特集に興味があるときだけ購入している『芸術新潮』ですが、今月号は見逃せない小特集が載っているので、ご紹介します。
芸術新潮 2010年 05月号 [雑誌] 価格:¥ 1,400(税込) 発売日:2010-04-24 |
現在店頭に並んでいる雑誌『芸術新潮』5月号。
表紙でお判りのように、メインの特集はエドゥアール・マネなんですが、スゴいのは第二特集。
題して「股間若衆」!
副題に「日本近代彫刻の男性裸体表現の研究」とあるように、明治以降、日本の作家による西欧的な伝統に基づく写実彫刻において、股間、つまり男性性器はどのように表現(或いは秘匿)されてきたのか、という流れを、豊富な図版と共に論じた内容です。
特集頭の「曖昧模っ糊り」という章から、ユーモアと皮肉をたっぷり効かせながら、ヌードという「セックス」を含む「芸術表現」に対する日本的な欺瞞を、ものの見事に暴き出してくれていて痛快至極。ここだけでも、表現規制についてアレコレかまびすしい昨今、一読の価値ありです。
もちろん、メール・ヌード美術全般に興味のある方だったら、その着眼点といい、内容の希少性といい、これはマストだと思うので、激オススメ。
個人的には、芸術だの隠す隠さないだのといった問題とは無縁の、輸出用に作られた名匠による工芸品としての「生き人形」が、掲載図版の中では最もコンテンポラリー・アート的な印象を受けるのが、何とも興味深かったです。
つまり、いかなる理由があろうとも、在るべきものを表現しないとか、そこにオブジェ以上の意味を(勝手に)感じて(或いは配慮して)「隠す」という行為には、どうしても「ノイズ」という結果がつきまとってしまい、表現の「純度」を損なうんだな、ということ。そこには、「猥褻を意識するがゆえの猥褻感」が存在してしまう。
北村西望の『怒濤』なんて、実に日本的なメール・ヌード像としての逸品だと思うんですが、しかし、その奇妙な股間の表現には、どうしてもそういったノイズが感じられてしまう。対して、前述の生き人形には、それがないんですな。
基本的に、自分が日本人であることには何の不満もないんですけど、こういった明白な事例を見る時ばかりは、「あ〜あ、やっかいな国に生まれちまったなぁ……」と思っちゃう(笑)。
前述の「アートとしての生き人形」に関して、もう一つ付け加えると、そこには「芸術であらんとしよう」というノイズもない。それゆえにシンプルで純粋であり、だからこそ逆説的に、その「作品」が「芸術的」に感じられる。
これは、私にとって一つの理想的なありようです。私にとって、それが芸術であるか否かは、制作動機や目的ではなく結果が全てであり、しかもそれは、個の主観による判断に基づくものだ(つまり汎的な芸術というものは存在しえない)、というのが、私自身の考え方なので。
もし、この特集内で、どれか一点作品を貰えるとしたら(私は良く、展覧会等でもこういった発想で、マイ・フェイバリット・ワンは何かを考えます)、もう問答無用で「農夫全身像/鼠屋伝吉・作」ですね。それから少し離されて、二番目が前出の「怒濤/北村西望」かなぁ……。
ンなこと考えたって、貰えっこありませんが(笑)。
【2012年4月9日追記】この『股間若衆』、後に掲載された『新股間若衆』や書き下ろし原稿などと共に、目出度く単行本化されました。オススメの一冊。
【追記2】2017年4月には、続編『せいきの大問題:新股間若衆』も出版されました。こちらも是非。