前回の記事を書いた後、ヴァルター・シュピースについて、もう少し詳しく知りたくなったので、とりあえず手頃そうな『バリ島芸術をつくった男 ヴァルター・シュピースの魔術的人生』(伊藤俊治・著/平凡社新書)という本を読んでみた。
結論から言うと、残念ながらF・W・ムルナウとの関係については、シュピースのドイツ時代のバイオグラフィー関係や、交友がバリ移住後にも続いていたということ、ムルナウの『ノスフェラートゥ』がシュピースの写真作品に与えた影響(特に魔女ランダを撮影したもの)などについて、軽く触れられているのみで、特に目新しいものはなかった。
しかし、「南海を舞台にした映画を共同でつくるというプランも二人の間にはあった」という記述があり、これは『タブウ』という映画の成立要因を考えるにあたっては、なかなか興味深い事実だと言えそうだ。
またこの本は、シュピースとムルナウの関係については、前述した通りではあるが、シュピースという作家の生涯や、彼がどのようにしてバリの文化に関わり、バリ舞踏やバリ絵画が現在知られるような形に至ったのか、その経緯や時代背景や思想はどういったものであったのか、などといったことについては、とても判りやすく解説されているので、シュピースやバリ芸術に興味のある方ならば、読んで損はない内容である。
さて、それとは別に、私がこの本を読んで、もう一カ所、興味を惹かれた部分があった。それは、1983年にシュピースが、「同性愛の罪」によって逮捕されたことに関する、その時代的な背景についての記述である。(ただし本書では、この部分以外には同性愛者について述べている部分はないので、「同性愛者としてのシュピース」の実像を本書から伺い知ることは、残念ながらほとんど出来なかった)
では、まず以下の引用をお読みいただきたい。
「1930年代末になると、ファシズムの影が濃くヨーロッパを覆いつくし、それが世界中に広がってゆくようになった。ヒットラーの台頭と日本のアジア侵略は、インドネシアを統治しているオランダ政府にも大きな影響を与えた。(中略)
そして何十年もの間、暗黙に了解されてきた慣習が突然、秩序にとって危険なもののように見えはじめ、いわゆる"魔女狩り"が主として性道徳上の問題(特にホモセクシュアル)に対して向けられていった。ジャーナリズムも同調し、そうした人々に対し悪意のこもったキャンペーンを始めるようになり、家宅捜索状が出され、警察が容疑者たちを次々と取り調べ始めた。
(中略)わずか数ヶ月間に、インドネシアでは風紀紊乱(ホモセクシュアル)による容疑者が百人以上も逮捕され、多くの人々が同じ事態が自らの身にも起こるのではないかという不安におびえ暮らしているありさまだった。自殺、免職、結婚の解消などが相次ぎ、バリでもそうした状況を免れることができなかった」
私が興味を惹かれたのは、こうしたカタストロフが起きる以前の状況、すなわち同性愛が「何十年もの間、暗黙に了解されてきた」という状況である。
では、なぜそれに興味を惹かれたのか。
それは、その状況が現在の日本と同じだからである。
日本では、欧米で見られるヘイトクライムのような、いわゆる目に見える形としての「ゲイ差別」は、幸いにして殆ど見られない。また、ある種の宗教的基盤のような、同性愛を絶対的な悪とみなす価値基準も、おそらくは文化的に存在していない。
ただし、どの社会でも一定数はいるであろう、同性愛を道徳的に悪しとする層は、日本社会の中にも確実に存在するであろう。じっさい、ネット上の匿名の場においては、本気なのか露悪趣味的な行為に過ぎないのかは別としても、そういった論調にお目に掛かることは、決して珍しくはない。
では、なぜそれが実社会で表面化していないかといえば、それは単に、そういった人々を後押しする大義名分が存在しないということと、そういった行為自体が、現在の社会というシステムの中で「良くないこと」とされているからである。仮に、宗教右派のような思想が後押しをすれば、同性愛批判は「正しい」という信念のもとに表面化するであろうし、社会というシステム自体がそれを制約しなければ、やはり同様の結果になる。欧米におけるキリスト教右派による活動などは、前者に相当するし、中東などのイスラム国家における同性愛差別は、前者と後者と共に相当する。
つまり、極論を恐れずに言うならば、日本における「ゲイ差別がない」状況というのは、社会というシステムによって「何となくそういう状況に置かれている」ということでしかない。
これは前述した「何十年もの間、暗黙に了解されてきた」という、1930年代の「同性愛者狩り」が始まる前オランダ領インドネシアの状況と、実は何ら変わることはないのだ。
しかし、その同じ「暗黙の了解」が、1930年代、ほんの数年のスパンで、社会のパラダイム・シフトによって崩れた。それまで表面化していなかったものが、大義名分や社会不安の影響といった後押しを得て、政治的な力となって顕在化したのだ。これは見方を変えれば、状況次第ではそうなって然るべき潜在需要が、かつての「暗黙の了解」の時代の中でも、既に存在していたのだとも言えよう。
