ゲイ・カルチャー」カテゴリーアーカイブ

『ベアー・パパ』

『ベアー・パパ』(2004)ミゲル・アルバラデホ
Cachorro (2004) Miguel Albaladejo
 第14回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にて、トークショーのゲストを兼ねて鑑賞。
 本題に入る前に、まずトークショーの方から。
 すいません、時間が短いこともあって、あまり実のあることは喋れませんでした。
 特に『パニッシャー』のゲイ描写の件は、あれはいわばマクラで、あそこから「このテの映画にしては、実はけっこう等身大感覚のゲイが描かれている」というところに持っていきたかったんですが、横目で時間経過のカンペを見て断念。
 このネタは、そのうちBlogで書くかも。
 では、映画の話。
 内容紹介は、とりあえず映画祭の公式サイトから引用させていただきましょう。
「歯科医のペドロは、地位アリ・金アリ・遊び相手複数アリのお気楽独り身ゲイ生活を楽しんでいた。
 ところがある日、2週間の約束で、9歳の甥ベルナルドを預かることになってしまって、さあ大変。
 今までの自分本位の生活を一変させ『良き保護者』になろうと奮闘するペドロ。それとは対照的に超自然体のベルナルド。そんな2人の不思議な共同生活が始まって……」
 とまあこんな感じで、ユーモアたっぷりに、それでもそこかしこにシリアスなトゲもチクチク仕込みながら、話は軽快に進んでいきます。
 物語の進行は、いたって順調。ところどころに仕込まれるエロティックなシーンは、かな〜り生々しい上に(どのくらい生々しいかというと、映画祭のスタッフの方が「税関通るかどうか心配でした」と仰ってたくらいでして、いや、けっこうスゴかった! 特に、しょっぱな!)、出てくるのは「ヒゲあり体毛ありの太め」とゆー「熊系」のゲイばっかなので(熊系ばっかのパーティーに来たベルナルドに、パーティーの一人が「見分けるの大変でしょうけど」なんて言うシーンには大ウケ)、ノンケさんは引いちゃいそうだし、やおい好きの女子でも見る人は選びそうではありますが、私にとっては目のご馳走。
 で、やがてベルナルドのおばあちゃん(ペドロの姉の旦那さんの母親で、死んだベルナルドの父親を愛する反面、母親のことは快く思っておらず、現在のベルナルドの教育環境も好ましくなく思っている)が絡んできたり、HIV/AIDSの問題が絡んできたり。ここいらへんから、話が果たしてどういう方向に転がっていくのか予断を許さなくなり、筋運びはかなり達者。
 やがて物語の内容は、ペドロという「ゲイの物語」から「家族の再生の物語」へと変化していく。
 ここいらへんのテーマの拡がり方は、同じスペインの『オール・アバウト・マイ・マザー』とか、あるいはフィリピン発のゲイ映画『真夜中のダンサー』とか、更には名作『トーチソング・トリロジー』なんかを、ちょっと思い出させるところがあります。
 或いは、ゲイという要素を抜いて考えれば、『コーリャ 愛のプラハ』とか、或いは最近の『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』なんかとも似た構造とも言えそう(因みにこの映画二本とも、見ながら私は「もし自分がこの引き取られた子供だったら、きっと新しい『おとうさん』を性的にも好きになっちゃって、さぞかしヤヤコシイことになるだろうな〜」なんて思っちゃったんですけどね、今回はその『おとうさん』がゲイだから、見てる間も気分はずっとパパ視点でした)。ただ、「負うた子に教えられる」というセオリーの踏襲という意味では、前者の方により近いかな。
 つまりまあ、テーマはゲイ・オンリーではなく、最終的にはより汎的な「人の絆」に拡がっていくわけです。
 個人的に新鮮だったのは、まず、物語にパートナーシップ(言い換えれば「夫婦」のような「つがい」の概念)が絡んでこないところ。
 ペドロは特定のパートナーを必要としないタイプのゲイであり、こういう「最初は別々のに人間が、愛し合って一緒になる」というような、オーソドックスな社会通念から外れたキャラクターを軸にしつつ、同時にそこで「ゲイにとっての家族の再生」を語るというのは、これはけっこう難しいことだと思うのですが、この映画はそこを上手く纏めている。
 パートナーシップを絶対的なものと信じて疑わない人には、ちょっと受け入れづらい部分もあるかとは思いますが、逆に、そういったパートナーシップというものが「単なるヘテロ社会の模倣でしかないのかも?」なんていうような疑問を、一度でも抱いたことのある人ならば、この映画の提示する「家族の再生」の物語は、そのプロセスや最終的なメッセージ共々、かなり興味深く見られるのでは。
 とはいえ、この映画はパートナーシップに対して、特に疑問を提示しているわけでもない。
 パートナーシップの問題に限らず、ゲイそのものに関しても同様で、それらを大上段に振りかざすことはなく、特に問題提議をするわけでもなく、あくまでも「こんな一人のゲイがいました、そしてこんなことがありました」といった風にサラリと描いている。
 ここいらへんは、人間の生きる自由を保障してくれる、個人主義がしっかり確立された世界観という感じで、見ていて実に心地よい。
 類型的な価値体系からは外しつつ、考えようによってはかなりとんがったテーマなのに、かといってアグレッシブにもならず、ユーモアもペーソスも交えた、あくまでも面白いドラマとして描くという、このバランス感覚は、娯楽映画的に至極真っ当でレベルが高いのでは。
 細かい部分では、価値観やライフスタイルの相違による確執の相手が「自分の親兄弟(血縁者)」ではなく、「甥っ子の祖母(血縁者ではない近親者)」にしたのも、それによって物語が類型化から免れているので、ここはなかなか技アリ。終盤近くなって、ベルナルドが祖母に激白するセリフによって、姉夫婦の間には、映画では具体的に語られていない更なる別の事情があったのではないかと、観客に想像させる余白を持たせているのも、物語を枠外に拡げるという意味で効果的。
 反面、ペドロの両親について、存命なのか鬼籍に入っているのか、反目していたのか認め合っていたのか、全く語られない(ひょっとしたら、ちょっとしたセリフで示唆していたのかもしれませんが、申し訳ないけれど、私にはそういった要素は拾いきれませんでした)のは、別にいいんですけど、家族の再生や絆の誕生を描くという点では、ちょっとズルい「逃げ」かも。
 HIV/AIDSの取り上げ方も、興味深いものがあります。
 物語的に大きな鍵の一つでありつつも、それが全てを支配はしない。現実の問題として目をつぶることはせず、かといってそこから過剰な悲劇を紡ごうとはしない。こういった「重要ではあるが全てではない」という描き方を見ると、かつてシリル・コラールの『野生の夜に』を見て暗澹たる気持ちになった頃を思い出し、少し勇気づけられます。
 ただし、これをそのまま日本に当てはめることはできないのは残念ですが。
 役者さんは、メインから脇にいたるまで、おしなべて好演。ペドロの非・熊系の友人とか、小柳ゆき似のベビーシッターとか、キャラも良く立っていて魅力的。
 個人的には特に、飛行機のパイロット(やっぱり熊系)が制服のまま会いにくるってのに、フェチ心をムチャクチャ擽られたりして(笑)。いや〜、ステキだわぁ、こんな現地妻生活(笑)。
 というわけで、下心で見ても楽しめるし、ゲイ系の小ネタとしても楽しめるし、物語としても楽しめるし、深く考察しても楽しめるという、いろいろと見どころ豊富の面白い映画でした。
 これが、おそらく今後見られる機会が殆どないであろうというのは、実に残念な気がします。熊系のゲイ映画ってだけども、実に稀少なんだけどねぇ。劇場での上映は無理としても、ビデオスルーでいいから、どっか果敢な会社が出してくれればいいんですけど。
 ただ、米盤DVDは既に発売されているので、興味のある方はamazon.comあたりで、英題”Bear Cub”で調べてみてください。

