手塚治虫原作の映画『MW』が現在公開中だそうな。
映画そのものについては、プロットから同性愛の部分が完全にカットされたと知った段階で、興味ナシになってしまったので、映画そのものは未見です。ですからこの文章は、映画の内容を論じたものではありません。
ただ、主人公二人が同性愛の関係にあるかという設定が、なぜ映画では排除されたのかという、その理由について、ちょっと気になる記事を読んだものだから、自分の考えを書いておこうと思った次第。
その記事とは、こちら。
週刊シネママガジン/玉木宏の同性愛描写、事務所はOKしていた
これによると、
松橋プロデューサーは(中略)、出資者側から「ホモの部分を出すんだったら金は出せないよ」と言われてやむなく同性愛の描写ができなくなったことを明かした。
実は玉木宏も山田孝之も、事務所側は同性愛の描写をOKしていた。岩本監督も撮影中は玉木と山田にホモを演じるように毎日のように話していたという。
……という事情があったんだそうな。
う〜ん、作り手(プロデューサーや監督)も演じ手(俳優や所属事務所)も、原作と同じく、同性愛を映画の主要なモチーフとして取り上げたい気持ちがあったのに、出資者がそれを阻害した……ってのは、こりゃかなり根深い問題のような気がする。
それに加えて、ここにはもっと深刻な問題も潜んでいる。これについては、後ほど詳述します。
まず、なぜ「ホモの部分を出すんだったら金は出せない」という発想が出てくるのか。
金にならない、という理由は考えにくい。日本でゲイ・マーケットを期待するのは、以前この記事の後半部分で論じたように、残念ながらあまり現実的ではないが、しかに日本にはゲイ・マーケットより遥かに大きい、やおいとかボーイズラブとかいった、流行り言葉で言えば「腐女子」マーケットがあるのだ。
じっさい、現在のようにBLというものがオーバーグラウンドな存在ではなかった時代でも、『魔界転生』の沢田研二と真田広之のキスシーンは、マイナスイメージどころか、逆に宣伝になっていたように記憶しているし、『戦場のメリークリスマス』も、またしかり。まあ、いくら腐女子というものは「火のないところに煙を立てる」のが好きなのであって、あからさまに「狙った」ものは逆に萎える(らしい)とはいえ、それでも当代人気の二枚目スターが同性愛のシーンを演じるのだったら、見てみたいという人は多いだろう。
では、逆に「ホモが出てくる映画は見たくない」層というのが、問題視されるほど多いのか、ということを考えると、これはそもそも「マンガ作品の映画化」なので、取りざたすること自体がナンセンスだ。当然ターゲットとされるであろう、原作マンガのファンが、「同性愛描写があるから見に行かない」なんてワケはないのである。
そんなことを考えていると、どうしてもこれは、同性愛を扱った映画に出資することが、スポンサーとなる企業にとってマイナスイメージになる、と考えているのではないか、と疑りたくなる。だとすれば、これは立派なホモフォビアである。
そう仮定すると、ここには問題点が二つある。
まず一つは、ホモフォビアの存在そのものである。これ自体が、充分にゲイに対して差別的ではあるのだが、まあ、心の中でそう思っているだけで、表出しないでいるのなら実害はない。私が自分で望むと望まざると関わらずゲイであるように、世の中には、とにかくナンダカワカラナイけどゲイが苦手って人がいたって、別に不思議はないかもな、とも思うし。
ただ、その「表出」というのが、第二の問題点であり、これが前述した「もっと深刻な問題」。
というのも、残念ながら日本社会においては、ホモフォビアの存在そのものもさることながら、それが表出するのを止めるというストッパーも、ほとんど機能していないように思われるからだ。
いささか小さな例ではあるけど、例えば松沢呉一さんの記事で知った札幌ラヂオ放送のWikipediaというヤツ。相手を貶めるつもりで「同性愛」という用語を使い(つまりホモフォビアの存在が見られる)、それをパブリックな場で平然と発信する(つまりホモフォビアの表明に全く躊躇がない)、という、二つの姿勢が同時に見られます。
ホモフォビアを表明することに躊躇いがない、ということから、もうちょっと視点を拡げて、ゲイに対する無知や不見識、あるいは、意識的にせよ無意識的にせよ差別的な言動に対して、そもそもの発言者も、それを伝播するメディアにも、全くストッパーが働いていない例として挙げたいのが、ジャーナリストの北丸雄二氏が「バディ」誌上に書いた記事。
内容は、日本のテレビドラマで男同士のキスシーンだか何だかを演じた俳優の、記者会見での言動とマスコミのとりあげ方について批判したものでしたが、日本の社会では、こういったことが一般常識レベルでは全く機能していないという、実に判りやすい好例でした。確か、ネット上でも同趣旨の記事を読むことができたような気がしたので、ちょっと探してみたんですが、残念ながら見つけられませんでした。リンク貼りたかったんだけどな。
