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奥津直道さんの個展

Okutu 奥津直道さんから個展のご案内をいただいたので、ご紹介。
奥津直道展
8月22日(金)〜8月30日(土)
12:00〜19:00(日曜18:00まで/最終日17:00まで)
柴田悦子画廊
〒104-0061 東京都中央区銀座1-5-1第3太陽ビル2F
03-3563-1660
 直道さんの作品については、以前の個展のときにちょっと書いてますので、よろしかったらご覧あれ。
 今回は、新作を中心に十数点の展示だそうです。皆様、どうぞお出かけくださいませ。

追悼、Greasetank

 アメリカの友人から、アーティストのグリースタンク(Greasetank)が、去る8月1日に亡くなったとの知らせを受けた。
 寝耳に水の驚きだった。
記事中にグリースタンクの作品を掲載していますが、中には残酷な内容も含まれているので、苦手な方は拡大画像を見ないように注意してください。
Greasetank01 2001年に、グリースタンクと私は、ウェブを通じて知己を得た。
 彼が私の作品に惹かれたのと同様に、私もまたすぐに彼の作品の熱烈なファンになった。
 我々はメールで互いの作品を称賛しあい、互いのサイトにリンクを貼った。それが縁で、彼の作品が「G-men」や「SM-Z」で紹介されたこともあるので、ご記憶の方もおられるかも知れない。
 残念ながら、彼のサイトは数年前に閉鎖されてしまったが、その後も我々は、頻繁ではないにせよ、互いにコンタクトを取り合っていた。今年の正月も、私は彼に恒例の年賀メールを送り、彼からも返信があった。亡くなった原因は心臓発作であり、今年の1月にもそれは起きていたそうである。
 しかし私は、彼のプライベートについては何も知らず、また、その訃報も、ネットのオンライン・グループ内で回ってきたものを、人づてに受け取っただけなので、彼の死については、具体的にはこれ以上のことは何も判らない。
Greasetank03 グリースタンクの作品は、セックスと暴力と殺人に満ちていた。それは暗く、残酷で、アモラルなものだったが、同時に恐ろしいほど美しかった。
 彼の作品は、ドローイングでもペインティングでも写真でもなく、Poserによる3DCGをメインに用いたものだが、数多いそういったアーティストたちの中でも、彼は作家の個性を明確に作品に刻印できる、紛れもなく最も優れたアーティストの一人だった。
 彼は、自分のイマジネーションを具体化する手段としてPoserを用い、出来上がった作品は、フォトリアルな3DCGに見られるような現実の模倣ではなく、3DCGによるフィギュア遊びの延長でもない。そこには、恐ろしいほど研ぎ澄まされた作家性だけが、技法の如何とは関係のない、極めて高いレベルで結晶している。
 その個性や作家性の高さは、禍々しくエクストリームな幻想を描くときでも、シンプルなポートレイトめいた作品を作ったときでも、決して揺るがず常に変わらない硬質な美しさに満ちていることからも明瞭である。
 3DCGやPoserといった手法の如何に関係なく、彼は間違いなく、21世紀に生きる比類ないゲイ・エロティック・アーティストの一人だった。
Greasetank04 今回の記事のために、手元にあった彼の作品を幾つかアップしてみたが、これはブログということもあり、彼の作品の中でも、特に大人しめでソフトなものを選んでいる。そのくらい、彼の作品はエクストリームだった。
 彼の作りだす世界は、荒々しく暴力に満ち、その中で、拷問、殺人、戦争、ナチス、差別、フリークスなどが、サドマゾヒズム的な視点で描かれている。そのファンタジーの過激さは、作品中にタブーではない要素を見つける方が難しいくらいである。彼の世界では、現実的なモラルやタブーは、その鮮烈な美学と強固な作家性の前に、脆くも吹き飛び踏みにじられるのだ。
 因みに、左上の青みを帯びた作品には、”Coming for you, fag!”というタイトルが付けられている。「てめェのために来てやったぜ、オカマ野郎!」といったとこだろうか。ヘテロのみならず、同じゲイにとってすら、彼の作品がいかに「神経を逆撫でする」か、これ一つでもお判りになるだろう。ここに描かれているのは、暴力と殺人の予兆でしかないが、その実これは、ヘイトクライムとポルノグラフィーの合体なのだ。
 しかし、そんな過激な内容でありながら、最終的に提示される作品群は、まるで透明な結晶のように静かで美しい。その硬質で凍り付いた世界は、さながら、ポール・デルヴォーの絵やアンナ・カヴァンの小説のようである。
Greasetank02_2 彼のモチーフの過激さは、彼の作品がオーバーグラウンドな場に出ることを、おそらく阻んだでいたと思われる。
 実際、敵や批判も多かったでようである。これは伝聞でしかないが、彼がサイトを閉じた直接の要因は、自らを「良識派」だと自認する者たちからの、攻撃があったせいだとも聞いている。
 もちろん、その作品はインターネット上だけではなく、幾つかの出版メディアなどにも紹介はされていたが、その作家性と作品性の高さから考えると、それらの露出は余りにも少なすぎるし、そして過小評価であったように思われる。
 正直なところ、このブログでもそうなのだが、タブーを避けて彼の作品を選び、紹介することは、まるで作品を「去勢」してしまうようなものである。こういった紹介の仕方では、残念ながら彼の作家性は、その実像と比べると、だいぶ矮小化してしまうだろう。
 今回、彼の訃報を届けてくれた友人も、「グリースタンクのアーティストとしての勇敢さは、本当に驚くべきものだった。しかし、君(田亀)と違って、彼にとって不幸だったのは、彼はついに、彼に正当な評価をくれる鑑賞者(注・ちょっとどう訳したものか悩んだんですが、参考までに原文では『”legitimate” audience』となっています)を得ることはできなかった。彼は、君がその美学と作家性ゆえに孤独であるように、それ以上に孤独な存在だった」と書いている。
 そんなグリースタンクが亡くなってしまった。
 私は、彼については、その作品と、取り交わしたメールを知るのみで、彼がどんな容姿であるかすら知らない。実のところ、今回の訃報で初めて彼の年齢を知り、それが作風から想像していたよりもずっと上だったので、驚いたほどだった。
 顔も知らない人の死を悲しむのは、いささか奇妙なようでもある。
 それでも私は、とても悲しい。
 心から、その才能を惜しみ、その死を悼む。
 享年59歳だったそうである。
 一つ余談。
 閉鎖された彼のサイトでは、彼自身の作品だけではなく、彼同様に、作品をオーバーグラウンドで発表するには、余りにも過激であったり、タブー的な要素が多すぎるような、そんなアンダーグラウンドなゲイ・エロティック・アーティストたちが、世界中から集って絵や小説を発表していた。
 巧拙は別にしても、その、アートとしての純粋さとパワフルさを持ち合わせ、エロティック・アートの真髄を見るような、そんな魅力的で個性的な作家たちの数は、総計60人以上にも及んでいた。
 しかし、現在はそれらを見ることができず、作家たちの消息も、残念ながら殆どが不明である。

