちょこちょこ加筆したりアレンジしたり、プリントも和紙に出力してから落款を手押ししてみたり……と、けっこう楽しみながら凝ってみました(笑)。

 というわけで、8月と9月にバルセロナに行かれる予定がおありの方、ガウディのついでにちょっと寄り道して、この企画展にお立ち寄りいただけると嬉しいです。

『タブウ』およびヴァルター・シュピース追補

 前回の記事を書いた後、ヴァルター・シュピースについて、もう少し詳しく知りたくなったので、とりあえず手頃そうな『バリ島芸術をつくった男 ヴァルター・シュピースの魔術的人生』(伊藤俊治・著/平凡社新書)という本を読んでみた。

 結論から言うと、残念ながらF・W・ムルナウとの関係については、シュピースのドイツ時代のバイオグラフィー関係や、交友がバリ移住後にも続いていたということ、ムルナウの『ノスフェラートゥ』がシュピースの写真作品に与えた影響(特に魔女ランダを撮影したもの)などについて、軽く触れられているのみで、特に目新しいものはなかった。
 しかし、「南海を舞台にした映画を共同でつくるというプランも二人の間にはあった」という記述があり、これは『タブウ』という映画の成立要因を考えるにあたっては、なかなか興味深い事実だと言えそうだ。
 またこの本は、シュピースとムルナウの関係については、前述した通りではあるが、シュピースという作家の生涯や、彼がどのようにしてバリの文化に関わり、バリ舞踏やバリ絵画が現在知られるような形に至ったのか、その経緯や時代背景や思想はどういったものであったのか、などといったことについては、とても判りやすく解説されているので、シュピースやバリ芸術に興味のある方ならば、読んで損はない内容である。

 さて、それとは別に、私がこの本を読んで、もう一カ所、興味を惹かれた部分があった。それは、1983年にシュピースが、「同性愛の罪」によって逮捕されたことに関する、その時代的な背景についての記述である。(ただし本書では、この部分以外には同性愛者について述べている部分はないので、「同性愛者としてのシュピース」の実像を本書から伺い知ることは、残念ながらほとんど出来なかった)

 では、まず以下の引用をお読みいただきたい。

「1930年代末になると、ファシズムの影が濃くヨーロッパを覆いつくし、それが世界中に広がってゆくようになった。ヒットラーの台頭と日本のアジア侵略は、インドネシアを統治しているオランダ政府にも大きな影響を与えた。(中略)
 そして何十年もの間、暗黙に了解されてきた慣習が突然、秩序にとって危険なもののように見えはじめ、いわゆる"魔女狩り"が主として性道徳上の問題(特にホモセクシュアル)に対して向けられていった。ジャーナリズムも同調し、そうした人々に対し悪意のこもったキャンペーンを始めるようになり、家宅捜索状が出され、警察が容疑者たちを次々と取り調べ始めた。
(中略)わずか数ヶ月間に、インドネシアでは風紀紊乱(ホモセクシュアル)による容疑者が百人以上も逮捕され、多くの人々が同じ事態が自らの身にも起こるのではないかという不安におびえ暮らしているありさまだった。自殺、免職、結婚の解消などが相次ぎ、バリでもそうした状況を免れることができなかった」

 私が興味を惹かれたのは、こうしたカタストロフが起きる以前の状況、すなわち同性愛が「何十年もの間、暗黙に了解されてきた」という状況である。
 では、なぜそれに興味を惹かれたのか。
 それは、その状況が現在の日本と同じだからである。
 日本では、欧米で見られるヘイトクライムのような、いわゆる目に見える形としての「ゲイ差別」は、幸いにして殆ど見られない。また、ある種の宗教的基盤のような、同性愛を絶対的な悪とみなす価値基準も、おそらくは文化的に存在していない。
 ただし、どの社会でも一定数はいるであろう、同性愛を道徳的に悪しとする層は、日本社会の中にも確実に存在するであろう。じっさい、ネット上の匿名の場においては、本気なのか露悪趣味的な行為に過ぎないのかは別としても、そういった論調にお目に掛かることは、決して珍しくはない。
 では、なぜそれが実社会で表面化していないかといえば、それは単に、そういった人々を後押しする大義名分が存在しないということと、そういった行為自体が、現在の社会というシステムの中で「良くないこと」とされているからである。仮に、宗教右派のような思想が後押しをすれば、同性愛批判は「正しい」という信念のもとに表面化するであろうし、社会というシステム自体がそれを制約しなければ、やはり同様の結果になる。欧米におけるキリスト教右派による活動などは、前者に相当するし、中東などのイスラム国家における同性愛差別は、前者と後者と共に相当する。
 つまり、極論を恐れずに言うならば、日本における「ゲイ差別がない」状況というのは、社会というシステムによって「何となくそういう状況に置かれている」ということでしかない。

 これは前述した「何十年もの間、暗黙に了解されてきた」という、1930年代の「同性愛者狩り」が始まる前オランダ領インドネシアの状況と、実は何ら変わることはないのだ。
 しかし、その同じ「暗黙の了解」が、1930年代、ほんの数年のスパンで、社会のパラダイム・シフトによって崩れた。それまで表面化していなかったものが、大義名分や社会不安の影響といった後押しを得て、政治的な力となって顕在化したのだ。これは見方を変えれば、状況次第ではそうなって然るべき潜在需要が、かつての「暗黙の了解」の時代の中でも、既に存在していたのだとも言えよう。
 そして、シュピースはその犠牲となった。(ただし、シュピースは後に釈放はされている。彼の直接的な死因となった、収容所間の移送中の爆撃において、その拘留理由となったのは、ドイツのオランダ侵攻による「敵国人」であるということだった)
 このことは、同性愛を「何となく」寛容している「暗黙の了解」というものが、社会というシステム自体が変化していく局面においては、いかに脆弱なものであるかということを指し示している。

 では、同様のことが現在起こったならば、いったいどうなるだろう。
 欧米に関しては、同性愛者側からの抵抗がはっきりと出て、簡単に同じ結果にはならないであろうことが、充分想像できる。目に見える差別に晒されてきた欧米の同性愛者たちは、現時点において既に、政治的にも経済的にも、ある程度以上の行動力は持ち合わせているからである。
 しかし、日本ではどうだろう。

