『アレキサンダー』

『アレキサンダー』(2004)オリバー・ストーン
“Alexander” (2004) Oliver Stone
 正直なところ出だしからしばらくは、見ていてかなりイライラさせられた。
 いきなり世界の七不思議の一つアレクサンドリアの大灯台が出たときには、思わず嬉しくなっちゃったものの、その後は、まるでドラマへのスムーズな導入をあえて拒むかのように、説明的なモノローグが延々と続く。そして、壮麗さもなければ原初的な荒々しさもない、美的にはほとんど魅力が感じられないマケドニアの衣装やセット。グラグラとドキュメンタリー調に揺れ、人物ばかりを追って世界を捉えないカメラ。ひたすら下卑たいがみあいを続ける、人物的にはおよそ魅力的ではない王や王妃、親族たち。幼年期の主人公のエピソードのとりとめのなさ。成長した主人公の、まるで何か悪い冗談のようなコスチュームの似合わなさ。
 それでもやっと、母からの自立や父子のすれ違いなどを経て、こちらがドラマに乗りかけてきたかと思えば、その矢先に、見せなければいけない(と思われた)シーンはナレーションであっさり流され、いきなり次はガウガメラの戦い。
 正直なトコロ、ここいらへんでいいかげんにもう限界。「いやぁ、こりゃあハズれだったかなぁ……」なんて諦め気分に。
 ところが、やけに埃っぽい臨場感のある戦闘シーンを見ているうちに、だんだん気分がのってきた。
 特に戦闘後の、どう見てもベトナム戦争か何かの野戦病院にしか見えないシーン。ここまで来て、ああ、神話伝説の類から虚飾やロマンを剥ぎ取り、リアリズム的にそれらを再構築しようというのが監督の意図ならば、それはそれで面白いよな、なんて感じたりして。
 そして、バビロン入城(ここで、またもや世界七不思議の一つバビロンの空中庭園と、崩壊しているバベルの塔が、同一フレームに収まっているなんていう、何とも贅沢な画面が見られて、これまた嬉しくなっちゃった)あたりから、決定的に風向きが変わる。
 例えば、前半のギリシャ文化圏の美術の貧相さは、中盤以降のアジア圏の美術の豊かさと対比されて、それまで主人公たちが信じてきた「文化的なギリシャと野蛮な他国」という対比が、実は全く逆であったということを、登場人物たちと同時に私にも知らしめる意義へと転じた。
 そして、更に遠征が進むにつれて、私が当初期待していたような英雄やカリスマとしての主人公ではなく、幼少期からの根強いトラウマとコンプレックスを抱え、ひたすら自分の存在意義と自分を受け入れてくれる居場所を探し続けた、寄る辺ない不幸な青年像が露わになっていく。
 これならば、マケドニア王としてのコスチュームが似合わず、薄汚れてボロボロになればなるほどしっくりしてくるのも合点だ。見ていて嫌ンなっちゃうような両親も、そりゃあトラウマもコンプレックスも根深くなるわと納得。幼児期のエピソードも、ちゃんと伏線として回収されるし、焦点が写実的リアリズムや人物の内面にあるのならば、カメラだってこれが妥当なのだろう。作劇上は見せなければいけないはずなのに省略されていた部分も、後半になって、物語の実像を掴み始めたタイミングを見計らって、ちゃんと好位置に挿入されるし。
 理解者と理想を求めて突き進むが、突き進めば突き進むほど孤独になり、トラウマにもコンプレックスにも押し潰され、最後まで己の居場所を見つけられずに死んだ一青年の悲劇。自らを重ね合わせていた「己の影に脅えていた」愛馬は、伝説としてしかるべき時と場所で息絶えたのに、主人公にはそれすらも与えられない。母によって自分のアイデンティティーを否定された息子は、熱望した父には受け入れて貰えず、最終的には母の嘘(と、ここでは言い切ってしまうが)に縋らざるをえない。不在の父親は母の語るゼウスに置き換わり、自らをヘラクレスに模しながら(ヘラクレスの父親はゼウスであり、その装束はライオンの毛皮である)、自分を迎えにくる鷲の幻影(鷲はゼウスの象徴だ)を見ながら息絶える。
 う〜む、これはかなり悲しいぞ。
