『落下の王国』

『落下の王国』(2006)ターセム
“The Fall” (2006) Tarsem Singh
 前にここで予告編を紹介しましたが、期待通り、目の御馳走テンコモリでした。
 冒頭のモノクロームのシーンから、映像の美麗さに目を奪われましたが、その後も、次から次へと繰り出される、スケール感タップリな美麗映像の数々には、本当に圧倒されます。石岡瑛子の見事な衣装とも相まって、その計算尽くされたシャープな構図と色彩設計による美麗映像は、まるで動くファッション写真のよう。
 ただ、私の個人的な好みから言うと、美しさの質が極めてデザイン的で、ファイン・アート的な力強さには欠けるのが、ちょっと物足りないという感じもあり。
 いささか乱暴な説明になりますが、例えば、表現手法的に似たものがあるパゾリーニとかパラジャーノフには、強烈な個性と作家性が感じられるんですけど、このターセム監督の作風からはそういった個性ではなく、アーティスティックな作品から感銘を受けたアート・ディレクターが、それをコマーシャル向けに再構築したような、そんなニュアンスが感じられるんですな。
 前作『ザ・セル』の時も、コンテンポラリー・アートの引用の仕方などで、同様の印象は受けていたんですけれど、今回は、前作にあったグロテスク趣味や残酷趣味のようなものが後退し、より間口の広い(であろう)「美しさ」が前面に出ているせいもあって、それがより強くなった気がします。
 まあ、でもそれは良し悪しではなく、あくまでも私の好みの問題なので、かえってそこが良いと感じられる方もいらっしゃるでしょうし、とにかく前述したように、映像美は本当にスゴいです。劇場で見られて良かった〜、と、つくづく思いました。
 モノガタリ的には、半身不随の男が語る空想のお伽噺と、現実の病院で繰り広げられるドラマが、次第に交錯していくんですが、これといって目新しいものはなし。
 この映画では、空想はあくまでも空想のままで、現実の状況の変化によって、その内容も自在に変更が可能なので、現実と虚構の関係性も、前者が主で後者が従という構造は崩れず、逆転はおろか拮抗すらしない。空想のお伽噺を物語ることによって、それが現実の生活も変えていくという展開も見せますが、これも基本的には、そういった変化の起因となっているのが、現実の少女の行動や言葉なので、やはり前述の構造は崩れていない。そういう意味では、この映画で描かれている「物語る」という行為は、「モノガタリを作る」というよりは、「ごっこ遊びをする」のに近いのかもしれません。
 そこいらへんが、私の趣味的には、ちょっと食い足りない感もあるんですが、しかし、それを補って余りあるのが、この映画の持つ「愛らしい魅力」でした。
 前に、この監督について「日常の描写はあまり上手いとは思えない」といったことを書いているんですけれど、今回のそれは、前作『ザ・セル』のそれと比較すると、格段に良い。どうやら「あまり上手くない」のは、アクションやサスペンスといった、エンターテイメント的な動きのあるドラマツルギーの部分だけだったみたい。
 今回見せる日常の描写は、繊細でかなり良いです。空想世界の華麗なインパクトだけではなく、現実世界の方も、地味ではあるけれど負けず劣らず魅力的に描いてくれる。
 そして、それを更に後押しするのが、主役の少女の魅力。
 決して美少女ではないし、それどころか、最初にひと目みたときは、「うわ、何じゃ、このオバサンみたいなオンナノコは」とか思っちゃったんですけど(笑)、次第に表情といい仕草といい、マトリョーシカみたいな体型といい(笑)、もう何とも愛くるしく見えてくる。
 そしてラスト、それまではどちらかというと悲劇的だったり恐ろしげだったりしていた「落下」のイメージが、朗らかで楽しげなイメージに反転するんですが、これが実にお見事! 締めくくりの少女のモノローグと相まって、観賞後には楽しさと共に、愛らしい幸福な余韻が残る。
 映画の中で、モノガタリや現実世界は、この少女によって最終的に「救われる」構造になっているんですけれど、この映画そのものも、やはりこの少女に救われた感じがします。
 他に、幾つか印象に残ったこと。
 言葉と映像の関係という点で、ちょっと面白い仕掛けがありました。
 具体的に言うと(一種のネタバレなので白文字で)、空想のお話には「インド人(インディアン)」のキャラクターが登場するんですけれど、実はこれは、お話を聞いている少女が、そう思いこんでいるだけなんですな。映画のラスト、一瞬ですけれど、どうやら語り手の青年は「ネイティブ・アメリカン(インディアン)」として話していたのだということが、観客には判るような仕組みになっている。
 これは、ディスコミュニケーションの中で生まれたコミュニケーションを描いているとも言え、同種の構造は、ラストのカットアップのシーンでも、映像が本来描こうとしていたものとは違うものを、少女が見ているという形で描かれます。ここいらへんは、英語圏で生活する非英語圏の人間という、監督自身と同じ設定を上手いこと生かしていて、なかなか面白いなぁと思いました。
 こういった具合に、この映画には作家自身のプライベートな様々が盛り込まれているようで、他にも幾つか興味深いものがありました。
 プログラムによると、映画には監督自身の失恋体験が反映されているらしいんですが、その結果、思わず「女性嫌悪?」とか思ってしまうくらいの、成人女性へのあんまりな描き方になったのだとしたら、ちょっと大人げないなぁ、なんて気もします(笑)。まあ、別れた女への腹いせみたいのが、そんな形で出たのだとしたら、ある意味ほほえましいという気もしますけど(笑)。
 また、お伽噺の中でのメイン・キャラクターは、いちおう「山賊」なんですな。そして現実世界でも、「盗み」が展開の鍵を握っていて、その是非に関する会話も出てくる。で、この監督の作風は、前述したように自作中に他者の作品を「引用」することが多いんですけど、ひょとしてそれを「盗用」だと誹られて(本国ではそうか知りませんが、少なくとも日本では、『ザ・セル』のとき、そのことを痛烈に非難している評を読んだ記憶があります)、それが反映されて「山賊」やら「盗み」やらが出てきたのかな? なんて、つい深読みしたくなっちゃいますね。
 『ザ・セル』のコンテンポラリー・アート同様に、今回もバリ島のケチャやメヴレヴィー教団の旋回舞踏が引用されていましたが、まあ確かに、この監督の引用手法は極めて感覚的で、あまりコンセプチュアルな感じはしません。それを安易さと捉えて、批判したくなる気持ちも、まあ判らなくはないですけどね。