 これまで日本では、前述のように表面化したゲイ差別がないためもあり、団結や主張、或いは防衛の必要はなかった。権利を侵害されることはないが、同時に権利を主張することもなかった、あるいはする必要がなかったのだ。
 日本におけるゲイのライフスタイルは、一例を挙げれば、その多くがウィークデイやデイタイムは「普通に生活」しながら、夜や週末や自宅のパソコン・モニター上でのみ「ゲイライフ」を満喫するという、「日常と分離した非日常としてのゲイ」なのである。よって、そういった非日常としてのゲイ・ビジネスは、ある程度以上には盛んであるし、社交を目的にするにせよ、性的な充足を目的にするにせよ、そういった場には事欠かないという、楽しいゲイ・ライフを満喫できる恵まれた状況にある。
 しかし、例えばLGBT向けのTVネットワークであるとか、書店で普通に買えるエロだけではないLGBT雑誌であるとか、あるいは同性婚であるとか、そういったものになると、これらはいずれもゲイ文化、あるいはゲイという主体が、日常レベルでも機能している、あるいは消費の対象となっているがゆえに、初めて機能しうる類のものである。だが、日本では「日常」において、ほとんどのゲイが「姿の見えない存在」である以上、マーケット自体が存在しないのと同様なので、当然のように、前述したような類のものも存在しえない。
 このことは、例えばカミングアウトしていないゲイが、家族や友人、仕事の同僚などの前で、明確に「ゲイ向け」の商品を購入することができるかどうかを考えれば、分かりやすいであろう。現時点での日本のような、日常化していないゲイ・マーケットの消費層にとっては、「ゲイ向け」というそのものズバリではないが、「ゲイ受けのする」とか「実はゲイらしい」といった、ゲイ・コミュニティー内である程度の共通認識がありつつ、しかし「ゲイとは何の関係もない」というエクスキューズも可能な「商品」までが、精一杯なのである。

 こういった現象の是非は別にして、それが結果として、日本のゲイの置かれている現状が、欧米におけるそれとは異なっている状況をもたらしている。それは、政治や経済といった「日常」においては、日本のゲイ・コミュニティーは全く力を持っておらず、また、行動を起こそうともしていないということである。
 過去に何度か、ヘテロセクシュアルのサイドから、政治的に、あるいは経済的に、欧米同様にゲイという潜在人口を期待したアプローチをしたことはあった。しかし、そのいずれもが期待された成果は得られなかった。つまり、他ならぬゲイ自身が、それに賛同することなくオミットしたのだ。このことからは必然的に、多くの日本のゲイ自身が、ゲイがあくまでも「非日常」のままであることを望んでいるのであろうと思わされる。ゲイが日常化することを希望する人口は、却って少数派なのであろう。
 こういった現状を踏まえて、社会的なパラダイム・シフトが起こった場合、日本のゲイがそれに抵抗できる力を持ち合わせているかを考えると、残念ながら個人的には、どうも悲観的な予測しかできない。
 しかも恐ろしいことに、前述した1930年代のオランダ領インドネシアにおける「同性愛者狩り」は、同種の行為で知られるナチス・ドイツによって行われたのではなく、ナチスに対立しつつ、その影に脅かされていたオランダにおいて、社会的不安を背景にして生まれている。ファシズムという、いわば分かりやすい「悪」の所産ではなく、それに対峙する存在であるかのような、本書の表現を借りると「普段は明晰で合理的な考え方を持つオランダ人たち」の手によってなされたのだ。これは、こういった「同性愛者狩り」が、ナチスの優性思想などとは異なる類の、より普遍的な人間社会のありようである可能性を指し示しているようで、ある意味で、絶滅収容所よりもそら恐ろしいものを感じる。

 日本は差別もなく、ゲイにとっては住みやすい国かも知れない。しかし、その安穏さの立脚基盤は、慣習的な曖昧さに基づいているものであるがゆえに、同時にひどく脆弱である。そして、こうした曖昧さは、ゲイにとってのカタストロフが起こった際には、何の力にもなりえないであろう。
 本書でヴァルター・シュピースの晩年について読み、改めて、そんなことについて考えさせられた。

『タブウ』

tabu
『タブウ』(1931)F・W・ムルナウ
“Tabu: A Story of the South Seas” (1931) F.W.Murnau

 ムルナウが同性愛者だと知ったとき、私はムルナウの作品は『吸血鬼ノスフェラートゥ 恐怖の交響楽』『ファウスト』『サンライズ』の三本を見たのみで、正直なところ意外に思った。1920年代から30年代という活動時期から鑑みても、それっぽい直截的な描写はなくて当然なのだが、それにしても、彼の映画からそれらしき気配を感じたことが全くなかったからである。
 その後、『ファントム』『最後の人』『フォーゲルエート城』などを見たときも、その印象は変わらなかった。見れば見るほどこの監督が好きになり、以前は自分の中で「ラング>ムルナウ」だったのが、いまではすっかり「ムルナウ>ラング」に逆転してしまったものの、同性愛的な要素に関しては、あくまでも「ああ、言われてみれば……う〜ん、そう深読みもできるかなぁ……?」といった程度の印象だった。

 そんな状況で、今回初めて『タブウ』を鑑賞した。
 そして、驚いた。
 そこには、同性愛者としてのムルナウの存在が、はっきりと刻印されていたからである。

 モノガタリは、南太平洋を舞台とした、寓話的とも言えるシンプルなラブ・ストーリーである。
 文明の力未だ及ばずの楽園、ボラボラ島に暮らす若い男女が恋に落ちる。しかし娘が、神に身を捧げる乙女に選ばれたことにより、二人の恋は禁忌(タブウ)の恋になってしまう。互いを諦めきれない二人は、やがて手に手をとって島から逃げ出す。駆け落ちした二人は、より文明化された島へと辿り着き、そこでひっそりと幸せに暮らす。だが、そこに追っ手が迫る。二人は再び脱出を試みるが、貨幣という「文明による堕落」が、それを阻む。
 ここをもう少し詳しく説明すると、かつて二人が暮らしていた島には、貨幣の概念がなかった。しかし、今度の島では、船に乗るにもお金がいる。貨幣の概念を知らなかった二人は、一度は追求の手を「買収」によって逃れることができるのだが、一方で、それと知らずに抱えてしまっていた「負債」が、最終的に二人の脱出行の障害になってしまうのだ。