『ゴッドandモンスター』のノートリミング版DVDが発売

 昨日、6月24日、ギャガ・コミュニケーションズ/ビクターエンタテイメントから、ゲイ映画の名品『ゴッドandモンスター』のDVDが発売。
 とはいえ、同作のDVDは既に、アットエンタテインメント/ハピネット・ピクチャーズから発売されていたんだけど、残念ながら画面の両端をトリミングした4:3スタンダード版だったのだ。
 今回は、ノートリミング、レターボックスのビスタで、16:9のスクイーズ収録。ネットショップ等では、4:3スタンダードと表記されていたりしたんけど、店頭で現物を調べたら、前述の表記。で、買ってプレーヤーで再生してみると、やっぱりちゃんとノートリミング版。
 本編のみで、北米版についているようなメイキング等のオマケは、何も入っていないのは残念だけど、とりあえず、ようやくノートリミング版が国内発売されたというだけでも、嬉しい限り。
 2625円と、比較的安価でもありますので、旧盤のトリミングに不満をお感じだった方、宜しかったらお買い換えあれ。
 もちろん、未見の方には激オススメです。
 内容は、実在したゲイの映画監督ジェームズ・ホエールの晩年を、彼の代表作でもある『フランケンシュタイン』『フランケンシュタインの花嫁』と絡めながら、詩情豊かに、凄みを交え、生と死、愛と狂気の狭間を漂いながら、切なく描いた物語。
 ジェームズ・ホエールを演じるのは、これまたご本人がオープンリー・ゲイであるサー・イアン・マッケラン。『ロード・オブ・ザ・リング』のガンダルフじいさんですな。本作では問答無用の名演で、アカデミー主演男優賞にもノミネートされました。冒頭で見せるキス・シーンは、その自然さといい、さりげない愛情の深さといい、個人的に「映画で見る男同士のキス・シーン」のベストの一つ。あと、ガーデン・パーティーでホエールが、彼同様にゲイだった映画監督ジョージ・キューカー(『マイ・フェア・レディ』とかの監督さんです)と、オネエさん風のイヤミを飛ばしあうシーンは、映画好きのオカマなら受けること必至。
 ホエールを惑わす(とゆーと語弊があるか)逞しい庭師に、ブレンダン・フレイザー。『ハムナプトラ』の主役のアンチャンが一番馴染みがありそうですが、『ジャングル・ジョージ』から『聖なる狂気』まで、かなり芸域の広いお方。本作では「全裸+ガスマスク」とゆー、フェティッシュ・スタイルを見せてくれます。
 二人の関係を傍らで静かに見つめる老家政婦に、リン・レッドグレーブ。ヴァネッサ・レッドグレーブの妹で、お姉さんと違ってぜんぜん美人じゃないけど、演技は実力派。本作の演技でアカデミー助演女優賞にノミネート、ゴールデン・グローブ助演女優賞を受賞。
 監督および脚本のビル・コンドンは、本作でアカデミー脚色賞を受賞。
 製作総指揮には、ホラー小説好きやホラー映画好きにはお馴染みのクライヴ・バーカー。『血の本』『ヘルレイザー』『ミディアン』『キャンディマン』あたりが有名かな。で、この人もオープンリー・ゲイ。
 カーター・バーウェルのスコアも良く、あたしゃサントラ盤を買いました。
 で、この映画を見て気に入ると、今度は実際のジェームズ・ホエールの映画も見てみたくなる……という方もいらっしゃるかと思います。
 もちろん、本作で引用がある『フランケンシュタインの花嫁』も名品なんですが(どーでもいいけど、この花嫁役のエルザ・ランチェスター、実生活で夫だったチャールズ・ロートンも、これまたゲイだったという。で、彼女は夫がゲイだと知りつつ、それでも彼を愛していたそうな。あと、『ゴッドandモンスター』内で再現されている『フランケンシュタインの花嫁』の撮影風景を見ると、同作でプレトリウス博士を演じているアーネスト・セジガーも、もうバリバリのオネエサン)、個人的にオススメしたいのは『透明人間』。これはテンポの良さといい、特撮的な見せ場といい、サスペンス的な演出といい、随所に仕込まれたユーモアといい、1933年制作の映画とは信じられないくらいに、面白くてモダン。
 因みにヒロインを演じているグロリア・スチュアートは、この映画から64年後に制作された、あの『タイタニック』で、老いたローズ、すなわちオバアチャンになったケイト・ウィンスレットを演じていた女優さん。
 もひとつ、この映画で宿屋の女将を演じているウナ・オコナーという女優さんが、甲高いヘンな声といい、素っ頓狂なオーバーアクトといい、もう大好き! 『フランケンシュタインの花嫁』にも出てますし、エロール・フリンの『ロビン・フッドの冒険』でのオリビア・デ・ハヴィランドの侍女役とか、ビリー・ワイルダー監督の名作ミステリ『情婦』(これには前述のエルザ・ランチェスターとチャールズ・ロートンも、夫婦揃って出演してます)の耳の悪い家政婦役とか、チョイ役なんだけど、どれもオカマ心の持ち主にはタマンナイ演技です(笑)。
 ここいらへん、全部DVDで出ていますんで、レンタルで探すなり、いっそ買っちゃうなりして、よろしかったらお試しあれ。

