都条例「非実在青少年」規制問題に関する私見

 なぜ私が、この事態を憂慮しているかということについても、ちょっと意見を述べておきたいと思います。

 まず、そもそも今回の「非実在青少年」のように、「実在しない」のに「人権がある」ような考え方自体が理解できない。
 百歩譲って、フィクション上の「非実在青少年」なるものについて、積極的に考えようとしても、文章がOKで絵がNGだというのも判らない。文章よりも絵の方が、より即物的で犯罪的な存在だとでもいうのだろうか。

 次に、作家としての自分の「表現の自由」を守りたい、ということは、言うまでもない。
 そもそも私は「フィクションにタブーなし」という考え方であるし、本家サイト開設以来、トップページにずっとバナーを揚げてきたように、「フィクションと現実は明確に区別せよ」という信念を持っている。
 性表現・性文化のゾーニングに関しては、「賛成」するのにやぶさかではないけれど、ただし、よく引き合いに出されるように、「欧米では……」といったグローバル・スタンダード的なレトリックを用いるのなら、ゾーニングを徹底すると同時に、ポルノグラフィーを解禁せよ、と言いたい。
 この問題以前から、私の「表現の自由」は、「性器の修正」という形で、既に侵害されている。

 性と表現の関わりについては、まず、美術史上から先例を幾つか引いてみたい。性と表現に関してもの申すなら、もうちょっと歴史から学べることがあるだろう、と思うからだ。

 まず、有名な話から、16世紀イタリアの話。
 画家ダニエレ・ダ・ヴォルテッラは、ミケランジェロの「最後の審判」に描かれた、裸体画の股間を隠すために、布や葉などを加筆した。このことから、気の毒に彼は、後世まで「ふんどし画家」と嘲られてしまった。
 次に19世紀、明治期の日本。
 画家黒田清輝の「朝妝」が「裸体画論争」を引き起こし、ときに裸体画は下半身を布で覆われた状態で展示されたりした。
 そして、同じく19世紀、ヴィクトリア朝のイギリス。
 ロイヤル・アカデミーの会計会長ジョン・キャルコット・ホーズリーは、「ふしだらなヌード画」に対する徹底的な攻撃によって「着衣のホーズリー」とあだ名され、雑誌『パンチ』上で茶化され、画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラーは自作のヌード画に、「邪(よこしま)なるものこそホーズリーなれ」というメモを貼って出品した。
 この「ヌード論議」で、ヌード反対派を後押ししたのは、当時活発化した「社会浄化運動」だった。
 そして、当時の価値基準では、同じヌード画でも、アルバート・ムーアの「ヴィーナス」は猥褻で、フレデリック・レイトンの「衣を脱ぐヴィーナス」は芸術だった。これは、当時の「モラル」に準拠した判断なのだが、どうしてか、その理由がお判りだろうか?
 その答えは、ここでは書かないことにする。何故なら、ここでは「どうして?」と思うこと自体に意味があるからだ。

 このように、いずれも現代の感覚からすると、理解できなかったり、滑稽に感じられる「美術史上の事件」だが、実のところ、現在の日本の状況を鑑みると、あながちこれらを滑稽だと笑うことはできないのだ。
 なぜなら、こういった滑稽な事態を生み出したのは、今回と全く同じ、「健全か、不健全か」という価値基準であり、「健全はよし、不健全はダメ」という考え方なのだから。
 21世紀の日本社会は、裸体表現に対する禁忌という意味で、「ふんどし画家」や、明治時代の「裸体画論争」と似たようなものだし、モラル的な断罪といった点では、ヴィクトリア朝イギリスの「ヌード論争」と同じであり、しかも今回の「非実在青少年」によって、それが更に退行しようとしている。
 特に、後者の「健全・不健全」といったような、モラル的な断罪方法については、かつて同性愛差別が、同じモラルの名のもとに正当化され行われてきた歴史を踏まえても、私は断じてそれに同意することはできない。

 しかも今回は、それが政治という「社会の中核を成す部分」で起きている変化であるが故に、その行く先に対する懸念が、私の中では通常以上に大きくなっている。
 前述したように、こういった性を思想的に扱いつつ、それを「健全・不健全」と二項対立で判断するような考え方が、性を「マトモ」と「ヘンタイ」に分け、「同性愛」は「ヘンタイ」とされてた。そして、この性を「良し悪し」で判断するための基準とされてきたのが、学術やモラルであったのだが、いずれも社会や時代の違いに応じて、いかようにも変化してきた。
 つまり、これらは実に曖昧に揺らぎうるもので、決して普遍的な絶対律ではない。
 これは、今回の都条例の持つ「曖昧さ」、つまり、判断基準が恣意的に、いかようにも変化しうるという問題点と、相通じるもののように思われる。どちらも、「今日はOKだったものが、明日はNGになりうる」のだ。
 政治という社会の中核部で、仮にも条例という「法」が、そういった「曖昧さ」を孕んだまま、しかも「わざと議論の余裕を持たさずにスピード採決に持ち込もうとするかのような動き」(竹熊健太郎)、つまり、誰も知らないところで決定してしまい、それを既成事実にしようとするという考え方には、私は心の底から恐怖する。
 更に、山田五郎氏のラジオで聞かれるように、テレビという最も大きな影響力を持つメディアは、このことを議論はおろか、きちんと触れようとする気配すら見せない、という事実も恐ろしい。

 こういった動きを社会全体が受容する、つまり、例え「おかしい」という声が上がっても、それについて議論されることもなく、そのまままかり通ってしまう世界であるのなら、私はそこに、以前ここでヴァルター・シュピースについて書いたときに触れた、1930年代のオランダ領インドネシアで、それまで何十年も「暗黙の了解」という「曖昧さ」によって守られてきた同地の同性愛者が、社会が保守化していくパラダイム・シフトの中で、否応なく「狩り」の対象へと変化していった、という事例を、重ねずにはいられない。
 このことが、現代の日本とどのように通じるものがあるかは、上記のエントリーで既に書いているので、ここでは繰り返しさないが、それに関してテレビが「沈黙」していることが、これまた以前ここでマンガ「MW」の映画化に際して意見を書いたときと同様の、性に対する旧弊で無知な現状を思い出させる。
 だから、「非実在青少年」という言葉は、いかにも滑稽なものではあるけれど、それを生み出した「思想」と、それを育ててしまう「状況」には、私は底知れぬ恐怖を感じてしまう。
 いささか大げさに感じられるかも知れないが、それが私の正直な感想だ。

(ヴィクトリア朝絵画におけるヌードに関しては、雑誌『芸術新潮』2003年6月号「ヴィクトリア朝の闘うヌード/筒口直弘」を参照)