 以下、ネタバレになるので、お嫌な方は、次の段は飛ばしてください。

【ここからネタバレ】
 脱出の道を喪い、娘は、愛する若者の命を救うために、自分は追っ手と共に島に戻ることを決意する。一方若者は、負債を返済するために、鮫が潜むタブウの海域に潜り、真珠を採ろうと決意する。結果として若者の試みは成功するのだが、家に戻ったときには、既に娘は書き置きを残して姿を消した後だった。
 若者は、恋人を連れ去る船を追う。最初はカヌーで、そして泳ぎで。帆に風をはらんで疾走する帆船を、泳いで、泳いで、泳ぎまくって、ひたすら追いかける。そしてついに、船から垂れたロープを掴む。しかし、追っ手の老人は、娘を船倉に押し込むと、若者の握ったロープを無情にも切断する。船は進み、若者は次第に引き離されていく。そしてついに若者は力尽き、大海に沈んで消えてしまう……。
【ここまでネタバレ】

 こういったモノガタリが、職業俳優ではない素人の現地人の演技と、南太平洋の美しい自然の情景に彩られながら綴られていく。
 手法としてはドキュメンタリー的だが、主題としては、民俗学的な記録映画的なものではなく、やはり寓意的な愛のモノガタリが前面に出ている印象が強い。
 寓話的世界とドキュメンタリー的な世界の齟齬もあって、私が個人的にムルナウのベストだと思う『吸血鬼ノスフェラートゥ』『最後の人』『サンライズ』の三本と比べると、若干見劣りする感はあるものの、それでも充分以上に見応えのある名作であることには変わりなく、しかも、以下で述べる同性愛的な要素も併せて鑑みると、私にとって忘れがたい一本となりそうな作品だった。

 では、この映画に見られる同性愛的な要素について。
 最も直截的にそれを感じられるのは、映画の冒頭で映し出される、ポリネシアの青年たちの美しい裸身であろう。南国の楽園で、若者たちのしなやかな裸身が、画面から飛び出さんばかりに躍動する。
 このシークエンスにおいて、それを捕らえるムルナウの「目」に、意識的にせよ無意識的にせよ、同性愛的な視点が存在するのは、後述するように、ムルナウが死んだときに一緒だったのが、フィリピン人のボーイフレンドだという点からも明かであろう。また、映画には乳房も露わな娘たちの裸身も出てくるが、この青年たちの裸身を撮るときのような、肉体の美しさそのものに耽溺しているようなニュアンスは見られない。
 いささか唐突ではあるが、私はこの一連のシークエンスを見ながら、何とはなしに、シチリアのタオルミナで古代ギリシャ憧憬に基づく青少年のヌード写真を撮り続けた、やはり同性愛者であったヴィルヘルム・フォン・グローデン男爵の写真を連想していた。

 そして、もう一つの同性愛的な要素は、禁忌(タブウ)の愛という映画の主題そのものである。
 禁断の愛すなわち同性愛の暗喩と捉えるのは、いささか安直に過ぎるかもしれない。しかしこの映画の場合、監督自身が同性愛者であるということと、特定の愛がタブウとなる背景が、共同体というシステムに起因していることが明示されているという点からも、やはり同性愛のアレゴリーであると考えたくなってしまう。
 ここで重要視したいのは、この映画は未だ文明化されていない南国の島を楽園的に描きながらも、同時にそれが二人の愛をタブウとする原因でもあるという点だ。則ちここで描かれている南国は、例えばゴーギャンが描いたような、非文明的であるがゆえの愛と生命に満ちた楽園では、決してないのだ。
 同時にこの映画には、前述したような文明批評的な要素も出てくる。では、非文明と対比された文明化された社会によって、二人の愛は救われるのかというと、これまたそうではない。文明社会は文明社会で、これまた二人の愛に代表される「純粋さ」を阻害してしまうのだ。
 原始社会が愛を阻む禁忌となり、それを人文化された文明が救うという構図ではなく、逆に、近代社会で叶わぬ純粋な愛が、原始の楽園で許容されるという構図でもなく、どちらもが純粋な愛の成就を阻害する。このことは、後述する、この映画の制作の原動力となった、ムルナウとヴァルター・シュピースとの関わりを考え併せると、よりいっそう興味深いものに映る。

 DVDには、小松宏という方による詳細な解説書が付いているので、この映画の成り立ちについて、詳しく知ることができる。
 それによるとムルナウは、「かつて生活を共にしたワルター(ママ)・シュピースが彼のもとを去って南洋の島に行って以来(中略)いつしか南海の島々を自分の船で探検するという夢を抱くようになっていた」とある。そしてムルナウは、帆船を購入し、それをバリ号と名付ける。これは、シュピースが暮らしていたのはバリ島で、彼はそこから「何通もの手紙をムルナウのもとに送ってきており、このいまだ見ぬ島はムルナウにとって憧れの場所になっていた」ことに起因している。
 やがてムルナウは、ドキュメンタリー作家のロバート・フラハティーと出会い、南太平洋を舞台に共同で『トゥリア』という映画を撮ることを計画する。そして様々な要因で企画変更を経た後、『トゥリア』ではなく『タブウ』という映画が完成する。そして、解説書に記載されている粗筋を読む限り、この『トゥリア』の内容は、文明批評的な要素のある悲恋ものではあるものの、『タブウ』のような禁忌としての愛や、その純粋な愛が、非文明にも文明にも阻害されるという構造は見あたらない。
 撮影のためにタヒチに赴くにあたって、ムルナウはフラハティーとは別行動で、一ヶ月先んじて、自らのバリ号で出発した。しかし「様々な港に寄港しながらタヒチに向かったため、彼がタヒチのパペーテに到着したのは、フラハティーに遅れること1ヶ月」だったとある。このとき、ムルナウがバリ島のシュピースのもとを訪れたかどうかは、残念ながらこの解説からは判らない。