スペインの企画展、プレスシートが公開されました

 先日ここで書いた、私が出品しているスペインはバルセロナの企画展ですが、プレスシートが公開されました。
 ARTZ21のサイトの”visit the gallery”から入り、ENGLISH > EVENTS > Love Pryde Showと辿って、FOR MORE INFO CLICK HEREをクリックすると、英語版プレスシートのPDFファイルがダウンロードできますので、興味のある方はどうぞ。
 因みに、掲載されている作品は、もちろん無修正版(笑)。

スペインのイベントと企画展に出品

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 今年の夏に、スペインはバルセロナのギャラリーが企画するイベント&展覧会に、作品を10点ほど出品します。
 8月1日から7日まで、バルセロナでLOVEBALLという、ヨーロッパ最大規模級(だそうです)のゲイ・イベントが開催されるんだそうですが、その時期に併せて、同市のアート・スペースARTZ21が企画開催するLove Pryde Showというイベント&展覧会に、私もオファーを受けて招聘参加することになりました。
 もっとも、スペインに行くのは作品のみで、残念ながら私自身は日本でお留守番(笑)。イベントは楽しそうだし、行ってみたいけど、急なことだったし、バルセロナには二回行ったことがあるので、今回はまあいいか、と、渡西は見送りました。

 イベントの方はクラブ・イベントで、8月1日の夜に開催。私の作品がどのように使われるのかは判りませんが、おそらくプロジェクター投影とかじゃないかと。プレスシートには「我々はファニーでゴージャスでアヴァンギャルドな、世界の挑戦的なアーティストを紹介します」とか書いてあるので、おそらく日本で言うと「デパートメントH」みたいなイベントではないかと、勝手に想像しております。
 展覧会の方は、同市内にあるARTZ21のギャラリーで、LOVEBALL開催期間中から9月末まで、2ヶ月間の開催予定。こちらは普通に、作品の展示と販売。私を含めて6作家の展示らしいですが、ARTZ21のサイトで参加作家の作品を見ると……むむ、けっこう皆さんコンテンポラリー・アートしている感じで、私は浮いているような……。まあ、あちらがいいって言うんだから、そーゆーことはあんまり気にしないようにしよう(笑)。

 話がきてから時間があまりなかったことと、個展ではないということもあって、出品作は全て旧作から。スペインでの展示は初めてなので、反応を見るという意味からも、色々なタイプの作品を混ぜたサンプラー的なラインナップにしてみました。実は、このギャラリーからは、秋に開催予定のもう一つの企画展にも出品を頼まれているので、今回の結果をそれ用の傾向と対策にもするつもり。
 また、純粋な新作ではありませんが、この企画展用に、新たに限定のオリジナル・プリントを3種ほど作ってみました。いずれも既に発表済みの作品ではありますが、プリント用にちょこちょこ加筆したりアレンジしたり、プリントも和紙に出力してから落款を手押ししてみたり……と、けっこう楽しみながら凝ってみました(笑)。

 というわけで、8月と9月にバルセロナに行かれる予定がおありの方、ガウディのついでにちょっと寄り道して、この企画展にお立ち寄りいただけると嬉しいです。

“The Savage Sword of Conan”

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“The Savage Sword of Conan”
 前回の画集“Conan: The Ultimate Guide to the World’s Most Savage Barbarian”に引き続き、またまた「蛮人コナン」本をご紹介。今回はアメコミ版です。

 現在、コナンのコミックスは、米ダークホース社から、私の知っている限りでは4つのシリーズで刊行中です。”Conan Ongoing series”と”Conan miniseries”と銘打たれた2つが新作、”The Cronicles of Conan”と”The Savage sword of Conan”が復刻本。
 まあ、流石に私もそれらをコンプリート買いしているわけじゃありません。全部合わせると20冊以上にはなるしね。で、だいたいは好みのアーティストが描いている本だけ、ぽちぽちツマミ買いしているんですが、今回紹介する”The Savage Sword of Conan”シリーズだけは、今のことろ一番のお気に入りでコンプしてます。

 私も最近知ったんですが、かつてコナンのアメコミ版は、同じマーヴェルから”Conan the Barbarian”と”The Savage Sword of Conan”の二種類が出ていたらしいです。で、”Barbarian”の方が本文もカラーの普通のアメコミ(ちょっと語弊があるけれど、まあいわば低年齢層向け)で、本文が白黒の”Savage Sword”がアダルト向けというラインだったらしい。因みに、前述のダークホース刊の4種のうち、”The Cronicle of Conan”が、この”Barbarian”をリマスタリング(っつーか、彩色をデジタルでやり直したというか)して合本にしたシリーズです。