 ただ、こういったことは、いわば現実的な視点による伝説の解体であり、それは単なる伝説の矮小化となる危険も秘めている。
 しかし、それも巧みなバランス配分によって回避される。
 例えば、主人公の卑近で人間的な物語と同時に、そこにギリシャ悲劇との重なり合いが提示される。最も露骨なのは主人公のエディプス・コンプレックスの語源である「オイディプス王」だが、それ以外にもメディア、ヘラクレス、プロメテウスといった、必然的にソフォクレス、エウリピデス、アイスキュロスの三大悲劇詩人を連想させるキーワードが配されている。これによって、一見解体されて矮小化したような物語も、しかしそれもまた伝説の持つ普遍性の一つであることが示されている。
 また、アレキサンダー大王を主体としたドラマをメインとしつつ、その外側にそれを後になってから俯瞰的に回想するプトレマイオスの語りを配置するという、物語の枠を二重にして対比させている手法も同様だ。このことによって、物語の最終的な全体像は、さらに外側にいる観客(つまり私だ)それぞれの判断に委ねられる。こうして、幻想を剥ぎ取られて解体された伝説が、現代人である私の内に再構築されたとすれば、そこには新たな普遍性が生まれる。
 ここいらへんも、なかなか面白い。
 観客への問いかけという点では、その姿勢が挑発的なのも面白い。
 主人公はたびたび、異なる文化を受け入れようとしない、理解しようとしない人々に苛立ちを見せる。これは同時に、観客に向けられた試金石でもある。
 映画で語られる同性愛の要素(厳密に言うと、この時代における男同士の交わりというものは、現代における同性愛とイコールではないのだが、そこいらへんは煩雑になるし、同様の問題については以前に自著で詳しく触れているので割愛します)は、そこには物語的な必然性はない。同性愛的な描写は、この時代には同性愛がタブーではなかったということを描くためにしても、テーマの一つに同性愛を盛り込むためにしても、いずれにしても中途半端だ。変に執拗なわりには、深く突っ込まれることがない。
 ところが、仮に、歴史上の偉人が同性愛者であったということを描くのが、その偉人を貶めていると怒るとすれば、それはそう怒る人々が、同性愛を劣った忌むべきものだという、差別的な考えを持っているということを露呈することになる。また、必然性がない同性愛的要素の描写に疑問を唱えるとすれば、それはすなわちそういう疑問を抱く人々が、一見理知的に同性愛を受容しているように見えながら、実のところは彼らが同性愛に対して「必然がなければ表に出てはいけないもの」と、無意識のうちにやはり差別的に捉えていることを示してしまう。
 実のところ、この映画のアレキサンダーとヘファイスティオンの関係は、もしそれが男女のものであったのならば、観客は何の違和感もなく自然に見るだろう。そかしそれが同性愛であるというだけで、こういった「なぜ同性愛者にするのか」「なぜ同性愛を描く必要があるのか」といった疑問が噴出する。
 かつて映画においてゲイはタブーであり、『ベン・ハー』や『スパルタカス』でも同性愛的な要素は巧みに隠匿されていた。現在ではゲイを描いた映画は、珍しくも何ともなくなった。しかし実は、それはあくまでも映画の主眼が同性愛の特殊性に搾られた場合か、あるいは同性愛者に特定の役割を担わせる場合にのみ通用しているだけであり、ごく当たり前に同性愛者が登場することについては未だに否定的だということを、この映画を巡る論議は露呈する。
 つまり、この映画における同性愛的な要素を、「なぜ」を抱かずにそのまま受容することができなければ、その観客はアレキサンダーが劇中で非難している、「他文化を受け入れようとしない人々」と同じになってしまうのだ。
 これはかなり挑発的であり、問題提起の手法としては興味深い。
 こんな具合に、この映画は最初の印象とは裏腹に、最終的にはある意味で面白く見られた。
 とはいえ、そういった「面白さ」が全て成功していたか、あるいは、映画作品として素晴らしかったかといえば、残念ながら必ずしもイエスとは言えない。