林月光(石原豪人)氏の原画展

 本家サイトの方にも書いたんですが、ここでも再度ご案内。
 明日23日から、中野ブロードウェイ内の書店「タコシェ」にて、林月光こと石原豪人の原画展が始まります。
 石原豪人といえば、妖美かつ精緻な画風で、少年誌から少女誌、文芸誌からSM誌、はたまた劇画や絵物語まで手掛けた、その圧倒的な画業の数々を指して「昭和の画狂人」と呼ぶ方もおられるほどの、戦後の大衆文化における一大絵師のお一人であります。
 そんな『石原豪人』が、ゲイ雑誌およびノンケ向けSM雑誌に作品を発表なさる際のペンネーム、つまりエロティック・アートを手掛ける際の筆名が『林月光』です。
『石原豪人』の画業に関しては、昨年、弥生美術館で展覧会が開催されたり、また河出書房新社から画集が発売されたことが記憶に新しいですが、残念ながらどちらも『林月光』に関しては、キャリアの一つとして軽く触れられただけに留まり、その作品や芸術については、全くと言っていいほど取り上げられていませんでした。
 今回の展示は、その『林月光』の画業にフォーカスを絞ったものであり、展示される作品もエロティック・アート、すなわち「さぶ」に発表された男絵や、ノンケ向けSM雑誌用に描かれた美女の責め絵などに絞り込まれています。
 卓越した技術で描かれる、夢見るような瞳の美青年。肌を艶やかに光らせて、しなやかに伸びる裸身。耽美と怪奇とユーモアが混在する、独特にして濃密なエロティシズム。まるで、キャムプやクィアといった感覚を先取りしていたかのような、時としてキッチュなまでに飛躍するアイデア。
 そんな貴重かつ美麗な原画を見ることができる、またとないチャンスです。
「さぶ」や初期の「バディ」で月光先生のファンだった方や、「June」で豪人先生のファンだった方はもちろんのこと、エロティック・アートを愛される方であれば、老若男女セクシュアリティを問わず、ぜひお出かけくださいませ。
 展示に併せて制作された、図録の販売もあるそうです(因みに、私もちょっぴり寄稿させていただいております)。
 また、この原画展に併せて、5月11日には高円寺の『円盤』にて「月光夜話」と題されたトーク・イベントも開催されます。これまた私、ちょっとしたお土産を持って参加させていただく予定です。
 こちらの方も、興味とお時間のおありの方は、ぜひ足をお運びくださいませ。
 以上二つ、期間・場所・時間等の詳しい情報は、主催の「タコシェ」のサイトへどうぞ。