 ここで、私がこの映画の成立背景を考えるにあたって、極めて重要だと思いつつも、しかし解説書にはそれに関する記載が一切ない、ある「事実」がある。
 それは、ムルナウ同様に、ヴァルター・シュピースもまた、同性愛者であったということだ。
 解説には「かつて生活を共にした」とあるが、シュピースはムルナウの恋人であった。そして、やがてムルナウの元からバリ島へと去るが、前述したようにその存在は、引き続きムルナウに影響を与え続ける。余談になるが、ちょっとコクトーとランボーを連想させる関係だ。
 西洋社会から南国の「楽園」へ逃れた、かつての恋人に影響され、自らも「楽園」への憧れを抱いた、同性愛者としてのムルナウ。そして、そのムルナウが、いざ自ら楽園に赴いて描き出した、純粋な愛がシステムによって禁忌とされ、文明からも非文明の楽園からも拒絶され、押しつぶされていくモノガタリ。
 つまり、この『タブウ』という映画は、制作過程や表現手法という点ではフラハティーの存在が大きいが、その起因と結果を見ると、内容的にはムルナウとシュピースという、同性愛者としての二人の関係を踏まえて、考察されるべき作品ではないかと思うのだ。
 こういった事情は、知る人には既に周知の事実なのかも知れない。また、これ以上の論考を進めるには、シュピースの伝記なり何なりを紐解く必要がありそうなので、考察はここで留めることにする。じっさい、ネットで検索してみると、『バリ、夢の景色 ヴァルター・シュピース伝』という書籍に、「影を共有した二人/同性愛者たちの夢の景色/孤独なムルナウの足跡と『夢の景色』の行方/ムルナウの失楽園/死してノスフェラトゥとなったムルナウ」という、興味深い章立てがあるのが見つかった。
 ただ、このDVDに付属した解説が、丁寧ではあるものの、同性愛的に関しては触れることなく、しかしそういった要素は暗示しているような、そんな、どこか奥歯に物が挟まったような物言いが多いのが気になった。
 それで、ここで自分なりに補完してみようと思った次第である。

 こういった、奥歯に物が挟まったような物言いは、解説の他の部分にも見られる。
 例えば、ムルナウの死に関する記述。
 ムルナウはこの『タブウ』の完成させた後、その公開を待たずして自動車事故で亡くなってしまうのだが、これに関して解説書では「ムルナウとフィリピン人の少年を乗せた」と書かれているのみで、そのフィリピン人の少年がムルナウのボーイフレンドであるとは明記されていない。もし、事故の際の同乗者が、監督の細君であったり、あるいは女性の恋人であったならば、こういう書き方はされるまい。はっきりと、「妻と」とか「恋人と」とか書かれるであろう。
 また、映画としての総論が述べられる部分も然りである。少々長くなるが、以下の引用をお読みいただきたい。

 ムルナウの作品には多くの場合彼の個人的な世界が反映されているように見える。彼の作品における愛の純粋性や孤独の価値といったものはその表れの事例とも看做されよう。そのような意味で見ると、『タブウ』はムルナウの最もパーソナルな映画といってよいかもしれない。(中略)ムルナウは理想郷だけでは満足しなかった。そこに彼は自分の宿命を投影した。まさにこの作品がムルナウの最もパーソナルな映画である理由はここにある。タブーに触れることが、避けられない宿命として語られる。(中略)ムルナウは(中略)この映画によって希望を求め(中略)自らを待ち受ける運命を予言した。『タブウ』はその意味で、ムルナウにとっては自己発見の映画であり、同時に自己否定の映画でもあった。(中略)映画が完成した時点で、これはフラハティーの世界とは極めて遠くはなれているムルナウの個人的な告白の映画になった。

 このように、この『タブウ』がムルナウのパーソナルな告白といった要素を持ち合わせていることに触れつつ、しかし、具体的にそれが何であるのかについては、一切触れることなく曖昧にぼかされた内容になっている。
 この結論部分に限らず、シュピースに関する記述同様に、この解説文中には、ムルナウが同性愛者であったという記述は一切ない。これは、ムルナウの他の作品ならいざ知らず、この『タブウ』のクリティカルな解説としては、余りに片手おちであるように、私には感じられる。
 また、それと同時に、同性愛という言葉を周到に避けながらも、しかし知っている人には判るような、この暗示めいた文章が生み出された、その由縁が気になる。これは、ある種の「配慮」によるものなのだろうか。だとしたら、この解説文の内容を批判する気はないが、しかし、そういった「配慮」をすること自体が、同性愛に対して差別的なのだという指摘はしておきたい。理由はどうあれ、その根底には、同性愛とは隠匿すべきものだという思想が隠れているのだから。
 そして、私にとって最大の悲しむべきことは、ムルナウが自らの『タブウ』に踏み込んで描いたこの映画のテーマが、21世紀の現代日本においても、いまだに「タブー」のように扱われているという、シンプルにして恥ずべき事実だった。これは、この映画を撮ったムルナウの精神そのものにも反しているだろう。

 前述したように、ムルナウはこの映画の公開を待つことなく、自動車事故によって夭逝した。それから7年後、シュピースは「同性愛の罪」によって逮捕される。そして釈放と再逮捕を経て、1942年、船によって身柄を移送中に、日本軍の爆撃を受けて死亡した。このように『タブウ』は、同性愛者の表現者による最後の作品が、作家の人生における同性愛者としての側面と、不思議な符帳を見せているという点で、パゾリーニの『ソドムの市』やファスビンダーの『ケレル』と似たものを感じさせる。
 またこの作品を、上に述べてきたような同性愛的な視点で読み解いていくと、映画のクライマックス、泳いで、泳いで、泳ぎまくる青年の姿に、同性愛者としてのムルナウの姿が重なって浮かびあがり、その結末には涙を禁じ得ないだろう。

