『ベアー・パパ』

『ベアー・パパ』(2004)ミゲル・アルバラデホ
Cachorro (2004) Miguel Albaladejo
 第14回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にて、トークショーのゲストを兼ねて鑑賞。
 本題に入る前に、まずトークショーの方から。
 すいません、時間が短いこともあって、あまり実のあることは喋れませんでした。
 特に『パニッシャー』のゲイ描写の件は、あれはいわばマクラで、あそこから「このテの映画にしては、実はけっこう等身大感覚のゲイが描かれている」というところに持っていきたかったんですが、横目で時間経過のカンペを見て断念。
 このネタは、そのうちBlogで書くかも。
 では、映画の話。
 内容紹介は、とりあえず映画祭の公式サイトから引用させていただきましょう。
「歯科医のペドロは、地位アリ・金アリ・遊び相手複数アリのお気楽独り身ゲイ生活を楽しんでいた。
 ところがある日、2週間の約束で、9歳の甥ベルナルドを預かることになってしまって、さあ大変。
 今までの自分本位の生活を一変させ『良き保護者』になろうと奮闘するペドロ。それとは対照的に超自然体のベルナルド。そんな2人の不思議な共同生活が始まって……」
 とまあこんな感じで、ユーモアたっぷりに、それでもそこかしこにシリアスなトゲもチクチク仕込みながら、話は軽快に進んでいきます。
 物語の進行は、いたって順調。ところどころに仕込まれるエロティックなシーンは、かな〜り生々しい上に(どのくらい生々しいかというと、映画祭のスタッフの方が「税関通るかどうか心配でした」と仰ってたくらいでして、いや、けっこうスゴかった! 特に、しょっぱな!)、出てくるのは「ヒゲあり体毛ありの太め」とゆー「熊系」のゲイばっかなので(熊系ばっかのパーティーに来たベルナルドに、パーティーの一人が「見分けるの大変でしょうけど」なんて言うシーンには大ウケ)、ノンケさんは引いちゃいそうだし、やおい好きの女子でも見る人は選びそうではありますが、私にとっては目のご馳走。
 で、やがてベルナルドのおばあちゃん(ペドロの姉の旦那さんの母親で、死んだベルナルドの父親を愛する反面、母親のことは快く思っておらず、現在のベルナルドの教育環境も好ましくなく思っている)が絡んできたり、HIV/AIDSの問題が絡んできたり。ここいらへんから、話が果たしてどういう方向に転がっていくのか予断を許さなくなり、筋運びはかなり達者。
 やがて物語の内容は、ペドロという「ゲイの物語」から「家族の再生の物語」へと変化していく。
 ここいらへんのテーマの拡がり方は、同じスペインの『オール・アバウト・マイ・マザー』とか、あるいはフィリピン発のゲイ映画『真夜中のダンサー』とか、更には名作『トーチソング・トリロジー』なんかを、ちょっと思い出させるところがあります。
 或いは、ゲイという要素を抜いて考えれば、『コーリャ 愛のプラハ』とか、或いは最近の『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』なんかとも似た構造とも言えそう(因みにこの映画二本とも、見ながら私は「もし自分がこの引き取られた子供だったら、きっと新しい『おとうさん』を性的にも好きになっちゃって、さぞかしヤヤコシイことになるだろうな〜」なんて思っちゃったんですけどね、今回はその『おとうさん』がゲイだから、見てる間も気分はずっとパパ視点でした)。ただ、「負うた子に教えられる」というセオリーの踏襲という意味では、前者の方により近いかな。
 つまりまあ、テーマはゲイ・オンリーではなく、最終的にはより汎的な「人の絆」に拡がっていくわけです。
 個人的に新鮮だったのは、まず、物語にパートナーシップ(言い換えれば「夫婦」のような「つがい」の概念)が絡んでこないところ。
