『タブウ』

tabu
『タブウ』(1931)F・W・ムルナウ
“Tabu: A Story of the South Seas” (1931) F.W.Murnau

 ムルナウが同性愛者だと知ったとき、私はムルナウの作品は『吸血鬼ノスフェラートゥ 恐怖の交響楽』『ファウスト』『サンライズ』の三本を見たのみで、正直なところ意外に思った。1920年代から30年代という活動時期から鑑みても、それっぽい直截的な描写はなくて当然なのだが、それにしても、彼の映画からそれらしき気配を感じたことが全くなかったからである。
 その後、『ファントム』『最後の人』『フォーゲルエート城』などを見たときも、その印象は変わらなかった。見れば見るほどこの監督が好きになり、以前は自分の中で「ラング>ムルナウ」だったのが、いまではすっかり「ムルナウ>ラング」に逆転してしまったものの、同性愛的な要素に関しては、あくまでも「ああ、言われてみれば……う〜ん、そう深読みもできるかなぁ……?」といった程度の印象だった。

 そんな状況で、今回初めて『タブウ』を鑑賞した。
 そして、驚いた。
 そこには、同性愛者としてのムルナウの存在が、はっきりと刻印されていたからである。

 モノガタリは、南太平洋を舞台とした、寓話的とも言えるシンプルなラブ・ストーリーである。
 文明の力未だ及ばずの楽園、ボラボラ島に暮らす若い男女が恋に落ちる。しかし娘が、神に身を捧げる乙女に選ばれたことにより、二人の恋は禁忌(タブウ)の恋になってしまう。互いを諦めきれない二人は、やがて手に手をとって島から逃げ出す。駆け落ちした二人は、より文明化された島へと辿り着き、そこでひっそりと幸せに暮らす。だが、そこに追っ手が迫る。二人は再び脱出を試みるが、貨幣という「文明による堕落」が、それを阻む。
 ここをもう少し詳しく説明すると、かつて二人が暮らしていた島には、貨幣の概念がなかった。しかし、今度の島では、船に乗るにもお金がいる。貨幣の概念を知らなかった二人は、一度は追求の手を「買収」によって逃れることができるのだが、一方で、それと知らずに抱えてしまっていた「負債」が、最終的に二人の脱出行の障害になってしまうのだ。

 以下、ネタバレになるので、お嫌な方は、次の段は飛ばしてください。

【ここからネタバレ】
 脱出の道を喪い、娘は、愛する若者の命を救うために、自分は追っ手と共に島に戻ることを決意する。一方若者は、負債を返済するために、鮫が潜むタブウの海域に潜り、真珠を採ろうと決意する。結果として若者の試みは成功するのだが、家に戻ったときには、既に娘は書き置きを残して姿を消した後だった。
 若者は、恋人を連れ去る船を追う。最初はカヌーで、そして泳ぎで。帆に風をはらんで疾走する帆船を、泳いで、泳いで、泳ぎまくって、ひたすら追いかける。そしてついに、船から垂れたロープを掴む。しかし、追っ手の老人は、娘を船倉に押し込むと、若者の握ったロープを無情にも切断する。船は進み、若者は次第に引き離されていく。そしてついに若者は力尽き、大海に沈んで消えてしまう……。
【ここまでネタバレ】

 こういったモノガタリが、職業俳優ではない素人の現地人の演技と、南太平洋の美しい自然の情景に彩られながら綴られていく。
 手法としてはドキュメンタリー的だが、主題としては、民俗学的な記録映画的なものではなく、やはり寓意的な愛のモノガタリが前面に出ている印象が強い。
 寓話的世界とドキュメンタリー的な世界の齟齬もあって、私が個人的にムルナウのベストだと思う『吸血鬼ノスフェラートゥ』『最後の人』『サンライズ』の三本と比べると、若干見劣りする感はあるものの、それでも充分以上に見応えのある名作であることには変わりなく、しかも、以下で述べる同性愛的な要素も併せて鑑みると、私にとって忘れがたい一本となりそうな作品だった。

 では、この映画に見られる同性愛的な要素について。
 最も直截的にそれを感じられるのは、映画の冒頭で映し出される、ポリネシアの青年たちの美しい裸身であろう。南国の楽園で、若者たちのしなやかな裸身が、画面から飛び出さんばかりに躍動する。
 このシークエンスにおいて、それを捕らえるムルナウの「目」に、意識的にせよ無意識的にせよ、同性愛的な視点が存在するのは、後述するように、ムルナウが死んだときに一緒だったのが、フィリピン人のボーイフレンドだという点からも明かであろう。また、映画には乳房も露わな娘たちの裸身も出てくるが、この青年たちの裸身を撮るときのような、肉体の美しさそのものに耽溺しているようなニュアンスは見られない。
 いささか唐突ではあるが、私はこの一連のシークエンスを見ながら、何とはなしに、シチリアのタオルミナで古代ギリシャ憧憬に基づく青少年のヌード写真を撮り続けた、やはり同性愛者であったヴィルヘルム・フォン・グローデン男爵の写真を連想していた。

