“Retro Stud” David Chapman
ここんとこ、続けざまにソード&サンダル映画について書いていたら、タイミング良くこんな本を入手。
副題に Muscle Movie Posters from Around the World とあるように、50’s〜70’sのソード&サンダル(+マッスル)映画のポスターをコレクションした画集です。いや〜ン、欲しかったのよ、こんな本(笑)。
版型は約22×21センチでハードカバー。およそ130ページ弱、フルカラーで、スティーブ・リーブス、ゴードン・スコット、レジ・パーク、マーク・フォレスト、ブラッド・ハリス、アラン・スティール、カーク・モリス、ダン・ヴァディス、ゴードン・ミッチェル、etc、etcの主演映画ポスター画像が、これでもか、これでもかってなくらいに収録されております。
もう、どのページめくっても半裸のマッチョばっかりで、皆さん顔を顰めて歯ァ剥いて、鎖をブン廻したり、人や巨石を持ち上げたり、縛られて悶えたり、スパイクの生えた石壁に押し潰されそうで危機一髪だったり……ああ、暑苦しい(笑)。
Around the World と銘打つだけあって、アメリカ、イタリア、フランスあたりはモチロンのこと、ベルギー、スペイン、メキシコはおろか、トルコのポスターまで収録されているのにはビックリ。
見比べると、いろいろお国柄があって面白いです。イタリアは筋肉描写にリキが入っているのが多く、流石にルネッサンスのお膝元ってカンジだし、フランスは変に色が鮮やかだったり筋肉がアッサリだったりして、ロココか印象派ってカンジ(ホントかよ)。トルコのポスターは、なんかキッチュでかわいいなぁ(笑)。日本のポスターがないのは残念。
印刷・造本等のクォリティはおおむね良好ですが、アップの図版の中には、デジタル製版でモアレを回避する際の弊害なのか、微妙な色ムラや粒状感といったノイズが出ているのものがあるのは残念。
あと、図版の収録数が多い反面、どうしてもサイズが小さくなってしまうものもあり、これは仕方ないこととはいえ、でもやっぱり全部でっかいサイズで見たかった……ってのは、ワガママなファン心理か(笑)。
“Retro Stud” (amazon.co.jp)
「ゲイ・カルチャー」カテゴリーアーカイブ
『ヘラクレス』&『ヘラクレスの逆襲』
『ヘラクレス』(1957)+『ヘラクレスの逆襲』(1959)ピエトロ・フランシスキ
“Die unglaublichen Abenteuer des Herkules” (1957) + “Herkules und die Konigin der Amazonen” (1959) Pietro Francisci
(前回の続き)というわけで、こういった映画の元祖にして定番中の定番である、スティーブ・リーブス主演のヘラクレス映画二本(因みに伊語原題はそれぞれ”Le Fatiche di Ercole”と”Ercole e Ia Regina di Lidia”、英題は”Hercules”と”Hercules Unchained”)のドイツ盤DVDを買ってみました。二枚組ワンセットのお買い得盤です。
で、結論から申し上げましょう。このドイツ盤、かなり「当たり」でした。
残念ながら現在販売されている米盤は、『ヘラクレス』は退色してディテールも潰れ、傷やノイズも多く、音声も割れ……と、フィルムの状態がかなり悪い。加えて画面も、トリミングで左右が切れたテレビサイズで、クォリティ的には下の上クラス。『ヘラクレスの逆襲』(以下『逆襲』)は、『ヘラクレス』に比べると若干状態が良いですが、それでも暗部の潰れやディテールの再現性には不満が残るし、やはりトリミング版なので、中の中どまり。
対してドイツ盤(あ、もちろんPALです。リージョンは2)は、まず二作共にノー・トリミング版。『ヘラクレス』はスクィーズなしのビスタのレターボックスですが、『逆襲』はシネスコのスクィーズ収録。
画質もかなり良く、『ヘラクレス』の方がいささか劣り、少々ボケている感はありますが、退色もなく、発色は極めて美麗。上の下クラス。『逆襲』は更に状態が良く、米メジャー作品のDVDと比較しても全く遜色のない(いや、下手なクラシック作品と比べると上回るかも)上の上クラス。