『アレキサンダー』

『アレキサンダー』(2004)オリバー・ストーン
“Alexander” (2004) Oliver Stone
 正直なところ出だしからしばらくは、見ていてかなりイライラさせられた。
 いきなり世界の七不思議の一つアレクサンドリアの大灯台が出たときには、思わず嬉しくなっちゃったものの、その後は、まるでドラマへのスムーズな導入をあえて拒むかのように、説明的なモノローグが延々と続く。そして、壮麗さもなければ原初的な荒々しさもない、美的にはほとんど魅力が感じられないマケドニアの衣装やセット。グラグラとドキュメンタリー調に揺れ、人物ばかりを追って世界を捉えないカメラ。ひたすら下卑たいがみあいを続ける、人物的にはおよそ魅力的ではない王や王妃、親族たち。幼年期の主人公のエピソードのとりとめのなさ。成長した主人公の、まるで何か悪い冗談のようなコスチュームの似合わなさ。
 それでもやっと、母からの自立や父子のすれ違いなどを経て、こちらがドラマに乗りかけてきたかと思えば、その矢先に、見せなければいけない(と思われた)シーンはナレーションであっさり流され、いきなり次はガウガメラの戦い。
 正直なトコロ、ここいらへんでいいかげんにもう限界。「いやぁ、こりゃあハズれだったかなぁ……」なんて諦め気分に。
 ところが、やけに埃っぽい臨場感のある戦闘シーンを見ているうちに、だんだん気分がのってきた。
 特に戦闘後の、どう見てもベトナム戦争か何かの野戦病院にしか見えないシーン。ここまで来て、ああ、神話伝説の類から虚飾やロマンを剥ぎ取り、リアリズム的にそれらを再構築しようというのが監督の意図ならば、それはそれで面白いよな、なんて感じたりして。
 そして、バビロン入城(ここで、またもや世界七不思議の一つバビロンの空中庭園と、崩壊しているバベルの塔が、同一フレームに収まっているなんていう、何とも贅沢な画面が見られて、これまた嬉しくなっちゃった)あたりから、決定的に風向きが変わる。
 例えば、前半のギリシャ文化圏の美術の貧相さは、中盤以降のアジア圏の美術の豊かさと対比されて、それまで主人公たちが信じてきた「文化的なギリシャと野蛮な他国」という対比が、実は全く逆であったということを、登場人物たちと同時に私にも知らしめる意義へと転じた。
 そして、更に遠征が進むにつれて、私が当初期待していたような英雄やカリスマとしての主人公ではなく、幼少期からの根強いトラウマとコンプレックスを抱え、ひたすら自分の存在意義と自分を受け入れてくれる居場所を探し続けた、寄る辺ない不幸な青年像が露わになっていく。
 これならば、マケドニア王としてのコスチュームが似合わず、薄汚れてボロボロになればなるほどしっくりしてくるのも合点だ。見ていて嫌ンなっちゃうような両親も、そりゃあトラウマもコンプレックスも根深くなるわと納得。幼児期のエピソードも、ちゃんと伏線として回収されるし、焦点が写実的リアリズムや人物の内面にあるのならば、カメラだってこれが妥当なのだろう。作劇上は見せなければいけないはずなのに省略されていた部分も、後半になって、物語の実像を掴み始めたタイミングを見計らって、ちゃんと好位置に挿入されるし。
 理解者と理想を求めて突き進むが、突き進めば突き進むほど孤独になり、トラウマにもコンプレックスにも押し潰され、最後まで己の居場所を見つけられずに死んだ一青年の悲劇。自らを重ね合わせていた「己の影に脅えていた」愛馬は、伝説としてしかるべき時と場所で息絶えたのに、主人公にはそれすらも与えられない。母によって自分のアイデンティティーを否定された息子は、熱望した父には受け入れて貰えず、最終的には母の嘘(と、ここでは言い切ってしまうが)に縋らざるをえない。不在の父親は母の語るゼウスに置き換わり、自らをヘラクレスに模しながら(ヘラクレスの父親はゼウスであり、その装束はライオンの毛皮である)、自分を迎えにくる鷲の幻影(鷲はゼウスの象徴だ)を見ながら息絶える。
 う〜む、これはかなり悲しいぞ。
 ただ、こういったことは、いわば現実的な視点による伝説の解体であり、それは単なる伝説の矮小化となる危険も秘めている。
 しかし、それも巧みなバランス配分によって回避される。
 例えば、主人公の卑近で人間的な物語と同時に、そこにギリシャ悲劇との重なり合いが提示される。最も露骨なのは主人公のエディプス・コンプレックスの語源である「オイディプス王」だが、それ以外にもメディア、ヘラクレス、プロメテウスといった、必然的にソフォクレス、エウリピデス、アイスキュロスの三大悲劇詩人を連想させるキーワードが配されている。これによって、一見解体されて矮小化したような物語も、しかしそれもまた伝説の持つ普遍性の一つであることが示されている。
 また、アレキサンダー大王を主体としたドラマをメインとしつつ、その外側にそれを後になってから俯瞰的に回想するプトレマイオスの語りを配置するという、物語の枠を二重にして対比させている手法も同様だ。このことによって、物語の最終的な全体像は、さらに外側にいる観客(つまり私だ)それぞれの判断に委ねられる。こうして、幻想を剥ぎ取られて解体された伝説が、現代人である私の内に再構築されたとすれば、そこには新たな普遍性が生まれる。
 ここいらへんも、なかなか面白い。
 観客への問いかけという点では、その姿勢が挑発的なのも面白い。
 主人公はたびたび、異なる文化を受け入れようとしない、理解しようとしない人々に苛立ちを見せる。これは同時に、観客に向けられた試金石でもある。
 映画で語られる同性愛の要素(厳密に言うと、この時代における男同士の交わりというものは、現代における同性愛とイコールではないのだが、そこいらへんは煩雑になるし、同様の問題については以前に自著で詳しく触れているので割愛します)は、そこには物語的な必然性はない。同性愛的な描写は、この時代には同性愛がタブーではなかったということを描くためにしても、テーマの一つに同性愛を盛り込むためにしても、いずれにしても中途半端だ。変に執拗なわりには、深く突っ込まれることがない。
 ところが、仮に、歴史上の偉人が同性愛者であったということを描くのが、その偉人を貶めていると怒るとすれば、それはそう怒る人々が、同性愛を劣った忌むべきものだという、差別的な考えを持っているということを露呈することになる。また、必然性がない同性愛的要素の描写に疑問を唱えるとすれば、それはすなわちそういう疑問を抱く人々が、一見理知的に同性愛を受容しているように見えながら、実のところは彼らが同性愛に対して「必然がなければ表に出てはいけないもの」と、無意識のうちにやはり差別的に捉えていることを示してしまう。
 実のところ、この映画のアレキサンダーとヘファイスティオンの関係は、もしそれが男女のものであったのならば、観客は何の違和感もなく自然に見るだろう。そかしそれが同性愛であるというだけで、こういった「なぜ同性愛者にするのか」「なぜ同性愛を描く必要があるのか」といった疑問が噴出する。
 かつて映画においてゲイはタブーであり、『ベン・ハー』や『スパルタカス』でも同性愛的な要素は巧みに隠匿されていた。現在ではゲイを描いた映画は、珍しくも何ともなくなった。しかし実は、それはあくまでも映画の主眼が同性愛の特殊性に搾られた場合か、あるいは同性愛者に特定の役割を担わせる場合にのみ通用しているだけであり、ごく当たり前に同性愛者が登場することについては未だに否定的だということを、この映画を巡る論議は露呈する。
 つまり、この映画における同性愛的な要素を、「なぜ」を抱かずにそのまま受容することができなければ、その観客はアレキサンダーが劇中で非難している、「他文化を受け入れようとしない人々」と同じになってしまうのだ。
 これはかなり挑発的であり、問題提起の手法としては興味深い。
 こんな具合に、この映画は最初の印象とは裏腹に、最終的にはある意味で面白く見られた。
 とはいえ、そういった「面白さ」が全て成功していたか、あるいは、映画作品として素晴らしかったかといえば、残念ながら必ずしもイエスとは言えない。
 歴史上未曾有のことを成し遂げた主人公について、「なぜそれをしたか」という部分に関してはある程度の説明があるし、「どういう人物だったか」という考察としても興味深いものの、では「なぜそれができたか」という説得力には乏しい。主人公の成育史など「理」に訴えかけてくる部分は多いが、「感覚」に訴えかけてくる部分が乏しく、結果としてエモーションはさほど揺さぶられないからだ。
 また、登場人物が多いわりには語られるのは主人公のことばかりで、群衆劇的な魅力にはおよそ欠けている。少なくとも私は、脇を固める人々のうち、だれ一人としてそこに「生きた魅力」を感じることはできなかった。
 前述したエモーションの欠如の理由の一つには、映像と音楽のミスマッチもあるかもしれない。音楽担当のヴァンゲリスは、ギリシャ出身であると同時に、かつて”Spiral”や”China”といったアルバムで東洋思想への接近を見せたこともあるので、理屈から言えば適材であるとも言える。また、ヴァンゲリスの楽曲自体を、劇伴であることを離れた独立した作品として聞いてみると、近年の”El Greco”や”Mythodia”以降の路線の延長線上にあるなかなかの好作だ。しかし、基本的に「ロマン」を謳う彼の作風と、古代憧憬的なロマンを次々と解体していくこの映画の内容は、やはり何ともちぐはぐで、どうも水と油のような印象を受けてしまった(もちろん上手く合致していた部分もありましたが、総合的に見ると、ということです)。
 もしヴァンゲリスが、Aphrodite’s Child時代の”666″や、Vangelis O. Papathanassiou名義の”Earth”の頃のように、ロマンチシズムと同時に土俗的な荒々しさやロック的なアナーキーさを持ちあわせていた頃の作風であったのなら、もうちょっと上手く映像と合致したかもしれない……なんて、つい埒もないことを考えてしまうのは、ただのファン心理か(笑)。
 というわけで、考えながら見る分には、単に自分の深読みに過ぎないかもしれない部分も含めて、なかなか面白く見られたのだが、私は基本的に、表現の本質とは、理屈や知識とは無縁のところにあると思っているので、そういう面白さだけでは物足りない……というのが総合的な印象。
 しかし、退屈はしなかったし、趣味の相違を除けば、作家性がハッキリしているという点は興味深いし、意欲的だし、志も感じられる作品ではある。内容的な如何ではなく、アクの強さと言ったベクトルで見れば、こういったパワフルな作風は好みでもある。
 というわけで、いろいろと微妙ではあるものの、好きか嫌いかと聞かれたら「好き」ですね、この映画。
 あ、でも、私個人のゲイ的な興趣を擽られる部分は、皆無でした(笑)。
 ただし、アレキサンダーとヘファイスティオンが、裏でやることやっているのではなく、本当にセックスはおろかキスもしていなかった……と解釈するならば、そーゆープラトニック・ラブとしての同性愛に憧れる方だったら、それなりにオススメできるかも。見ようによってはこの二人の関係は、アレキサンダーがちゃんと男とセックスもしたがっているマジモンのゲイで、しかしヘファイスティオンはあくまでもプラトン的な理想としての同性愛を希求しているだけなので、アレキサンダーはどうしてもヘファイスティオンにセックスを迫ることができず、代わりにセックスはペルシャ人のダンサーと……なんて風にも受け取れる。だとしたら、実はヘファイスティオンすら真の理解者ではなくなるわけで、これはえらい悲しいことです。
 ただまあ、私個人としては、そんなセックスフォビックなロマンチシズムは好きじゃないけど。
 責め場的な見所? ……まあ、死体や血はいっぱい出てきますよ。
 それだけ(笑)。

