コンクリートの檻(9)
第四章 二重奏
翌朝、哲夫は四〇一号室のベッドの上で目覚めた。
昨夜の男はいつの間にかいなくなっていた。
身体を起こすと、胸毛にこびりついて乾いた精液が突っ張って痛む。顔や髪にもばさばさとした滓がこびりついていた。
二日酔いのように頭が朦朧としている。
とにかく身体を洗おうとして立ち上がったとき、部屋にサングラスの男が入ってきた。
サングラスは哲夫を一目見るなり、にやにやと笑って言った。
「昨夜はお楽しみだったようだな」
それを聞いた瞬間、哲夫は我に戻った。
昨夜自分がした事の記憶が洪水のように溢れ出た。それと共に忘れていた羞恥心が蘇り、恐ろしい勢いで心を苛み始める。
サングラスはそんな哲夫に追い撃ちをかけた。
「ふん、この変態野郎め。うちの売春夫どもだって、もっとプライドってもんがあるぜ、全く」
「…やめてくれ…」
哲夫は頭を抱えると、弱々しく呟いた。
「何が息子の為だ。息子なんてどうでもいいんだろう、てめェは」
「違うッ!」
哲夫は吠えた。
「何が違うってんだ。言ってみろよ」
サングラスの言葉に哲夫は返答出来なかった。
膝ががくりと落ちる。哲夫は顔を歪めながら、ただ小声で
「違う…違う…」
と繰り返した。
サングラスは足元に蹲った男を、多少の憐憫を持って眺めた。それは心が二つに引き裂かれた、哀れで惨めな男の姿だった。
その姿は、サングラスの男の嗜虐心をそそった。
サングラスは哲夫を靴先で蹴りとばした。
獣じみた呻き声を立てて、哲夫は床に転がった。サングラスはその股間を靴でぐいと踏み付けた。
哲夫が苦痛の呻き声をたてる。
「違わねえよッ!昨夜自分で言ってたろうが、てめェは変態の淫売だッ!」
固い靴底で陰部を踏みにじられ、哲夫は悲鳴をあげた。玉が潰れそうだった。
「今日からお前には、淫売に似合った仕事をさせてやるからな!覚悟しとけ!」
サングラスは残忍な笑みを浮かべてそう言うと、哲夫の股間を蹴りあげた。
哲夫は再び悲鳴を上げて、股ぐらを押さえて床を転がった。
「十分のうちに風呂に入って身体を洗えッ!」
蹲ってげえげえと喘いでいる哲夫の背中を、サングラスが再び蹴った。哲夫は股間の痛みに立つことが出来ず、這ったままバスルームへと向かった。
サングラスはその後ろから、哲夫の肛門から太腿へと伝った乾いた精液の跡を見ていた。
シャワーを浴びて身体を洗い終わった哲夫は、再び後手錠をかけられた。
足の鎖も短いもの戻され、更に首輪の後ろの金具と後手錠が鎖で繋がれた。
哲夫は真っ直ぐ前を見る以外の恰好が出来なくなった。ちょっと俯くだけで喉を首輪が締め付ける。
首輪の前の金具にも鎖が繋がれ、サングラスはその鎖の端を持って、哲夫を部屋から連れ出した。昨夜脱がされた服はそのまま床に放置され、身体を覆う物は何一つとして与えられなかった。
哲夫はそのまま廊下を牽かれてエレベーターに乗り、三階の三〇五号室へ連れていかれた。
内部は五室に分かれていた。和室が一つで、残りの四室はそれぞれ、絨毯の床やコンクリートの床、タイルの床に板の床といった具合に、バラエティーに富んでいる。
そして良く注意して見ると、それらの部屋のいたる所に仕掛けが施してある。
壁や床には、等間隔で鉄輪が埋められている。天井を見るとそこにも鉄輪や鉄鍵があった。
哲夫はサングラスに牽かれて、部屋を一通り見せて回った。サングラスが部屋にある箪笥やロッカーを開けると、その中には縄や鎖鞭や張り型、泌尿器科や肛門科の病院にありそうな医療機器などがぎっしり入っていた。
一通り部屋を見せ終わると、サングラスは再び哲夫を部屋の入り口に連れ戻した。ドアの内側の壁には鎖が埋め込まれ、その先端が床近くまで垂れている。
「そこに正座しろ」
哲夫は言われるままに膝を折った。サングラスが後ろに回る。
じゃらじゃらと鎖の鳴る音がして、ぱちんと錠がおろされた。
壁の鎖に首輪と手錠を繋がれた哲夫の前にサングラスが仁王立ちになって言った。
「いいか、お前はこれからここで暮らすんだ。この部屋でお前が何をするかは、もう説明しなくても判るだろう?…そうだ、売春だ」
哲夫は屈辱に俯こうとして、首輪に喉を締め付けられて咳込んだ。サングラスはそれを気にも止めずに話し続けた。
「一日ここで客を待っていればいいんだ。楽なもんだろう。食事は三度三度運んでやる。おまるをやるから、糞や小便もここでしろ。眠る時だけは鎖を緩めて、横になれるようにしてやる。それと忘れるな、客の言うことには絶対に逆らわず、完全に服従しろ。お前が反抗すれば、すぐそれは俺達に知れて折檻だ。判ったか」
「はい…」
哲夫はそう返事するしかなかった。
「よォし、じゃあこれからお客様への挨拶の仕方を教えてやる。土下座しろッ!」
言われる通りにしようとすると、また喉が締め付けられる。
「腕を思いっきり上げて、上半身全体を前に倒すんだ。そうすれば出来る」