 で、アダルト版の方の”Savage Sword”の合本版ですが、現時点では3冊が刊行済みで、4巻が近日発売予定。
 書影を見ての通り表紙はカラー(当時の表紙絵を使用)ですが、本文はわら半紙っぽい紙に黒の一色刷り。ちょいと耐久性に不安がある紙質ではありますが、印刷そのものは、粗悪な紙に見られがちな、にじみやかすれ等はいっさい見あたらず、極めてクリアーな品質。本文中に、当時の雑誌の表紙がモノクロで掲載されているんですが、これもグレーの階調がきちんと出ているので、ひょっとしたら見た目よりちゃんとした紙なのかも知れません。
 ページ数は、一冊当たり驚きの550ページ近く。薄い用紙なのに本の厚みは2センチ以上あって、見応えタップリ。

 さて、私が何故この”SavageSword”シリーズを気に入っているかというと、それはやはり絵の魅力、これに尽きます。白状しちゃうけど、私はアメコミって、もっぱら「見る」だけで、ほとんど「読む」ことはないです(笑)。
 そして、このシリーズの絵は、やはりアダルト向けラインだったせいか、いわゆる昔のアメコミ風とは異なった、もっと作家性の強い、コミックの絵というよりは「ペン画」を思わせるものが多く、これが実に何とも良いのですよ。

 では、具体的な絵の話。
 アメコミでは、様々な作家が同じシリーズを描き継ぐのが常ですが、私が何と言っても大好きなのは、ペンシラーがジョン・ブシェマ、インカーがアルフレッド・アルカラというコンビ。(日本のマンガと異なり、アメコミの制作はシステマチックに分業化されていて、鉛筆で絵を描く人とインクでペン入れする人、別々のアーティストだったりします)
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 まあ、上のサンプル画像を見ればお判りと思いますが、ハッチングの強弱だけで、明暗から立体感から質感から、ダイナミックかつ繊細に見せてくれて、もうペン画として本当にクオリティが高い。全コマこんな調子で描かれているもんだから、ページをパラパラめくっているだけでウットリです(笑)。しかもね〜、内容は半裸のマッチョだし、しょっちゅうとっ捕まって縛られたりするし(笑)。

 他にも、魅力的なアーティストは沢山います。
 1巻を例にとると、ページは少ないんですが、ペンと鉛筆のミクスチャーで魅せる、ジェス・ジョドロマンの絵は見逃せない。
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筆のタッチがダイナミックな、パブロ・マルコスも良い感じ。
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 もちろん、バリー・ウィンザー・スミスも描いているし(ただ正直なところ、私は彼のコミック版の絵は、その世評の高さほど好きではないです。一枚物のイラストレーションは、すごく良いと思うんだけど、コミックになると、顔の造形のクセの強さやデッサンの弱さが気になるし、出来不出来のムラも大きいような気がします)、お懐かしや、アレックス・ニーニョも描いている。
 他にも一枚絵で、ニール・アダムス、ジェフリー・ジョーンズ、エステバン・マロート……と、ツルモトルーム版『スターログ』の愛読者にはタマラナイ名前が並びます(笑)

 2巻では、やはり相変わらずジョン・ブシェマ+アルフレッド・アルカラが絶好調で、しかも嬉しいことに本の8割方はこのコンビの作画。
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ニール・アダムス+ザ・トライブのコンビも見応えあり。
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 3巻では、上でちょっと苦言を呈してしまったバリー・ウィンザー・スミスが、今度は本領発揮で素晴らしい作画を。
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太目の線でコントラストを効かせた、アーニー・チャンも良い。
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一枚絵だけど、1巻で既出のジェス・ジョドロマンの再登場も嬉しいところ。
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 というわけで、興味のある方は、まず1巻を入手してみることをオススメします。それが気に入ったら、2巻3巻も気に入ること間違いなし。
“The Savage Sword of Conan vol.1” (amazon.co.jp)
“The Savege Sword of Conan vol.2” (amazon.co.jp)
“The Savage Sword of Conan vol.3” (amazon.co.jp)
(何故かアマゾンでは3巻の書影が違っている……)
 ただ、ひとつだけ惜しいのは、当時のカバー画がモノクロで収録されているところ。いちおう、表紙と裏表紙に一点ずつカラーでも掲載されているんだけれど、せっかくなら全部カラーで見たかった。
 あ〜あ、画集の紹介のときに紹介した、お気に入りのアール・ノーレムの表紙絵なんか見てると、特にそう思っちゃうんだよなぁ……残念。

“Conan: The Ultimate Guide to the World’s Most Savage Barbarian”

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“Conan: The Ultimate Guide to the World’s Most Savage Barbarian”

先日ここで “Conan, The Phenomenon: The Legacy of Robert E. Howard’s Fantasy Icon”という、ロバート・E・ハワードが生み出した「蛮人コナン」の図像的イメージを、その誕生から現在に至るまで辿った画集を紹介しましたが、最近また、それとは別の切り口のコナン本を入手したので、そのご紹介。
 どんな内容の本なのかというと、まず、日本でも発売されているような、歴史物のムック本を想像してください。『ビジュアル図解・××史』みたいな、地図や写真、出土品や想像図なんかをタップリ使って、テキストでそれを補足する……みたいなタイプの大判本。
 そんな感じで、ハイボリア時代と蛮人コナンの生涯を、編年体で解説した、フルカラー&ハードカバーの大判本です。

 トッド・マクファーレンによる序文に続き、「ハイボリア時代とは」「地図」「主な神々」なんつー、ファンタジー設定好きには嬉しくなっちゃうような導入を経て、いよいよコナンの一代記が、「キンメリア時代」「盗賊時代」「傭兵時代」「黒海岸時代」などなど綴られていきます。で、そこで出てくるイベントやキャラクターなどが、後述するような様々な図版で紹介されていく……ってな構成。
 資料性という意味では、こういったコナンの物語を年代記的に体系化するという行為そのものが、ハワードの死後に別の作家によって行われた、いわば二次創作とも言えるような行為なので、果たしてこういった内容の本に、どれほどの正当性があるかどうかは疑問です。
 しかしまあ、そういった原理主義的な考え方はともかく、これは、一人の作家が生み出したキャラクターが時と共に一人歩きを始め、その結果生まれたキャラクター・ブックだと考えればいいでしょう。
 アメコミなんかが好例ですが、こういった、キャラクターを軸として、そこにある種のファン心理が収束していき、結果として個人の創作力を越えた広大なユニバースが形成されていくというのは、創作の一つの姿や可能性として、作家としてもかなり興味深いものがありますね。

