コンクリートの檻(14)
終章 闇の中へ
哲夫に再び汚辱の日常が戻って来た。
しかし、それは以前の生活とは、何処か変わっていた。
男達も客も何も変わっていない。しかし哲夫の中で、何かが変化していた。
茫漠とした諦観に似た気持ちが、哲夫の精神を徐々に浸食していった。
それはある種、甘美ですらあった。
その感覚に身を任せる事で、苦しみや恥辱が癒された。
苦痛と屈辱に泣き、それでいてその中に潜む歪んだ快感に悶える哲夫を、冷酷な男達は満足そうに見守っていた。
ある日、哲夫の亀頭に『奴隷』という二文字の刺青が入れられた。
その文字は、哲夫のものが怒張して艶やかに反り帰った時に、鮮やかにその赤黒色の皮膚を彩った。
この生涯消す事の出来ない刻印は、同時に哲夫の心にも刻まれた。
哲夫は文字通り、奴隷としての生活に完全に慣れきっていった。
無理やり仕込まれた躾けが、今や哲夫の理性をすら支配し、かつてのそれにとって変わっていた。
奴隷に堕ちる以前の事は、もう思い出さなくなっていた。光に照らし出されていた生活は、まるで遠い夢のようだった。
ある晩、哲夫は一日の奉仕に疲れた身体を一枚の毛布にくるみながら、ふと息子の事を思い出した。
洋。
哲夫はそっと呟いてみた。
あの老人との一件以来、息子の姿を見ることはなかった。しかし今となってはもう、会いたいとも思わなかった。
洋はもう、自分の父親すら判別出来なくなっている。それは彼にとっては却って幸せなことかもしれない。
自分が人間ではなく、奴隷であることを受け入れることにうよって、苦しみから逃れられているのと同様に。
そう思い込む事によって、息子の事を心から追い出したかった。
そんな事をぼんやり考えながら、哲夫は暗闇を見つめていた。
階下ではサングラスの男が電話をしていた。相手は組織の本部だった。
『送られてきた報告書を見たがな、最近あの男の稼ぎが落ちてきているようだな』
「ええ、そうなんスよ。やっぱり飽きられてきたみたいで…」
『そうか。…実はな、お客の一人が、あいつを買い取りたいって言ってんだがな』
「へ…どなたですか」
『堂島さんだ』
やはり、とサングラスは思った。
あの白髪白髭の、一見紳士風の老人。しかしその紳士顔の下に、底知れない残虐さを秘めた老人。
あの老人が哲夫と洋を責める時の執心は、異常な程だった。
「…しかし、堂島さんは、あちの方が…その…不能でしょう?それなのに…」
『不能だからだよ』
電話の向こうの男が答えた。
『不能だからこそ、ああやって男を責める事に殊の外熱心なんだよ。どうやらあの父親の事をえらく気に入ったようだ』
「はあ、で、どうなさるんでしょう」
『何でも、あの男を徹底的に飼い殺しにしてみたいそうだ』
それを聞いたサングラスの肌に粟が立った。
「飼い殺し…」
サングラスは呟いた。
『そうだ。思いのままに、誰にも憚ることなく…な』
「…で、どうするおつもりですか」
返って来る返事を予測しつつ、その答えを恐れながらサングラスは聞いた。
『いい話だろう。稼ぎの落ちた売春夫を高額で買って下さるってんだ。断るテはねェだろうが』
「そうっスね…」
サングラスが答える。その心中にも気付かずに、電話の向こうの男は上機嫌で話し続けた。
『そういうわけだからな、来週中にも移動させるから準備をしとけ』
「あの…息子のほうは…」
『堂島さんが買い取るのは親父だけだ。息子はそのまま稼がせろ。判ったな』
「はい、じゃあ準備をしておきます」
電話が切れた。
サングラスは暫く受話器を持っていたが、やがてそれを置いて煙草に火を点けた。
煙を吐き出しながら、サングラスは思った。
あの堂島という老人に売られたら、哲夫はどんな運命を辿るのだろうか。
徹底的な飼い殺し。
極めつけのサディストに囚われた、人間性も何も完璧に剥奪された男。その責めは、嗜虐者が不能である分、益々過酷になっていくのだろうか。
その限界のない、無限のエスカレートを許された責めとは、一体どこに行き着くというのだろうか。
嗜虐の喜びを知っている自分にしても、それには限界がある。しかし、あの老人にはそれがあるのだろうか。
そう考えてサングラスはぞっとした。
煙草の灰が絨毯の上に落ちた。
サングラスはそれを靴先で散らした。
もう考えまい。
あの哀れな男の運命は、既に自分の手を離れてしまったのだ。
サングラスは浮かんでくる憐憫の情を押し殺して、二本目の煙草に火を点けた。
洋は暗闇の中、素っ裸でベッドに横たわっていた。
目は開いたまま天井に向けられていたが、それは何も見ていなかった。
心は固い殻に閉ざされている。そしてその殻が開くことは決してなかった。
手にも足にも、鎖も枷も付けられていない。
その四肢を自らの意志で動かすことは、もはやない。
自分で何かを考え、行動することもない。
ただ、人に言われたことを、言われるままにする。
そんな存在に、洋はなっていた。
そして今ここに、洋に命令する者は誰もいない。
まるで壊れた人形のように、四肢をバラバラに投げ出したまま、洋は闇に包まれていた。
哲夫は睡魔を感じていた。
やけに冷え込む夜だった。夜になってヒーターが止められると、この部屋は凍てつくように寒くなる。暖をとるには、たった一枚の毛布では余りにも頼りなかった。
もう一枚、毛布を貰えるだろうか。
哲夫は眠けに霞む頭で考えた。
その為には、御主人様方の御機嫌をとっておかなければ。
あの男達の事を、心の中で自然と『あいつら』と呼ばずに『御主人様方』と呼んでいる自分に、哲夫は微塵も気付かなかった。
哲夫は毛布をさらにきつく身体に巻くと、緩やかに眠りに落ちていった。
眠りこむ寸前に、哲夫は微かに思った。
自分がこの鉄筋コンクリートの牢獄から 解放される日は来るのか、と。
その日が近い事も、またその果てに何が待ち受けているのかも知らずに、哲夫は深い眠りの中へと落ちていった。
眠りこんだ一匹の奴隷を、果てしのない汚辱と沈黙の時間が包み込んだ。
(完)