『Gay @ Paris』予約プロジェクト

 拙著『日本のゲイ・エロティック・アート』でお世話になっているポット出版さんと、以前ロフトプラスワンのイベントでお世話になった及川健二さんが、出版に関するちょっと面白そうなプロジェクトを立ち上げています。
 何でも「事前予約が100人集まれば、本が刊行される」という仕組みらしく。
 で、それがどんな本かといいますと、
「大統領がゲイ雑誌に登場する」「国民の65%が同性愛に理解を示す」「ゲイ術家(Gay Artist)が文化の一支流を担う」「パリ市長はゲイであることを公言している」「駅のキヨスクではゲイ雑誌が売られる」「大学にはゲイの出会いパーティーのチラシが配られる」……そんな「ゲイ&レズビアンの天国」フランスの性事情について報告するという書籍『Gay @ Paris』
 ……というものだそうで。
 何だか面白げな本ですので、興味のある方はぜひどうぞ。
 詳しくはこちらから。

お蔵だし〜アゲアゲ系ハウスのシングル in 90’s

 昨日の続き。10年ほど前に買ったハウスのシングルから、イケイケ系のお気に入りを幾つかご紹介。
 因みに、私はDJさんではないので、以下のシングルは全てCD。あと、私的にこのテのヤツは「気持ちいぃ〜」「カッコいぃ〜」「イッちゃう〜」ってのが全てですんで、解説らしい解説は書けません。ご了承を。

ultranate
Ultra Nate “Rejoicing”
 これはガラージ? でいいのかな? う〜ん、ハウスやテクノのジャンル分けって、どうも良く判らなくて。「シカゴ・ハウス」とか「デトロイト・テクノ」とか聞くと、何だか「関サバ」とか「松阪牛」とか連想しちゃうし(笑)。
 ともあれ、ちょいゴスペル風味の歌ものハウスなんだけど、歌い方は割と突き放したようでドライ。基本的に「気持ちいいハウスは、長ければ長いほど嬉しい」ので、8分程ある”Deee-Liteful Stomp Mix”がお気に入り。

morelinc
Morel I.N.C. “Why Not Believe In Him?”
 これは更にゴスペルっぽい。グイグイ盛り上げてくれるコーラスが、すンごい多幸感。オルガン・ソロもイカしてます。これまた9分以上ある”The Sunday Noon Mix”がお気に入り。

outrage
Outrage “Tall N Handsome”
 何だかジャケがスゴすぎますが、多分これは再発モノ。RuPaulとかRight Said FredとかClub 69とか、それ系のゲイもの好きなら気に入るのではないかと。もうちょっと泥くさいですけどね。
 リミックスが6種入ってますが、正直どれもイマイチ。Original Mixが一番良いので、それのエクステンデッドがないのが残念。

gracejones
Grace Jones “Slave To The Rhythm”
 オリジナルは80年代の曲ですが、リミックスを施されて再発されたシングル。オリジナルも大好きだったけど、リミックスも”Love To Infinity Classic Paradise 12″ Mix”ってのが好きでして。ドラマチックなストリングスとシャカシャカビートにシャウトを挟んで、ジワジワと溜めながら次第にグイグイ引っ張っていく展開、そしてやがてオリジナルのイントロが現れ、そこにリズムセクションが次々に加わっていくあたり、もう本当にスリリングに気持ちよくって最高。7分半以上あるし。
 Grace Jonesといえば、LDで持ってた『ワンマンショー』っつーLIVE(仕立てのプロモかな?)が大好きでしてねぇ。その中でアコーディオン片手に、涙を流しながら「薔薇色の人生」をシャウトする勇姿にシビれまくったもんです(笑)。DVDで出ないかなぁ。
 ま、とりあえずはこんなところで。
 基本的に有名な曲ばかりなので、おそらく今でもオムニバス盤やミックス盤で聞くことができるのでは?
 ただしこーゆーのって、フロアの追体験的な要素大なので、独立した音楽として聞いて、どれだけ楽しめるかは判りませんが……。
 しかし我ながら、なかなかゲイゲイしいラインナップだなぁ(笑)。