 そして、もう一つの同性愛的な要素は、禁忌(タブウ)の愛という映画の主題そのものである。
 禁断の愛すなわち同性愛の暗喩と捉えるのは、いささか安直に過ぎるかもしれない。しかしこの映画の場合、監督自身が同性愛者であるということと、特定の愛がタブウとなる背景が、共同体というシステムに起因していることが明示されているという点からも、やはり同性愛のアレゴリーであると考えたくなってしまう。
 ここで重要視したいのは、この映画は未だ文明化されていない南国の島を楽園的に描きながらも、同時にそれが二人の愛をタブウとする原因でもあるという点だ。則ちここで描かれている南国は、例えばゴーギャンが描いたような、非文明的であるがゆえの愛と生命に満ちた楽園では、決してないのだ。
 同時にこの映画には、前述したような文明批評的な要素も出てくる。では、非文明と対比された文明化された社会によって、二人の愛は救われるのかというと、これまたそうではない。文明社会は文明社会で、これまた二人の愛に代表される「純粋さ」を阻害してしまうのだ。
 原始社会が愛を阻む禁忌となり、それを人文化された文明が救うという構図ではなく、逆に、近代社会で叶わぬ純粋な愛が、原始の楽園で許容されるという構図でもなく、どちらもが純粋な愛の成就を阻害する。このことは、後述する、この映画の制作の原動力となった、ムルナウとヴァルター・シュピースとの関わりを考え併せると、よりいっそう興味深いものに映る。

 DVDには、小松宏という方による詳細な解説書が付いているので、この映画の成り立ちについて、詳しく知ることができる。
 それによるとムルナウは、「かつて生活を共にしたワルター(ママ)・シュピースが彼のもとを去って南洋の島に行って以来(中略)いつしか南海の島々を自分の船で探検するという夢を抱くようになっていた」とある。そしてムルナウは、帆船を購入し、それをバリ号と名付ける。これは、シュピースが暮らしていたのはバリ島で、彼はそこから「何通もの手紙をムルナウのもとに送ってきており、このいまだ見ぬ島はムルナウにとって憧れの場所になっていた」ことに起因している。
 やがてムルナウは、ドキュメンタリー作家のロバート・フラハティーと出会い、南太平洋を舞台に共同で『トゥリア』という映画を撮ることを計画する。そして様々な要因で企画変更を経た後、『トゥリア』ではなく『タブウ』という映画が完成する。そして、解説書に記載されている粗筋を読む限り、この『トゥリア』の内容は、文明批評的な要素のある悲恋ものではあるものの、『タブウ』のような禁忌としての愛や、その純粋な愛が、非文明にも文明にも阻害されるという構造は見あたらない。
 撮影のためにタヒチに赴くにあたって、ムルナウはフラハティーとは別行動で、一ヶ月先んじて、自らのバリ号で出発した。しかし「様々な港に寄港しながらタヒチに向かったため、彼がタヒチのパペーテに到着したのは、フラハティーに遅れること1ヶ月」だったとある。このとき、ムルナウがバリ島のシュピースのもとを訪れたかどうかは、残念ながらこの解説からは判らない。

 ここで、私がこの映画の成立背景を考えるにあたって、極めて重要だと思いつつも、しかし解説書にはそれに関する記載が一切ない、ある「事実」がある。
 それは、ムルナウ同様に、ヴァルター・シュピースもまた、同性愛者であったということだ。
 解説には「かつて生活を共にした」とあるが、シュピースはムルナウの恋人であった。そして、やがてムルナウの元からバリ島へと去るが、前述したようにその存在は、引き続きムルナウに影響を与え続ける。余談になるが、ちょっとコクトーとランボーを連想させる関係だ。
 西洋社会から南国の「楽園」へ逃れた、かつての恋人に影響され、自らも「楽園」への憧れを抱いた、同性愛者としてのムルナウ。そして、そのムルナウが、いざ自ら楽園に赴いて描き出した、純粋な愛がシステムによって禁忌とされ、文明からも非文明の楽園からも拒絶され、押しつぶされていくモノガタリ。
 つまり、この『タブウ』という映画は、制作過程や表現手法という点ではフラハティーの存在が大きいが、その起因と結果を見ると、内容的にはムルナウとシュピースという、同性愛者としての二人の関係を踏まえて、考察されるべき作品ではないかと思うのだ。
 こういった事情は、知る人には既に周知の事実なのかも知れない。また、これ以上の論考を進めるには、シュピースの伝記なり何なりを紐解く必要がありそうなので、考察はここで留めることにする。じっさい、ネットで検索してみると、『バリ、夢の景色 ヴァルター・シュピース伝』という書籍に、「影を共有した二人/同性愛者たちの夢の景色/孤独なムルナウの足跡と『夢の景色』の行方/ムルナウの失楽園/死してノスフェラトゥとなったムルナウ」という、興味深い章立てがあるのが見つかった。
 ただ、このDVDに付属した解説が、丁寧ではあるものの、同性愛的に関しては触れることなく、しかしそういった要素は暗示しているような、そんな、どこか奥歯に物が挟まったような物言いが多いのが気になった。
 それで、ここで自分なりに補完してみようと思った次第である。