言われた通りにしようとして、哲夫はバランスを失って額を床に思いきり打ち付けた。サングラスがその後頭部を踏み付ける。
「その儘の姿勢でこう言うんだ。『いらっしゃいませ、哲夫でございます。どうぞ宜しくお願いいたします』…そら、言ってみろ」
哲夫がおずおずとその言葉を言い始めるとすかさずサングラスの足に体重がかかって、罵声がとんだ。
「馬鹿野郎ッ!もっとでっかい声で言うんだよッ!」
哲夫は奥歯を噛み締めた。
「いらっしゃいませ、哲夫でございます。どうぞ宜しくお願いいたします」
「よし、身体を起こせ。最初からやりなおしだ」
哲夫はろよろと身体を起こして、再び土下座の体勢をとると、その言葉を口にした。
サングラスは舌打ちをして言った。
「どうもサマにならねえな。もっと練習が必要みてェだ。おい、あと二十回繰り返せ!」
正座して、土下座して、屈辱的な挨拶を言う。それを二十回繰り返すうちに、哲夫の身体は吹き出す汗でびっしょり濡れた。
漸くOKを貰って荒い息をつく哲夫に、サングラスが言った。
「客がない時は俺達で遊んでやる。暇を見て色々仕込む事もあるしな」
サングラスはロッカーからおまるを持って来ると、それを置いて部屋を出ていった。
哲夫は惨めな気分で、目の前に置かれたおまるを見た。
鎖に繋がれ、身動きする事すら不自由な身体。自分の堕とされた身分を嫌がおうでも思い知らされる。
洋も同じ目に会っているのだろうか。
それを思った瞬間、涙が頬を伝った。
無人の部屋で、哲夫は素っ裸で正座したまま、ひっそりと男泣きした。
組織は哲夫の宣伝を始めた。
誘拐、監禁という大きいリスクを払って入手した品物のため、機密保持のためにも、他の売春夫よりかなり高額の値段がつけられたが、物珍しさも手伝って好調な滑りだしだった。
哲夫は来る日も来る日も身体を売り続けた 客の種類は色々だった。
その雑多な注文に応じて、哲夫は口や舌による奉仕、尻を使ったサービスを行った。SM趣味の客がついたときには、縛られ、吊るされ、鞭うたれもした。
中にはフェチ趣味の客もおり、レザーやゴムに全身を覆われたり、鬘をつけて侍の恰好をさせられたり、あまつさえは女装させられて女言葉を強要されもりした。
それらを重ねるうちに、哲夫の精神は次第に歪められていった。
いつの間にかその身体は、苦痛や屈辱にも自然と反応し、興奮するようになった。
それは哲夫が変化したのだろうか。それとも、今までは心の奥底に潜んでいた妖しい性が、出口を開かれて奔出したのだろうか。
哲夫自身にもそれは判らなかった。
ともあれ哲夫は、やがて尿や糞便を口にすることすら覚えた。
最初は抵抗し、嫌悪していた哲夫だが、洋のことを持ち出されると、嫌でも従うしかなかった。
屈辱と苦痛にまみれた心を、哲夫は肉体の欲望に溺れ、その中に隠れることで守った。そうするしかなかった。そうしていなければ、矛盾した二つの自己に引き裂かれた精神は、易々と発狂していただろう。
やがて哲夫は、もう洋に会わせてくれと言わなくなった。
会いたくなかった。
変化した自分の姿を、息子に見られたくなかった。
洋の為と思って屈辱や苦痛に耐えていても、いつの間にかそれが純粋な快感に変化してしまう自分の姿を。
しかし、やがて客の数は次第に減少の兆しを見せてきた。
もの珍しさで哲夫を買った客は、すぐに飽きて別の遊びを捜した。哲夫の人より大きな男根に魅かれた客もいたが、その哲夫より大きなものの持ち主も、世間には幾らでもいる。しかもそれを手にするには、何もこんな大金を払ったり、危ない橋を渡る必要もない。
客足が減ったのは組織自体にも原因があった。
今まで少年や青年を中心に商売してきた組織なので、当然その顧客層も限界があった。
哲夫が売春を始めてから一ヵ月もたつと、彼を買う客はごく熱心な四、五人だけになっていた。
客達は共通して、重度のサディストだった。
他の客と違って彼らは、何をも憚ることなく責められる、この人間性を完璧に剥奪された男を好んだ。
一般には試せないような妄想でも、この哲夫相手ならば何の遠慮もいらない。
当然彼らのプレイはエスカレートしたが、それは同時に哲夫がそれらに耐え、慣れていく長期的な調教にもなった。
しかしそれにも、おのずから限界がある。哲夫の身体には生傷が絶えなくなった。さしもの屈強な身体の持ち主である哲夫も、頻繁に調子を崩して、客をとれなくなった。
組織は哲夫の値段を吊り上げた。それによって客足は減り、哲夫も何とかその手荒い商売に耐えることができた。
哲夫はもう、完全なマゾヒストとなっていた。その精神と肉体はいまだ苦しむ事を覚えていたが、それは同時に快楽にもなっていた。現実逃避のために溺れていた快楽が、いつしか哲夫の全てを支配するようになっていたのだ。
それは「洗脳」といっても良いかもしれない。
哲夫がこのコンクリートのマンションに監禁されてから、三ヵ月が過ぎようとしていた。