そして、シュピースはその犠牲となった。(ただし、シュピースは後に釈放はされている。彼の直接的な死因となった、収容所間の移送中の爆撃において、その拘留理由となったのは、ドイツのオランダ侵攻による「敵国人」であるということだった)
このことは、同性愛を「何となく」寛容している「暗黙の了解」というものが、社会というシステム自体が変化していく局面においては、いかに脆弱なものであるかということを指し示している。
では、同様のことが現在起こったならば、いったいどうなるだろう。
欧米に関しては、同性愛者側からの抵抗がはっきりと出て、簡単に同じ結果にはならないであろうことが、充分想像できる。目に見える差別に晒されてきた欧米の同性愛者たちは、現時点において既に、政治的にも経済的にも、ある程度以上の行動力は持ち合わせているからである。
しかし、日本ではどうだろう。
これまで日本では、前述のように表面化したゲイ差別がないためもあり、団結や主張、或いは防衛の必要はなかった。権利を侵害されることはないが、同時に権利を主張することもなかった、あるいはする必要がなかったのだ。
日本におけるゲイのライフスタイルは、一例を挙げれば、その多くがウィークデイやデイタイムは「普通に生活」しながら、夜や週末や自宅のパソコン・モニター上でのみ「ゲイライフ」を満喫するという、「日常と分離した非日常としてのゲイ」なのである。よって、そういった非日常としてのゲイ・ビジネスは、ある程度以上には盛んであるし、社交を目的にするにせよ、性的な充足を目的にするにせよ、そういった場には事欠かないという、楽しいゲイ・ライフを満喫できる恵まれた状況にある。
しかし、例えばLGBT向けのTVネットワークであるとか、書店で普通に買えるエロだけではないLGBT雑誌であるとか、あるいは同性婚であるとか、そういったものになると、これらはいずれもゲイ文化、あるいはゲイという主体が、日常レベルでも機能している、あるいは消費の対象となっているがゆえに、初めて機能しうる類のものである。だが、日本では「日常」において、ほとんどのゲイが「姿の見えない存在」である以上、マーケット自体が存在しないのと同様なので、当然のように、前述したような類のものも存在しえない。
このことは、例えばカミングアウトしていないゲイが、家族や友人、仕事の同僚などの前で、明確に「ゲイ向け」の商品を購入することができるかどうかを考えれば、分かりやすいであろう。現時点での日本のような、日常化していないゲイ・マーケットの消費層にとっては、「ゲイ向け」というそのものズバリではないが、「ゲイ受けのする」とか「実はゲイらしい」といった、ゲイ・コミュニティー内である程度の共通認識がありつつ、しかし「ゲイとは何の関係もない」というエクスキューズも可能な「商品」までが、精一杯なのである。
こういった現象の是非は別にして、それが結果として、日本のゲイの置かれている現状が、欧米におけるそれとは異なっている状況をもたらしている。それは、政治や経済といった「日常」においては、日本のゲイ・コミュニティーは全く力を持っておらず、また、行動を起こそうともしていないということである。
過去に何度か、ヘテロセクシュアルのサイドから、政治的に、あるいは経済的に、欧米同様にゲイという潜在人口を期待したアプローチをしたことはあった。しかし、そのいずれもが期待された成果は得られなかった。つまり、他ならぬゲイ自身が、それに賛同することなくオミットしたのだ。このことからは必然的に、多くの日本のゲイ自身が、ゲイがあくまでも「非日常」のままであることを望んでいるのであろうと思わされる。ゲイが日常化することを希望する人口は、却って少数派なのであろう。
こういった現状を踏まえて、社会的なパラダイム・シフトが起こった場合、日本のゲイがそれに抵抗できる力を持ち合わせているかを考えると、残念ながら個人的には、どうも悲観的な予測しかできない。
しかも恐ろしいことに、前述した1930年代のオランダ領インドネシアにおける「同性愛者狩り」は、同種の行為で知られるナチス・ドイツによって行われたのではなく、ナチスに対立しつつ、その影に脅かされていたオランダにおいて、社会的不安を背景にして生まれている。ファシズムという、いわば分かりやすい「悪」の所産ではなく、それに対峙する存在であるかのような、本書の表現を借りると「普段は明晰で合理的な考え方を持つオランダ人たち」の手によってなされたのだ。これは、こういった「同性愛者狩り」が、ナチスの優性思想などとは異なる類の、より普遍的な人間社会のありようである可能性を指し示しているようで、ある意味で、絶滅収容所よりもそら恐ろしいものを感じる。
日本は差別もなく、ゲイにとっては住みやすい国かも知れない。しかし、その安穏さの立脚基盤は、慣習的な曖昧さに基づいているものであるがゆえに、同時にひどく脆弱である。そして、こうした曖昧さは、ゲイにとってのカタストロフが起こった際には、何の力にもなりえないであろう。
本書でヴァルター・シュピースの晩年について読み、改めて、そんなことについて考えさせられた。