 こういった、奥歯に物が挟まったような物言いは、解説の他の部分にも見られる。
 例えば、ムルナウの死に関する記述。
 ムルナウはこの『タブウ』の完成させた後、その公開を待たずして自動車事故で亡くなってしまうのだが、これに関して解説書では「ムルナウとフィリピン人の少年を乗せた」と書かれているのみで、そのフィリピン人の少年がムルナウのボーイフレンドであるとは明記されていない。もし、事故の際の同乗者が、監督の細君であったり、あるいは女性の恋人であったならば、こういう書き方はされるまい。はっきりと、「妻と」とか「恋人と」とか書かれるであろう。
 また、映画としての総論が述べられる部分も然りである。少々長くなるが、以下の引用をお読みいただきたい。

 ムルナウの作品には多くの場合彼の個人的な世界が反映されているように見える。彼の作品における愛の純粋性や孤独の価値といったものはその表れの事例とも看做されよう。そのような意味で見ると、『タブウ』はムルナウの最もパーソナルな映画といってよいかもしれない。(中略)ムルナウは理想郷だけでは満足しなかった。そこに彼は自分の宿命を投影した。まさにこの作品がムルナウの最もパーソナルな映画である理由はここにある。タブーに触れることが、避けられない宿命として語られる。(中略)ムルナウは(中略)この映画によって希望を求め(中略)自らを待ち受ける運命を予言した。『タブウ』はその意味で、ムルナウにとっては自己発見の映画であり、同時に自己否定の映画でもあった。(中略)映画が完成した時点で、これはフラハティーの世界とは極めて遠くはなれているムルナウの個人的な告白の映画になった。

 このように、この『タブウ』がムルナウのパーソナルな告白といった要素を持ち合わせていることに触れつつ、しかし、具体的にそれが何であるのかについては、一切触れることなく曖昧にぼかされた内容になっている。
 この結論部分に限らず、シュピースに関する記述同様に、この解説文中には、ムルナウが同性愛者であったという記述は一切ない。これは、ムルナウの他の作品ならいざ知らず、この『タブウ』のクリティカルな解説としては、余りに片手おちであるように、私には感じられる。
 また、それと同時に、同性愛という言葉を周到に避けながらも、しかし知っている人には判るような、この暗示めいた文章が生み出された、その由縁が気になる。これは、ある種の「配慮」によるものなのだろうか。だとしたら、この解説文の内容を批判する気はないが、しかし、そういった「配慮」をすること自体が、同性愛に対して差別的なのだという指摘はしておきたい。理由はどうあれ、その根底には、同性愛とは隠匿すべきものだという思想が隠れているのだから。
 そして、私にとって最大の悲しむべきことは、ムルナウが自らの『タブウ』に踏み込んで描いたこの映画のテーマが、21世紀の現代日本においても、いまだに「タブー」のように扱われているという、シンプルにして恥ずべき事実だった。これは、この映画を撮ったムルナウの精神そのものにも反しているだろう。

 前述したように、ムルナウはこの映画の公開を待つことなく、自動車事故によって夭逝した。それから7年後、シュピースは「同性愛の罪」によって逮捕される。そして釈放と再逮捕を経て、1942年、船によって身柄を移送中に、日本軍の爆撃を受けて死亡した。このように『タブウ』は、同性愛者の表現者による最後の作品が、作家の人生における同性愛者としての側面と、不思議な符帳を見せているという点で、パゾリーニの『ソドムの市』やファスビンダーの『ケレル』と似たものを感じさせる。
 またこの作品を、上に述べてきたような同性愛的な視点で読み解いていくと、映画のクライマックス、泳いで、泳いで、泳ぎまくる青年の姿に、同性愛者としてのムルナウの姿が重なって浮かびあがり、その結末には涙を禁じ得ないだろう。

『タブウ』は、同性愛の映画ではない。
 しかし、同性愛者ならば必見の映画である。
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