窓〜アル・ナーフィザト(1)
傾きかけた強い西日に照らされて、カイロの街並みは一面のオレンジ色に染め上げられていた。
砂埃と排気ガスを撒き散らしながら、猛スピードで街路を走る、夥しい量の自動車。街を覆い尽くすエンジン音と、ひっきりなしに鳴らされるクラクション。
エジプトでは、信号なんてあってないに等しい。人も車も、交通規則など全く無視している。彼らが信号を守るのは、その信号の脇に警官の姿が見える時だけで、事実、新市街の交差点では、信号と警察官は二つで一セットのように配置されている。
埃と喧騒に満ちた混沌。
そんなこの街を嫌う人間も多いが、俺はそこが結構気に入っていた。実際、世界中どこに行ったって、大都会というのはそんなものじゃないだろうか。東京だって決して例外ではないだろう。
大体、俺がそういう混沌を嫌う質なら、こうして一週間以上もカイロに居やしない。とっくの昔に逃げ出して、今頃、豪華客船でナイル河をクルーズしている。
俺の職業はカメラマン。しかし、仕事でエジプトに来たんじゃない。
質より量を求められる、チラシやカタログ向けの鍋釜の写真を撮る生活。そんな生活に心底うんざりしていた俺は、思い切って多少の金を都合すると、自己表現の為の被写体を求めて、エジプトにやって来た。
それが十日前のことだ。
エジプトという地を選んだのは、子供の頃から一度は行きたいと思っていたという、そんな単純な理由だった。ピラミッド、スフィンクス、大神殿。褐色の砂漠に青いナイル、緑の棗椰子。そんなステレオタイプのイメージを抱いて。
しかし空港からカイロ市内に着いて、俺は一目でその混沌に魅せられてしまった。過去と現代、伝統と革新が犇めき合い、猛烈なエネルギーを発散させている、このアラブ世界随一の大都会に。
鏡面ガラスを燦めかせる高層ビルがあるかと思えば、今にも崩れ落ちそうな泥で作ったような家がある。世界中のどこと比べても遜色のない、高級ホテルのティー・ラウンジもあれば、まるでアラビアン・ナイトにでも出てきそうな、エキゾチックかつボロボロの茶屋もある。
そんなこんなで、俺はこの十日間、カイロ市内から殆ど出ていなかった。一日だけ車をチャーターして、ギザやサッカラのピラミッド見物をしたくらいで。
そしてその日、俺は中世アラブ世界の香りを未だに残す、イスラミック・カイロと呼ばれるカイロの旧市街に来ていた。。
人や荷車、馬や驢馬が犇めきあう、曲がりくねって複雑に交差した、まるで迷路のような旧市街のを、カメラバッグを肩から下げて歩き回る。
どこに行くという当てがあるわけじゃない。うろつき回っているうちに、被写体が見つかるのだ。スーク(市場)で香辛料をうる親父の顔、店頭に積まれた羊の頭、古びた豪奢な装飾で飾られたモスク。
そして撮影済みのフィルムは、あっという間に十本以上を数え、時の経つのも忘れるうちに夕方になっていた。
俺は今年で二十八歳になるが、まだまだ体力には自身があった。しかし流石に一日歩き回っていると、脚も腰も痛くなり、バッグのストラップが肩に食い込む。
加えて俺は迷子になっていた。自分が何処をどう歩いているのか、さっぱり見当がつかない。もっとも旧市街ではそれが当たり前で、地図などてんで当てにならないが。
まあ、適当な大通りに出たら、タクシーを拾って宿に帰ればいい。幸い宿はカイロ中心部のタハリール広場にとっているので、アラビア語がてんで出来ない俺でも、『ミダーン・タハリール!』とわめいていれば、運転手に連れていって貰える。
その時、背後からクラクションの音が聞こえた。
振り向くと、一台のタクシーが停まっている。いかにもエジプトらしい、塗装が禿げて錆が浮いているような、凄まじいオンボロ車だ。
曇ったフロントガラスの内側で、顔中髭もじゃの運転手が、『乗るか?』というような身振りをしている。
俺は頃合と見て、タクシーに乗ることにした。勿論、乗り込む前に料金交渉を欠かさずに。これをやっておかないと、あとでとんでもない金額をふっかけられたりするのだ。
幸いその運転手は、辛うじて数字だけは英語を理解するようで、二三回の押し問答で料金が決まった。
裂けて中身がはみ出している埃っぽいシートに、俺が腰をおろすやいなや、タクシーは猛スピードで走り出した。運転がこれまた荒っぽい。
しかしそのガタガタという振動は、俺を急激に眠りの淵に引き込んでいった。しばらくは目を擦って耐えていたものの、やがて抗しきれなった。俺はうとうとと眠り始めた。
しばらくして俺が目覚めた時、タクシーは停まっていた。
どうやら交通渋滞らしい。俺が目を覚ましたのに気付いた運転手は、ちらりと振り向くとアラビア語で何か喋り、苛ついたようにクラクションを叩いた。
窓の外を見ると、まだ旧市街から出ていなかった。左右の車線に詰まった車が、喧しくクラクションを鳴らし続けている。
何処かのモスクから、アザーン(礼拝の召喚)が聞こえて来た。質の悪いスピーカーで拡声されたコーラン(正確には『クルアーン』というのだそうだ)の節回しは、この十日間ですっかり俺の耳に馴染んでいた。
俺は今の時間、夕刻に聞くアザーンが一番好きだった。黄昏時の人恋しい時間に聞くそれは、旅情と異国情緒をいやがおうでもかき立ててくれる。
