コンクリートの檻(1)

序章

 東京にしては、星の多い夜だった。
 冷えた空気は乾ききっていて、紛れもなく秋の訪れを告げている。
 季節外れになってしまった麻のスーツをしっかりと身に纏って、日高哲夫は夜道を歩いていた。
 この辺りは閑静な住宅街が立ち並ぶベッドタウンで、夜中の一時をまわった今の時間、街路には人っ子一人いなかった。
 哲夫はシャッターの閉ざされた商店街を抜け、没個性の建売住宅の間を縫い、時折り立ち止まっては、雑な筆致で地図が描かれているメモ用紙に目をおとした。
 紙の上には黒のマジックで何本かの線が引かれており、太い赤のマジックで道順が示されている。そしてその終着に書かれた、『メゾン・サングリア』の文字。
 柘植の生け垣が左右を飾る坂道を上り、十字路を右に曲がった所に、その『メゾン・サングリア』はあった。
 鉄筋コンクリート四階建てのマンション。その明かり一つないシルエットが、満天の星空を黒い矩形にくっきりと切り取っている。
 それを見て、哲夫はその大柄な体躯をぶるると震わせた。メモを右のポケットに押し込み、左手の拳を握り締める 身体が震えているにも関わらず、掌にはべっとりとした汗が浮かんでいた。
 哲夫は自分の震えを押さえるように深く深呼吸をすると、マンションの黒い影の中へと足を踏み入れた。

 一週間前の事だった。
 三日間の出張から帰った哲夫は、夜の十一時をまわった頃に家の呼び鈴を押したが、中からは何の返答もなかった。
 哲夫は十年前に妻と死別していて、今は十六になる息子の洋と二人暮らしだった。洋は高校で野球部に入っていたので帰宅が遅くなることはままあったが、この時間まで帰っていないということは今までなかった。
 哲夫は不審に思いながら、合鍵で扉を開けた。
 家の中は真っ暗でひんやりとしていて、人の気配はまったくなかった。照明のスイッチを入れると、青白い蛍光灯の光に無人の部屋が浮かび上がる。
 しみ一つないテーブルクロスのかかった空っぽの食卓。磨かれたステンレスの流し。塵一つ落ちていないリビングの絨毯。
 寝室も同様だった。ベッドメイキングを終えたシングルベッドが、やけに大きく感じられる。
 哲夫は不満そうにぶつぶつと呟きながら、上着を脱いでベッドの端に腰を下ろした。何気なく枕元のスタンドのスイッチに手を伸ばすと、その下に置かれていた白い紙が目に入った。
 紙には見覚えのあるきれいな文字が、青インクで書かれていた。
“急用が出来たので出掛けます。こちらから連絡しますので心配しないでください。 洋”
 それだけだった。
「何だ、こりゃ」
 哲夫は毒づいた。これだけじゃ何が何だか判らない。あの馬鹿息子めが。連絡があったらこっぴどく叱りつけてやらなきゃな。
 すっかり不貞腐れた哲夫は、その晩はさっさと風呂に入って寝てしまった。明日には何か連絡があるだろうと思いながら。
 しかし、二日経っても洋からは何の連絡もなかった。物事を楽観的に考える質の哲夫だったが、流石に多少不安を覚え始めた。
 三日後、一通の手紙が投函されていた。差しだし人はなかったが、中の便箋に書かれている文字は洋のものだった。
“連絡がおくれてすみません。ちょっと面倒な事になっていますが、また連絡します。学校の方へ休学届けを出して下さい。僕がいない事は絶対に誰にも知られないように。”
 今度はいかにも異常だった。息子の身に何かが起きていることは、その逼迫した筆致からも明白だった。
 哲夫はすぐにでも警察に連絡したい気持ちだったが『絶対に誰にも悟られないように』という一文を思って、それを思い止まった。とりあえず、もう少し事態がはっきりするまで迂闊な行動はしないほうがいいだろうと思った。
 哲夫は手紙に書かれていた通りに、洋の高校へ休学届けをだした。
 そしてその翌々日、再び一通の手紙が届いた。封筒の中には殴り書きのような地図とメモが入っていた。