『タブウ』は、同性愛の映画ではない。
 しかし、同性愛者ならば必見の映画である。
『タブウ』DVD(amazon.co.jp)

フランスで二回目の個展をします

carte 1taga
 フランスはパリのArtMenParisギャラリーで、5月5日から6月26日まで個展をします。
 内容は、これまでも何度かお伝えしてきた、この個展用に描きおろした連作『七人の侍』の限定プリントをメインに、過去のドローイングも一緒に数点展示して販売します。オープニング・パーティは5月5日の18時から23時まで。
 残念ながら、私は今回は渡仏しませんが、フランスおよび近郊のヨーロッパ諸国ににお住まいの方、よろしかったらお出かけくださいませ。
・詳細はこちら。(ギャラリー・オーナーのMySpaceページ)

 でもって、それに併せて直前にクラブ・イベントもあるようで。前回の渡仏時に私も遊びに行った、"Yes Sir!"という野郎&ベア系のゲイ・ナイトです。
 で、これがそのフライヤーなんですが……う〜ん、個展のフライヤーより、こっちの方がカッコイイぞ(笑)。
yes_sir2008
 このパーティーは、音も雰囲気も好みだったので、行けないのが残念。誰か代わりに行って、どんな感じだったか教えてください(笑)。5月3日です。
・詳細はこちら。(イベントのMySpaceページ)

書籍『世界のサブカルチャー』

Subculture_2 アート、写真、FLASHアニメーション、リトルプレス、ショップ、ギャラリー……などなど、洋の東西を問わぬ様々なアンダーグラウンド・カルチャーが、330ページ以上に渡ってフルカラーで紹介されているカタログ本です。監修・屋根裏、著・屋根裏/どどいつ文庫 伊藤/ばるぼら/タコシェ/野中モモ/タブロイド/福井康人/みち、発行・株式会社翔泳社、定価・3200円+税。
 私なんかは、やはり画家とかに一番興味を惹かれるわけですが、このテのものは好きだし、さほど疎い方でもないとは思っていた私でも、見たことも聴いたこともないユニークなアーティストがどっちゃり載ってます。掲載図版が小さいのは残念だけど、サイトを持っている作家に関してはアドレスが記載されているので、ガイドブック的に楽しく使えそう。また、掲載されている作品のタイトルや制作年、使用マテリアルなどが、巻末リストとしてしっかり記載されていたり、人物名などの充実したインデックスを備えていたりするあたりも、極めて良心的だし嬉しい作り。
 で、まあ私もその一員として紹介していただいているんですが、ゲイ・アート関係では他にも、日本では児雷也画伯や稲垣征次先生、海外では、私が知っているところで、アメリカのアイラ・C・スミス、マイケル・カーワン、ロブ・クラーク、フランスのザビエル・ジクウェルなんかが取り上げられています。他にもスペインとか、珍しいところではペルーやインドのゲイ・アーティストなんてのも。
 そんなこんなで、なかなか面白い混沌とした本なので、よろしかったらどうぞ。
世界のサブカルチャー (amazon.co.jp)

Colton Ford発Joe Gage行き

 ひょんなことで目にした、コルトン・フォードというシンガーの、”That’s Me”という曲のプロモーションビデオが、余りにもマッチョでエロかったので、YouTubeにあったビデオを貼り付けてみます。何か、もう映像のエロさが強すぎて、逆に、どんな曲だったか音印象が残らないくらいです(笑)。

 さて、実はこのお方、元ゲイポルノスターらしい。ならば、このエロさも納得ですな。私は出演作を見たことがないんですけど、ちょっと調べたら、GayVN Awards(VNはvideo newsの略で、まあアメリカのゲイAV大賞みたいなものです)で2003年度のGay Performer of the Yearを獲得したりしています。
 現在では音楽活動と並行して、here!制作のゲイドラマ”The Lair”なんかにも出演しているらしいですね。彼の経歴を追ったドキュメンタリー映画”Naked Fame”(「裸の名声」ってとこでしょうか)なんてのもあるみたいで、これはちょっと面白そうなので見てみたい。
 しかしまあ、このPVを見てると、80年代にMan2Manの”Male Stripper”なんかにドキドキしてたことを思うと、隔世の感があります。で、こっちもYouTubeにあったので、貼り付けてみる。

 ど〜です、ババァの元クラバーには懐かしいでしょう(笑)。
 当時は、Man2Manはこの一曲しか知らなかったんですが(12インチシングルを持ってた)、数年前にCDで欲しくなってベスト盤を購入したら、他の曲もぜ〜んぶ同じ曲にしか聞こえなかったという、キョーフの金太郎飴アーティストだった(笑)。
 さて、ゲイポルノとクラブミュージックという繋がりで、もう一つ思い出した曲があって、探してみたらそれもYouTubeにあったので、貼ってみます。Man Parrishの”Heatstroke”という曲。ちょいとイントロが長いですけど。

 今回、改めて調べて初めて気付いたんですけど、前出のMan2Manをプロデュースしてたのって、このMan Parrishだったのね。知らなかった。
 で、この曲の何がどうゲイポルノなのかと言うと、実はこれ、元々はアメリカの伝説的なゲイポルノ映画監督、ジョー・ゲージが撮った”Heatstroke”というゲイポルノ映画のテーマ曲だったんですな。それが後にオーバーグラウンドでもヒットした。個人的には、映画で使われていた女声コーラスとかが入っていないバージョンの方が、音は多少チープでもストイックなアングラ臭があって好み。
 ジョー・ゲージの映画は何本かDVDを入手してるんですが、個人的に特に名作だと思っている、この”Heatstroke”のDVDは、未だ発見出来ず。あと、同様に名作の”Closed Set”(1980年版)のDVDも見つからず。また、入手出来た”Kansas City Trucking Co.”三部作のDVDも、ビデオ版と比べるとシーンがカットされた短縮版だったりするので、これまた残念な限りです。
 で、このジョー・ゲージ監督ですが、80年代中頃にゲイポルノからは退き、ティム・キンケイド名義で『虐殺バッドガールズ・地獄の女刑務所』だの『アンドロイド・バスターズ/残虐メカ帝国の逆襲』だの『ミュータント・ハント』だの『エネミー・テリトリー』だのといったB級映画を撮っていた。(とはいえ私自身は、この時代の監督作品で見たことがあるのは、エンツォ・G・カステラッリと共同監督している、ルー・フェリグノ主演の”Sinbad of the Seven Seas”だけなんですけど)
 やがて2000年代に入ると、ティム・キンケイド監督は再びゲイポルノを、ジョー・ゲージ名義で撮るようになる。何本か見ましたが、70年代中頃から80年代前半にかけて作品に見られた、あの圧倒的なパワーと比較してしまうと、残念ながらお年を召されてしまったなぁ、という感じでした。
 そんな作品の中に、これは未見なんですが、2002年の”Closed Set: The New Crew”というのがありまして、ここで最初に出てきたコルトン・フォードが、メインスターでクレジットされてる。むむむ、こうなると、見てみたいという欲求が、ムクムクと頭をもたげてくるなぁ(笑)。
……という具合に、PVのエロさに興味を持って調べ始めたら、自然に話題が一周して繋がっちゃった。自分でもちょっとビックリです(笑)。

