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「非実在青少年」規制問題に関する余談

 都条例「非実在青少年」規制問題については、議決が先送りになるのではないかという観測が流れておりますが、まだまだ予断は許さぬ状況のようです。<参考>
 今回のエントリーでは、実際の「非実在青少年」規制問題からは少し離れますが、なにゆえこうした「実在(つまり現実)」の問題が「非実在(つまりフィクション)」に及ぶのか、その構造そのものについて、19世紀ヴィクトリア朝イギリスでの「ヌード論争」を手本に、いま起きている問題とも絡めながら、ちょっと私見を綴ってみたいと思います。

 まず、下の二つの絵をご覧あれ。
LeightonMoor
 前回のエントリーで述べたように、19世紀ヴィクトリア朝イギリスでの「ヌード論争」において、左のフレデリック・レイトンの描いたヴィーナスは「芸術」と称賛され、右のアルバート・ムーアは「猥褻」と非難を受けた。これは、当時の「モラル」に基づく判断だったわけだが、では、具体的にはどういうことなのか。
 前項では、「モラルというものの曖昧さ」を強調するために、具体的な理由には触れなかったが、実はその「理由」の中に、今回自分が考えてみたい、「現実がフィクションに干渉する」、その一例を見ることが出来るのだ。

 以下、私が参照した雑誌『芸術新潮』2003年6月号「ヴィクトリア朝の闘うヌード/筒口直弘」から、該当部分を引用させていただこう。

 この2人のヴィーナスが、それぞれどういう場にいるかを、よく見比べてください。レイトンの絵の背景に顔を出す青い海は、おそらく地中海。ドーリス式の柱も立っているし、画面の左下にはヴィーナスのアトリビュート(引用者注・このモチーフはこのキャラクターを表す、という約束ごと)である薔薇の花と鳩が描かれています。
 一方のムーアの絵は、そこがどこかも判然としない室内風景ですよね。画面の下に描かれている染付の壷なんて、明らかに1869年当時(引用者注・この絵が描かれた年代)の日本趣味を反映している。
 つまり、こういうことなんです。レイトンのヌードは、その場面設定からして、古代ギリシャ世界のヴィーナス像以外のなにものでもない。一方、ムーアのヌードはといえば、画家のアトリエのような室内でヌード・モデルを描いたとしか見えない作品でした。レイトンがヴィーナス像の伝統というものをきちんと踏まえているとすれば、ムーアのヴィーナスは、A Venusという題名のとおり「ヴィーナスのようなもの」、つまりヴィーナスそのものではなくて、単なる現実のモデルをヴィーナス風に描いたヌードにすぎなかった。
 先ほど紹介したムーアの作品への2つの評が変に回りくどい言い方で貶していたのは、この事実を口に出すのがはばかられて、ぐっと呑みこんだ結果だったんですね。だからムーアの絵を見た評者も、本当は「道徳的にやましいところ」を感じていたわけですよ。
(引用者注・ムーアの絵は「あまりにも醜くおぞましいために、その趣味に反対する以外、他に反対しようという気にもならない」「このようなヌード作品には反対しようがない。というのも、まったくもって不愉快きわなりないからだ」といった具合に、具体的に「どこがどう」という指摘ではなく、ヘンに奥歯に物が挟まったような表現で批判されている)

 お判りだろうか。
 つまり、ムーアのヴィーナスを非難した評者は、それを見て「いやらしい」と感じたのだ。何故かというと、それが引用部分からもお判りのように、「フィクションのお約束ごとを踏まえていない、現実の状況を連想させるヌード」だったからである。
 ムーアの絵がモラル的に非難された理由は、それは、非難した人間自身の、アモラルな感情の反映でしかないのである。
 これが、性表現において、現実がフィクションに干渉してきた一例である。

 では、ここでその「モラルとアモラル」について、もう少し考えてみる。
 現在、この二つのヴィーナス図を見た際、どっちが「性的」だろうか。
 残念ながら私はゲイなので、女性のヌードを自分の中にある性的なものと結びつけて見ることができない。よって、古代ギリシャで女神が素っ裸になっていようと、密室で一般女性が素っ裸になっていようと、どっちも「どーでもいい」ことでしかないが、まあ、肉体表現のリアルさや肌やポーズの艶めかしさなんかから、たぶんレイトンのほうがセクシーなんじゃないかな、とは思う。セクシーであるためのお約束ごとを、ちゃんと踏まえているように見られるのでね。
 あと、状況を考えあわせても、「画家のアトリエというセッティングで、絵のためにポーズをとっている、ほとんど無表情な女性」よりも、「外から丸見えな状況で服を脱ぎ、しかも見られていることを一切意識していない女性」の方が、よりシチュエーション的にもエロいんじゃないかな、とも思う。まぁ、マッチョ好きとしては、ムーアの描くヴィーナスのバキバキの腹筋も、ちょいと捨てがたいものがあるけど(笑)。
 という具合に、絵というフィクションが非難される基準となった「モラル」は、時代によっても個人によっても、かくも曖昧で千差万別であるし、フィクションを現実と重ね合わせる行為の責任は、フィクション自体ではなく、重ね合わせた鑑賞者自身が負うべきものなのだ。