この画質の良さは実にありがたく、特に花や泉や海といったロマンチックな色彩設計のシーンや、また、色照明や凝ったセットによる人工美のシーン(ここいらへんは、この二作で撮影と照明を兼任し、後のイタリアン・ホラー映画で名を馳せるマリオ・バーヴァが、その実力のほどをたっぷりと発揮しています)などでは、その差は歴然とします。ホント、『逆襲』のオンファーレの宮殿なんか、こうやって改めて高画質で見ると、もう溜め息が出るほど美しい。まるで、動く「ピエールとジル」です。
音声も割れやノイズはなく、加えてありがたいことに独語と英語の二カ国語収録。ただこの英語音声は米盤に収録されているものとはまた別のバージョンのようで、役者の声も違うようだし(独盤収録の英語音声は、米盤と比べるとリーブスの声が少し高め)、セリフの内容が変わっている部分もありました。
一つ残念なのは、独盤は米盤よりランニング・タイムが短いこと。
『ヘラクレス』は、米盤が105分なのに対して、独盤は88分と20分近く短い。『逆襲』も、米盤の98分に対して、独盤は90分と、これまた10分近く短い。
どこがどうカットされているのか、厳密に比較していないので詳しくは判りませんが、『ヘラクレス』をざっと見て気付いたところでは、イフィトス(イフィト)がライオンに殺された後ヘラクレスがシビラの元に再度赴くシーンと、アルゴ船の出航前にヘラクレスとイオレ(ヨーレ)が噴水の前で諍うシーンが、丸々カット。特に前者は、雷雨の中でヘラクレスが父ゼウス(ジュピター)に呼びかける、いわば「見得を切る」良いシーンなので、ここがないのはかなり残念。他にも、細かいところであちこちつままれているかも知れません。
また、オープニング・クレジットのデザインも違うし、米盤にはあったエンド・クレジットが、独盤にはない等の違いもありました。もっともこれらはどちらがオリジナルに近いのか、日本公開当時まだ生まれていなかった私には判りませんが……。
まあとにかく、このランニング・タイムの短さという点さえなければ、ほぼ百点満点のソフトなだけに何とも残念です。
映像特典は特になし。映画の予告編が入っていますが、同じメーカーから出ている新作映画(『バレット・モンク』とか『アンダーワールド』とか……)ばかりで、『ヘラクレス』や他のソード&サンダル映画とは何も関係なし。
ただ、『逆襲』の米国版オリジナル・ポスターのレプリカ(ジャケットに使われているのと同じ図柄で、およそB3サイズ)が、オマケに付いていまして、これはちょっと嬉しいかも。折り畳まれて、パッケージの中に入っています。
何だか映画の内容についてはちっとも触れていませんが、とにかく、これらの映画で見せるスティーブ・リーブスの「神のごとき美しさ」は、この後ゾロゾロ出てきた他のフォロワーとは確実に一線を画していますし、現代に至るまで比肩する男優はいない、と、個人的には考えております。動くギリシャ彫刻というものがあるとすれば、それはまさにこのリーブスのことでしょう。
フランシスキ監督の、品格がありつつ同時に程良い俗っぽさもある、娯楽大作のツボを押さえた安定した演出も良い。私はこの監督の作品は、これら以外は”The Queen of Sheba (La Regina di Saba)” (1952) を見ただけですが、そのときも同じ印象を抱きました。前述したような画面づくりの美しさや、あるいは神殿の倒壊や合戦などのスペクタクル・シーンも、大きな見所の一つ。まあ、たまに覗くB級っぽさも、それはそれでご愛敬(笑)。
二作通じてのヒロインであるシルヴァ・コシナの、まだセクシー系になる以前の初々しい白いミニスカ姿を楽しむも良し、『ヘラクレス』のアマゾンの女王や『逆襲』のオンファーレのような、どーみてもドラァグ・クィーンにしか見えないほどのゴージャスなオンナっぷりを楽しむも良し。特にオンファーレは、個人的に「あんた『黒蜥蜴』かいっ?!」ってカンジで、もう大好き(笑)。
あるいは、『ヘラクレス』の若い戦士のトレーニング場のシーンで、仄かに香る「フィジーク・ピクトリアル」的なホモ・エロティシズムや、『逆襲』でのヘラクレスとオデュッセウス(ユリシーズ)の関係に、微かなホモ・セクシュアルの気配を感じるのも、お楽しみの一つかも。
