『劇画 家畜人ヤプー」沼正三/石ノ森章太郎、復刊!

 紹介しよう、しようと思いつつ、件の「非実在」関係のせいで、すっかり遅くなってしまいました。
 ポット出版さんから、沼正三・作の天下のマゾヒズム奇書『家畜人ヤプー』を石ノ森章太郎がマンガ化した、『劇画 家畜人ヤプー』が復刻されました。

劇画家畜人ヤプー【復刻版】 『劇画 家畜人ヤプー【復刻版】』
作・石ノ森章太郎、原作・沼正三

 去年の秋だったか、この本を復刻する予定だと、ポットの沢辺さんに聞いたとき、私は、絶版になっていたとは知らずに、ちょっとビックリしました。このマンガが最初に世に出たのは1971年、私が実際に読むことができたのは、83年に復刊されたときでしたが、作品自体が有名だし「あの石ノ森章太郎が」というネームバリューもあるので、てっきりその後も地味に版を重ね続けているのだとばかり思っていたもので。
 というわけで、まずは復刻自体に乾杯。オマケに今回は、丸尾末広氏の解説付き。愛蔵版として所有するのに相応しく、ハードカバーのしっかりとした造本、黒とシルバーをベースに、隠し味に紅を効かせた(余談ですが、昨年フランス人に聞いたんですけど、黒と赤ってのは、彼らにとってはとても「日本的」な配色なんですって)シックな装丁。
 さて、装画も含んだ『家畜人ヤプー』のヴィジュアライゼーションというと、「白い女神崇拝」というテーマとヨーロッパ的な耽美趣味が良く合っていた村上芳正氏、サイケ感覚と奇形化した肉体描写の合体が、ローラン・トポルの『マゾヒストたち』のような味わいの宇野亜喜良氏、「完結編」初出時の奥村靫正氏、最近のマンガ化の江川達也氏、現行文庫版の金子國義氏……といった具合に、様々な絵師が手掛けているわけですが、その中でもこの石ノ森版は、小説家の個性とマンガ化の個性が、かなり良く合っているのではないか、と、個人的に思っております。
 まあ、解説でも指摘されているように、確かにちょっと絵が荒いきらいはありますし、デフォルメ、特に肉体描写に関しては、70年代のマンガではいたしかたないこととはいえ、やはりマンガ的な記号表現のみでそれを描く限界が感じられてしまい、肉体の持つリアルな説得力という意味では物足りない。
 それでも、石ノ森キャラの「お姉さん」的な風情は、女尊男卑で統べられた超未来社会のドミナ、サディスティン像には良く合っていると思うし、現在の目で見ると既にレトロ・フューチャーになってしまっているとはいえ、SF的な描写もお手の物。
 それに何と言っても、流石は早熟の天才にしてベテラン作家の手によるマンガ化、その、マンガとしての読みやすさが素晴らしい。膨大なテキスト量、それも俗に言う「説明セリフ」が、動きのない会話で延々と続くにも関わらず、コマ割りや構図の工夫で、その単調さを最小限に抑えて見せる手腕は、やはり「マンガ家・石ノ森」ならでは。
 ここで「What if」を語っても、余り意味のないことだとは思うが、もし、誰か他の作家が『ヤプー』をマンガ化するとしたら誰がいいだろう……などと考えてみると(因みに丸尾氏は解説中で池上遼一氏の名前を挙げておられる)、私なんかは、「『白い女神』的なドミナ美女」と「男女共に解剖学的なリアリズムのある肉体描写」という二点から、三山のぼる氏(残念ながら既に鬼籍にはいられてしまったが)の描く「ヤプー世界」を見てみたい、と、個人的には思うのだが、しかし、この石ノ森版のマンガ的な完成度、マンガとしての読みやすさは、やはりそういったものとは別種の「技術力」だと思う。
 もう一つ、私がこの石ノ森版を愛好する理由として、マゾ側の主人公、瀬部麟一郎の造形がある。
 小説版でも石ノ森版でも、この、現代から未来世界に「拉致」されて、「日本人・瀬部麟一郎」から「ヤプー(家畜人)・リン」にされてしまう主人公は、いちおう「西ドイツの大学に留学中、柔道五段」という、いわば「文武両道の男らしい日本男児」である。
 ところが小説版では、それは最初のキャラクター設定的に語られるのみで、ストーリー中では全くというほど機能していない。やはりこれは、マゾヒストの作者が己のマゾヒズムを投影しているせいか、未来世界に拉致されてから後の麟一郎のキャラクター描写に、およそ「文武両道の男らしい日本男児」らしさが見られないのだ。