 それと同時に、ここからはもう一つ、現代日本の状況との近似点が見えてくる。
 ムーアのヴィーナスに対する、「おぞまし」くて「不愉快」なので、それを「酷評」するという反応。これは、ポルノグラフィー等に対する性表現への既成について語られる際の、「それを見ることで苦痛を感じる被害者がいる」ので「規制すべき」という論調と、どこか似てはいないだろうか?
 私は、「先人に学び、その過ちは繰り返したくない」という考えの持ち主なので、自分で「道徳的にやましい」ことを感じてしまったからといって、そんな自分を正当化するために「絵」を攻撃した、ムーアのヴィーナスを酷評した人々と、同じようにはなりたくない。
 同時にそこから、「社会一般の健全な考え方を代表して語っているつもり」な言動が、いかにうさんくさいものであるのか、まず疑え、という教訓も得る。
 こういったことが、歴史を学ぶ、歴史から学ぶということの、真髄だと思うのだが。
 だいいち、自分がエッチな気分になったからって、その責任を相手に問うという考え方は、まるで、痴漢や強姦の被害者に対して、「誘うような恰好をしているお前が悪い」と言うのと、似たようなものではないか。
 猥褻な絵の問題と、現実の人間の問題を、一緒にするなって?
 何をおっしゃる、最初にフィクションと現実を同列に論じ始めたのは、「非実在青少年」の方でしょうが。

 ただし、前述したような「見ることで苦痛を感じる」ということについて、それを全面的に否定するつもりもない。ヴィクトリア朝のアカデミー展なら、会場に行かなければそれを見なくて済むが、それをそのまま現代日本に置き換えるのは乱暴すぎるだろう。
 よって、繰り返しになるが、ゾーニングという考え方自体には「賛成」と言っても良いが、ゾーニングだけを欧米に倣い、性表現自体に関しては、現状の「猥褻」という曖昧至極な基準によって、表現の自由が侵害され続けるのなら、やはりそれは納得がいかない。
 ホント、どうして性表現の規制に関して、「欧米では」とか「先進諸国では」とか言いたがる人は、それと同時に「先進諸国に倣ってポルノも解禁すべき」と言わないのだろう? 乱暴な口調になるが、「自分の都合のいいことばっか言ってね〜で、自分の言ってることの変さも少しはテメェで考えろ、このノータリン!」って感じでゴザイマスわ、オホホ。

 さて、現実がフィクションに干渉した例として、もう一枚、絵を見ていただきたい。
Poynter
 これもまた、ヴィクトリア朝イギリスの「ヌード論争」で非難の的となった、エドワード・ジョン・ポインターの「ディアデーマを結ぶ少女」という絵である。
 では、この絵の何が「モラル的」に非難の対象となったのか? それを理解するには、この「ヌード論争」の具体的な流れを知る必要がある。
「ヌード論争」のきっかけとなったのは、「ヌード絵画はふしだらで、英国の品位を貶め、人々のモラルを侮辱している」といった内容の、「英国の良識ある既婚婦人」と名乗る、匿名による新聞投書だった。その結果、同紙にはヌードの是非を巡る、賛否両論の投書が殺到した。
 やがてこの論争は、画壇へも波及していったが、最初は大した騒ぎではなかったという。それが一気に激化したのは、アカデミー展開催中に新聞に掲載された、一本の記事のせいだった。

 以下、再び該当部分を引用してみたい。

 ところがアカデミー展開催中の7月、W・T・ステッドというジャーナリストが「現代バビロンの処女の貢ぎ」と題した記事を「ペルメル・ガゼット」紙に掲載し、ロンドンの少女売春の実態を赤裸々に暴くんです。この記事が伝えた現実のあまりのおぞましさに英国中がパニックに陥ったほど。
 そんな状況において、ポインター描く無防備な少女ヌードは、画家の意図に反して、あたかも少女売春をそそのかしているかのように受けとられたのでした。
(改行は引用者による)

 私が何故この絵を例として挙げたか、お判りいただけただろうか?
 この絵を巡る評価に関しては、前述の二つのヴィーナス図同様に、現実の問題がフィクションの世界に干渉しただけでなく、フィクションの意味すらも歪めてしまったのだ。
 もっとも私個人の主観で言えば、別に少女売春そのものを絵画作品で描いても、そのこと自体に全く問題はないと思っている。前項でも述べたように、私は、現実とフィクションは完全に分けて考えるべきだと思っているし、現実世界を大事に思うのと同様に、フィクションの自立性も尊重すべきだと思っているので。