カナダでの輸入規制に関する続報

 前に2007年2月16日の記事で、カナダでは私の本が輸入禁制品扱いだということについて触れましたが、先日、アメリカのジャーナリストの方から、このカナダにおける規制に関しての記事を書きたいのだが、意見を聞かせてくれという取材申し込みがありました。
 で、Eメールで質問と回答を何度かやりとりしたり、これに直接関連しているH&Oのエディターを紹介したりした後、EDGEというゲイ情報サイトに、O Canada! Customs Routinely Seizes Gay Material as ’Obscene’というタイトルで記事が掲載されました。
 ざっと目を通してみると、この規制は基本的にobscene(猥褻)の如何を問う性質のものらしいんですが、にも関わらず、アメリカの有名なゲイ向けフリーペーパーで、基本的には非エロ系の情報誌であり、エロティックという点に関して言えば、日本に持ち込んでも全く問題がないような”Advocate”が巻き込まれていたり、規制の対象がLGBTマテリアルに偏っているのではないかという可能性があったりとか、どうも私が想像していた以上に汎的な問題を呼び起こす可能性のある内容のようです。
 興味のある方は、ご一読ください。こちら

往年のゲイ受け女優、三本立て

 近所の店で、20世紀FOXスタジオ・クラシックス・シリーズDVDが半額だったので、欲しかったんだけど買い逃がしていた、『遥かなるアルゼンチン』『残酷な記念日』『女はそれを我慢できない』の三枚を買ってきました。
 それぞれ順番に、カルメン・ミランダ、ベティ・デイヴィス、ジェーン・マンスフィールドがお目当てという、我ながらゲイゲイしい、それも年喰ったオカマ好みのラインナップです(笑)。
Harukanaru『遥かなるアルゼンチン』(1940)アーヴィング・カミングス
“Down Argentine Way” (1940) Irving Cummings
 アルゼンチンの牧場の二枚目御曹司と、可愛いアメリカ娘のラブ・ロマンスを描いた、ミュージカル・ラブ・コメディ。まあ、他愛のない話ではあるんですが、全編を覆う陽気なノリが何ともゴキゲンで、見終わった後は予定調和の多幸感で満たされる、上出来の佳品でした。
 歌と踊りも存分に楽しめて、特に、舞台の殆どがアルゼンチンというせいもあり、いかにもアメリカナイズされたラウンジ調のラテン音楽の数々が楽しめるのは、モンド音楽好きとしても嬉しいポイント。
 あと、黒人二人組(ニコラス兄弟というらしい)のタップダンスがすごい。最近のミュージカル映画だと、どうしてもカメラワークやカット割りのダイナミズムを重視した、MTVっぽい見せ方が多くて、それはそれで好きなんだけど、反面、踊り自体をあまり楽しめない不満感が残ったりして、例えば、バズ・ラーマンの『ムーラン・ルージュ』のタンゴの群舞とか、その好例だった。でも、今回のタップ・シーンは、いかにもな名人芸を、舞台さながらにじっくり見せてくれて、そのワザのすごさに圧倒されて目が釘付けになり、終わった後は思わず拍手したくなる……なんていう、クラシック・ミュージカル映画ならではの醍醐味を、しっかり味わえました。
 お目当てのカルメン・ミランダは、映画の冒頭からいきなりアップで「♪アパパパパ〜」と歌い出したもんだから、私はもう大喜び。一緒に見ていた相棒は、それまでカルメン・ミランダのことは知らなかったんですが、彼女の歌の楽しさと顔の賑やかさに「笠置シヅ子みたいだ」と、やはり大喜び(笑)。
 この映画では、カルメン・ミランダは「ブラジルのスターがアルゼンチンに来てショーに出ている」という本人役なので、ストーリーには直接絡んでこないし、演技を見せるシーンとかはないのが残念ではありますが、でも歌はしっかり三曲ほど披露してくれますし、もちろん彼女の看板の、あのドラァグ・クイーンもビックリな頭飾りと衣装(……どんな感じかって? こんな感じです)も楽しませてくれます。
『遥かなるアルゼンチン』amazon.co.jp
 ついでに余談。
 さっき笠置シヅ子の名前を出しましたが、この映画の主題歌の”Down Argentine Way”という曲、その笠置シヅ子が「美わしのアルゼンチナ」という題名で歌ってます。このCDで聴けます。因みにこのCD、マジで名盤です。私が持っているのは旧盤ですが、もう何度聴いたことか。しかしこのリイシュー盤、旧盤と比べて二曲増えてるって……そのためだけに買うかどうか、現在思案中(笑)。でも、持ってない人には、同じシリーズのこっちも併せて、激オススメですぞ。
Zankokuna『残酷な記念日』(1968)ロイ・ウォード・ベイカー
“The Anniversary” (1968) Roy Ward Baker
 毎年、母親と亡父の結婚記念日に、家に集まる習慣のある一族。しかし、実は息子たちは、自分たちを支配している母親から、逃れたいと思っている。今年も、末の弟が連れてきた婚約者が、さっそく底意地の悪い母親の毒牙にかかり、さらに上の兄の秘密も暴かれ、パーティーは混迷してドロドロに……という内容。
 お目当てのベティ・デイヴィスは、もちろん母親役。名作『何がジェーンに起こったか?』以来ハマり役の、奇っ怪で不気味なオバサン(もしくはオバアサン)役ですが、今回も期待に違わず、出で立ちからして、キラキラのお洋服+片目に眼帯というトゥー・マッチさ(何と眼帯のお色直しまである!)で熱演。
 加えて性格も、徹頭徹尾マジに邪悪でビッチ。相手の劣等感を探り当ててはネチネチいびったり、弱みを見せるような素振りをして、実は罠を仕掛けていたり、息子の婚約者に「警察が来たら二階に隠れていてね、売春宿と間違われると困るから」と言い放ったり、下着女装の趣味があるデブ息子が風呂に入ろうとすると、「そういえば、風呂に入る太った女の絵を描くフランスの画家がいたでしょ、何て名前だっけ?」と嫌味をとばしたり……と、もうステキ過ぎ(笑)!