お蔵出し〜夜に聴きたいダンス・ミュージック in Early 90’s

jamieprinciple
Jamie Principle “The Midnite Hour”
 何だか急にハウスが聞きたくなって、十年ほど前に良く聞いていたCDを引っ張り出して参りました。
 ジャケで一目惚れしたゲイ・シンガー。シンプルでドライなバックトラックに絡むファルセット・ヴォイス、鐘の音で始まる1曲目から鐘の音で終わる10曲目まで、徹頭徹尾クールな哀感がカッコイイ。
 当時は比較的キャッチーな”Please Don’t Go Away”や”The Midnite Hour”が好きだったけど、改めて聞き直してみたら、もうちょい渋めの”Private Joy”や”You’re All I’ve Waited 4″がエラくカッコ良く聞こえました。因みに”Sexuality”という曲も大好きで、私が自分の文章で「セクシャリティ」ではなく「セクシュアリティ」という表記にこだわるのも、この曲の影響であります。
 で、これ聞いていたらコレ(↓)も聞きたくなりまして……
lillouis
Lil’ Louis & The World “Journey With The Lonely”
 ハウスはもっぱらシングル買いが多くて、アルバム単位で愛聴したのはそうそうないんですが、もし人から「ハウスのアルバムのベスト1は?」と聞かれたとしたら、マイベストは間違いなくこの一枚。
 SEと会話から始まる一曲目”Club Loney”は「このビートに乗って永遠に揺れていたい」って思うくらい好きだし、ミニマル音楽的な快感の”Newdancebeat”、メロウ&ムーディーな”Do U Luv Me”、ひんやりクールなジャズ風味の”Thief”、極上のリゾート・ミュージックのような”Shore”、どれもこれもたまらなく好き。
 そしてとどめはアルバムラストの”Jazzmen”。シンプルなリフレインに、やがてひっそりとトランペットが寄り添い、ベースがそれに答え、やがてグイグイと盛り上がっていく後半は、もうアッチ側に引っ張られそう。久々に聞き直しても、やはり変わらぬ永遠の名盤でした。
 で、お次はコレ(↓)を聞きたくなり……
yoyohoney
Yoyo Honey “Voodoo Soul”
 これはハウスじゃなくてグラウンド・ビート(……だと思うんだけど、正直こーゆー用語ってあんまり自信ないんで、間違っていたらゴメンチャイ)。
 とにかく1曲目”Voodoo Soul”が大好き。暗く重厚なストリングスに重くうねるビート、クールでドライな女声ヴォーカル、ドラマチックだけど暑苦しくはない展開……誤解を恐れずに言うと、ちょっとMassive Attackにも似たカッコ良さです。”Groove On”や”Yo Yo”や”Circle On You”のゆったりしたうねりも大好き。全体的には重めだけど、鬱系ではなくて、内省的でメロウな重さとでも言うか。とにかく気持ち良いアルバムです。
 で、次に聞きたくなったのがコレ(↓)。
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Ephraim Lewis “Skin”
 これになると、既にダンス・ミュージックですらないような気もしますが、本当に大好きだった一枚なのでご勘弁を。特に、表題曲の”Skin”は、いつかこの曲のイメージでマンガを描いてみたいなどと思っていたほどでして。
 きっかけは、音楽雑誌で「マーヴィン・ゲイ meets ブライアン・イーノ」と紹介されていて興味を持ったんですが、1曲目”Skin”のイントロの、たゆとうような幻想的なバックトラックと、柔らかく繊細なヴォーカルで、早くもノックダウン。次の”It Can’t Be Forever”、メロウで切ない”Drowning In Your Eyes”、サビのファルセットへの移行を聞いただけで泣きそうになる”World Between Us”、どの曲もどの曲も素晴らしいものばかり。どう素晴らしいのかというと、空間的な広がりを感じさせつつ、それでいて内省的でもあり、甘美でもあり、しかし痛みもあり……すんません、何だか抽象的なことしか言えないや。音楽の印象を言語化するのって、難しいですね。
 とにかくアルバム全体で、柔らかく包み込みながらインナースペースへの旅に誘ってくれるようで、改めて聞いてもやっぱり良くて、いつまでも大切に取っておきたいアルバム。
 ですから、それからしばらく経って、音楽雑誌で「今は亡きイーフレイム・ルイスが云々」という文章を読んだときは、本当に驚いて、あんまり驚いたのでジーメンの編集後記で「詳細をご存じの方は教えて!」と呼びかけてしまったくらいでした。そして、親切な方からお手紙をいただき、この彼がこのアルバム一枚残したきり、次のアルバムの制作中に若くして急逝(確か階段から転落死だったと思う)したことを知ることができました。本当に惜しい、そして悲しい……。
 そんないきさつもありまして、なおさら思い入れが深い……ということで、最後の一枚(↓)。
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Ephraim Lewis “Skin” (Maxi Single)
 ”Skin”のシングル盤です。表題曲のミックス違いを含む三種と、”World Between Us”の別ミックス一種を収録。
 で、このリミックスがまた良くて。”Skin – Shiny Black Boots Mix”は、オリジナルにエッジなギターが加わりビートも効いたヘビー・ヴァージョン。”Skin – Undaya Mix”は逆に、ドラムレスでビートが後退し、シンセの比重が増したよりアンビエントなヴァージョン。そして極めつけは、”World Between Us – Monasterial Mix”。バックトラックは微かな音響のみで、ほとんどア・カペラ寸前にまで削ぎ落としたヴァージョン。これは本当に、恐ろしいほど静かで美しい。
 どこかで運良くこのシングルを見かけたら、迷わず購入をオススメします。
 で、Lil’ Louis & The World “Journey With The Lonely”とYoyo Honey “Voodoo Soul”とEphraim Lewis “Skin”は、今でもamazon.co.jpで購入可能のようで、しかも試聴もできますんで、もし興味のある方は、ぜひお試しくださいませ。
 さて、クールで内省的なヤツばかり連続して聞いていたら、逆にアッパーでアゲアゲなヤツも聞きたくなってきました。久々にシングル盤も引っ張り出してみようかな。
 あと、今回これらのアルバムを引っ張り出してみて驚いたんですが、これら全部、リリースが1992年でした。う〜ん、スゴい年だったんだなぁ。ビックリです。

アメリカの「野郎系パルプ雑誌」のカバー画集2種

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“It’s A Man’s World” A Feral House Book (ISBN 0-922915-81-4)
“Men’s Adventure Magazines” Taschen (ISBN 3-8228-2515-4)
 ここんところ立て続けに、個人的に大好きな昔のアメリカのパルプ雑誌の表紙絵の、それも「実録男性誌」系の表紙絵を集めた画集が、二冊続けて出版されたのでご紹介。

 このテのイラストの、基本は二つ。
 まず、バイオレンス経由のマッチョイズム賛美系。これは、逞しくもむさ苦しい、いわゆるゲイ業界用語(笑)で言うところの「野郎臭い」男が、敵と闘い苦境に陥っている、とゆーパターン。その敵もいろいろで、大西部でネイティブ・アメリカンや無法者と戦ったり、またある時は大自然の中で猛獣や毒虫と戦ったり、更には第二次世界大戦でナチと戦ったり。
 で、逞しい半裸の男たちが、猛獣や猛禽に肉を引き裂かれていたり、南洋の秘境で生贄にされそうになっていたり、捕虜収容所で鞭打たれていたりする光景が、コテコテのアメリカン・リアリズムで描かれる。いや〜、ここいらへんは私的に実にオイシイ(笑)。
 もう一つのパターンは、ズバリSEX&SMで、下着姿の美女が絶叫してるヤツ。これは圧倒的にナチものが多くて、縛り鞭打ちは当たり前。火責め水責め氷責め、生体実験に電気ショック、あげくは溶鉱炉で金の彫像にされたり、壁の中に塗り込められたり。ま、よーするに「ナチ女囚もの映画」のイラスト版。ダイアン・ソーンのファンなら必見(笑)。
 ナチ以外にも、カストロ風の軍服男たちに拷問される美女とか、ヘルスエンジェルスやチャールズ・マンソンみたいなバイカーやヒッピー系に捕まった美女とか、日本軍に襲われるゲイシャガールなんて絵もあり。