 まあ、この問題はちょっと脇に置くとして、再度この絵を見てみたい。
 果たしてこれが、「少女売春をそそのかしている」ように見えるだろうか。もし、何の予備知識もなくこの絵を見て、それでも少女売春を連想する人がいたとしたら、それはそもそもその人が、普段から少女売春に並々ならぬ興味を持っていて、その興味を絵に投影しているのではないだろうか、と、私などは思ってしまうのだが。
 しかし残念ながら、この絵が発表されたタイミングが、この絵に対するニュートラルな「理解」を阻んだ。現実の抱えていた問題、それもどうやらセンセーショナルに報じられてヒステリックな反応を生んだらしき問題が、この絵の意味を歪めてしまった。
 その結果、ポインターは後に、裸体の上に衣を描き加えてしまった。つまり、1985年のアカデミー展に出品された、大作ヌード画としての「ディアデーマを結ぶ少女」のオリジナルは、既にこの世に存在しない。上の図版は、その前年に制作された同名の小さな作品、つまり習作のようなものでしかない。
 しかし現在では、この喪われなかった小品は、ロイヤル・アルバート美術館に展示されている(らしい)し、今回このエントリーを書くにあたって、ネットで画像を検索したところ、良くある「ステキなインテリア・アート」として、この絵の複製を販売しているサイトも見つかった。
 そこには既に、少女売春をそそのかすというような「アモラル」な影は、全く見られない。
 このように、「モラル」や「現実の抱える問題」を、絵という「虚構」に投影してその存在の是非を語るのは、およそ愚かしくも当てにならない行為なのだ。
 なお、このような現実をもってフィクションに干渉したがる人全般について、松沢呉一氏のこのツイートが、私にとって実に納得のいく内容だったので、宜しかったらぜひご一読いただきたい。

 以上、「ヌード論争」で非難を受けた絵の実例を紹介してみたが、「ヌード反対派」の残した作品についても、少し触れておこう。
 下の絵をご覧あれ。
Horsley
 前項で私が、ヌード反対派の筆頭として名前を挙げた、ジョン・キャルコット・ホーズリーの「聖ヴァレンタインの日」という絵だ。
 寡聞にして私は、今回のエントリーを書くまで、ホーズリーという画家がどんな作品を描いたのか、全く知らなかった。検索したところによると、世界最初のクリスマス・カードの絵を描いた画家として知られているそうだ。
 というわけで、上の作品が彼の代表作と言えるようなものなのかどうか、正直言って自分には判らない。とりあえず、英語版Wikipediaの彼のページに載っていた絵なので、そうそう間違ったチョイスではないとは思うのだが。
 ホーズリーは、ロイヤル・アカデミーの会計局長という、アカデミー内では会長に次ぐ第二の地位にいたので、その言動にも、やはりどこか「検閲・弾圧」めいた気配があったのかもしれない。
 しかし、それと同時に彼は、あくまでもアカデミーに所属する画家、つまり「表現の送り手」という当事者でもあった。そして、それに反論したジェームズ・マクニール・ホイッスラーもフレデリック・ウォッツも、やはり同じく画家である。

 お判りだろうか。
 こうして、ヴィクトリア朝イギリスでの「ヌード論争」と、今回の「非実在青少年問題」を比較していると、クィアな私としては、ついつい「う〜ん、じゃあホーズリーが『チンコで障子を破る』の人で、『英国の良識ある既婚婦人』が『ひなげしの花』の人かしらん」なんて軽口を叩きたくなってしまうのだが、この二つには決定的な違いがあるのだ。
 ヴィクトリア朝イギリスの「ヌード論争」に関して、その「愚かさ」について重点的に語ってはきたが、それでもこの論争は、あくまでも「当事者(画家)および民間人(マスコミ)による議論」なのだ。対して、今回の「非実在青少年問題」は、「非当事者(行政)による一方的な決定を巡る問題」である。
 この二つの差は、実に大きい。どのくらい違うかは、仮にも民主主義国家に生活している人物ならば、それこそ「実在青少年」(非実在じゃないよ)でも判るのでは。
 ゆえに私は前項で、「同程度どころか退行している」と述べたのである。

 最後に、ちょっと意地悪なデータを載せておこう。
 少女売春をそそのかしていると非難を受けた画家、Edward John Poynterの、Google Imageでの検索結果/約50,800件。
 ヌード絵画を「モラル」によって徹底攻撃した画家、John Callcott Horsleyの、Google Imageでの検索結果/約 753件。
(続く……かも知れません)