 さて、コナンやハイボリア時代ってのは架空のものですから、もちろん遺跡だの出土品だのがあるわけじゃない。
 しかし、そこはそこ、1930年代初頭にハワードの筆によって誕生して以来、様々な作家とメディアに受け継がれながら、現在にいたるまで長い歴史のあるコナンのことですから、ヴィジュアル資料は多岐豊富なわけです。この本では、小説版の表紙絵からアメコミ版の決めゴマ、アンティーク調の創作地図からゲーム版の美術設定ボードと思しき図像まで、古今の様々な作家による様々なコナン像が、これでもかこれでもかってくらい、ふんだんに収録されております。その豊富さといったら、私も初めて見るような絵ばっかり。
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 ただ、純粋な画集として楽しむには、図版の作者のクレジットが明確ではなかったり、レイアウト効果重視でトリミングや切り抜き版を多用していたり……と、難点もなきにしはあらず。
 しかし、それでもこの膨大な図版枚数と、それらをまとめて見る機会の少なさという点を考えると、そういった難点も相殺して余りあるという印象。参考にアップしたサンプル画像をご覧頂ければ判りますが、全ページこんな感じで、それが160ページ以上続くんですから、満足度はかなり高い。

 また、画集的な意味で、特に個人的に嬉しかったのは、収録作家陣の豊富さ。カバー絵を描いている、私も大好きなアレックス・ロスから始まって、もちろんフランク・フラゼッタやボリス・バレジョーなんて有名どころもあるんですけど、それより今まであまり見る機会のなかった、アダルト・アメコミ版のカラー表紙絵の方が、扱いも大きく多数収録されていること。
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 クレジットがないので良くは判りませんが、私の判ったところでいうと、前にここで紹介したことのある、男性向けパルプ雑誌の表紙絵とかも描いていたイラストレーター、アール・ノーレムの描くコナンなんか、実にヨロシイですな。サンプル画像にある、怪物に組み伏せられているヤツとか、手鎖で女の上に立っているヤツとかがそうです。

 そんなわけで、前回のコナン本に引き続き、これまたマッチョ絵好きにはオススメできる画集でした。
“Conan: The Ultimate Guide to the World’s Most Savage Barbarian” (amazon.co.jp)

フランスの個展の写真

 フランスで現在開催中の個展の写真を、サンフランシスコに拠点を置き、ライターやパフォーマーやカメラマンとして、欧州でも活動しているアーティストMidori(美登里)さんが送ってくれました。
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 左の写真の「七人の侍」の両脇、左がギャラリー・オーナーのオリヴィエ、右が美登里さん。右側の小さな白黒ドローイングは、昔「さぶ」に描いた小説挿絵の白描ですな。右下にピンが立っているところを見ると、どうやら売れたみたい。嬉しい嬉しい(笑)。
 連作「七人の侍」は、一つの額に全点を入れてありますが……う〜ん、狙いは判るんだけど、「七曜をベースに、オーバーチュアーとコーダで挟んだ組曲的なもの」という、連作のコンセプトからはズレちゃってるなぁ。これだとちょっと、配置が感覚的過ぎる。やっぱりこういう細かな部分は、自分で現地に行って指示しないと、難しいものがありますね。
 美登里さんとは、まだ実際にお会いしたことはないんですが、メールをいただいたのをきっかけに、MySpaceなんかでちょくちょくやりとりをしています。サイトを拝見すると、フェティッシュやボンデージやキンキー系で、いろいろと面白そうな活動をなさっているんですが、個人的に一番気になるのは、廃墟の中でレザーマンをボンデージして撮影した、一連の写真シリーズ。ここで見ることが出来ます。

画集”Conan, The Phenomenon”

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“Conan, The Phenomenon: The Legacy of Robert E. Howard’s Fantasy Icon”
 ロバート・E・ハワードの「蛮人コナン」の図像的イメージを、その誕生から現在に至るまで辿った大判画集。
 版元は、現在フルカラーでコナンのコミックスを刊行しているダークホース社。おそらく、自社コミックスのPR的な意味もあるのでしょう。

 ハワードのコナンといえば、ヒロイック・ファンタジーの祖でもあり、そのイメージは「裸で大剣を振り回す、マッチョの野蛮人」という感じですが、そんなイメージがいかにして確立し、そして定着していくかを、豊富なカラー図版で追うことができるので、なかなか面白く見応えのある画集でした。
 例えば、初出時の1930年代の”Weird Tales”誌では、マーガレット・ブランデージによるカバー画の中に、コナンの姿を見ることができるんですが、現在のコナンのイメージとは全く異なっています。
 ブランデージの絵の特徴は、女性的なしなやかなエロティシズムと怪奇性にあるので、例え上半身裸で剣を振り回している男を描いても、粗野とか野蛮とかいったイメージとはほど遠いもので、描かれたコナンも、まるでルドルフ・ヴァレンティノか何かのように見える。ブランデージの作風に、ハワードのそれが合致していないんでしょうな。これがハワードではなく「ジョイリーのジレル」のC・L・ムーアだったら、イメージ的にピッタンコなんですけどね。

 で、そうなるとブランデージよりも男性的な作風で、エドガー・ライス・バロウズ作品の挿画などで有名なJ・アレン・セント・ジョンや、その一世代後のロイ・G・クレンケルが描くコナンなんてのを見たくなるんですが、残念ながらそういうものは存在していないのか、この画集には収録されていませんでした。
 ただ、セント・アレン・ジョンに関しては、前述の”Weird Tales”誌のカバー絵が一点掲載されています。残念ながらハワードではなく、『火星の黄金仮面』で知られる、バロウズ・フォロワーのO・A・クラインが書いた、金星もののカバー・ストーリーらしいのですが、コナンというアイコンを考えるにあたっては、図像学的な共通点もあって興味深いです。
 この、ハワードとバロウズという比較は、作品の内容的な共通点はもとより、図像学的には、アメリカではフランク・フラゼッタが、日本では武部本一郎や柳柊二が、いずれも双方の作品の挿画で人気を博しているので、コナンからもうひとつ幅を拡げて、「空想世界で戦う裸のマッチョ」の図像学を考えると、いろいろと面白い発見がありそうな気もします。