 ペドロは特定のパートナーを必要としないタイプのゲイであり、こういう「最初は別々のに人間が、愛し合って一緒になる」というような、オーソドックスな社会通念から外れたキャラクターを軸にしつつ、同時にそこで「ゲイにとっての家族の再生」を語るというのは、これはけっこう難しいことだと思うのですが、この映画はそこを上手く纏めている。
 パートナーシップを絶対的なものと信じて疑わない人には、ちょっと受け入れづらい部分もあるかとは思いますが、逆に、そういったパートナーシップというものが「単なるヘテロ社会の模倣でしかないのかも?」なんていうような疑問を、一度でも抱いたことのある人ならば、この映画の提示する「家族の再生」の物語は、そのプロセスや最終的なメッセージ共々、かなり興味深く見られるのでは。
 とはいえ、この映画はパートナーシップに対して、特に疑問を提示しているわけでもない。
 パートナーシップの問題に限らず、ゲイそのものに関しても同様で、それらを大上段に振りかざすことはなく、特に問題提議をするわけでもなく、あくまでも「こんな一人のゲイがいました、そしてこんなことがありました」といった風にサラリと描いている。
 ここいらへんは、人間の生きる自由を保障してくれる、個人主義がしっかり確立された世界観という感じで、見ていて実に心地よい。
 類型的な価値体系からは外しつつ、考えようによってはかなりとんがったテーマなのに、かといってアグレッシブにもならず、ユーモアもペーソスも交えた、あくまでも面白いドラマとして描くという、このバランス感覚は、娯楽映画的に至極真っ当でレベルが高いのでは。
 細かい部分では、価値観やライフスタイルの相違による確執の相手が「自分の親兄弟(血縁者)」ではなく、「甥っ子の祖母(血縁者ではない近親者)」にしたのも、それによって物語が類型化から免れているので、ここはなかなか技アリ。終盤近くなって、ベルナルドが祖母に激白するセリフによって、姉夫婦の間には、映画では具体的に語られていない更なる別の事情があったのではないかと、観客に想像させる余白を持たせているのも、物語を枠外に拡げるという意味で効果的。
 反面、ペドロの両親について、存命なのか鬼籍に入っているのか、反目していたのか認め合っていたのか、全く語られない(ひょっとしたら、ちょっとしたセリフで示唆していたのかもしれませんが、申し訳ないけれど、私にはそういった要素は拾いきれませんでした)のは、別にいいんですけど、家族の再生や絆の誕生を描くという点では、ちょっとズルい「逃げ」かも。
 HIV/AIDSの取り上げ方も、興味深いものがあります。
 物語的に大きな鍵の一つでありつつも、それが全てを支配はしない。現実の問題として目をつぶることはせず、かといってそこから過剰な悲劇を紡ごうとはしない。こういった「重要ではあるが全てではない」という描き方を見ると、かつてシリル・コラールの『野生の夜に』を見て暗澹たる気持ちになった頃を思い出し、少し勇気づけられます。
 ただし、これをそのまま日本に当てはめることはできないのは残念ですが。
 役者さんは、メインから脇にいたるまで、おしなべて好演。ペドロの非・熊系の友人とか、小柳ゆき似のベビーシッターとか、キャラも良く立っていて魅力的。
 個人的には特に、飛行機のパイロット(やっぱり熊系)が制服のまま会いにくるってのに、フェチ心をムチャクチャ擽られたりして(笑)。いや〜、ステキだわぁ、こんな現地妻生活(笑)。
 というわけで、下心で見ても楽しめるし、ゲイ系の小ネタとしても楽しめるし、物語としても楽しめるし、深く考察しても楽しめるという、いろいろと見どころ豊富の面白い映画でした。
 これが、おそらく今後見られる機会が殆どないであろうというのは、実に残念な気がします。熊系のゲイ映画ってだけども、実に稀少なんだけどねぇ。劇場での上映は無理としても、ビデオスルーでいいから、どっか果敢な会社が出してくれればいいんですけど。
 ただ、米盤DVDは既に発売されているので、興味のある方はamazon.comあたりで、英題”Bear Cub”で調べてみてください。