都条例「非実在青少年」規制問題に関する私見

 なぜ私が、この事態を憂慮しているかということについても、ちょっと意見を述べておきたいと思います。

 まず、そもそも今回の「非実在青少年」のように、「実在しない」のに「人権がある」ような考え方自体が理解できない。
 百歩譲って、フィクション上の「非実在青少年」なるものについて、積極的に考えようとしても、文章がOKで絵がNGだというのも判らない。文章よりも絵の方が、より即物的で犯罪的な存在だとでもいうのだろうか。

 次に、作家としての自分の「表現の自由」を守りたい、ということは、言うまでもない。
 そもそも私は「フィクションにタブーなし」という考え方であるし、本家サイト開設以来、トップページにずっとバナーを揚げてきたように、「フィクションと現実は明確に区別せよ」という信念を持っている。
 性表現・性文化のゾーニングに関しては、「賛成」するのにやぶさかではないけれど、ただし、よく引き合いに出されるように、「欧米では……」といったグローバル・スタンダード的なレトリックを用いるのなら、ゾーニングを徹底すると同時に、ポルノグラフィーを解禁せよ、と言いたい。
 この問題以前から、私の「表現の自由」は、「性器の修正」という形で、既に侵害されている。

 性と表現の関わりについては、まず、美術史上から先例を幾つか引いてみたい。性と表現に関してもの申すなら、もうちょっと歴史から学べることがあるだろう、と思うからだ。

 まず、有名な話から、16世紀イタリアの話。
 画家ダニエレ・ダ・ヴォルテッラは、ミケランジェロの「最後の審判」に描かれた、裸体画の股間を隠すために、布や葉などを加筆した。このことから、気の毒に彼は、後世まで「ふんどし画家」と嘲られてしまった。
 次に19世紀、明治期の日本。
 画家黒田清輝の「朝妝」が「裸体画論争」を引き起こし、ときに裸体画は下半身を布で覆われた状態で展示されたりした。
 そして、同じく19世紀、ヴィクトリア朝のイギリス。
 ロイヤル・アカデミーの会計会長ジョン・キャルコット・ホーズリーは、「ふしだらなヌード画」に対する徹底的な攻撃によって「着衣のホーズリー」とあだ名され、雑誌『パンチ』上で茶化され、画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラーは自作のヌード画に、「邪(よこしま)なるものこそホーズリーなれ」というメモを貼って出品した。
 この「ヌード論議」で、ヌード反対派を後押ししたのは、当時活発化した「社会浄化運動」だった。
 そして、当時の価値基準では、同じヌード画でも、アルバート・ムーアの「ヴィーナス」は猥褻で、フレデリック・レイトンの「衣を脱ぐヴィーナス」は芸術だった。これは、当時の「モラル」に準拠した判断なのだが、どうしてか、その理由がお判りだろうか?
 その答えは、ここでは書かないことにする。何故なら、ここでは「どうして?」と思うこと自体に意味があるからだ。

 このように、いずれも現代の感覚からすると、理解できなかったり、滑稽に感じられる「美術史上の事件」だが、実のところ、現在の日本の状況を鑑みると、あながちこれらを滑稽だと笑うことはできないのだ。
 なぜなら、こういった滑稽な事態を生み出したのは、今回と全く同じ、「健全か、不健全か」という価値基準であり、「健全はよし、不健全はダメ」という考え方なのだから。
 21世紀の日本社会は、裸体表現に対する禁忌という意味で、「ふんどし画家」や、明治時代の「裸体画論争」と似たようなものだし、モラル的な断罪といった点では、ヴィクトリア朝イギリスの「ヌード論争」と同じであり、しかも今回の「非実在青少年」によって、それが更に退行しようとしている。
 特に、後者の「健全・不健全」といったような、モラル的な断罪方法については、かつて同性愛差別が、同じモラルの名のもとに正当化され行われてきた歴史を踏まえても、私は断じてそれに同意することはできない。

 しかも今回は、それが政治という「社会の中核を成す部分」で起きている変化であるが故に、その行く先に対する懸念が、私の中では通常以上に大きくなっている。
 前述したように、こういった性を思想的に扱いつつ、それを「健全・不健全」と二項対立で判断するような考え方が、性を「マトモ」と「ヘンタイ」に分け、「同性愛」は「ヘンタイ」とされてた。そして、この性を「良し悪し」で判断するための基準とされてきたのが、学術やモラルであったのだが、いずれも社会や時代の違いに応じて、いかようにも変化してきた。
 つまり、これらは実に曖昧に揺らぎうるもので、決して普遍的な絶対律ではない。
 これは、今回の都条例の持つ「曖昧さ」、つまり、判断基準が恣意的に、いかようにも変化しうるという問題点と、相通じるもののように思われる。どちらも、「今日はOKだったものが、明日はNGになりうる」のだ。
 政治という社会の中核部で、仮にも条例という「法」が、そういった「曖昧さ」を孕んだまま、しかも「わざと議論の余裕を持たさずにスピード採決に持ち込もうとするかのような動き」(竹熊健太郎)、つまり、誰も知らないところで決定してしまい、それを既成事実にしようとするという考え方には、私は心の底から恐怖する。
 更に、山田五郎氏のラジオで聞かれるように、テレビという最も大きな影響力を持つメディアは、このことを議論はおろか、きちんと触れようとする気配すら見せない、という事実も恐ろしい。