 さて画集では、それから時代が下って、50年代にノーム・プレスから出版された、コナンの単行本のカバー画も見ることができます。
 これらは、エムシュ(エド・エムシュウィラー)やフランク・ケリー・フリース、あと私の知らないところで、ジョン・フォルテやデヴィド・カイルという作家による絵なんですが、興味深いことのこれらのカバー画からは、「野蛮人」といったニュアンスは全く感じられず、絵の内容やタイポグラフィなどのデザインも含めて、まるで古代ローマ帝国を舞台にした歴史小説か、あるいはアーサー王伝説か何かのような書物に見えるという点。
 前述したバロウズとの共通要素も皆無と言って良く、キャラクターも裸のマッチョですらなく、前述したような普通のコスチューム・プレイ(念のため、これ、いわゆる「コスプレ」のことじゃないからね!)風に描かれているんですな。作風はともかく、図像学的な共通点だけに絞れば、まだ30年代のブランデージの描くコナンの方が、現行のイメージに近いというのが面白い。
 ただ、このノーム・プレス版の中にも、50年代末期に、ハワードではなくビョルン・ニューベリイ&L・スプレイグ・ディ・キャンプ名義によるコナンの単行本で、ウォーリー・ウッドがカバー画を描いているものが載っています。
 で、これが再びバロウズ的なイメージへの再接近を見せていて、しかも顔を顰めて歯をむき出しているコナンの表情など、バロウズ的なものには余り見られない「野蛮」というニュアンスがかいま見えているのが興味深い。この後に来る、フラゼッタによってイメージが確立するに至る、その橋渡し的な感じがします。

 さて、この後60年代になって、ランサー版の単行本カバーで、いよいよフランク・フラゼッタが登場します。で、やはりこれが、現在に至るコナンのイメージを決定し、しかも、オリジンであると同時に完成形でもあるというのが、以降の作家によるコナン像を見ていくと、良く分かります。
 60年代のランサー版では、他にボリス・バレジョーや、私の知らないところでジョン・ドゥイロという人のカバー画も載っています。ドゥイロの方は図版が小さいこともあって良く分からないんですが、この時期のバレジョーに関しては、完全にフラゼッタのフォロワーと言って良いでしょう。後にバレジョーは、フォトリアリズムという点ではフラゼッタを越える技術力を生かし、同傾向の作風のジュリー・ベルと組んで、共にファンタジー・アートのマエストロになりますが、その作品は物語絵というよりはピンナップ的な世界であり、ハワード的や、あるいはバロウズ的なものといったニュアンスからは遠くなっていきます。
 70年代のアメコミ版も、80年代から90年代のアーノルド・シュワルツェネッガーやラルフ・モーラーによる映画やテレビ版も、いずれもイメージの源泉は、フラゼッタの描くコナンにある。
 アメコミ版では、バリー・ウィンザー・スミスが、後にラファエロ前派やアールヌーボー絵画への接近によって、フラゼッタとは異なった味付けを見せますが、それらはあくまでも描画法や装飾性といった表層レベルのもので、コナンというイコンの造形そのものに関しては、やはりフラゼッタ直下のものにある。
 同時期のものでは、ケン・ケリーによるイラストレーションも画集には収録されていますが、これも完全にフラゼッタを踏襲したものになっています。

 ここで興味深いのは、コナンを描くにあたって、フラゼッタとケリーの作品は酷似しているがゆえに、その二つを見比べると、フラゼッタの作品には他の作家にはない、イラストレーション的には特異と言ってもいいような、ある特徴があることが判ります。
 イラストレーションというものは、基本的に「絵解き」ですから、特に物語絵のい場合は、そこには「説明」の要素が不可欠です。ケリーの絵を見ると、「なぜコナンがそういうポーズをとっているのか」といった、物語的な流れがはっきりと読み取れる。しかし、フラゼッタには、意外なほどそれがない。ある一瞬を切り取ったタブローとして、迫力はものすごいんですが、良く見るとキャラクターのポーが不可解だったりする。
 例えば、有名な赤マントのゴリラとコナンが戦っている絵を見ると、コナンのポーズもゴリラのポーズも、鑑賞者にとって「分かりやすい」決定的瞬間とは異なっている。仮に自分がこういうシーンを描くとすると、まず最初に思い浮かぶのは、コナンが剣を振りかざし、いまにもゴリラに斬りつけようとするという瞬間のポーズでしょう。しかしフラゼッタの絵では、剣を持った腕は水平に真っ直ぐ後ろへと伸びている。となると、これは斬りつけた剣を後ろに引いた、その瞬間のようにも思えますが、ゴリラ側のリアクションがそれに合致しない。ここには「これがこうなってああなりました」といった物語的な説明要素が、絵解きとしてのイラストレーションにしては、実に希薄なんですな。こういった特徴は、前述のケリーや、あるいは現在の作家の作品には、全く見られない。他の作家は、皆、イラストレーション的にもっと「明解」な画面構成にしている。

 では、フラゼッタの絵の、こういった特徴は欠点なのかというと、それが全く違うというのが、また面白い。フラゼッタの作品で重視されているのは、そういう「説明」ではなく、激しい動きを見せる複数の人体が絡み合い、それが朧な背景と共に、もやもやと画面にとけ込みながら、全部が一体化して巨大なうねりとなり、強烈なマッスとムーヴマンを醸し出すという、その「表現」そのものにあるからです。ある意味でミケランジェロ的とも言える、この表現力に、鑑賞者は圧倒される。
 こういったファインアート的な特徴が、フラゼッタを他の同傾向のファンタジー・アーティストとは一線を画した、孤高のマエストロにしているのではないか、なんてことを、この画集を見ながら感じました。