“お父さん心配かけてすみません。でもようやく一段落つきそうです。今度の土曜日の夜二時、一人でこの地図のマンションに来て下さい。ただしその時に、絶対に他の人に見られないように気をつけて。全てのわけはその時に話します。”

 そして土曜日の二時。
 哲夫は一人で地図に書かれていたマンション『メゾン・サングリア』の前に立っていた。
 マンションの入り口は固い化粧板の扉に閉ざされ、そのドアロックの脇にインタフォンが付いている。
 啓介がインタフォンを押すと、スピーカーから電子的に変調された男の声が聞こえてきた。
『はい、なにか御用?』
「あの…日高哲夫と申しますが…」
『日高さん?少々お待ち下さい』
 インタフォンの声はそれで途切れ、辺りは再び静寂に満ちた。
 哲夫は苛々と足踏みをしながら、閉ざされた扉の前で待った。そして暫くして、再びインタフォンから声がした。
『日高さん、今ロックを外しますから、どうぞ中へ入って下さい』
 男の声が終わると同時に中からガチャリという音が聞こえ、扉がゆっくりと開いた。
 哲夫はその中へと足を踏み入れた。その背後で扉が自動的に閉じ、やはり自動的に鍵のかかる音がした。
 扉の内側は広いロビーだった。天井の照明は消されていて、所々に点いている足元灯が大理石貼りの床を照らし出している。
 どこかにあるらしいスピーカーから声が聞こえた。
『右手にエレベーターがありますから、それに乗って四階の三号室へ行って下さい』
「どうも」
 姿なき声に礼を言うと、哲夫は薄暗い廊下を右に進んだ。
 やはり無人のエレベーターに乗って四階まで昇ると、そこも大理石貼りの廊下とオレンジの足元灯だけの、無人のフロアだった。
 フロアには部屋が五つあり、哲夫はその中から目的の四〇三号室を見つけて、その呼び鈴を鳴らした。
 返事はなかった。
 訝しく思ってノブを捻ると、軽い音と共に回ってドアが開いた。
 部屋の中は真っ暗だった。
「洋?いるのか、お前?」
 哲夫が息子の名を呼ぶと、それに答えて奥の方から囁くような声が聞こえた。
「こっちに来て」
 哲夫は声のする方へ行った。かなりの豪華マンションらしい。部屋数も一つや二つではなさそうだ。
 一番奥まった部屋にぼんやりと、テーブルに向かって座っている少年のシルエットが見える。
 洋だ。
「洋」
 声をかけると少年はゆっくりと振り向いた「…お父さん…」
「何だお前、何でこんな所にいるんだ。いったい何がどうなってんだ」
 哲夫は思わず語気を荒げていた。洋はそれには答えずに、ただ俯いていた。
 哲夫は眉を顰めて息子を見た。何か妙な恰好だった。
 赤いタートルネックのセーターに、それには不釣り合いな黒い短パン。テーブルには長すぎるクロスがかかっていて、その裾が床にまで届いている。洋はその中に手足を深く突っ込んでいた。
「どうした、お前」
 哲夫は少し優しい声を出して、息子の肩へ手を伸ばしたが、鋭い語調に遮られた。
「触らないで!」
「この…親に向かって…」
 哲夫は思わず怒鳴りかけたが、こちらを向いた洋の顔を見て、それを飲み込んだ。
 洋の頬には一筋の光るものが伝っていた。
 哲夫は頭を振ってテーブルの反対側に座ると、天板に肘を付いて息子の顔を覗き込んだ。
「一体何があったんだ。え、洋」
「御免なさい…」
 洋は蚊の鳴くような声で呟いた。
「いきなり謝られたって、何だか分からん。まず何があったのか説明してくれ」
 答えはなかった。
 哲夫は溜め息を付くと、涙で濡れた息子の頬へ手を伸ばした。
「嫌ッ!」
 洋が身を捩って逃れようとした瞬間、哲夫の手の甲がセーターの襟首に触れた。
 なにか固いものが、首筋ではない何かが、柔らかい毛糸の下に隠れている。
「おい、何だこりゃ。見せてみろ!」
 哲夫は立ち上がると、嫌がる洋の襟首を無理やりこじ開けた。
 タートルネックの下に、革の首輪が黒く光っていた。しかも金具の袷をごつい南京錠で止められている。
「どういうわけだ?」
「見ないでッ!」
 洋が身悶えすると共に、今度はテーブルクロスの下から金属の触れ合う音がする。
