服を着替えると、俺は夜の街に食事をしに出掛けた。
　ここ数日、俺はコシャリという食べ物に凝っていた。茹でた米とマカロニを混ぜて、それにトマトソースとチリソース、酢などをかけた単純なものだったが、その単純な味が気に入っていた。薬味のように添えられる揚げた玉葱や小さな豆も、実にいい具合に舌に馴染む。
　屋台でそのコシャリを食べた後、別の屋台でターメイヤというエジプト風コロッケを挟んだアラビアパンか、近くの洋風菓子屋で売られているとびきり美味い菓子パンを喰い、仕上げに絞りたての生ジュースを飲む。
　これがお気に入りのコースだった。俺は一度気に入ると、それをしつこく繰り返す癖があるので、この三日間は全く同じコースだった。
　腹が膨れて、ついでに満足感で心も膨れた俺は、さっさと宿に戻ることにした。俺は酒が飲めないので、外国人の集まるバーに行くこともなかった。
　宿に戻ると、サイードがもうバックギャモンを用意して、俺を待っていた。紅茶も湯気を立てて俺を待っている。
「今日は負けないからな」
　昨夜、俺に完敗したサイードは、今にも腕まくりをしそうな意気込みで言った。
　じきに俺たちは、いつものように取るに足らない雑談をしながら、ゲームに夢中になった。
　サイードは俺の仕事がカメラマンだと知って以来、いつも俺がその日にどんな写真を撮ったのか聞きたがった。サイードは自分も趣味で写真を撮るのだと言っていたが、俺はそれを半分信じていなかった。
　彼が撮ったという写真を見せてくれた事もないし、だいいち一日中ホテルのフロントに座っているサイードが、いつ写真を撮っているというのだろう。
　俺は今日の出来事を話しながら、例の現実とも幻ともつかないことを話すかどうか、ずっと迷っていた。
　サイードにそれを話して、彼の意見を聞いてみたい気もした。しかし何かがそれを阻んでいた。
　結局俺はその話をしなかった。
　サイードは四戦四勝で俺に勝ち、ほくほく顔でおやすみを言い、自分の住居にしている一室に入っていった。
　俺も自分の部屋に戻ると、その日撮ったフィルムの整理もそこそこに切上げ、さっさとベッドにもぐり込んだ。
　疲れていたせいか、睡魔はすぐに訪れた。眠りに落ちる寸前、再びあの光景が瞼の裏に蘇ったが、その一瞬後にはもう、俺は眠りに落ちていた。

　それから二日後の晩、俺はバックギャモンの盤を挟んで座った、サイードの顔を見つめていた。
　サイードは眉を難しそうに顰めて、ゲーム盤を見つめている。まるで自分がどの駒を動かそうか、迷っているかのように。
　この二日間、俺は一枚の写真も撮れなかった。
　今まで通り、カメラバッグを持って街に出る。被写体を求めて、当てもなくうろつき廻る。
　しかしそれまで、到る所に燦めく宝石を飾っていたような街は、一転してそれを全て匣の中にしまい込んでしまったようだった。
　俺の目は、何も見つけられなかった。
　始めのうち、俺は自分がこの街に飽きてきたのかと思った。しかしやがて、それが考え違いだというのに気付いた。
　確かに俺の目は、今まで通りに何かを探し求めていた。
　しかし、それは被写体ではなかった。俺の目が探していたものは、窓だったのだ。
　建物を見ても、俺の目は壁に並んだ窓しか見ていなかった。目は窓から窓へ移る。無限に並ぶ窓の一つ一つを、目が勝手に丹念に追っていく。
　撮影意欲をかき立てようと、半ば無理矢理カメラを構えてみても、俺の目はファインダーを通して窓を探してしまう。
　あの、紫色の窓を。
　街を歩いていても、道端の茶店に座って水パイプを貰っても、俺の目は窓から離れない。目を閉じても、心の中にあの窓の映像が見える。
　一度は、自分の見た物が幻だったと納得した筈だった。
　しかし日を追う毎に、そんな俺の心中を裏切るかのように、あの映像がはっきりと脳裏に蘇って来る。
　より鮮明に膨れ上がって。
　そして俺はもう、それを押さえきれなくなっていた。
　俺はサイードにその話をした。自分が二日前に見た光景の話を。
「信じられない話だね」
　長い沈黙の後、サイードはようやく口を開いてそう言うと、バックギャモンの駒を動かした。
「でも俺は見たんだ。確かに、この眼で」
　俺はそう答えて、ゲーム盤を見た。もうすぐサイードが勝つのが判る。しかしそれもどうでもよかった。
「仮に……」
　サイードが紅茶を啜りながら言った。
「トシが見たのが本当だとしてもだよ？それをどうしたいんだ？」
「判らない」
　俺は素直に答えた。
「ただ、あの窓を見つけたい。見つけて確かめたい」
「確かめるって、何を？」
「あれが現実かどうかさ。もし俺があの窓を見つけられれば、少なくとも窓があったということだけは現実だろ」
　俺はそう言いながら、どうでもいい駒を動かしていた。
「しかしね……」
　サイードが駒を動かしながら言う。
「それがいったい何になるんだ？私には判らんね」
「何にもならないだろうな」
　俺はまた、駒を動かす。
「何にもならない。でも、やらずにはいられないんだ。あの窓を見つけなきゃ、俺はもう写真は撮れない」
「……私の勝ちだ」
　サイードが駒を動かすと、嬉しくも何ともなさそうな声で言った。そう言いながらゲーム盤をさっさと片付け始める。
「もう遅いな。おやすみ」
　俺はそう言うと、サイードを残して自分の部屋に戻った。
　ベッドに横になって目を閉じる。目を閉じて、自分からあの光景を思い出して見る。
　開いた鎧戸。鎧戸の色は紫。
　足を縛られて逆さに吊られた全裸の男。勃起した男根。
　その隅々までを思い出してみる。肌、陰毛、性器。その色合いと形。それらが驚くほど鮮明に蘇る。
　俺はその身体を、どこかで見たことがある。
　ふとそんな気がした。
　これは、既視感という奴だろうか。
　あれはアラブ人じゃない。
　漠然とそんな気もする。
　……見つけてやる。
　俺は心に誓った。
　何としても、あの窓を見つけだしてやる。