つまり、何が言いたいかというと、ホモフォビアの存在も問題だが、それを平然と公言してしまう、ということが、社会通念的にまかりとおってしまう、というのは、もっと大問題なのではないか、ということです。
自分のホモフォビアやゲイ差別的な姿勢を、宗教組織内や思想団体といったクローズドな場ではなく、パブリックな場で平気で表明するということは、まるで「自分は人種差別思想の持ち主だ!」と胸を張って言っているのに等しい、大いに恥ずべき行為だということが、日本社会の共通認識としては全く機能していない。
で、ようやく話を戻しますけれど、つまり「ホモの部分を出すんだったら金は出せないよ」という発言は、ホモフォビアの所産ではないかと疑われると同時に、それが問題視されずに平然とまかり通っているのなら、その状況自体が更に大問題だ、ということです。
本来ならば、そんなことをすれば、それこそ企業のパブリック・イメージを損なうのが、社会のあるべき姿だというのに、現状ではそうはなっていない。それどころか、報道もそれを問題発言として取り上げていない。
つまり乱暴に言うと、このことからは、日本の社会では、「個人(や企業)がホモフォビアを持つ(表明する)こと」を、「社会も容認している(問題視しない)」という、二重のゲイ差別が伺われるわけです。病巣としては、かなり根深いと言わざるをえない。
記事では、この出資者というのが何処の誰なのか、具体的には書かれていませんが、これははっきりと公表すべきでしょう。それくらい、問題視すべき発言だと思います。出資者なんだからデカい会社のエラい人なんでしょ? だったら、発言にはそれなりの責任を負ってしかるべきでしょう。
少なくとも私は、そんなスタンスの会社とか、そんな発言を平気でする人を重役として重用するような会社には、ビタ一文、自分の金は落としたくはないからね。
政治家の失言とかだけじゃなくて、こういう問題も叩けよな、マスコミ……と思うけど、その肝心なマスコミ自体が、前述したように「無知で差別的であることを恥じないどころか隠そうともしない」状況、更に言えば「何が問題であるかすら気付いていない」状態なわけですから、また堂々巡りになっちゃう。
まあ、そんな状況下でも
「日頃たまってるうっぷんをこの場を借りて晴らさせてもらうと、出資者には同性愛の描写はありませんよといいながらも、暗喩するように描いているんです。体をタオルで拭いてあげる2人の関係がゲイじゃなくて何なんでしょうか」
……と、精一杯の抵抗を見せたらしいプロデューサー氏には、まあその人なりの想いがあるんだろうけれど、しかし、『セルロイド・クローゼット』に出てきた映画の時代じゃあるまいし、21世紀にもなって、今さら「同性愛」を「暗喩」で描いた映画なんて……ねぇ。
それどころか、《明示されていた同性愛を暗喩に変えて描く》という行為自体が、実はゲイに対して差別的なことなのだ、という自覚は、果たしてあるのだろうか、という疑問が持ち上がってくる。いくら「本当は隠したくなかった」んだとしても、同性愛を「意図的に隠して」描いている以上、それは結果として、前近代的の差別的な同性愛の扱い方と、何ら変わりはないのだから。
まあ、私も作家の端くれだから、クライアントの意向は大きいというのは判るし、愚痴りたくなる気持ちも判るけど、だったら「同性愛というプロットが排除されたのは、出資者の意向だった」と言った後、「描けなかったけど暗喩云々」と言い訳めいたことを言うのではなく、ただまっすぐに胸を張って「でも、この映画の主人公は、原作マンガと同様に、同性愛関係にあるんです」と言えばいいのに。
ついでに、主演俳優の方々も一緒に、「僕たちの演じた役はゲイです」と言ってくだされば、もっとヨロシイ。それがスポンサーを怒らせちゃうんなら、そこであらためて議論するなり戦うなりすればいい。
それが、同性愛者に対して誠実である、ということだと思いますよ。
まあ、こういった問題の病巣の根深さを、メジャーなレベルで明らかにした、という功績はありますけれどね。
しかし同時に、発言者も報道者も、多かれ少なかれ同じ病根を共有している、ということまで見えてしまったのが残念でした。
とりあえず、Gay Life Japanさんの記事など、幾つか物議はかもしているようなので、これをきっかけに、社会全体レベルで少しでも前進してくれるといいんですが……。
あ〜あ、せっかく昨日、エジプト展のことを書いたから、それつながりで、今日は大好きなエジプトの歌をYouTubeで見つけたので、それを紹介しようと思ってたのに……。
ま、それは明日にします。久々に長い論考を書いて、疲れちゃった(笑)。