『オーメン』(2006)ジョン・ムーア
“The Omen” (2006) John Moore
ビックリしました。
このリメイク、かなりオリジナルに忠実だと聞いていけど、実際に見たら、確かにある意味でオリジナルと「同じ」で、しかもそれが「無意味に同じ」だったから(笑)。
同じだと言った舌の根も乾かぬうちから、こう言うのもなんですが、実はモノガタリとしての根本的な構造は、オリジナルとは大きく変わっています。
オリジナルのモノガタリは、最初は小さな「個」のドラマとして始まり、それがやがて「世界」という大きなスケールへと拡がっていく。しかし今回のリメイクは、天体観測からバチカン(……だよね、きっと)の会議という、モノガタリの導入部分から、これが「世界」のドラマであることを示す。ここで説明される現実の事件との結びつきは、いささか強引である感はありましたが、それでも最初から巨大なスケールを提示することで、ある種のワクワク感は感じさせてくれ、これはこれで新機軸としては悪くない。
ところが、この後がいけなかった。
多少の現代風のアレンジがあったり、多少のオリジナルではなかった要素が加わってはいるものの、基本的なエピソードは、ほとんどオリジナルのまんま。
で、これが解せない。
大使や夫人の苦悩や神父や乳母の怪しさなど、オリジナルで連ねられたエピソードの目的は、全て「信じていた(信じたいと思っている)幸せな(それも人並み以上に幸せなはずの)日常」が崩れていくという効果につながっていた。ところが今回は、初めからアンチ・キリストの出現に触れている以上、もうオリジナルの作劇上でのキモであった、「不穏だけど、考えようによってはどうとでもとれる気配」が次第に積み重なり膨れあがっていくサスペンスや、それに伴う「ひょっとして……いや、まさか……でも……」という人間的な煩悶、つまり、日常が次第に非日常へとスライドしていくサスペンスは、既に無効化している。だって観客には既に、主人公の知り得ないこと、つまり、よりモノガタリの外側からの視点による情報を、事前に提示されているんだから。
にも関わらず、意義や効果が実質的に喪われているエピソードが、ただただ形骸的に同じようになぞられていく。こんな行為に、いったいどれほどの意味があるというのだ?
更に言えば、下手にオリジナル通りであるだけに、つけ加わったアレンジの陳腐さや工夫の乏しさも、余計に目に付く。
例えば、串刺しシーンにトッピングされたアレ。派手派手しい要素をプラスしたかったのかも知れないけれど、アレの位置からしてすごい強引。首切りシーンにしても、今回の首切りに使われるアレは、いかにも首を切るために考えた風の無理矢理感がイッパイ。こんな強引なことをするんだったら、別に「串刺し」や「首切り」にこだわらず、別の殺し方を見せてくれた方がずっと良いし、「串刺し」や「首切り」を四谷怪談の戸板返しみたいな定番として捉えたのなら、もっと「俺ならこう見せる!」という心意気が欲しい。
新聞記事がインターネットの画像になっていたり、銀塩写真にデジタル画像が加わったり、三輪車がキックボードになっていたりといった「今風の」変更に関しても、正直「……だから?」って感じ。単にメディアやツールが現代風に置き換わっているだけで、置き換わったことによって生まれる効果が何もなく、逆にオリジナルの持っていた効果すらも喪われている部分も。だったら、無理に置き換えなくてもいいじゃん。
そんなこんなで、全てがひたすら中途半端。アイデアを練るという工夫が、およそ感じられず、オリジナルをなぞることも、新たな解釈を加えることも、どちらもできていない。個々の演出が酷いとかいうわけでは決してないのだが、根本的にドラマに対する考え方が雑すぎる。
オリジナルを未見であれば、そこそこ楽しめそうだとは思うけど、でもここまでオリジナリティやクリエイティビティやパッションとは程遠い作品は、やっぱり褒める気にはなれない。商品としてはそれなりに楽しめるにせよ、作品としては、作り手の志が低いにも程があるって感じでした。