 で、そーゆーのを見ていると、「敵」にもインフレや時代の変遷があるようで。
 たとえば大自然アドベンチャー系だと、闘う相手がオオカミやらライオンやらサメやらなら納得もいくんですが、イタチやらセンザンコウやらイグアナやらヤシガニやらを相手に闘っているのを見ると……いや、本当はそーゆーのも危険なのかも知れませんが、絵面的には野郎どもが必死の形相だけに、どーにもマヌケ。まあ、そーゆー「ヘン」さも愛おしいけど(笑)。
 相手が人間になると、これはその時代の「仮想敵」なんでしょうなぁ。前述のナチスやカストロや日本軍の他にも、毛沢東や旧ソ連、クメール・ルージュとかが登場。現在だったら何になるか、これはもう火を見るより明らかで、こういった要素はPCにうるさい人なら、眉をひそめること間違いなし。これも一種のお国柄なのか、それとも人類の持つ普遍的な本質なのか。
 そういや、個人的な話ですが、以前アメリカでゲイSM関係の人と面談したときに、先方から「日本人の残酷性について」話題を振られたことがあり、そのときは「ああ、これも黄禍思想の根深さか」なんて思いましたが、案外こういったパルプ雑誌が、直接的なルーツなのかも。
 表紙に踊るコピーの数々も面白い。
 前述のような野郎野郎した絵や、「悪魔の大蛇との死闘!」とか「俺は地獄の収容所から生還した!」なんていう勇ましいコピーと一緒に、必ず「浮気妻のセックス・ライフ」やら「スクープ! 日本のヌード・マーケット」なんてコピーが(笑)。
 他にも「殺人豚に生きながら喰われる!」とか「俺はセイロンで吸血ヒルと闘った!」とか「人喰いカニが這い寄ってくる!」とか「人喰いネズミの島!」とか、いったいどーゆー記事なのか読んでみたくなるし(笑)。あ、でも前に『風俗奇譚』か何かで、これ系のイラストが載ったや記事を読んだっけ。あれはきっと、このテの雑誌から転載したんだろーな。なーんだ、しっかり読んでたんじゃん、自分(笑)。

 しかしこーやって「野郎ども危機一髪!」みたいな絵を続けざまに見せられると、「こいつらマゾなんじゃないか?」な〜んて思いも頭をよぎる。
 ただこれは、マゾはマゾでも自分を卑しめることに陶酔するマゾではなく、苦難に耐えるカッコイイ自分に酔うという、ナルシシズムとヒロイズムの混じったマゾですな。結局のところ彼らは、こうやって苦境に耐えることで、自らの男性性を再確認しているに過ぎない。これはあくまでも、彼らの思うところの「本物の男」になるためのイニシエーションであって、そこに屈辱や服従の甘美さといったマゾ的な感情はない。彼らが何かと半裸であるのも、肉体美の誇示による男性性の強調でしょう。ビーフケーキの類ですな。つまり、この野郎どもの受難の果ては、あくまでも「英雄として生還」するか「英雄として殉死」するのであって、決して「奴隷の悦びに目覚め」たりはしない。
 で、現実ではこーゆー男ってのは概してホモフォビックなもんですが、じっさい内容紹介で「君のホモ的傾向は?」とか「俺はホモだった!」なんてのがある。彼らが自分をホモセクシュアル、すなわち「彼らが考えるところの、本物の男ではない男」だと、周囲から思われることへの警戒心が強いことが、ここいらへんから伺われます。
 こういうタイプは、現実に身近にいると鬱陶しいし厄介な存在ですが、マイSM的には実にオイシイ被虐者。そーゆー男が、その盲信ゆえの苦難に陥り、抵抗空しく男の矜持を徐々に打ち砕かれていく……ってのが、私の大好きなパターン(笑)。つまり、これらの絵と私のマンガは、方法論的には極めて近しいんですな。ただ、辿り着くべきゴールが違うってだけで。
 また実際のところ、マッチョイズム云々を抜きにしても、図像表現的には立派にノンケの男マゾものとして通用するイラストも少なくない。船乗りが女護ヶ島で縛られて生贄にされそうになっていたり、捕虜が収容所で美人看守から鞭打たれていたり。ハーケンクロイツの烙印を押されていたり、タトゥーの入った生皮を剥がれてランプシェードにされそうになっているなんてゆー、まんまイルゼ・コッホみたいな図もある。
 個人的に特に秀逸だと思ったのは、これは”Men’s Adventure Magazines”の方に載っていたんですが、収容所で男の捕虜二人が、二人の女性兵士に人間馬として騎乗され、鞭打たれながらレースだか騎馬戦だかを競わされているヤツ。ノンケの馬系のマゾ男さんには、ぜひ見ていただきたい逸品。で、これ実は加虐者側が日本軍なんで、私的にはそこいらへんも逆ヤプーみたいで面白さ倍増。

 画集としては、どちらも様々なカバーアートを、フルカラーでたっぷりと見せてくれます。嬉しいことに、どちらも表紙からの複写だけではなく、現存している原画から新たに分解した図版も少なからずあり。リアリズム的に上手い画家が多いので、こうした画質の劣化のない図版の数々は、大いに見応えがあります。上半身裸の兵士が、雄叫びを上げながら銃剣構えて突進してる絵なんて、もう男絵的にすこぶるカッコ良くって、このまま額に入れて飾りたいくらい。
 二冊で重複する表紙絵も多いので、どちらか一冊と言われたら、ページ数や収録図版の数で勝っている”Men’s Adventure Magazines”の方がオススメかな? 版元のTaschenは、日本支社もあるから店頭で見かける機会も多いかも。Taschenのサイトで、ちょっとだけ内容見本も見れます。ただ、ここで見れるサンプルには、私的にオイシイ図版は全く入っていないんだけどね(笑)。
 原画からの図版に関しては(おそらく)ダブりはないので、マニアや好き者だったらぜひ二冊とも揃えたいところ。値段は、”It’s A Man’s World”が$29.95、”Men’s Adventure Magazines”が$39.99と、後者の方が分厚い分10ドルほど高価。造本や印刷クオリティは、どちらも負けず劣らずの高レベル。
 二冊とも、お好きな方には自信を持ってオススメできる画集ですぞ!
“It’s a Man’s World” (amazon.co.jp)
“Men’s Adventure Magazines” (amazon.co.jp)

『スパルタカス』(TV版)