 こういった動きを社会全体が受容する、つまり、例え「おかしい」という声が上がっても、それについて議論されることもなく、そのまままかり通ってしまう世界であるのなら、私はそこに、以前ここでヴァルター・シュピースについて書いたときに触れた、1930年代のオランダ領インドネシアで、それまで何十年も「暗黙の了解」という「曖昧さ」によって守られてきた同地の同性愛者が、社会が保守化していくパラダイム・シフトの中で、否応なく「狩り」の対象へと変化していった、という事例を、重ねずにはいられない。
 このことが、現代の日本とどのように通じるものがあるかは、上記のエントリーで既に書いているので、ここでは繰り返しさないが、それに関してテレビが「沈黙」していることが、これまた以前ここでマンガ「MW」の映画化に際して意見を書いたときと同様の、性に対する旧弊で無知な現状を思い出させる。
 だから、「非実在青少年」という言葉は、いかにも滑稽なものではあるけれど、それを生み出した「思想」と、それを育ててしまう「状況」には、私は底知れぬ恐怖を感じてしまう。
 いささか大げさに感じられるかも知れないが、それが私の正直な感想だ。

(ヴィクトリア朝絵画におけるヌードに関しては、雑誌『芸術新潮』2003年6月号「ヴィクトリア朝の闘うヌード/筒口直弘」を参照)

都条例「非実在青少年」規制問題に関する覚え書き

 この問題に関して、私個人のスタンスは「断固反対」であり、自分に出来うる行動も既に済ませました。
 ただ、現在この問題が進行中であり、残された時間が少ないことを、まだご存じでない方がいらして、そして結果が出た後、悪い方向へと進んでしまってから、初めて「知らなかったから、何もできなかった」と後悔なさることがないよう、及ばずながら情報の流布の一助になれば良いと思い、当エントリーを書くことにしました。
 まず、この問題に関して「初耳だ」という方に向けて、どういう問題がどのような状況下で進行しているのかが、判りやすくまとまっているウェブページに、以下に目的別に分けて、幾つかリンクを貼っておきます。
[最初に全体像をざっと把握したい]
都条例「非実在青少年」規制問題について
〜編集家・竹熊健太郎氏ブログ「たけくまメモ」、および明治大学国際日本学科准教授・藤本由香里氏のmixi日記より
[条例が可決した場合、何かが起こりうるのか、そのシミュレーションを知りたい]
「非実在青少年」はこのように規制される(だろう)
 〜漫棚通信ブログ版より
[現在進行中の、より詳細で具体的な情報が欲しい]
東京都青少年健全育成条例改正問題のまとめサイト
[反対したい場合、自分に何が出来るか、どうすればいいのかを知りたい]
「非実在青少年」規制問題・対策まとめ
[文化人や著名人の反応を知りたい]
(煩雑になるので、上記のリンク先にあるもの以外で、私が特に興味深く思ったものをピックアップしました)
緊急提言!都の「青少年育成条例」改正案にモノ申す!
 〜評論家・山田五郎氏によるラジオ音声。条例の持つ根本的な「おかしさ」について、判りやすく楽しく解説してくれています。オススメ。
残り100時間で出来ること、他
 〜マンガ家・野上武志氏による現場からの提言
 なお、マンガ家や作家として活動していらっしゃる方で、尚出して反対意見表明・反対署名をしたい場合。
 大手や中堅の出版社では、それぞれの編集部単位で各作家さんの意見を求め、最終的に取りまとめが行われる模様ですが、残念ながら、私の周囲のゲイ雑誌やBL雑誌などでは、そういった動きは見られません。
 ただ、太田出版さんが、現在「東京都『青少年育成条例改正案』への反対署名」を募っておられるので、そちらを通じて反対署名が可能です。
東京都「青少年育成条例改正案」への反対署名について
 〜太田出版ホームページ。Eメールによる署名、本日16時まで。
 もう一つ、Twitterのアカウントをお持ちの方は、小学館IKKI編集長氏が、「東京都青少年育成条例の改正案/疑義・反対 作家リストへの掲載」を、ツイートで受け付けておられましたが、既に本日10時までというタイムリミットを過ぎてしまいました。参考までに、該当ツイートへのリンクのみ貼っておきます。
日本書籍出版協会のほうで、「東京都青少年育成条例の改正案/疑義・反対 作家リスト」の作成を始めました
 長くなったので、ここは告知だけにして、この問題に関する私見に関しては、項目を分けます。