いや、実はこういった関係性の描き方とか、前述したようなゴージャスな画面作りとか、女性キャラの描き方とか、とにかくミョーに「そこはかとなくゲイっぽい」んだよな〜、この二作は(笑)。
で、この二作、実は「責め場」は全くありません。いちおうリーブスは敵にとっ捕まったりしますし、いたるところでその怪力っぷり(という名のもとの筋肉美)を見せてはくれますが、いわゆる拷問されたりはしないんですな。ジャケになってるポスター画像も、実はこんなシーンはどこにもありゃしないし(笑)。
とはいえ、やはりこの二作は、ソード・&サンダル(+マッスル)映画の、マスターピースにしてエバーグリーン。必見の名品です。
なのに、国内ではDVDはおろかビデオも出ていないなんてなぁ……(泣)。
『ワイヤー・イン・ザ・ブラッド』
『ワイヤー・イン・ザ・ブラッド』アンドリュー・グリーヴ “Wire In The Blood” Andrew Grieve |
レンタルDVDで鑑賞。
まず、素っ裸の男が磔刑に処せられているような、血みどろホラー系のジャケがイカしてます。
加えて内容はサイコ・サスペンスもので、描かれる事件は「残酷な拷問を受けて殺された、全裸死体が次々と発見された。しかも犠牲者はいずれも30歳前後の壮健な男性」とくれば、こりゃあ私としては見るっきゃないってカンジでしょ? 実際、ソッチ系で趣味を同じくするジープロのろん君からも「見ました〜?」って聞かれたし(笑)。
とはいえ、実はこれは劇場用映画ではなくイギリス製のTVシリーズなので、当然のごとく、それほど過激な描写はございません。イカしたジャケも「イメージ写真」の類らしく、本編にそういうシーンはない。ホラー味・スプラッタ味は皆無で、そういった描写そのものは、このテの映画の嚆矢である『羊たちの沈黙』なんかと比べてもずっと大人しいんで、心臓の弱い方でも安心してご覧いただけます。
お話しの大筋は「心理学専門の男性教授が、女性警察官に協力して、連続猟奇殺人の犯人をプロファイリングしていく」という「どっかで聞いたような話」ではありますが、それなりに途中で飽きさせることもなく無難に引っ張っていきます。TVシリーズ的にキャラを立てるためか、何かとゴチャゴチャと枝葉が多いのは、まあ楽しくもあり、時に鬱陶しくもあり。
では、お目当ての拷問マニア向けの鑑賞ポイントをば。
前述したように比較的大人しめのTVモノなんで、拷問マニアが一番「見たい!」と思うようなそのものズバリのシーンは、ぶっちゃけたところありません。ただ、それでも要所要所で、それなりに「好き者のツボ」も押さえてくれます。
一番グッときたのは、「犯人が警察にビデオを送りつけ、それには誘拐された警察官(いちおうジム通いもしていて体格も良く、笑顔もカワイイ人好きのする好青年)が、カメラに向かって泣きながら自己紹介した後に惨殺される光景が映っていた」というヤツ。この無惨味・残酷味は、なかなか良ろしい。
犯人が、「座部のない椅子の下部に、金属の円錐に有刺鉄線を巻き付けたものを取り付け、それで肛門を串刺しにする」ような拷問器具を手作りしているディテールとか、「気を失った男の服をハサミで切り裂き、全裸にした後、手足に拷問用の枷などを順々に装着していく」といったプロセスの描写があったりするのも良い。これ、拷問マニア的にはけっこう重要。自分のマンガでもそうなんですけど、こういった「拷問の準備段階の描写」が、一コマでもいいからあるのとないのとでは印象が大違い。
クライマックスの「全裸男性への古典的な吊り責め」シーンが長めなのも、ポイント高し。加えて受刑者の胸のおケケがフッサフサなので、個人的なポイントはさらに倍。
ってなわけで、直截的な描写はほとんどないにも関わらず、それでも拷問マニアを自認していらっしゃる方でしたら、意外に楽しめると思いますよ。具体的に「見せる」シーンは少なくても、セリフでどういう拷問をされたか(謎の器具で無数の火傷を負わされていたとか、関節が外れていたとか、性器が切り取られていたとか)説明はしてくれるので、あとは脳内で補完しましょう。過度な期待は禁物ですが、レンタルで借りるぶんには、充分にオススメです。
ついでに、ゲイ的にマジメに気になった部分についても書いておきます。