 元が舞台劇らしく、映画的なダイナミズム等はあまりないですが、会話の応酬でモノガタリの輪郭が次第に明らかになっていく面白さとか、家族モノなのに人情味なんて微塵もないドライさとか、いかにもイギリスらしいシニカルなブラック・ユーモアとか、お楽しみどころも多し。オカマのツボを押すという点では、かなりポイント高い内容でした。
『残酷な記念日』amazon.co.jp
 とはいえ、「おっかないベティ・デイヴィス」未体験の人だったら、やはりまずは『何がジェーンに起こったか?』から見て欲しいですな。この映画、ゲイ映画の名作『トーチソング・トリロジー』の中で、ドラァグ・ショーのネタとして使われていたし、最近だと『蝋人形の館』でも、劇中の映画館で上映されてましたね。
 あと、内容はオカマウケする「女優の戦いモノ」で、しかも映画としてもマジで名作の『イヴの総て』も必見。これ、日本のオカマ好き映画の定番、『Wの悲劇』の元ネタです。ベット・デイヴィスが三田佳子、アン・バクスターが薬師丸ひろ子。
 この二つをクリアしてベティ・デイヴィスのファンになったら、あとは『何がジェーンに…』の変奏的なビッチ・サスペンス(……って、そんなジャンルね〜よ)『ふるえて眠れ』とか、不気味な乳母役で、しかも少女時代のパメラ・フランクリンも出ているので、「ホラー好きにはダブルでお得!」な『妖婆の家』とか、ホラーなんだけど、実は一番こわいのは、「祖母/ベット・デイヴィス、父/オリバー・リード、母/カレン・ブラック」という、主人公一家の面々なんじゃないかっつー『家』とか、まだまだお楽しみは沢山ありますよ(笑)。
Onnahasorewo『女はそれを我慢できない』(1956)フランク・タシュリン
“The Girl Can’t Help It” (1956) Frank Tashlin
 落ちぶれた芸能エージェントに、ヤクザのボスが「俺の情婦をスターにしろ!」と押しつけてくる。最初は乗り気じゃなかったエージェントも、いざ彼女に会うと、そのセクシーさにクラクラ。どのくらいセクシーかというと、彼女が道を歩くだけで、余りのセクシーさに氷屋の氷が溶け始め、牛乳配達のミルクが沸騰し、オッサンのメガネにヒビが入るのだ(笑)! でも、実は彼女自身はスターになんかなりたくなくて、一番好きなのは家事全般だった……ってなお話し。
 コメディ仕立ての音楽映画で、制作当時に黎明期だったロックンロールのスターたち(……っても、私はそこいらへんは疎いので、名前を知ってるのはプラターズくらいで、あと、ロックンロールじゃないジュリー・ロンドン)の、ライブシーンがふんだんに盛り込まれて、これまた楽しくゴキゲンな内容。
 音楽関係では、グループ名は判らないけど、主人公たちが借りに行ったスタジオで演奏していた連中や、ライバルのジューク・ボックス会社のオーディションで演奏していた連中のパフォーマンスが印象に残ります。ジュリー・ロンドンは、主人公が彼女の元マネという設定。彼女を忘れられない主人公の前に、妄想となって現れて、彼女自身のヒット曲”Cry Me A River”を、じっくり聴かせてくれます。
 お目当てのジェーン・マンスフィールドは……いやぁん、めちゃめちゃキュートやんけ!
 前に『よろめき休暇』で彼女を見たときは、いかにもマリリン・モンローのばったもんって感じで、しかも本当にどーでもいいような役で、何かちょっと気の毒な気すらしたし、愛夫ミッキー・ハージティと共演したソード&サンダル映画の”The Loves of Hercules (a.k.a. Hercules and the Hydra)”(伊語原題”Gli Amori di Ercole”)になると、赤いカツラと黒いカツラで「良いジェーン・マンスフィールド/悪いジェーン・マンスフィールド」を演じ分けている(笑)のが、もうネタとしか思えなかったんですが、今回はマジで魅力が大爆発! お色気と可愛さと、自慢の巨大バストを振り回して大活躍!
 まあ、演技力という点では、ベッドに突っ伏して泣くシーンとか、ちょっと「う……(汗)」って感じではありましたが(笑)、そんなのも、「音痴な彼女が唯一レコード・デビューする方法」として、刑務所の歌を録音することになり、マイクの前でサイレン代わりに「♪きゃぁ〜お!」と叫ぶ可愛さの前では、もう帳消し! いや、ジェーン、あんたこの映画では、ちゃんとスターオーラあるじゃん!
 今回つくづく感じたことは、ジェーン・マンスフィールドの「セクシーさ」って、例え彼女が当時のセックス・シンボルであったとはいえ、それは決して自然なものではなく、世の中で「セクシーだ」とされている要素を誇張したものなんですな。それが余りにもトゥー・マッチなので、彼女の存在は、「セクシーな女優」ではなく「セクシーな女優のパロディ」に見える。最近で言うと、叶姉妹なんかもそうですな。これは。基本的に「女のパロディ」であるドラァグ・クイーンと同じで、だからそーゆーテイストを好むゲイにも受ける。
 で、今回の映画は、そんな彼女のトゥー・マッチさが話の軸を担い、更にそれが前述したようなトゥー・マッチな演出で描かれるので、彼女という存在と映画という作品が、全くブレずに完璧に重なり合い、作品として理想的な融合を遂げているという感じ。コメディとしても、少々の洒落っ気はあるものの、決して「小粋」にはならないという、ユーモアのセンスがちょいと泥臭いあたりも、成功の一因。
 う〜ん、こうなると同じ監督と再タッグを組んで、評判も良い『ロック・ハンターはそれを我慢できるか?』を見たくなるなぁ。日本盤、出ないかな〜。
『女はそれを我慢できない』amazon.co.jp
 余談。
 この映画からタイトルを借用した歌謡曲で、大信田礼子の「女はそれをがまんできない」ってゆー歌があるんですが、これまたオカマ心をくすぐるセクシー歌謡の逸品だったりします。イカしたビートに乗せて、ちょいドス効き気味なハスキー声で「好きなひ〜とじゃ、なくちゃいや〜ン♪」って歌うの(笑)。このCDで聴けます。これ、このテが好きな人だったら捨て曲なしの好コンピレなんで、よろしかったらついでにオススメ。

