『ポセイドン』(2006)ウォルフガング・ペーターゼン
“Poseidon” (2006) Wolfgang Petersen
パニック映画大好きの相棒と一緒に鑑賞。
まず、導入。カメラが海中から浮上して、ポセイドン号の船体をグルグルと舐めるように撮る。全体を捕らえたロングからワンショットで人物のアップに寄ったり、いかにも昨今のCGIを駆使した絵作りらしいアクロバティックな動きなのだが、映画の導入としてのケレン味はタップリ、クラウス・バデルトの勇壮なスコアもあって気分を盛り上げてくれます。
引き続き本編に入り、それぞれのキャラクターの紹介は、必要最小限にして手堅くコンパクト。そして、そのキャラクターたちが集合し、新年のカウントダウン・パーティーのシーンになるんですが、このカウントダウンのシーンが、しっかりゴージャスかつロマンチックに見せてくれて、かな〜り良い。『ナルニア』のときにも書いたけど、こーゆー「スペクタクル」を見せてくれる映画って、意外と稀少だからねぇ。『トロイ』に引き続き、ペーターゼン監督に拍手!
で、そこに大惨事が唐突に襲いかかるんですが、その「華麗な幸福感に満ちたパーティー」と「いきなり襲いかかる大惨事」の、コントラストの見事さといったら! ここはマジで感心!
これ、この「唐突さ」が重要なんですな。普通は、アクシデントの到来までを、別視点での前振りを入れて、サスペンス的に盛り上げるのが常套手段。ところがこの映画は、ホント前振りらしい前振りもなく、唐突に「それ」が訪れる。その作劇法的な「外し」が、いかにも予期せぬ事故に巻き込まれ、平穏な楽しい日常が突如断ち切られてしまうという、現実的なブッツリ感を醸し出してくれて、実に素晴らしい。もう、拍手喝采もの。
……という感じで、タイトルからここまでは、百点満点をあげたい出来映え。
話が本筋に入ってからは、アクシデントのつるべ打ちに。
とはいっても、垂れ流しではなく緩急はあるし、迫力も緊迫感もあるし、エピソードの組み方も上手くて、見ていて鼻白むこともない。一緒に見に行った相棒は大喜び、私自身の印象も、満腹感はありつつ、でも胸焼け一歩手前で堅実に押さえている感じで、ここ数年来のパニックもの映画の中ではベストかな。
で、パニック映画では、アクシデントやアクションといった様子と共に、「危機的状況の中で、いかに人として生きるか」というドラマが描かれるのが常で、オリジナルの『ポセイドン・アドベンチャー』の最大の魅力的はそこいらへんにありましたが、今回は「いかに生きるか」じゃなくて「いかに生き延びるか」で精一杯、「人としてのありかた」を問うている暇はない、といった風情。ロマンとしてのドラマが介在する余地は、ほとんどないといった感じ。
ただ、かといって同じ監督の『Uボート』みたいな重さや圧迫感があるわけでもなく、ドライに突き放した視点で徹底するというわけでもなく、あちこちでいかにも娯楽大作的なクリシェや、ウェットな視点も混じります。本来であれば、そういった軸のブレはあまり好意的には見られないのですが、この場合のブレは、娯楽映画として成立させるためのバランスを手探りしているようにも見え(そういや『トロイ』も、そんな感じがあったなぁ)、そうなると作家の端くれとしては、その板挟みをいかに捌ききるかという点に興味を惹かれます。
中でも印象深かったのが、子供の救出劇。他のシーンでは、いかにしてその危機を脱出するかというのが、ちゃんと描かれて説明されているのに、このシーンでは、どうあっても助かりそうにない状況から、どうやって助けることができたという説明が一切ない。それが何だか、監督の「ここは嘘なんだよ、ホントはこの子供は死んじゃうんだよ」という意思表示に見えてくるのが面白い。
とはいえキャラクター全般は、捌き方は上手いものの、立て方が少々物足りない感もあるので、そこんとこはもうちょっとプラスアルファが欲しかった。特にメインの二人、ジョシュ・ルーカスとカート・ラッセルが弱い。
ヒロイズム等を避けて普通の人っぽくしたかったのなら、だったら元ニューヨーク(……だったっけ?)市長なんて設定じゃなくてもいいような。往年のオール・キャストもののような華やかさは必要ないにしても、もうちょっと何らかの魅力は出して欲しいなぁ。
サブキャラの、エミー・ロッサムとマイク・ヴォーゲルのカップルは、それぞれ最近『オペラ座の怪人』『テキサス・チェーンソー』で、いい感じと思っていたので、個人的にはお得気分。
映画のアタマでは、「小綺麗で無精ヒゲもないマイク・ヴォーゲルは、全く魅力ナシ!」なんて思ったんですが、中盤以降はだんだん薄汚れていってイイ感じに(笑)。でも、水難事故だし上半身くらいは脱ぐかと期待してたんだけど、残念ながら濡れTどまりだった。
あと、個人的に一番嬉しかったのは、リチャード・ドレイファス!
だいぶオジイチャンになりましたが、しっかりステキなオジイチャンになってたし、とにかく我がハイティーン時代のアイドル、愛しのリチャード『グッバイ・ガール』ドレイファス様がゲイ役(!)ってだけで、個人的には映画自体がプラス10点くらいアップ。しかもこの役、モノガタリ的には別にゲイである必要も何もない。ゲイだということで特別に役割を背負うこともなく、フツーにゲイなだけ。
悩めるハムレットでもなく、サイコなシリアル・キラーでもなく、モノガタリにとって都合の良いキューピッドや潤滑油でもない、こーゆー「ただゲイなだけ」のキャラクターを映画で見ると、何だかホッとします。扱いがニュートラルですごく感じがいい。脱出行で、若い男の子に「ハンサム君」とか呼びかけるあたりは、小ネタとしてゲイ的にはお楽しみどころかな。まあ、その後すぐにドツボなんだけど。
そうそう、このドレイファス演じるゲイのオジイチャン、左耳にダイヤか何かのピアスしているんですが、「片耳ピアス=ゲイ」という「記号」を見たり読んだりするのは、もう20年振りくらいなんで、何だか懐かしかったなぁ。でも、あたしゃてっきり、これは都市伝説の類かと思ってた。
で、このドレイファス翁が一番キャラが立ってたように感じられた……ってのは、単に私がゲイだから?
というわけで、「導入の素晴らしさ」+「見せ物的な見応え」+「ゲイ役のリチャード・ドレイファス」ってだけで、もう個人的には充分以上に満足しました。
軸のブレに関しても、根っこのところで「現実問題として生き延びるには、とにかく希望を捨てず、ひたすら頑張るしかないんだ」という芯は一本通っていたように思えるし、同ネタで別のものを作るという点では、リメイクものとしても興味深い仕上がりでした。