“David” (2013) Bejoy Nambiar

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“David” (2013) Bejoy Nambiar
(マレーシア盤&インド盤DVDで鑑賞)

 2013年のインド映画。異なる時代、異なる場所で暮らす、同じデヴィッドという名前の男たちの姿を交錯して描きながら、人生の意味を問うヒューマン・ドラマ。それぞれ漁村と都会に住む、二人のデヴィッドを描いたタミル語版と、それにロンドンに住むデヴィッドを加えた三人のヒンディ語版あり。
 監督のは、デビュー作“Shaitan”のエッジの効いた作風が話題になった、ベジョイ・ナンビアール(?)。タミル語版とヒンディ語版共通して、漁村のデヴィッド役にご贔屓ヴィクラム。
 都会のデヴィッドは、タミル語版がジーヴァ(?)、ヒンディ語版がヴィナイ・ヴィルマニ(?)。ヒンディ語版のみ登場のロンドンのデヴィッドにネリ・ニティン・ムケーシュ(?)。

 1975年、ロンドン。
 同市に居を置くインド/パキスタン系マフィアのボスで、インドでのテロにも関与している人物を暗殺するために、インドから特殊工作員数名が来英するが、そのボスには腹心でスゴ腕の男、デヴィッドがついている。
 デヴィッドは幼い頃に親を亡くし、ボスに育てられ父親のように慕っており、同時に同じくボスの家に暮らす縁戚の娘ヌールと密かに愛し合っている。一方でボスの実の息子は、父親が自分よりデヴィッドを愛していると感じ、グレて放蕩者になっている。
 しかしデヴィッドは、インドからきた工作員たちから、実はデヴィッドの実父を殺し母を奪ったのは、彼が慕っているボスであり、その暗殺に手を貸すように持ちかけられ……。
 1999年、ムンバイ。
 都会に住む青年デヴィッドは、牧師の息子でミュージシャンを目指している。彼は、自分たちの生活費を削ってまで貧しい者のために尽くそうとする父親に反感を持っており、いつかこの街を飛び出してミュージシャンとして成功することを夢見ている。
 そんな中、ようやく念願叶ってデモテープが認められ、彼は有頂天になるのだが、そんな最中、反キリスト教の保守派が家を襲い、彼の父親である牧師が公衆の面前で暴行されてしまう。以来、牧師は精神に異常をきたしてしまい、デヴィッドはそんな父親の仇をとりたいと、事件の黒幕である女政治家に迫るのだが……。
 2010年、ゴア。
 漁村に住む中年の漁師デヴィッドは、かつて結婚式の日に花嫁に逃げられ村中から笑われて以来、酒浸りとなって酒場では喧嘩を、しかも日がな酔っぱらって死んだ自分の父親の幽霊と話しているので、周囲からはちょっと頭がいかれていると思われている。
 ある日、漁師のデヴィッドの親友ピーターのところに、結婚話が持ち上がる。その結婚相手、美しい聾唖の娘ロマに紹介されたデヴィッドは、ふとしたきっかけで彼女から頬にお礼のキスをされて舞い上がってしまい、真剣に自分が彼女と結婚したいと思うようになる。
 しかし自分がロマを横取りすれば、かつて自分が受けた仕打ちと同じことを、親友に対してすることになる。思い悩んだデヴィッドは、父親の幽霊や、馴染みのマッサージパーラーの女主人や、母親に相談するのだが、可笑しなトラブルばかり起きていっこうに悩みは解決せず……。
 果たして、ロンドンのデヴィッドは育ての親であるボスの暗殺に手を貸すのか、ムンバイのデヴィッドは父の教えに従って件の政治家を赦すことができるのか、漁師のデヴィッドは親友の花嫁を奪って結婚式を壊してしまうのか?
 ……といった内容。

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 では、まず先に鑑賞したロンドン・パートがないタミル語版の感想から。

 なかなか面白かったです。
 同監督の話題になった前作”Shaitan”でもそうでしたが、映像は如何にも今風のスタイリッシュ系で、テンポや演出もシャープ。いわゆる昔ながらのインド映画っぽさはほぼ皆無で、テイストとしてはアメリカのインディーズやヨーロッパ映画に近い感じ。同時に、魅力的ながらも後半ちょっと失速してしまった”Shaitan”と比べると、今回の”David”ではそういうこともなく、完成度もこちらの方が上。
 漁村のパートを完全にコメディ仕立て、都会のパートは完全にシリアス仕立てにしているのも、その対照が効果的でマル。陽光に満ちたカリブ海風の映像と、寒色を基調とした都会の映像のコントラストも良く、それぞれのエピソードを切り替えるタイミングも上手い。
 全体の尺が、インターミッションなしの2時間強というコンパクトさも良し。
 テーマ的には、良心の声とキリストの教えという二本柱で、人はそれによって救われるかといった感じなんですが、それと同時に、見えざる神の手のような運命論的な要素も見え隠れするのが興味深いところ。
 エピソード的には、漁村パートであちこち仕込まれる《奇妙な話》系の小ネタが楽しい。