 話が逸れましたが、80年代末から現在に至る、様々な作家によるコナン像を見ていくと、キャラクターの造形はフラゼッタの流れを継承している感が強いとはいえ、その中にある種の流行のようなものや、あるいは個々の作家による個性の打ち出し方の違いなどが見えてきて、これまたなかなか面白い。
 流行という点では、フラゼッタやアメコミ版、映画版で見られた、革パン一丁というコスチュームは、現在では廃れています。どの作家の描くコナンも、チュニック様の衣で上半身も覆っていたり、あるいは上半身は裸でも、ボトムは鎖帷子やキルトのような長めの腰布であったりして、ボディービル的なニュアンスの強いかつてコスチュームよりは、だいぶ歴史物っぽいリアリズムを踏まえた傾向になっている。そして、そういったアレンジを見ていると、これはケルト風だな、とか、こっちはネイティブ・アメリカン風だな、とかいう感じで、それぞれのイメージ・ソースが分かりやすいのも特徴です。

 個々の作家の個性で言えば、ゲイリー・ジャンニの描く作品は、アラビアン・ナイトのようなオリエンタル世界への接近を見せ、画面構成や描画法にも、レオン・ベリー、エドウィン・ロード・ウィークス、グスタフ・バウエルンファイントといった、19世紀末のオリエンタリズム絵画からの影響が色濃いように見えます。グレゴリー・マンチェスの作品は、ネイティブ・アメリカン風のニュアンスが見られるし、マッスとしての筋肉のリアリズムにこだわりながら、それを粗めの筆致で的確に描くタッチは、N・C・ワイエスやハワード・パイルあたりの、20世紀初頭のアメリカン・リアリズムのイラストレーターたちとの共通点が伺われます。
 他にも、マイク・ミニョーラの描くコナンを見ると、ミニョーラは何を描いてもミニョーラだなぁと思ったり、前述したフルカラーのコミックス版の、ケイリー・ノード&デイヴ・スチュワートは、正直あんまり好きじゃなかったんですが、画集に収録されているカラーリング前のモノクロの鉛筆ドローイングを見ると、おやおや着色前の段階だとけっこう好きだぞとか思ったり。

 ただ、全体的な傾向としては、”Weird Tales”から始まりフラゼッタの頃まではまだ残っていた、怪奇というかホラーというか、そういったムードは、現在では完全に消えてしまっています。
 それと同時に、朦朧とした世界の中での「個」を描いたヒロイック・ファンタジーから、細部まで作り込まれた明解な世界の中での英雄の活躍というエピック・ファンタジー、あるいはハイ・ファンタジー的な世界への接近を見せているように感じられます。見返しに使われている絵なんかは、ハワードのコナンというよりも、まるで『指輪物語』のヘルム峡谷の戦いを描いたものみたいです。

 テキストの方はちゃんと読んでいないんですが、序文はマイケル・ムアコック(……ん? あんた、アンチコナンじゃなかったっけ?)。ハワードのバイオグラフィーも、豊富な写真入りで載っています。上半身裸になって、銃やナイフを構えていたり、友人と剣を交わしているコスプレ写真(こっちは現在日本でいうところの「コスプレ」の意です)なんてのもある。
 という感じで、ハワードのファンやヒロイック・ファンタジー好きにはもとより、ハワードのコナンは読んだことなくても、マッチョ絵が好きな人ならたっぷり楽しめる充実した画集です。オススメ。
amazon.co.jpで購入

『タブウ』およびヴァルター・シュピース追補

 前回の記事を書いた後、ヴァルター・シュピースについて、もう少し詳しく知りたくなったので、とりあえず手頃そうな『バリ島芸術をつくった男 ヴァルター・シュピースの魔術的人生』(伊藤俊治・著/平凡社新書)という本を読んでみた。

 結論から言うと、残念ながらF・W・ムルナウとの関係については、シュピースのドイツ時代のバイオグラフィー関係や、交友がバリ移住後にも続いていたということ、ムルナウの『ノスフェラートゥ』がシュピースの写真作品に与えた影響(特に魔女ランダを撮影したもの)などについて、軽く触れられているのみで、特に目新しいものはなかった。
 しかし、「南海を舞台にした映画を共同でつくるというプランも二人の間にはあった」という記述があり、これは『タブウ』という映画の成立要因を考えるにあたっては、なかなか興味深い事実だと言えそうだ。
 またこの本は、シュピースとムルナウの関係については、前述した通りではあるが、シュピースという作家の生涯や、彼がどのようにしてバリの文化に関わり、バリ舞踏やバリ絵画が現在知られるような形に至ったのか、その経緯や時代背景や思想はどういったものであったのか、などといったことについては、とても判りやすく解説されているので、シュピースやバリ芸術に興味のある方ならば、読んで損はない内容である。

 さて、それとは別に、私がこの本を読んで、もう一カ所、興味を惹かれた部分があった。それは、1983年にシュピースが、「同性愛の罪」によって逮捕されたことに関する、その時代的な背景についての記述である。(ただし本書では、この部分以外には同性愛者について述べている部分はないので、「同性愛者としてのシュピース」の実像を本書から伺い知ることは、残念ながらほとんど出来なかった)

 では、まず以下の引用をお読みいただきたい。

「1930年代末になると、ファシズムの影が濃くヨーロッパを覆いつくし、それが世界中に広がってゆくようになった。ヒットラーの台頭と日本のアジア侵略は、インドネシアを統治しているオランダ政府にも大きな影響を与えた。(中略)
 そして何十年もの間、暗黙に了解されてきた慣習が突然、秩序にとって危険なもののように見えはじめ、いわゆる"魔女狩り"が主として性道徳上の問題(特にホモセクシュアル)に対して向けられていった。ジャーナリズムも同調し、そうした人々に対し悪意のこもったキャンペーンを始めるようになり、家宅捜索状が出され、警察が容疑者たちを次々と取り調べ始めた。
(中略)わずか数ヶ月間に、インドネシアでは風紀紊乱(ホモセクシュアル)による容疑者が百人以上も逮捕され、多くの人々が同じ事態が自らの身にも起こるのではないかという不安におびえ暮らしているありさまだった。自殺、免職、結婚の解消などが相次ぎ、バリでもそうした状況を免れることができなかった」