Dieux Du Stade 2008 カレンダー

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“Dieux Du Stade – Callendrier 2008 par Steven Klein”
 毎年出ている、フランスのラグビー代表選手のヌード・カレンダー、2008年版。今回のカメラマンはスティーヴン・クライン(Steven Klein)。
 この人は、かなり毒があったり、退廃的なイメージの作品を撮る作家という印象がありますが、このカレンダーでは、さほどアグレッシブな画面作りはしておらず、この作家にしては、ぱっと見は比較的大人しめの印象。

 とはいえ、表紙からしていきなり、全裸のラグビー選手が、金属製のラグビーボール型オブジェに、チェーンと手錠で繋がれている……なんて絵がくることからもお判りのように、単なる口当たりの良いピンナップというわけではなく、どこかビザールだったり性的だったりする仕掛けが、あちこちに散りばめられています。
 ビザール面では、鎖と枷というモチーフが頻繁に登場します。美術館か宮殿のような室内で、ギリシャ彫刻のようなポーズをとる全裸のラグビー選手の両足に、さりげなく足枷がはめられていたり、向かい合ってレスリングのようなポーズをとる二人が、足枷と鎖で連結されていたり。中には、バンザイ・ポーズで鉄格子に手錠でつながれている男……なんていう、まんまボンデージな写真もあります。
 ただ、流石にサドマゾヒズム的なところまでは突っ込めなかったのか、ハッタリを効かせたわりには、ちょいと消化不良な感じもあり。

 性的なほのめかしという点では、かなり挑戦的です。特に、小道具としてビデオカメラが配された作品が面白い。
 このシリーズは二点あり、一つは椅子に座って股間を手で覆った男と、それを見下ろすようにビデオを構えている男という構図、もう一つは、レスリングのポーズで組み合う二人の男を、別の男がビデオ撮影しているというポーズ。これらの作品は、鑑賞者に必然的にポルノビデオの撮影現場を連想させます。前者はオーディションかマスターベーション、後者はズバリセックスシーン。
 こういった、ポルノ産業的な連想を引き起こすことよって、実際に写真で描かれているもの以上の、より性的で淫靡なエロティシズムが、鑑賞者の内面に、自動的に生成されるという仕掛けになっている。アート的なアプローチを使って、ヌードとポルノグラフィーの境界を混乱させるという、巧妙かつ興味深い作品。

 この、境界の恣意的な混乱という面では、他にも幾つか面白い作例が見られます。
 例えば、片手で股間を抑えて椅子に座るという、何ということのないポーズが、一枚の鏡を配することで、自慰のイメージへと転じている作品。
 あるいは、大理石の壁龕の中に立ち、法悦的な表情でギリシャ彫刻のような力強いポーズをるという、まるで教会にあるバロックの彫刻の聖人像のようなコンポジションを用いつつ、同時に、彫刻にはあるまじき滝のような汗を流させることによって、生きた肉の存在感を強調し、肉欲的なエクスタシーも連想させるような作品。
 また、裸の男とモーターサイクルという、いささかありふれた組み合わせを使いながらも、男をバイクの正面から向かい合わせに跨らせることによって、まるで人間と機械のファックのようにも見える作品。
 こういった、一見するとさほどアグレッシブには見えないが、実はかなり挑戦的な意図が存在している作品群は、かなり面白く見応えがあります。

 このように、鎖や枷といったビザール的な作品、性的な仄めかしのある作品、そして、詳述はしませんでしたが、もっとシンプルな、純粋に肉体美やコンポジションを追求したヌード作品が、このカレンダーには、入り交じって配置されています。
 カレンダーとはいえ、6枚綴りや12枚綴りではなく、一ヶ月が二枚に分かれている上に、ボーナスページも加わった、総計30枚というカレンダーらしからぬヴォリュームです。しかもサイズはA3と大判で,使い終わっても切り離さずに保存できるリング製本。ページ全面が写真で、カレンダーのタマ(日付など)は上部に小さく一行入っているだけ。
 これを壁にかけても、ぱっと見ただけじゃ日付は判らないし、メモを書き込み余白もなし、といった具合で、カレンダーとしてはおよそ実用的ではないですが(笑)、紙質や印刷は文句なしのハイ・クオリティ、28ユーロというお値段に相応しい、持っていて嬉しい立派な写真集になっています。

 残念ながら、日本のアマゾンでは扱っていない様子。2007年版はあったのに、ここんところホント、日本のアマゾンはこういったものの取り扱いが渋くなっちゃいましたね。紀伊國屋BookWebにはあったんだけれど、残念ながら現時点では「入手不能」の表示が。
 本国フランスのアマゾンには、まだ在庫がある模様。アメリカのアマゾンでも、マーケット・プレイスに出品がありますが、既にプレミア扱いなのか、かなり割高です。