概してサイコ・サスペンスものって、とかくゲイやら性同一性障害やらが絡んでくるものが多い。で、自分たち(の仲間)が「ヘンタイの殺人鬼」みたいに描かれることに、いい加減に辟易しているゲイたちが、抗議したり批判することも珍しくない。そのこと自体に関しては、複雑だし長くなるのでここでは触れませんが、とりあえず、この作品もその例外ではない。やはりセクシュアリティの話が幾つか絡んでくる。
ただ、ちょっと興味深かったのは、そういった問題に関して、制作者側もおそらく注意深く取り扱っているらしき節が伺えることです。
例えばセリフに出てくる「同性愛者」を指す言葉が、ケース・バイ・ケースで「ゲイ」「ホモセクシュアル」「クィア」などと使い分けられている。で、「クィアの殺人事件」と言った若い刑事に対して、主人公の学者が「差別的だ」とたしなめたり、同じ主人公のセリフで「トランスジェンダーだ、トランスベスタイトじゃない。これは重要だ」なんてのがあったりする。
しかし残念ながらそういったニュアンスは、日本語字幕では全くといっていいほど拾われていない。「ゲイ」も「ホモセクシュアル」も「クィア」も、字幕では全て「ゲイ」一つに統一されてしまい、「トランスジェンダー云々」というセリフも、字幕では「トランスベスタイトじゃない、これは重要だ」に該当する部分がスッポリ抜け落ちている。
後者に関しては、まあ字幕の限界もあって仕方ないことだとも思いますが(けっこう早口のシーンでしたし)、前者に関しては、ちょっと考えるべき余地が残されているような気がします。
まあ、下手に「オカマ」とかいう言葉を使うと、それはそれでまた、その言葉を使用すること自体が差別的であるといった批判が出てくる可能性があります。とりあえず全て「ゲイ」にしておけば、差別云々といった問題は起こりにくいので、無難な選択ではあるでしょう。これもまた一種の配慮が働いた結果であるともいえます。
ただ、この場合の「蔑称としての『クィア』を使った人間に対して、『差別的だ』と批判が出る」シーンで、「クィア」の訳語を「ゲイ」にしてしまうと、それを受ける「差別的だ」という反応の意味が通らなくなってしまう。やはりここは訳語も「オカマ」か何かにして欲しかった。言葉が使われ方次第でネガティブにもポジティブにもなるという点でも、「クィア」と「オカマ」は良く似ていますしね。
言葉の差別的な用法の一例をきっちり描けば、少なくともそれによって、観客が言葉と差別の関係性を学んだり、差別的だとされる言葉の使用法について考える手助けになる。しかし、いわゆる「放送禁止用語」のように、差別的だとされる用語の使用自体を完全に禁止してしまうと、そういった学習の機会は永遠に訪れない。それどころか、それはまるでこの世界にそういった差別が存在していないように見せかけているだけであり、ある意味では表面だけを取り繕った一種の欺瞞ともいえます。同じ「デリケートな素材を取り扱うに際しての配慮」として考えると、この二つのもたらす結果の違いはかなり残念です。
もちろん「ゲイにとって侮蔑的な言葉」を「ゲイを指す一般名詞」としては「使わない」という配慮は、それは充分に歓迎するところではあります。しかし「ゲイにとって侮蔑的な言葉」を「絶対に使わない」もしくは「使えない」という配慮(もどき)によって、ゲイが侮蔑されているシーンを表現することすらもできなくなってしまっては、これはやはり本末転倒だと言わざるをえないでしょう。
エロの考古学 in 伏見憲明Blog
伏見憲明さんのBlogで御自身が所有しているヴィンテージ・ゲイ・エロティック・アートを、「エロの考古学」というタイトルで幾つか展示してくださいました。
絵も写真もあるのですが、その中でも2点ある「髷もの写真」に、希少性・作品としての力強さ・時代背景といった点で、特に目を奪われました。
興味深いのは、この写真はメイクアップなどから推察すると、時代劇全般を指す「髷もの」の中でも、特に大衆演劇へのフェティシズムに依るものではないかと思われることです。
時代ものに対するファンタジーは、数こそ少なくなったものの、それでも現代でも僅かながら見ることができます。しかし、こうした大衆演劇に対するファンタジーは、ほとんど全くといっていいほどお目にかかれません。