旅行のオマケ

Sydney_mask&gag
 シドニーの犯罪博物館に展示されていた、囚人用のマスクとギャッグ(猿轡)。ギャッグの内側に、口の中に入れる棒状のモノが突き出しているあたりに萌えます。

Sydney_whip
 同博物館の展示品、実際に使われていたムチ2種。右のヤツは、フロッギングでお馴染みのヤツですね。シンプルな構造なので、東急ハンズで材料買って手作り出来そう。

Sydney_shackle
 やはり同館の展示品、実際に使われていた足枷。いわゆる「シャックル」ってヤツですな。ズボンや靴の上からならともかく、素足にこれを嵌められたら、くるぶしがエラいことになりそうです。

Bangkok_mural
 バンコクのワット・プラ・ケオの壁画。「ラーマキエン(タイ版ラーマーヤナ)」を描いたもの。下の方に、腰布をはぎ取られかけている男がいます。この後、猿に犯されてくれると嬉しいんだけど、もちろんそんな絵はゴザイマセン(笑)。

明日からシドニー行きです

banner-mardigras2010b
 毎年シドニーで開催される、世界最大のゲイ・フェスティバル、マルディグラの期間中に、日本のゲイ・エロティック・アートの企画展が、2月25日〜3月7日まで、シドニー市内のギャラリーで開かれます。
 その、オープニング・レセプションの出席と、マルディグラ見物を兼ねて、明日からしばらくオーストラリアへ行ってきます。
 まあ、今回は自分の個展ではなくグループ展なので、去年のパリ個展のようなマメなレポートはしないと思います。気が向いたらメール更新するかな、くらいなので、そこいらへんは、あまり期待せずにお待ちください(笑)。
 展覧会の詳細に関しては、上のバナーにリンクを貼ってあるので、興味のある方はどうぞ。クリックで別サイトに飛べます。
 さて今回は、航空券をタイ航空でとった(つまりバンコク経由便)ので、帰りがけ、ちょっとバンコクに寄り道する予定。とはいっても、スケジュール的にあまり長期の休みがとれないので、二日だけですけど。
 バンコクに行くのは、もう20年ぶりくらいなので、さぞかし様変わりしているんだろうなぁ。スワンナプーム新空港も地下鉄も高架鉄道も、み〜んな初体験だし。いちおう、昔よく利用していた安宿街のあるエリアのホテルをとったけど、どのくらい変化しているのか、楽しみなような不安なような(笑)。