 全裸のまま家畜同様に扱われ、体内に寄生虫を入れられ、糞尿や経血を餌として与えられ、皮膚や口唇の加工といった様々な肉体改造をされ、あまつさえ去勢もされ、決して後戻り出来ない道へ堕ちていき……といった展開にも関わらず、それに対する心理的な抵抗や絶望感が余りにも乏しいので、端で見ていると「いとも易々と」家畜人としての自分の運命を享受していくように見えるほどだ。で、ついつい「これだったら『原ヤプー』も『土着ヤプー』も、大して変わらなさそうだな」なんて、余計なことを考えてしまう。
 こういったことが、私が小説版を読んでいて、最も物足りなさを感じてしまう部分なのだが、この石ノ森版は、その「物足りなさ」を「絵」による「表現」によって、ある程度カバーしてくれる。
 具体的に言うと、石ノ森版の麟一郎は、その外見そのものが、さほど個性的ではないが、それでも「青年マンガのヒーロー」的な造形になっている。つまり前述したような、設定で語られながらストーリー中では抜け落ちてしまっている「男性的」な要素が、キャラクターの絵そのものによって補われているのだ。
 もう一つ、麟一郎の「表情」がある。基本的なエピソードの展開は、小説もマンガも同じだとはいえ、その場面場面で描かれる「キャラクターの表情」は、心理を表現するという点で、ある意味で文章を越える説得力をもたらす。つまり、テキストでは描かれなかった麟一郎の戸惑い、怒り、苦痛、屈辱、諦念などの感情が、その表情によって何よりも雄弁に語られる。
 これらが、私にとって石ノ森版の最大の魅力である。
 さて、石ノ森版について語ろうとする余り、ついオリジナルの小説を批判するような文言が続いてしまったが、過去にもあちこちで語ってきたように、私にとっての沼正三の『家畜人ヤプー』および『ある夢想家の手帖から』は、マルキ・ド・サドや西村寿行などと並んで、作家としての私に大いに影響を与えた作品であり、大いにリスペクトしている作品でもある。
 前述したような「不満点」は、あくまでも私の個人的な「ポルノグラフィー脳」から出る反応であり、正直、ポルノグラフィー的な観点での愉しみ方だけ言えば、私にとっての『ヤプー』は「麟一郎の去勢」あたりでストップしてしまうのだが、『ヤプー』の魅力はそれだけではない。他に類のない綺想小説として、イマジネーション迸る幻想小説として、十代の私が夢中になり、そして未だにその呪縛から逃れ切れていない感のある小説だ。
 リビドーに基づくイマジネーションの暴走と、それによって拡がっていく、有無を言わせぬほどパワフルな世界観というものは、ポルノグラフィーなど、エロティックなフィクションならではの醍醐味である。その中でもこの『ヤプー』は、最大にして最強(最凶かも知れないが)の存在だ。
 特に「『ヤプー』って良く聞くけど、実際にはまだ読んだことない」という方には、この石ノ森版はオススメである。
 原作小説のペダントリーや言葉遊びの嵐に挫折してしまった人にも、このマンガ版は、そのエッセンス、美味しくて食べやすい部分だけを味見できるだろう。実際の小説は、後年になって書かれた続編(完結編)も含めると、この石ノ森版は冒頭部分のみ、まだ全体の四分の一くらい(?)ではある。ただ『ヤプー』の「良いところ」は、全てこの冒頭部分に集約されている(ぶっちゃけ個人的には、後年に書かれた「続き」は、全く面白いとは思えなかった)ので、この部分だけでも全体のイメージを掴むには充分だ。
 もちろん、小説既読で石ノ森版は未読の方にも、前述したような「新たな魅力」も発見できるのでオススメしたい。
 余談。
 私が『ヤプー』を読むたびに「羨ましい」と思うことが一つある。それは、男女という性差の存在だ。
 私自身でも、こういった「世界レベルでの支配・被支配」を、サドマゾヒズム的なスタンスで描いてみたい、という希望はあるのだが、いかんせん「ゲイもの」だと、「人種」はともかくとして「男女」のような絶対差が存在しない。世界を真っ二つに分けることができないのだ。
 というわけで、この『ヤプー』とか、洋物のフェムダムのような、そういった「男女」という「違い」が「問答無用で活かされている」SMものに触れると、いつも「ゲイSMフィクションの限界(笑)」を感じてしまうのである。