 歴史上未曾有のことを成し遂げた主人公について、「なぜそれをしたか」という部分に関してはある程度の説明があるし、「どういう人物だったか」という考察としても興味深いものの、では「なぜそれができたか」という説得力には乏しい。主人公の成育史など「理」に訴えかけてくる部分は多いが、「感覚」に訴えかけてくる部分が乏しく、結果としてエモーションはさほど揺さぶられないからだ。
 また、登場人物が多いわりには語られるのは主人公のことばかりで、群衆劇的な魅力にはおよそ欠けている。少なくとも私は、脇を固める人々のうち、だれ一人としてそこに「生きた魅力」を感じることはできなかった。
 前述したエモーションの欠如の理由の一つには、映像と音楽のミスマッチもあるかもしれない。音楽担当のヴァンゲリスは、ギリシャ出身であると同時に、かつて”Spiral”や”China”といったアルバムで東洋思想への接近を見せたこともあるので、理屈から言えば適材であるとも言える。また、ヴァンゲリスの楽曲自体を、劇伴であることを離れた独立した作品として聞いてみると、近年の”El Greco”や”Mythodia”以降の路線の延長線上にあるなかなかの好作だ。しかし、基本的に「ロマン」を謳う彼の作風と、古代憧憬的なロマンを次々と解体していくこの映画の内容は、やはり何ともちぐはぐで、どうも水と油のような印象を受けてしまった(もちろん上手く合致していた部分もありましたが、総合的に見ると、ということです)。
 もしヴァンゲリスが、Aphrodite’s Child時代の”666″や、Vangelis O. Papathanassiou名義の”Earth”の頃のように、ロマンチシズムと同時に土俗的な荒々しさやロック的なアナーキーさを持ちあわせていた頃の作風であったのなら、もうちょっと上手く映像と合致したかもしれない……なんて、つい埒もないことを考えてしまうのは、ただのファン心理か(笑)。
 というわけで、考えながら見る分には、単に自分の深読みに過ぎないかもしれない部分も含めて、なかなか面白く見られたのだが、私は基本的に、表現の本質とは、理屈や知識とは無縁のところにあると思っているので、そういう面白さだけでは物足りない……というのが総合的な印象。
 しかし、退屈はしなかったし、趣味の相違を除けば、作家性がハッキリしているという点は興味深いし、意欲的だし、志も感じられる作品ではある。内容的な如何ではなく、アクの強さと言ったベクトルで見れば、こういったパワフルな作風は好みでもある。
 というわけで、いろいろと微妙ではあるものの、好きか嫌いかと聞かれたら「好き」ですね、この映画。
 あ、でも、私個人のゲイ的な興趣を擽られる部分は、皆無でした(笑)。
 ただし、アレキサンダーとヘファイスティオンが、裏でやることやっているのではなく、本当にセックスはおろかキスもしていなかった……と解釈するならば、そーゆープラトニック・ラブとしての同性愛に憧れる方だったら、それなりにオススメできるかも。見ようによってはこの二人の関係は、アレキサンダーがちゃんと男とセックスもしたがっているマジモンのゲイで、しかしヘファイスティオンはあくまでもプラトン的な理想としての同性愛を希求しているだけなので、アレキサンダーはどうしてもヘファイスティオンにセックスを迫ることができず、代わりにセックスはペルシャ人のダンサーと……なんて風にも受け取れる。だとしたら、実はヘファイスティオンすら真の理解者ではなくなるわけで、これはえらい悲しいことです。
 ただまあ、私個人としては、そんなセックスフォビックなロマンチシズムは好きじゃないけど。
 責め場的な見所? ……まあ、死体や血はいっぱい出てきますよ。
 それだけ(笑)。

『アレキサンダー』」への2件のフィードバック

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