すみや渋谷店、今月いっぱいで閉店

 映画サントラ専門店の老舗で、実店舗閉店後も楽天市場やYahoo!でネット店舗を展開していた、すみや渋谷店が、今月いっぱいで閉店するそうです。
 今までもこのブログで、アマゾンやHMVでは取り扱いのなかった、珍しいサントラ盤を紹介する際に、何度かリンクを貼らせてもらっていただけに、この閉店は残念な限り。
 すみやさんと言えば、私は個人的に、けっこう長い思い入れがありまして。
 というのも、まず、私の実家は鎌倉なんですが、現在はもうなくなってしまいましたが、昔、小町通りの入り口のところに、このすみやさんの支店がありまして、私にとっては、レコードを買うと言えば、まずこのすみやさんだったんですな。
 だから当然、生まれて初めて自分の小遣いで買ったレコードも、すみや鎌倉店で買ったもの。因みに、初めて買ったシングル盤は、「セクシー・バス・ストップ」(オリエンタル・エクスプレス版のほう)、LPは、カーペンターズの「ふたりの誓い〜カーペンターズ第三集」だったような。
 自分の小遣いで買った以外のクラシックのレコードも(ウチはクラシックだったら、親に頼めば買って貰えたんです)、ジャン・マルティノン&パリ管の「ダフニスとクロエー」とか、エルネスト・アンセルメ&スイス・ロマンドのストラヴィンスキー各種とか、ゲオルグ・ショルティ&ウィーン・フィルの「ニーベルングの指輪」(もちろん抜粋版ですよ)とか、お気に入りだったヤツは、ほとんどここで買って貰ったもの。
 それと、このすみや鎌倉店では、何に数回、輸入盤のセールをしてくれたんですな。
 普段は輸入盤は置かれていなかったんですが、このセールのときには、店の奥のスペースにダンボール箱が幾つも並べられて、そこでカットアウト盤なんかが安価に売られていた。
 私が輸入盤を買い出した頃は、既に興味がプログレに移っていたもので、私がアナログ盤で持っているのは、イエスにしろピンク・フロイドにしろキング・クリムゾンにしろEL&Pにしろ、たいがいはそのとき買ったカットアウト盤だったりする(笑)。
 やがて、興味がプログレからテクノ、ニューウェーブ、現代音楽などに移った頃は、私も大学に入っていたので、レコードの購入はもっぱら、自宅から大学のある八王子(正確には、私の場合は橋本ですが)への通学途中、横浜で下車して相鉄ジョイナス内の新星堂とかを利用するようになりましたが、それでも、まだ高校在学時代に買ったYMOのファーストとセカンドなんかは、やっぱりこのすみや鎌倉店で買ったもの。
 で、すみや渋谷店の方はというと、これはサントラ盤の専門店として、高校ぐらいの頃から、たまに利用していました。
 私、実は高校はあまりマジメに通っていなくて(笑)、朝、学校へ行って出席をとった後、そのまま学校を出て、駅のトイレで私服に着替えて、そのまま電車で東京方面へ行き、名画座のハシゴなんかして映画を3〜4本見たあと、鎌倉に帰っても高校には戻らず、そのまま美大予備校の方に直行……なんてことを、ちょくちょくやっておりまして。
 で、そんなついでに、すみや渋谷店に寄ることもできたので、確か国内盤が出ていなかった「ダーク・クリスタル」や「狼の血族」のサントラなんかは、そのとき買ったように記憶しています。
 まあ、サントラ盤に関しては、私は基本的に、見たことのある映画のものしか買わないので、売り上げという点では、すみや渋谷店さんにはあまり貢献できていなかったとは思います。
 それでも、本にしろCDにしろ購入はもっぱらネットで、というライフスタイルになってからも、マイナーどころのサントラ盤を購入するには、そこそこ利用させていただいていましたし、すみや渋谷店さんのメルマガのおかげで、限定盤を無事に購入することができたなんてことも、少なからずありました。
 そんなこんなで、今回の閉店のお知らせは、個人的に実に残念なんですが、それでも、在庫があるものと2月中に入荷するものに関しては、まだ販売・発送を受け付けておられますし、在庫のクリアランスセールも開催中とのことなので、サントラ好きの皆様、この機会にぜひどうぞ。
すみや渋谷店(楽天市場)

膿盆とか

noubon1
 相棒と熊と一緒に町に出たら、とある店頭で、歯医者さんとかで「ぺっ!」てするときに使う、豆みたいな形のステンレス皿を発見。
「あ〜、いいな、これ、欲しいかも」なんて言ってたら、相棒が「じゃ、誕生日プレゼントに買ってあげよう」と。
 安価なものなんですが、べつに欲しくもない高額なものを貰うより、値段に関係なく、その時に欲しいものが貰える方が嬉しいので、喜んで買って貰いました(笑)。

 で、その店頭で初めて知ったんですが、この皿って、正式名称が「膿盆(のうぼん)」っていうんですな。
 最初「うみぼん」かと思って、ちょっと「うげ」ってなった(笑)。
 どうして、この膿盆を欲しかったかというと、ペン皿に良さそうだな、と思って。
noubon2
 どう? ちょっとカッコ良くない?(笑)

たんぜうび

 今日は私の誕生日。
 これでめでたく46歳。う〜ん、ついに40代も半分過ぎたか。
 人生の諸先輩方のお話しは、正しかった。40代、めちゃくちゃ早いです(笑)。
 誕生日のアレコレは、今度の休みに熊がケーキを買ってきてくれると言っていたので、それまでお預け。「誕生日プレゼント、何がいい?」と聞いてくれたあと、「あ、iPad以外でね」と釘を刺されてしまった、くそっ(笑)。
 というわけで、今日はいつもと変わらずお仕事中。
dr_kayano
 上のキャラが、今描いているマンガの主人公。
 ゴツめのメガネキャラを描いてみたかったのだ。

軍人ヌード

 メールヌード、大好きです。
 軍人とかも、フェチアイテムです。
 とゆーわけで、現役軍人の集団ヌードとかいったら、もうヨダレじゅるじゅるのはずなんですが……。
 これはちょっと……(笑)。

DVDのスリム化とか

 前にCDをソフトケースに入れ替えてスリム化する話を書きましたが、今回はそのDVD版。
 DVD用のソフトケースも何種類か市販されていますが、幾つか試した結果、私が現在使用しているのは、これ。

コクヨS&T CD/DVD用ソフトケース MEDIA PASS トールサイズ 1枚収容 20枚 黒 EDC-DME1-20D コクヨS&T CD/DVD用ソフトケース MEDIA PASS トールサイズ 1枚収容 20枚 黒 EDC-DME1-20D
価格:¥ 1,628(税込)
発売日:2008-09-01