 ヴィクラムは相変わらず達者。ユーモラスな悩める男を愛嬌たっぷりに見せてくれます。
 青年デヴィッドを演じるジーヴァも、抑えたリアリズム主体の演技で佳良。
 牧師役のナサールはタミル映画で良く見かける人ですが、これまた抑えたリアリズム演技が、いつもとひと味違っていてとても良かった。
 総合すると、全体がリアリズム主眼でインド映画的なクセもなく、一般的な他の国の映画と変わらない感じで見て楽しめる一本で、後味も上々。ただ、魅力的な要素は多々あれども、これぞという決定打にはもう一つ欠ける感じもあり。
 とりあえず、ヴィクラム目当てならマストと言って良いかと。

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 続けて、後から見たロンドン・パートが増えているヒンディ語版の感想。

 まず、タミル語版と比較すると、タミル語版ではロンドンのパートがないということもあって、全体的なまとまりはタミル語版の方が上。
 しかし、最後に明らかになる仕掛けの面白さ、つまり、この三人のデヴィッドの話には、いったいどういうことが秘められているかが、最期に浮かびあがるというカタルシスは、構成がより複雑なヒンディ語版の方が勝っているという印象。
 映像面では、タミル語版同様、寒色系主体でフォーカスの操作なども凝ったムンバイと、色鮮やかで暖色系主体のゴアに加えて、かっちりとしたモノクローム映像のロンドンが加わり、いかにも映像派の監督らしい魅力が増大。撮影監督も三人いて、それぞれがそれぞれの場所を撮っているらしいです。
 ただ、前述したまとまりという点では、ロンドンのパートだけ毛色が異なり過ぎていて、ちょっと上手く噛み合っていない感じがするのが正直な印象。
 ドラマの基本構成は、個の内面の葛藤という点で、他のムンバイやゴアと同じなんですが、ロンドンだけストーリーの外枠が大きすぎる。その結果、どうしても状況説明に多くの時間を費やすことになり、心理ドラマが描写不足になってしまっているのが物足りない。
 また、他の二人のデヴィッドは、それぞれの決断がダイレクトに物語の締めに繋がるのに対して、ロンドンのデヴィッドだけそうではないのも、やはり違和感が生じる要因の1つ。
 その反面、このロンドンのドラマ的な枠組みの大きさによって、クライマックスの仕掛けによる「あ、そうか!」感が、より大きくなっているというメリットはあり。
 また、タミル語版とヒンディ語版に共通して、音楽が良かった。インド的なテイスト保ちつつ、ゴアではラテン調、ムンバイではオルタナティブ・ロック風の要素などが加わり、特にヒンディ語版のロンドン・パートで、結婚式のカッワーリ(ヌスラット・ファテ・アリ・カーンも歌っている”Dam Mast Kalandar”)に途中からエレキギターが被さって、映像と共に変化していく部分なんか、かなり「おおっ、かっこええ!」なんて思わされたり。

 役者さんは、ロンドンのデヴィッドを演じるネリ・ニティン・ムケーシュが、とにかくすこぶるつきのハンサム。もう、この人を見ているだけでも満足できるくらい、個人的にはツボにヒット(笑)。
 演者が変わったムンバイのデヴィッドは、タミル語版がわりと熱血直情青年系だったのに対して、ヒンディ語版はもう少し今様のクールさやナイーブさが感じられる青年になっていて、また違った魅力あり。ミュージシャンに憧れる云々という点で言うと、ドレッドヘア効果もあってヒンディ語版のヴィナイ・ヴィルマニの方が、よりしっくりきている感じもあり。
 というわけで、意欲は買うんだけど正直必ずしも成功しているとは言えない感じもありますが、それでも捨てがたい魅力も多々ある……というのがヒンディ語版の印象。無理がないぶん完成度は高いタミル語版、破綻はあれども心意気やよしのヒンディ語版、私としては「どっちも好き!」という結果でした。

 どちらのヴァージョンも、特殊性を求めてインド映画をご覧になる方には、あまりオススメできませんが、映画好き・映像作品好きなら、あちこち見所・お楽しみどころが沢山あると思います。ただ、私の入手したタミル語版DVDは画質が悪く、対してヒンディ語版DVDは高画質でしたので、どちらか一本だったら、尺が長いことも含めてヒンディ語版がオススメ。