 私が興味を惹かれたのは、こうしたカタストロフが起きる以前の状況、すなわち同性愛が「何十年もの間、暗黙に了解されてきた」という状況である。
 では、なぜそれに興味を惹かれたのか。
 それは、その状況が現在の日本と同じだからである。
 日本では、欧米で見られるヘイトクライムのような、いわゆる目に見える形としての「ゲイ差別」は、幸いにして殆ど見られない。また、ある種の宗教的基盤のような、同性愛を絶対的な悪とみなす価値基準も、おそらくは文化的に存在していない。
 ただし、どの社会でも一定数はいるであろう、同性愛を道徳的に悪しとする層は、日本社会の中にも確実に存在するであろう。じっさい、ネット上の匿名の場においては、本気なのか露悪趣味的な行為に過ぎないのかは別としても、そういった論調にお目に掛かることは、決して珍しくはない。
 では、なぜそれが実社会で表面化していないかといえば、それは単に、そういった人々を後押しする大義名分が存在しないということと、そういった行為自体が、現在の社会というシステムの中で「良くないこと」とされているからである。仮に、宗教右派のような思想が後押しをすれば、同性愛批判は「正しい」という信念のもとに表面化するであろうし、社会というシステム自体がそれを制約しなければ、やはり同様の結果になる。欧米におけるキリスト教右派による活動などは、前者に相当するし、中東などのイスラム国家における同性愛差別は、前者と後者と共に相当する。
 つまり、極論を恐れずに言うならば、日本における「ゲイ差別がない」状況というのは、社会というシステムによって「何となくそういう状況に置かれている」ということでしかない。

 これは前述した「何十年もの間、暗黙に了解されてきた」という、1930年代の「同性愛者狩り」が始まる前オランダ領インドネシアの状況と、実は何ら変わることはないのだ。
 しかし、その同じ「暗黙の了解」が、1930年代、ほんの数年のスパンで、社会のパラダイム・シフトによって崩れた。それまで表面化していなかったものが、大義名分や社会不安の影響といった後押しを得て、政治的な力となって顕在化したのだ。これは見方を変えれば、状況次第ではそうなって然るべき潜在需要が、かつての「暗黙の了解」の時代の中でも、既に存在していたのだとも言えよう。
 そして、シュピースはその犠牲となった。(ただし、シュピースは後に釈放はされている。彼の直接的な死因となった、収容所間の移送中の爆撃において、その拘留理由となったのは、ドイツのオランダ侵攻による「敵国人」であるということだった)
 このことは、同性愛を「何となく」寛容している「暗黙の了解」というものが、社会というシステム自体が変化していく局面においては、いかに脆弱なものであるかということを指し示している。

 では、同様のことが現在起こったならば、いったいどうなるだろう。
 欧米に関しては、同性愛者側からの抵抗がはっきりと出て、簡単に同じ結果にはならないであろうことが、充分想像できる。目に見える差別に晒されてきた欧米の同性愛者たちは、現時点において既に、政治的にも経済的にも、ある程度以上の行動力は持ち合わせているからである。
 しかし、日本ではどうだろう。

 これまで日本では、前述のように表面化したゲイ差別がないためもあり、団結や主張、或いは防衛の必要はなかった。権利を侵害されることはないが、同時に権利を主張することもなかった、あるいはする必要がなかったのだ。
 日本におけるゲイのライフスタイルは、一例を挙げれば、その多くがウィークデイやデイタイムは「普通に生活」しながら、夜や週末や自宅のパソコン・モニター上でのみ「ゲイライフ」を満喫するという、「日常と分離した非日常としてのゲイ」なのである。よって、そういった非日常としてのゲイ・ビジネスは、ある程度以上には盛んであるし、社交を目的にするにせよ、性的な充足を目的にするにせよ、そういった場には事欠かないという、楽しいゲイ・ライフを満喫できる恵まれた状況にある。
 しかし、例えばLGBT向けのTVネットワークであるとか、書店で普通に買えるエロだけではないLGBT雑誌であるとか、あるいは同性婚であるとか、そういったものになると、これらはいずれもゲイ文化、あるいはゲイという主体が、日常レベルでも機能している、あるいは消費の対象となっているがゆえに、初めて機能しうる類のものである。だが、日本では「日常」において、ほとんどのゲイが「姿の見えない存在」である以上、マーケット自体が存在しないのと同様なので、当然のように、前述したような類のものも存在しえない。
 このことは、例えばカミングアウトしていないゲイが、家族や友人、仕事の同僚などの前で、明確に「ゲイ向け」の商品を購入することができるかどうかを考えれば、分かりやすいであろう。現時点での日本のような、日常化していないゲイ・マーケットの消費層にとっては、「ゲイ向け」というそのものズバリではないが、「ゲイ受けのする」とか「実はゲイらしい」といった、ゲイ・コミュニティー内である程度の共通認識がありつつ、しかし「ゲイとは何の関係もない」というエクスキューズも可能な「商品」までが、精一杯なのである。