スパルタカス [DVD] 『スパルタカス』(2004)ロバート・ドーンヘルム
“Spartacus” (2004) Robert Dornhelm

『スパルタカス』というと、どうしても1960年版(スタンリー・キューブリック監督作)と比較したくなってしまうのが人の情。でもまあ、TVムービー相手に、それは酷ってもんだよなぁ。
 特にスケールに関しては、1960年版にはあの戦闘シーンがあるからねぇ。丘陵に整然と居並ぶモブのスゴイこと。あれを見たら、この映画に限らず、大概のスペクタクル映画は影が薄くなっちゃう。俳優陣も、あっちは主演のカーク・ダグラスはまあ置いといても(何でじゃ……って、あんまり好きじゃないのよ、私)、他はローレンス・オリヴィエ、チャールズ・ロートン、ピーター・ユスティノフ、ジーン・シモンズなんつー、錚々たる面子だもんなぁ。比べるだけ酷です。
 とはいえ、この2004年版が出来が悪いとか、そーゆーわけでは決してなく、これはこれで充分に楽しませてくれる内容です。
 1960年版は、スケール感のある堂々たる大作ではあるものの、エピック的な単純で骨太な部分と、近代的な人間の内面を描く部分が、いささか乖離を見せいている感が否めない、というのが私的な印象。それに比べると、今回のバージョンは全体的にこぢんまりしている分、逆に人間ドラマ的な部分に焦点がカッチリ合ってる。圧倒的なパースペクティブとか、物量のスゴさといった、スペクタクル映画的な興奮度には欠けるが、その分、ドラマ的な面白さがタップリあります。
 鉱山奴隷だったスパルタカスが剣闘士養成所の所長に目を付けられて買い取られ、剣闘士としての訓練を受けつつ、やがて反乱を起こしてローマに戦いを挑むといった前半の展開は、けっこう細かな部分も含めて1960年版とほぼ同じ。これはきっと、原作としてクレジットされているハワード・ファストの小説が、こういうお話なんでしょうな。
 後半、スパルタカスが反乱軍を興して以降は、若干展開が異なってきます。今回は反乱軍対ローマ軍の細かな戦闘が幾つもあり、そこにローマ側のパワーゲームが絡んできたり、反乱軍の内部も、単細胞のガリア人とか、思慮深いユダヤ人とか、ベビーフェイスだけど脱ぐとスゴいマッチョとか(笑)、キャラが立っているせいもあって、なかなか面白く進めてくれる。ここいらへんは、ちょっと『ブレイブハート』みたいな感じ。
 あとまあ、あんまりネタバレになるのもアレなので詳述は避けますが、ラストもところどころちょっと変わっている。まあ、いきなり三角関係みたいな話になっちゃって「???」となるあたりは同じですが(笑)。冒頭からしつこく出てくるアレは、絶対にラスト・シーンの伏線だと思ったのに、それがなかったのは、ちと拍子抜け。
 全体を通して、当然のことながらクラシック作品と比較すると展開のテンポが早いので、冗長さは全くない。ただ、その反面、悪く言えば重厚さには欠けるので、これはもうどちらが好みに合うか、人それぞれでしょう。
 美術やセットは、TVムービーでこれだけ見せてくれるんだから、これはもう充分以上に合格点。細部の汚し等のリアル感などは、逆に昔の映画では無かった味わいだし、アレコレ重箱の隅つついて文句言う必要もないでしょう。
 
 主演のゴラン・ヴィシュニックは、TVシリーズ『ER』に出てた方らしい(実は『ER』を見たことがない私)です。ルックスの方は、若干鼻の穴が目立つのが気にはなるものの(笑)、まあ「GQ」あたりの表紙を飾りそうな、スーツが似合いそうなフツーにカッコイイお方でした。ただ、正直なところ、こーゆーコスプレは似合わないな〜。特に皮鎧の剣闘士スタイルは、肩幅が足りないせいもあって、もう絶望的なまでに似合わない。その余りの似合わなさに、私同様にカーク・ダグラスがあまり好きではない相棒も「う〜ん、これだったらカーク・ダグラスの方がまだマシかも……」なんて申しておりました(笑)。
 仇役クラッススのアンガス・マクファーデンは、どっかで見た顔だと思ったら、同じくTVムービーの『アルゴノーツ 伝説の冒険者たち』(佳品)でゼウス役を演っていたお方ですな。他にも『ブレイブハート』や『タイタス』なんかでお見かけしました。自信過剰で憎々しいんだけどビミョーに小物でもある感じ、悪くないです。でもこの方、今回初めて知ったけど、首の上と下が「別人?」ってくらい雰囲気が違うのね。顔だけ見ると、さほど太っているようなカンジはしないのに、ヌード・シーンでは見事なまでの太鼓腹。思わず、撫で回したくなります(笑)。
 ヒロインを演じるロナ・ミトゥラも、芯の強さと同時に凛とした気品のようなものも感じさせ、なかなか美しくて良うございました。
 アグリッパ役のアラン・ベイツは、これは流石。単純に悪とも善とも言えない複雑な役どころですが、しっかり魅力的に見せてくれます。特にラスト近辺なんか、この人によって映画全体がかなり救われている印象。ただ、エンドクレジットに Dedicated to … の文字が出て、初めて知ってビックリしたんですが、この方、昨年亡くなられていたんですねぇ。個人的に、ケン・ラッセルの『恋する女たち』で魅せられて以来「出てくると嬉しい俳優さん」のお一人だったし、最近でも『ゴスフォード・パーク』やTVムービーの『アラビアン・ナイト』なんかで再会できて嬉しかっただけに、何とも残念であります。そういえば、その『恋する女たち』で一緒に素っ裸でレスリングを見せてくれたオリバー・リードも、同様の史劇『グラディエーター』が遺作になってしまったっけ。う〜む、ちょっとシンミリ。
 その他、前述の「アタシ、脱ぐとスゴイんです」ベビーフェイス君(このコはかなりカワイイ)や、反乱のきっかけとなる黒人剣闘士、その他モロモロ、マッチョ好きには目のご馳走のお方たちも、まあイロイロよりどりみどり(笑)。
 ああ、そういや『エクソシスト ビギニング』に引き続き、これにもベン・クロスが出てたなぁ。こっちは情けない役だった(笑)。
 え〜、責め場についても書いておきましょうか(笑)。
 まず主演のスパルタカス君、冒頭の鉱山シーンで、タコ殴りに鞭打ちの後、磔姿を見せてくれます。鞭打ちは打撃とシンクロして肌に赤筋が走るし、磔は位置がかなり高いことと、両脚が少し開かされていることもあって、この一連のシークエンスはなかなかヨロシイです。カーク・ダグラスみたいに着衣なんて無粋なこともなく、ちゃんと腰布一枚だし。
 また、羞恥責め系ですが、ユダヤ人奴隷剣闘士が、「え〜、ユダヤ人って割礼するんでしょ〜、アタシ、割礼した○○○って見たことな〜い」とヌカすスケベ女に、腰布解いてソレを見せろと強要されるシーンなんぞもあり。私、けっこう好きです、こーゆーの(笑)。
 あと、放火犯が、見せ物として磔で火炙りにされるシーンなんてのもあったっけ。
 ラストの有名なシーンは、現在の技術を生かしてスゴい画面を見せてくれるかと期待していたんですが、残念ながら比較的アッサリ気味。でもまあ、絵面としては悪くなかったけど。
 責め場らしい責め場はこんなもんですが、まあ奴隷剣闘士の反乱の話ですから、鎖に繋がれたり檻に入れられたり、殺し合いをさせられたりするシーンは枚挙に暇がありませんし、男の半裸もふんだんに出てきますんで、そーゆー意味でのお楽しみは盛り沢山です(笑)。
 もう一つ。
 1960年版では、ホモセクシュアルの要素があったことが有名(そのシーンは長らく削除されていたが、現在販売されている「完全版」DVDでは復元されている)ですが、残念ながら今回のヴァージョンでは、そこいらへんの絡みはハナっからいっさいナシ。ソッチを期待すると肩すかし食らいますんで、ご注意をば。