 これに入れ替えると、どんな感じになるのかというと、例えばDVDが5枚あると、ケースの厚みがこれだけ減ります。
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 入れ替え方法は、ごく簡単。
 DVDからジャケットとディスクを取り出して、ペッタンコのソフトケースに入れ替えるだけ。以前は、ジャケットがちょっと入れにくかったんですけど、それも改良されて、現在販売されているバージョンでは、慣れればものの数十秒で移し替えられます。ケースの分解の手間がない分、CDより楽。
dvdsoft_single
 ディスクは、ケースに一体化した不織布のポケットに。
 左側は、チャプターシートなどを入れるポケット。
 ブックレットでも、極端に厚いものでもなければ、問題なく収納可能。写真のDVDは違いますけど、紀伊國屋書店のクリティカル・エディションの解説書が入るくらいだから、殆どのDVDだったらOKでしょう(笑)。
 二枚組用もあります。

コクヨS&T CD/DVD用ソフトケース MEDIA PASS トールサイズ 2枚収容 10枚 黒 EDC-DME2-10D コクヨS&T CD/DVD用ソフトケース MEDIA PASS トールサイズ 2枚収容 10枚 黒 EDC-DME2-10D
価格:¥ 1,344(税込)
発売日:2008-09-01

 構造は、こんな感じで、ディスク用ポケットがもう一つ増えます。
dvdsoft_double
 私の場合、現在はDVDのソフトケースは、このコクヨ MEDIA PASSシリーズに一本化しているので、買うときはお得な50枚パックにしています。

コクヨS&T CD/DVD用ソフトケース MEDIA PASS トールサイズ 1枚収容 50枚 黒 EDC-DME1-50D コクヨS&T CD/DVD用ソフトケース MEDIA PASS トールサイズ 1枚収容 50枚 黒 EDC-DME1-50D
価格:¥ 3,675(税込)
発売日:2008-09-01

 一枚当たりの単価が割安になるのはもちろん、CDのときと同様に空の外箱が、こんな感じに、収納ケースとしても使えるんですな。
dvdsoft_box
 これ、便利だから別売して欲しい(笑)。
 ケースがペラペラになると、嵩は減るんですが横積みにしておくわけにもいかないので、私はテキトーな空き箱とかに、まとめて立てて収納するようにしています。
 現在、よく使っているのが、この、100円ショップで売っている、カラーボックス用のDVD収納ケース。
dvdsoft_100case
 蓋が、申し訳程度のペラペラなものなのは残念だけど、高さがピッタリなのが好都合。

 さて、このMEDIA PASSには、ファイリング型もあります。

コクヨS&T CD/DVD用ファイル MEDIA PASS トールサイズ 黒 EDF-DME10D コクヨS&T CD/DVD用ファイル MEDIA PASS トールサイズ 黒 EDF-DME10D
価格:¥ 1,155(税込)
発売日:2008-09-01

 同様のソフトケースに耳がついたものを、リングバインダー式でファイリングしていく構造。
 商品写真だと判りませんが、書籍の外箱みたいな透明なケースも付いているので、ホコリよけは万全。ただ、リング部分があるせいで、ケースの奥行きは、DVDのトールケースよりもかなり増えてしまいます。
 いちおう10枚まで収納可能ということで、ファイルには始めから5枚のケースが付属しており、あとは別売のリフィルで買い足していくという形になるんですが、私が重宝しているのは、このファイル式にはCD用もあって、DVD用とCD用では、リングの穴の位置が一緒だということ。

コクヨS&T CD/DVD用ファイル MEDIA PASS リフィル 1枚収容 EDF-CMP1-5 コクヨS&T CD/DVD用ファイル MEDIA PASS リフィル 1枚収容 EDF-CMP1-5
価格:¥ 473(税込)
発売日:2008-09-01

 これがどう重宝かというと、昔買ったジュエルケースのDVDと、現在のトールケースのDVDを、同じファイルで収納できるんですな。
 こんな感じ。
dvdsoft_filedvdsoft_file2
 というわけで、こういった、ある程度まとまったシリーズもので、購入のタイミングによってケースの大きさがバラバラになっちゃっていたヤツを、まとめて一つのファイルで管理できるので、これはかなり有り難い。
 ファイル式だと、こんなのもあります。

ELECOM DVDファイル CCD-DVDF12BK ELECOM DVDファイル CCD-DVDF12BK
価格:¥ 780(税込)
発売日:2005-10-12

 私も使ったことがあり、これもなかなか佳良なんですが、ページ(ソフトケース)がファイル形式ではなく固定式なので、後から順番を入れ替えたりとか、他のファイルに移動したいとかいったときには、ちょいと融通がきかないのが難点でした。