 哲夫は屈み込んで布をめくると、その下に隠されていた物を見て愕然とした。
 洋の両手足首に銀の手錠ががっちりと食い込んでいて、そこから鎖が伸びてテーブルの足に固定されていた。
 哲夫がそれを見たのと同時に、他の部屋から何か物音が聞こえた。
「誰だッ!」
 哲夫は音のした方へと行った。その後ろで洋は、瞳から涙を溢れさせながらテーブルに突っ伏した。
 物音がしたと思われる部屋には誰もいなかった。哲夫は首を傾げながら、元の部屋へと戻った。
 部屋の入り口に来ると、いきなり聞き覚えのない男の声がした。
「止まれ!」
「誰だッ!」
 さっきまで哲夫と洋以外には誰も居なかった部屋だが、その洋の横に、いつの間にか一人の男が立っていた。
 濃い色のサングラスを掛けているので顔は良く判らないが、哲夫と同じ四十代といったところか。何の変哲もない白い開襟シャツに、黒いスラックスを履いていた。
 哲夫は構わずにその男に詰め寄ろうとしたが、その右手に握られている物をみてギョッとして足を止めた。
 ぎらぎらと光るナイフの切っ先が、洋の首筋に当てられていた。
「動くな。動くとお前の可愛い息子の悲鳴を聞く事になるぞ」
 男の言うとおりにしないわけにはいかなかった。哲夫は下唇を噛んで立ち尽くした。
「よォし、それでいい。そのままじっとしてろよ。…おい、出てきてくれ!」
 男の声と共に、哲夫の背後で複数の人の気配がした。
「動くんじゃねえッ!」
 思わず振り向こうとした哲夫を、男が鋭い声で制した。
 何者かが哲夫の腕を掴み、背後に捻じり上げる。肩の間接がぐきりと鳴って、哲夫はその傷みに呻き声を上げた。
 背中にまわされた両手首に冷たい金属の感触がしたかと思うと、がちゃりと音を立てて手錠が食い込んだ。
 小太りの男がテーブル脇の椅子を一脚持って来ると、それを哲夫の背後に据えた。次の瞬間、哲夫は膝の後ろを蹴られて、椅子の上にどうと座り込んだ。
 向こうでは喉にナイフを当てられた洋が、涙に潤んだ目でこっちを見ている。
 何者かが哲夫の肩を押さえている間に、小太りの男は腰に下げたロープの束を解くと、手際よく哲夫を椅子に縛り始めた。
 小太りの縛りは厳しかった。両腕の筋肉にロープが食い込み、胸板も息をするのも苦しい程に締め上げられた。
 小太りは上体を椅子の背に括りつけられた哲夫の前にしゃがむと、両手で哲夫の足を左右に思いきり引き開けた。その股が裂けるかと思う程の乱暴さに、哲夫は思わず苦痛の呻き声を上げた。
 太い脚もロープでぐるぐる巻きに縛られた後は、哲夫は頭と指先と爪先を動かすのが精一杯だった。
「よし…と」
 小太りが息をつきながらそう言うと、肩を押さえつけていた手が離れ、それまで背後にいたもう一人の男が哲夫の前に姿を現わした。
 二十代半ばの、ボディービルでもしていそうな隆々たる筋肉の男だった。その逞しい身体を誇示するかのような、身体にぴったりとくっついた黒いタンクトップを着ている。
「おいッ、一体どういう事だッ!お前ら何が目的だッ!」
 哲夫は目の前に立ちはだかる三人の男を睨んで、怒声を上げた。しかし男達はなにも答えず、ただニヤニヤと笑いながら哲夫を見下している。
 哲夫の脳裏に誘拐という言葉が浮かんだ。しかしそれはあり得ない。洋を誘拐して身代金を要求するならともかく、自分まで捕らえては誘拐する意味がない。
 そんな哲夫の考えを見透かしたように、サングラスの男が口を開いた。
「俺達の目的が金じゃねえこと位は判るだろう」
「じゃあ、一体…」
 サングラスは笑いながら答えた。
「金じゃないとしたら、残るのは何だ?身体だよ」
 哲夫は自分の耳を疑った。
 こういうシチュエーションは映画やテレビでお馴染みだった。しかしそれは、捕らえられているのは常に女の筈だ。
 哲夫が戸惑っているのを見て、サングラスは洋に向かって尋ねた。
「おい、洋。お前から説明するか?」
 洋は俯くと、黙ってかぶりを振った。
「嫌か。それなら俺が説明してやろう」