ところが、実は昭和30年代の『風俗奇譚』などを読んでいると、大衆演劇に関して、自分の性の芽生えはそれであるといった手記や、どういった性的刺激を受けたかという話、フェティッシュな思い入れを綴った手記、自らそういった扮装をして楽しんでいるという話などが、少なからずあるんですよ。
そこで、改めて分析的に考えてみると、実のところ大衆演劇の中には、ゲイたちを惹きつけてしかるべき、いくつかの特徴があるように思われます。
一つに、立ち回りの際にちらりと除く褌や、啖呵をきる際の諸肌脱ぎといった、純粋に視覚的な性的刺激。
二つめに、渡世や義兄弟といったものが内包している、ホモソーシャルなファンタジー。
三つめに、女形のようなトランスベスタイト、トランスジェンダー的なファンタジー。
これは更に「女形=実際は男性」なので、「舞台の上の男女=実際は男同士」となり、「芝居の上では男女の性愛=現実に見ているのは男同士の性愛」という具合に、ちょっとメタフィクションめいた構造を経て、結果として、そこでは男同士の性愛が「正当化」されているような、そんなイメージを併せもっていた可能性もあります。
四つめに、捕り物などにおける、サディスティック/マゾヒスティックな刺激。
五つめに、実はこれはかなり大きい要素ではないかと個人的には推察しているのですが、上に挙げたような諸々のことが、最終的には芝居という「美しい」ものとして提示されるということ。
この「美しさ」は、当時の多くのゲイたちが抱えていた、ホモフォビアとセックスフォビアが合体してしまった深い自己嫌悪、すなわち「同性に欲情する自分=変態=きたならしい存在」という悩みを、ある程度は解消してくれた可能性があります。
こういった形による自己受容、つまり、現実の自分そのものを受け入れるというよりは、自分をフィクションに仮託する、自分自身をフィクション化することで自己受容するというのは、なにもこの大衆演劇フェチに限ってことではありません。
例えば、古代ギリシャや江戸時代以前の日本に例を求めて歴史的な安心感を得たり、世紀末ヨーロッパ文化などの「異端の美学」に範をとったり、欧米のオーバーグラウンド化した「かっこいい」ゲイ・カルチャーを求めたり、こういったことは手を変え品を変えして、綿々とゲイの中で繰り返されているように思えます。
つまり、それだけゲイは、己の存在の正当性へのエクスキューズを求めてきたということであり、大衆演劇にもそれを満たす側面があるということが、前述した「大きな要素」という推察につながります。
以上のような前提を踏まえ、当時の人々にとっての娯楽としての大衆演劇の身近さや、更に範囲を髷もの全般に拡げて、小説、挿絵、映画などで時代物に触れる頻度なども併せて考えると、ひょっとすると、この頃のゲイたちの中では、髷ものフェチ全般はもちろんのこと、大衆演劇フェチもそれほど珍しいものではなかったのかも知れません。
だとすれば、この二葉の写真は、現代では絶滅してしまった、過去のフェティシズムの遺産なわけです。これこそまさに考古学。
まあ、そういったことを抜きにしても、この写真は実に素晴らしいです。
ここには、最良のエロティック・アートならではの、個々のテイストを突き抜けた普遍性がある。例え自分自身はチンピクしなくても、脳髄はしっかり勃起させられます。
この純粋さと力強さ。一種の畏怖のような感動を覚えます。
伏見さん、自分は飽きっぽいなんて言わないで、ぜひこれからも続けてください。
ジャン・ジュネ『愛の唄』
『愛の唄』ジャン・ジュネ
“Un Chant d’amour” Jean Genet
イギリス盤DVD(Region 2 / PAL / スタンダード)
デジタル・リマスターされた画質は極めて鮮明。少なくとも、以前持っていた輸入VHSよりは遙かに良い。
元々はサイレントだが、このDVDにはデレク・ジャーマン映画でお馴染みの、サイモン・フィッシャー・ターナーによる新スコアを収録。これはゲイ映画ファンには嬉しいプレゼントかも。
ただし、近年のターナーの音楽自体からは、かつてジャーマンの『カラヴァッジオ』『ラスト・オブ・イングランド』『ガーデン』あたりで聴かせてくれたような天才的な煌めきは感じられず、残念ながら今回のスコアもまたその例外ではなかった。ただまあ、特に光るものがなくても、別に耳障りなものでもないし、それでも嫌なら音を消せばいいだけのことなので、オマケとしてはやはり嬉しいコンビネーション。
