コンクリートの檻(2)

第一章

 もう一年半も前の事だった。
 日高洋は午後八時に部活を終えると、そのまま駅前のラーメン屋に向かった。
 父親が帰るまではまだまだ時間がある。昼飯と部活前に菓子パンを食べたとはいえ、若い洋の胃袋はまだまだ食物を求めていた。
 ラーメン屋に入る前に、横手の本屋に寄るのが洋の日課になっていた。
 マンガ雑誌の発売日にはそれを買うし、そうでない時には何か面白そうな雑誌を漁るのもよい。
 その日、洋はSF雑誌やミステリー誌、文芸誌などの置いてあるコーナーを覗いてみた。派手な表紙の娯楽雑誌、洒落た表紙の小難しそうな雑誌の間に、見慣れぬ背表紙が混じっている。
 何気なくそれを手にとった洋は、その表紙を見てある予感を感じた。A5判の紙の中から一人の男がこちらを見ている。
 ひょっとして…
 頁をめくった瞬間、洋は自分の予感が当たっていたのを知った。
 グラビアの裸の男がこっちを向いて、誘うような微笑を浮かべている。洋の頭に血がかあっと昇った。
 我に帰った時、洋は本屋の前で雑誌の入った紙袋を抱えて立っていた。無我夢中で買ってしまったらしい。
 今になって恥ずかしさが込み上げてきた。
 洋は慌てて紙袋を鞄に捻じ込むと、家に向かうバス停に向かって走り出した。もうラーメンの事はすっかり忘れていた。一刻も早く一人になって、この本を見たかった。
 その一冊の雑誌で、洋は何度若い樹液を噴出させたろうか。すみからすみまで、文字通り嘗めまわすように読んだ。
 自分が同性に魅かれている事を仄かに自覚していた洋にとって、その本は正に夢のような本だった。
 やがて一冊全てを読み尽くした洋は、再びその本を捜してあの本屋へと行った。そして三度目に足を運んだ時、その雑誌の新しい号が出ているのを見つけた。
 最初に買った時は夢中だったが、二度目にその雑誌をレジに持っていくときは、堪らなく恥ずかしかった。
 本屋の親父はいちいち客の顔なんか覚えてやしないと自分に言い聞かせながら、それでもその雑誌をレジに出した時に、じっと見つめられているような気がした。
 じきに洋は、部活で遅くなった時にその本屋によって、その雑誌の最新号を捜すのが密かな楽しみになった。
 最初のころは本を読みながら、興奮で夢中になって自慰をしていただけだったが、やがてその中の小説や読み物の主人公に自分の姿を投影をするようになった。
 そうなってくると、その本のなかで行われているようなことを自分もしてみたくなる。半年も過ぎると、その衝動は押さえがたいまで昂っていた。
 半年後のある日曜日、洋は思いきってその雑誌に載っていたハッテン場と呼ばれる映画館へ行ってみる事にした。
 寂れたポルノ上映館。もぎりの婆さんは無言で洋のチケットを切った。
 薄暗い館内は空席が目立っていた。にも関わらず席の後ろには立ち見客が沢山いる。
 本で読んだ通りだった。
 洋は激しく脈打つ心臓を押さえながら、その男達の中へと入っていった。
 スクリーンでは安っぽいブロンド女が喘いでいたが、それも目に入らなかった。周りの男達を見てみたいが恥ずかしさでそれも出来ず、ただ顔を紅潮させて俯いているだけで精一杯だった。
 太股になにかが触れたような気がした。
 指だ。指がとんとんと軽くノックをするように、洋のジーンズを叩いていた。
 まるで魔法にでもかけられたように、洋は身動き一つできなかった。
 やがて指はノックをやめ、今度は大胆に掌全体を使って腿を愛撫してきた。洋は自分のものがパンツの下で、次第に硬くなるのを感じた。
 手は次第に洋の足を這い上がって来る。
 男の掌がいよいよ勃起した自分のそれに触れた時、洋はおもいきってその男の顔を見てみた。
 スクリーンの反射光に浮かびあがっている男は、大学生のように見えた。その男は洋が自分を見ているのに気付くと、にっこりと微笑んだ。
 ハンサムだ、と洋は思った。
 男の手はいよいよ大胆に洋のそこを揉みだした。洋は思わず目を閉じて身体を硬直させた。
 男の唇が耳元に近付いて囁く。
「出ようか」
 洋は無言で頷いた。
 その日、洋は男のアパートで初めて人の手で射精した。
 帰り際に男は自分の名を名乗り、洋にも同じ事を聞いた。
「君さえよければ、また会ってくれないか。僕も大学で忙しいけれど、電話番号を教えてくれれば連絡出来るし。僕の電話番号も教えるから、何時でもかけてくれよ」
 そう言われてメモを渡された洋は、何の疑いもなく自分の家の電話番号を教えた。
 翌週の金曜日、その男からの電話があったが、忙しくて会えないという事だった。そして次の週に会う約束をした。
 その二週間が何の為に用意されていたかも知らずに、洋は無邪気に次の逢瀬を心待ちにしていた。
 その間に、あの「大学生」と称した男は自分の所属している組織に洋のことを連絡していた。
 連絡を受けた組織は、すぐに洋の身辺調査を始めた。近親や知り合いに警察関係者がいないか。財閥、政界といったトラブルの元になる世界に関係はないか。
 幸い、というか不幸にも、洋はそれらの条件をすべてクリアしていた。
 罠は動き始めた。
 二週間後、喜んで「大学生」の所に出掛けていった洋は、待ち受けていた屈強な暴力団員達に輪姦され、その一部始終をビデオと写真に撮られた。
 ショックに口もきけない洋を大型モニターの前に座らせて、暴力団員のリーダーが告げた。