俺は奇妙に安らいだ気持ちで、窓の外を何を見るでもなく眺めていた。
古びた建物たちが、夕日に壁を染め上げられながら立っている。破れた庇の布が、砂塵を含んだ風にばたばたとはためく。
開いた鎧戸の間、窓にぽつぽつと明かりが灯っている。
不意に車が流れ出した。俺の乗ったタクシーの運転手も、待ってましたとばかりにアクセルを踏み込む。
そして車が発車した瞬間、俺の目はそれを捉えた。
流れ去る建物の壁の上方、開け放たれた紫色の鎧戸の間。
その光景は瞬時に後方に流れ去り、俺の視界から消えた。
しかしそれは驚くほど鮮明に、その細部までが不思議なほど鮮明に、俺の目に焼きついていた。
鎧戸の間から見えたものは、男の裸体だった。
一糸纏わぬ素っ裸の男。
それが脚を上にして、逆さまになっているのだ。足首には何かが巻きつき、天井から逆さ吊りにされているようだった。
顔は窓の桟に隠れて見えない。
そしてその股間の叢から伸びた男根は、勃起しているように見え、その先端が一瞬、西日を受けて輝いていた。
俺は茫然としていた。自分が見たものが信じられなかった。
「××××!」
急にタクシーの運転手が、大声で何事かを怒鳴った。
俺が我に返ると、いつの間にかタクシーはタハリール広場に着いていた。
「ミダーン・タハリール!」
運転手は窓の外を指してそう言うと、不審そうに眉を顰めなて、寝起きが悪い時のようにぼうっとしている俺を見た。
俺は財布から札を出すと、それを良く数えもせずに運転手に渡した。後からその時のことを思い出して、お定まりの『バクシーシ(チップ。本来はイスラムにおける喜捨の意)』の台詞が出なかったのをみると、俺はかなり多めに支払ったのだろう。
タクシーから降りると、空はすっかり暗くなっていた。ほくほく顔の運転手を乗せて、おんぼろタクシーは走り去った。
俺はまだぼんやりしたまま、ふらふらと宿に向かって歩き出した。
俺の泊まっている安ホテルは、タハリール広場から二百メートル程離れた所の、五階建てビルの四階にあった。
ビルには一応、古めかしいエレベーターが付いてはいるものの、それは蜘蛛の巣が張った粗大ゴミと化していて、俺はいつも小便臭い階段を、四階までえっちら昇らなければならなかった。
「お帰り、トシ」
へたくそな字で『イシス・ホテル』と書かれた、剥げかけた緑のペンキ塗りの扉を開けると、フロントに座っているサイードが英語で声を掛けた。
短躯で小太り、口髭を蓄えて、いつもニコニコ笑っているこの中年男が、俺の泊まっている宿のオーナーで、フロント係で、フロア係でもある。要するに一人で全てを切り盛りしているのだ。
サイードはいつもフロントに座って、ウォークマンで音楽を聞いている。このウォークマンはサイードのご自慢なのだ。聞いているのは、決まってウンム・クルスームというエジプトの国民的歌手だった。
俺はサイードに手を振ると、自分の部屋に戻った。背中からサイードが声を掛ける。
「今夜も相手してくれよな」
夕飯を終えた後、俺とサイードはバックギャモンをするのが習慣になっていた。ガラスのコップに入った紅茶を啜りながら、とりとめのない話をしながらゲームをする。
英語が達者なサイードを話し相手にゲームをするのは、俺にとっても毎晩の楽しみになっていた。
このホテルには部屋が五つしかなく、俺の他に宿泊客は殆どいなかった。時折りエジプト人が泊まりに来たが、外国人の姿は全く見えない。
街で知り合ったアメリカ人のバックパッカーは、俺がイシス・ホテルに泊まっていると聞くと、眉を顰めて『あそこは評判が良くない』と忠告した。
特に下調べをしたわけでもなく、目についた所に飛び込みで泊まった俺は、それを聞いて少し不安になった。別のホテルに変わろうかとも思ったが、実際イシス・ホテルは値段の割りには居心地が良かった。
広めの部屋は清潔でエアコンも付いていたし、窓も大きい。シャワーは共同だがちゃんと湯も出るし、洗面所とトイレは部屋に付いている。これで二十エジプト・ポンド(約八百円)というのは、カイロ市内ではかなりリーズナブルなほうだろう。
加えて宿の親父も感じが良いし、評判が悪いというのは、欧米人にありがちな有色人種、特にアラブ人への偏見のせいだろうと納得して、俺はずっとこのホテルに居続けていた。
俺はとりあえず荷物を置くと、タオルを持って共同シャワーを浴びに行った。
コックを捻ると熱い湯が迸り、俺の身体に付いた汗や埃を洗い流していく。ここでは一日歩き回っていると、髪まで砂と埃でごわごわになってしまう。
シャワーを浴びていると、ようやく頭がはっきりしてきた。それと同時に、今更ながら自分が見た光景の異常さに気付く。
逆さ吊りにされた全裸の男。
およそ非日常的で、幻のような光景。
実際俺はもう、それが現実だったとは断言出来なくなっていた。現実だと言うには、余りにも現実離れした光景だった。
自分は夢を見たのかもしれない。タクシーに揺られながら眠り込んでしまい、その合間に夢を見ただけなのかもしれない。
そう思った方が納得がいく。
俺はシャワーを止めて、身体を拭き始めた。
そうだ、あれは夢だったんだ。
そう考えると、俺は自分の心に籠もったもやもやが晴れていくような気分になった。
しかし、そう考えながらも心のどこかで、あれは現実だったと囁く声を聞いていた。