オーディオ・コメンタリーはジェーン・ジャイルズとリチャード・クウィートニオースキー。前者はジュネに関する本を書いている作家らしいが、浅学のため私は良く知らず。後者はジョン・ハート主演のゲイ映画『ラブ&デス』の監督兼脚本の人。
ついでにもうひとつ、『美しい部屋は空っぽ』や『ジュネ伝』のイギリス人ゲイ作家エドマンド・ホワイトが、パッケージの推薦文を書いてます。
さて、この映画は、ゲイ映画の古典にして、現代でも色褪せることのない名作です。
ここで描かれる牢獄の壁に隔てられた「愛」は、ある意味「ゲイ=禁断の愛」であるとゲイ自身も感じていた(感じざるをえなかった)時代を思わせ、今となってはいささか古びてしまっているかも知れない。ペニスのメタファーである拳銃のフェラチオ(正確にはイラマチオか)も、藁しべとタバコの煙を介して壁の穴越しに交わされる接吻も、あるいは切なく揺れ続ける花綱の美しさすらも、もし同じことを現在したならば陳腐とそしられてしまうだろう。
しかし、ここで「愛」と同時に描かれる「欲情」は、過去も現在も変わらない。例え愛を交わす相手がいなくとも、我々は同性相手に欲情することで、脳裏で同性との触れ合いを思い描き、独り同性を思ってマスターベーションすることで、自分がゲイだと知る。この映画では、そういったゲイの普遍的な本質が、きっちりと描かれている。
その本質があまりにも赤裸々に表れるために、時としてこの映画は、そこに観念的な美やアート性を求めている観客を裏切る。ここで描かれている「美」とは、あくまでもゲイという実存に基づくものであって、観念の所産ではないからだ。そして、そういった「美」は「理解」を拒む。
それゆえにこの映画は、優れてポルノグラフィー的であり、同時に優れて詩的な芸術作品だ。もし観客が、この映画のポルノグラフィー的な「ドキドキ感」に共感しえないのならば、この映画で描かれている「世界」に触れることは難しいだろう。
現在、映画に限らずゲイ・アートと呼ばれるものは数多くあるが、ポルノグラフィーというフィールドを除けば、えてしてそれらは「愛」は語っても「欲情」には触れずにいたり、あるいは「欲情」というメカニズムが内包するポルノグラフィー性を観念で分解したり、そこに理由付けのためのエクスキューズを加えることに腐心しているものが多いように思われる。
私は個人的に、そういったものをあまり好まない。そういうものを見ると、その裏に、作者が単純に同性に欲情してしまう自分という現実を受け入れられずにいるような、一種のセックス・フォビア的な視点を勘ぐってしまうからだ。
己の欲情のメカニズムに「なぜ」という理由を持ち込むということの裏には、「本来の自分はこうではないのだ、それがなぜかこうなってしまったのだ」という、価値観の多様性とは正反対のベクトルが潜んでいるように思われる。これは一見、自分自身を受容している(あるいは、受容しようと努力している)姿勢に見えながら、実は自分自身のありかたを否定してしまう価値観に、根本で依存してしまっていることに他ならない。
しかし『愛の唄』には、そういった要素は微塵も感じられない。仮に、はみ出してしまった者の悲哀はあったとしても、はみ出してしまったことへの呪詛はない。はみ出している自分を、ただ真っ直ぐに受け止めている。表現としての手法が古びても、ゲイというものが置かれている社会状況が変化しても、個としてのゲイを捉えた普遍性は全く揺るぎない。こういった「実存としてのゲイ的な美」をきちんと描き出した作品は、実は現代においてもそれほど多くはないように思われる。
日本で『愛の唄』が、このイギリス盤のように完全な形でDVD化されるのは難しそうだ。少なくとも、勃起したペニスで石壁を擦る、あの美しいシーンには、醜いモザイクが入ってしまうだろう。
ならばせめて、同じくジュネを原作とした、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『ケレル』か、あるいは同じくジュネをモチーフとした、トッド・ヘインズの『ポイズン』だけでも、ソフト化して欲しいものだが……。