1995年に雑誌「ジーメン」でデビューし、同年、アメリカのトム・オブ・フィンランド・ファウンデーション主催のエロティック・アーティスト・コンテストでも、シングル・フィギュア部門で1位を射止めた《男絵師》不破常次さん(後に不破久友→彩文大和とペンネームを変更)が、7月30日に亡くなられたそうです。直腸癌による失血死。享年60。
昨日、最後を看取られた方からメールをいただきました。
故人の交友関係が判らないために、携帯電話にメールアドレスが入っていた、私から周知してくれないかとのことでしたが、作品のファンは日本にも海外にも大勢いると思うので、そういう方々にもネットを通じてお知らせしたいとお願いしたところ、ご快諾いただけたので、こうしてブログで公表させていただきます。
前述したように不破さんは、創刊当初の「ジーメン」でデビューし、以降、初期の「ジーメン」ではコンスタントにイラストや絵物語などを発表していました。
その当時、私は既に専業作家として独立しており、同時に、仲間と一緒に新雑誌「ジーメン」を立ち上げ、雑誌全体のコンセプトからアート・ディレクション、企画編集に至るまで深く関わっていましたが、彼の文字通り《魂を込めた》ような重厚に塗り込められた鉛筆画に、あっという間にそんな立場を越えた1ファン、それも熱烈なファンになりました。
また同時期、ゲイショップ「BIG GYM」の直販オンリーで、『DESIRE』と題された不破さんの複製原画セットも発売され、その序文というか推薦文のようなものも書かせていただいています。
しかしその後、作品の発表ペースは次第に落ち、私が「ジーメン」と決別した2006年には、ほぼ皆無になっていたような気がします。(その後、再び作品発表があったとの話も聞いた記憶がありますが、2006年4月以降の同誌の内容については、私は全く把握していないので良く判りません)
不破さんは、あまりご自分のことを語りたがらず、私もプライベートな部分に関しては、正直いまだに何も知らないに等しいです。
それでも、私が「ジーメン」を立ち上げるずっと前に、不破さんと私のパートナーの間にあれこれ交友があったことなどもあり、そんな親しみもあって、編集部やパーティなどで会うと、良くじゃれあっていましたし、不破さんがウチに遊びに来たこともありました。
謎めいたところは多い方でしたが、ちょっと構えたシャイなところがあって、でもお酒が入るといきなり気さくになり、更にお酒が進むとガキ大将のようになったり、はたまた野獣のようになったり。とにかくとても魅力的。
オマケに私の好みにどストライクの、眼光鋭いすこぶるつきのいい男で、でも笑うといきなり少年みたいになって、ガタイも肉厚骨太の筋肉質。酔っぱらって抱きつかれたりすると、嬉しいんだけど、ムラムラしちゃって困ったり(笑)。
そんな不破さんと久々に再会したのは、私が2010年に銀座のヴァニラ画廊でやった個展「WORKS」会場でした。前にこのブログにアップしていますが、その時に一緒に撮った写真を再掲しておきます。
その際にあれこれ話をした中に(そういえば、私がジーメンから離脱したことは全くご存じなく、かなり驚かれていました)、絵は描きたい、描き続けたいけれど、お仕事の関係か何かで、思うように描ける環境にない……といったような、ちょっと悩み相談的なものもありまして、じゃあ後日改めてゆっくり会いましょうと約束し、互いにメールアドレスを交換しました。
しかし、お会いしたのはそれが最後になってしまいました。
後日、幾度かメールのやりとりをしたものの、なかなか互いの都合が合わず、何となく立ち消えに。今となっては、それがとても悔やまれます。
私の同時代のゲイ作家の中には、上手かったり魅力的だったりする作品を描かれる方は大勢いますが、不破さんの絵の《濃さ》は、ちょっと他に類をみないものだった気がします。
エロティック・アート全般における、私の基本的な考え方として、作家という《人》のエロティックな指向、嗜好、オブセッションの類が、いかに色濃く表れるか、そしてそれがいかにその他一般の価値観を圧倒して、その作家の作品ならではの《美の姿》となるか、その姿によって《人》の分身となり得るか……というのが、とても大きな命題なのですが、不破さんの作品とは、まさに《それ》を体現するものでした。
だからこそ、私のところに海外から「Fuwaの原画が手に入らないか」と問い合わせメールが来るように、当時の「ジーメン」購読者以外の、きっとどこかでスキャン画像を見たのであろう、外国の熱烈なファンも獲得できたんだと思います。
もっともっと、描き続けて欲しかった。
60で逝っちゃうなんて、早すぎるよ、不破さん……。
(8/21:『じょうじ』の字が間違っていたので訂正しました)