「いいか、俺達の言うことに逆らうと、このビデオや写真を親や学校にバラまいてやるからな。そのつもりでいろよ!」
 モニターにはたった今、男達に犯され、男根を扱かれて射精している洋の恥態が大写しになっていた。それを見せられながら、洋は涙を流しながら、只頷くしかなかった。
 結局その日、洋はそのまま解放された。
 この事について決して口外しないことと、三日後に指定された場所に一人で来ることを誓わされて。
 家に帰った洋はその事を父親に打ち明けたかったが、脅しや自分がした事が父親に知られる恐怖から、結局言い出すことができなかった。
 父親が自分の変調に気付いて強引に問い詰めてくれればと思ったが、元来どちらかというと鈍感に出来ている父親は、そんな息子の様子に露ぞ気付かなかった。
 三日後、洋は思い足取りで指定された場所「メゾン・サングリア」へと赴いた。そこではリーダー格の男と、あの「大学生」が待ち構えていた。
 脅えている洋に「大学生」が言った。
「まあ、そうびくびくするなって。俺達の言う通りにしていれば悪いようにしないから。なに、簡単なことだ。…お前、風俗嬢って知ってるか」
「…はい、知ってます」
「なら話は早いや。お前にそれと同じことをして貰えればそれでいいんだ」
 洋は驚きに口もきけなかった。そんな洋の顔を眺めながら、「大学生」はにやにや笑いを浮かべながら続けた。
「学校の帰りとか、日曜日とかにここに来ればいい。そうすれば俺達が客をとるから、その客の言うなりにサービスすればいいんだ。どうだ、ちっとも難しことじゃないだろ」
「…そうすれば、写真やビデオを返してくれるんですか」
 洋の返事を聞いて、男達は心の中で北叟笑んだ。このガキはその気になりかけている。
「ああ、勿論だ。ちょいと一稼ぎしてくれりそれでいいんだからな」
 結局、洋は男達の言うなりになるしかなかった。それには部活を続けることが難しくなったが、幸い洋の高校は歴史も浅い為か、退部に関してのトラブルもなかった。
 男達の手段は巧妙だった。
 始めにとらされた客は、すべてサクラの組員だった。彼らは優しさを装って、洋に男同志のセックスのノウハウを、自然と覚え込ませていった。
 もともとその気があった洋は、見事にその小細工に騙されて、次第に舌や手、後庭の使い方を覚えていった。それどころか、時には暗い境遇を忘れて、そのセックスに溺れるようにすらなった。
 そして組織はその一部始終を隠し撮りしていた。
 そのマンションでは洋以外にも、幾人かの少年が同様の罠にかけられて売春をしていたのだが、それをも巧みに洋の目からは隠蔽されていた。
 そして三箇月が過ぎた。
 そろそろ頃合と見た組織は、サクラをやめて本当の客をとりはじめた。
 それまで身体を売るという行為を甘くみていた洋は、初めて思いやりのかけらもない強引なセックスを強要されて、その不快さと痛みに悲鳴をあげた。
 それでも既に男同志のセックスの味を覚え込んでいた洋は、こんな事はめったにない事だと思った。
 しかし二度目の客が決定打だった。
 SM趣味の客をとらされたのだ。
 抵抗する間も許されずに縛り上げられた洋は、鞭や蝋燭、浣腸で容赦なく責めあげられて、初めて自分の考えが甘かった事を悟った。
 客が帰った後、洋は男達に泣きながらもう続けることは出来ないと訴えた。しかし返事の代わりに見せられたのは、サクラの客を相手に淫行に耽る、初めのものとは桁違いに淫らな、洋自身のビデオだった。
 男の股間に顔を埋めながら、自らの男根も擦り続ける姿。尻を犯されながらその快感に顔を歪め、股間のシンボルをそそり勃てている姿。
 それをネタに脅しをかけられた洋は、自分の愚かさに唇を噛みながらも、既に後戻りはできないと思い知るしかなかった。
 汚辱の生活のスタートだった。
 昼間は学校で普通の高校生として振る舞いながらも、夜と日曜はマンションの一室で売春行為を繰り返す。
 客は千差万別だった。ノーマルな嗜好の持ち主も、SM好きも、糞便愛好家までいた。初めて他の少年と一緒に、同時に一人の客を取らされもした。
 その精神的疲労に、洋の体重は減り言動も暗くなった。
 にも関わらず、父親の哲夫はそれに気付いていなかった。哲夫が鈍感なせいもあるが、元々顔を会わす機会が少なかったので、無理もないと言えなくもない。
 次第に疲労の色の濃くなってきた洋を見ながら、男達は引き時を考えていた。従来はその少年のまわりの環境次第で、このまま半永久的に組織の売春夫とするか、口封じのネタだけを残してお祓い箱にするのかを決定していた。
 洋の場合は少し勝手が違っていた。
 一応家族があるので、身体を拘束して売春夫にすることは難しい。にも係わらず、洋の人気は圧倒的で、このまま手放すのはなんとも惜しかった。
 しかしこのまま二重生活を続けさせれば、いつか破綻が来て組織全体の安否に係わってしまう。
 そして悪魔の提案がなされた。
 提案に従って、組織は洋の身辺の徹底的な洗い出しを始めた。
 父親の哲夫は一人っ子で、両親や妻とも既に他界しており、遠戚との付き合いも全くと言っていい程なかった。
 お誂え向きの条件だった。そして何よりもこっそりと盗み撮りされた哲夫の容姿が、組織の食指をいたくそそった。
 失敗のないように念には念を入れて、二番目の罠が動き始めた。