 こういった現象の是非は別にして、それが結果として、日本のゲイの置かれている現状が、欧米におけるそれとは異なっている状況をもたらしている。それは、政治や経済といった「日常」においては、日本のゲイ・コミュニティーは全く力を持っておらず、また、行動を起こそうともしていないということである。
 過去に何度か、ヘテロセクシュアルのサイドから、政治的に、あるいは経済的に、欧米同様にゲイという潜在人口を期待したアプローチをしたことはあった。しかし、そのいずれもが期待された成果は得られなかった。つまり、他ならぬゲイ自身が、それに賛同することなくオミットしたのだ。このことからは必然的に、多くの日本のゲイ自身が、ゲイがあくまでも「非日常」のままであることを望んでいるのであろうと思わされる。ゲイが日常化することを希望する人口は、却って少数派なのであろう。
 こういった現状を踏まえて、社会的なパラダイム・シフトが起こった場合、日本のゲイがそれに抵抗できる力を持ち合わせているかを考えると、残念ながら個人的には、どうも悲観的な予測しかできない。
 しかも恐ろしいことに、前述した1930年代のオランダ領インドネシアにおける「同性愛者狩り」は、同種の行為で知られるナチス・ドイツによって行われたのではなく、ナチスに対立しつつ、その影に脅かされていたオランダにおいて、社会的不安を背景にして生まれている。ファシズムという、いわば分かりやすい「悪」の所産ではなく、それに対峙する存在であるかのような、本書の表現を借りると「普段は明晰で合理的な考え方を持つオランダ人たち」の手によってなされたのだ。これは、こういった「同性愛者狩り」が、ナチスの優性思想などとは異なる類の、より普遍的な人間社会のありようである可能性を指し示しているようで、ある意味で、絶滅収容所よりもそら恐ろしいものを感じる。

 日本は差別もなく、ゲイにとっては住みやすい国かも知れない。しかし、その安穏さの立脚基盤は、慣習的な曖昧さに基づいているものであるがゆえに、同時にひどく脆弱である。そして、こうした曖昧さは、ゲイにとってのカタストロフが起こった際には、何の力にもなりえないであろう。
 本書でヴァルター・シュピースの晩年について読み、改めて、そんなことについて考えさせられた。

パリ絡み2本

 パリ絡みで、一つ新情報です。
 ゲイ雑誌でもお馴染みの、画家の奥津直道さんからお知らせをいただいたんですが、直道さんが所属していらっしゃるヴァニラ画廊の作家21人を集めた展覧会「現代日本のエロティックアート展」(Japon Erotica – la nouvelle generation)が、パリ市内にあるエロティック・ミュージアム(Musee de L’erotisme)で開催中だそうです。
 直道さんも数点作品を出展なさっているとのことなので、渡仏のご予定がある方は、ぜひ足をお運びになってください。
エロティック・ミュージアムのサイト
展示詳細(ヴァニラ画廊のサイト)
 因みに、期間が2008年4月3日〜10月16日と長期なので、夏休みの旅行とかでも充分間に合いますよ。
 お次に、私の個展絡みの近況。
 個展で販売される『七人の侍』のプリントセットには、制作コンセプト、七曜や陰陽五行の解説、各作品の解題などを記した、解説文書が同梱される予定です。
 で、だいぶ前に、それを苦労して下手な英語で書いて(約2000ワードの文章を書くのに、丸々三日かかった……)、「これを元に仏訳を作ってね」とメールで送っていたんですが、今になってオリヴィエ(ギャラリー・オーナー)が、「このまま英文で使う」とか言ってきたもんだから、もうビックラギョーテン。
 え〜い、あんなブロークンな英語を使われてたまるか、恥ずかしい! とゆーわけで、慌てて普段から懇意にしているアメリカ人のファンの方に、マトモな英語にトリートメントしてくれないかと打診。快く引き受けてくれて、翌日には早くも修正版が届きました。
 で、それをフランスに送って、ようやく一安心。
 因みに、どんなもんかといいますと、例えばこれが私が書いたブロークン・イングリッシュ版からの抜粋。
3) 水 Wednesday (Water)
In Japanese folk tales, there are many fascinating specters. This Kappa who lives in water is most popular one. A lot of Japanese artist loved to draw this little creature. For example, Ogawa Usen (Japanese-style painter), Shimizu Kon (cartoonist) and Mizuki Shigeru (comic artist). And if you like Japanese animations, you may have heard about Hara Keichi’s wonderful film “Summer Days with Coo” what was made in 2007.
Kappa likes to eat cucumbers, and likes to to do Sumo wrestling with a human being. But most interesting thing for me, Kappa likes to push his arm into men’s asshole, to take men’s “Shirikodama”. What is Shirikodama? It is a imaginary organ, and is believed that there is inside a male’s asshole. And the folk tale told that, when a man who is taken his Shirikodama by Kappa, must lose his power and his manliness.
This legend is looks like an allegory of “a man who was anal raped”. And thinking that, this little creature was already enjoying fist fucking, since the age of the fairytale, is very amusing for me.
 で、こっちが彼が修正してくれたバージョン。
3) 水 Wednesday (Water)
In Japanese folk tales, there are many interesting spirits. Kappa, who lives in water, is an especially popular one. Many Japanese artists have depicted this little creature, among them, Ogawa Usen (a Japanese-style painter), Shimizu Kon (a cartoonist) and Mizuki Shigeru (a comic artist). Devotees of Japanese animated cartoons, may have heard about Hara Keichi’s wonderful film “Summer Days with Coo,” made in 2007.
Kappa likes to eat cucumbers, and likes to engage in Sumo wrestling with human beings. But the most interesting thing for me is that Kappa likes to insert his arm into a man’s anus, to steal his shirikodama. What is shirikodama? It is an imaginary organ, believed to be inside a male’s rectum. According to the folk tale, when a man’s shirikodama has been stolen by Kappa, he loses his power and his manliness.
This legend is an obvious symbol for anal rape; but I also delight in thinking that the little creature enjoyed fist-fucking, way back in the age of fairytales!
 流石、ラストの一文なんか、とても自然な感じになっている……って、当たり前だけど(笑)。
 更にこの彼、友人の学者さんに頼んで、仏語訳も頼んでみてくれるとのこと。個展に間に合うかどうかは微妙ですが、いやありがたいことです。
 先日の記事では、ギャラリーのサイトがまだ更新されていなかったので、キャラリーオーナーのMySpaceの方にリンクを貼りましたが、遅ればせながら、本家にもようやく情報が掲載されました。とゆーわけで、リンクも改めて張り直し。
ArtMenParis Gallery
 こちらは5月5日から6月26日まで。この期間中にパリに行かれる方は、ぜひ直道さんと私と二つハシゴしてご覧くださいませ。