窓〜アル・ナーフィザト(7)

 数十分後、電話で呼ばれたアマルがやって来て、俺とサイードは連れ立って外に出た。
「車があった方が便利だからな」
 サイードが歩きながら言った。
「アハメッドに手伝って貰うことにした」
「アハメッド?誰だい?」
「弟さ。タクシーの運転手をしている。この間、話しただろ?」
「あの、怪我をした弟かい?」
 俺はびっくりして聞き返した。
「大丈夫なのか?運転なんか……」
「昨日から、もう仕事を始めているさ」
 サイードは笑いながら、それでもまだ不安そうな顔をしている俺に言った。
「心配するな。少し気の荒い奴だが、運転の腕は確かだ。事故ったのも、相手の車のせいだ」
 タハリール広場に出た俺たちは、その一角に立ち止まった。
「ここに迎えに来るよう、電話しておいた」
 サイードはそう言うと、ポケットから煙草を出して火を点けた。もちろんマリファナなんかじゃない、『クレオパトラ』というエジプト製煙草だ。
「来たぞ」
 サイードがそう言うと同時に、一台のおんぼろタクシーが猛スピードで走って来て、俺たちの前に急停車した。
 俺はそのタクシーの車体と、ドアを開けて降りてきた男の顔を見て、あっと驚きの声を上げた。
 紛れもなくあの日、俺が乗ったタクシーと、その運転手だった。もっともタクシーの方は、もともとのおんぼろさに加え、更に運転席のドアがべこりと凹んでいる。どうやらそこに車をぶつけられたらしい。
 運転手、つまりサイードの弟のアハメッドも、俺のことを覚えていたらしく、びっくりしたような顔をしていた。
 俺は夢中になってサイードにこのことを説明した。俺の話を聞きながら、サイードも驚いた顔をして、時折りアハメッドにアラビア語で何か尋ねていた。
 アハメッドはそれに答えながら、俺とサイードの顔を見比べながら、独りで納得したように、にやにや笑って頷いていた。
「そういうことなら、話が簡単になるじゃないか」
 俺の話を聞き終わって、サイードが言った。
「ハマム廻りをする前に、アハメッドにその日の道順を逆に辿って、旧市街に行って貰おう。トシは車の外をよく見て、例の窓を探せばいい」
 俺たち三人は車に乗り込んで、旧市街に向かって出発した。サイードは助手席に座って弟と何か話し興じ、俺は窓の外を食い入るように見続けた。
 しかし旧市街に入っても、目指す窓はなかなか見当たらなかった。それらしい場所は幾つかあったが、肝心の紫色の鎧戸は一つも見つからない。
 アハメッドがあの時の運転手だと知って、容易にあの窓を見つけることが出来ると、有頂天になっていた気持ちが、空気の抜けていく風船のように、次第に萎んでいく。
 やがて車は大通りを外れ、暫く細い道をくねくねと曲がった後、とある路地に停車してしまった。
 助手席のサイードが振り向いて言った。
「アハメッドは、ここでトシを拾ったと言ってるぞ」
 確かに窓の外の景色に見覚えがある。
「で、今までの道筋で、その窓は見つけられなかったのか?」
「ああ」
 俺は力のない返事をした。
「彼が道を間違えた、ってことはないだろうね」
 それを通訳したサイードの言葉を聞いて、アハメッドがプライドを傷つけられたとでもいうように、ぷんぷん怒りながら何事か怒鳴った。
 サイードはそれは通訳せずに、にやりと笑いながら俺に言った。
「少し気が荒いって言ったろ?」
「あの時、確か渋滞で車が停まっていたんだ」
 俺はサイードに言った。
「その渋滞してた辺りまで、戻ってくれと言ってくれないか」
 アハメッドは仏頂面をしたまま、車を発進させた。
 今日は渋滞もなく、車にお構いなく歩く歩行者や家畜に邪魔される程度で、俺たちを乗せた車は比較的順調に走った。にも関わらずアハメッドは、ひっきりなしにクラクションを鳴らし続けていた。
 やがて車は、少し大きめの通りに停車した。
「この辺りなのか?アハメッドの家の近くじゃないか」
 サイードが驚いたように言う。
「ちょっと、このまま待っていてくれ」
 俺はサイードの言葉を無視すると、そう言って車から降りた。
 辺りの風景を見回す。道路の周囲には、似たような形をした、三階建てから五階建ての建物が並んでいる。しかし、その何処にも例の窓はなかった。
 俺は目を閉じて、その窓のあった建物の形を思い出そうとした。しかし幾ら考えても、建物の形はおろか、壁の色すら浮かんでこない。
 鎧戸と窓の内側の光景は、あれほど鮮明に記憶しているというのに。
「見つからないのか?」
 いつの間にか車を降りていたサイードが、俺の肩を叩いて言った。
 俺は力なく頷いた。
「やっぱり、夢じゃないのか?」
 サイードが俺に言い聞かせるように言う。
「お前の気のせいだったんだ」
「違う!」
 俺は言った。
「俺は確かに見たんだ。夢や幻なんかじゃなく、はっきりと!」
 そう言いながらも俺の心の何処かで、サイードの言う通りだという囁きが聞こえていた。
「まあ、いいさ」
 サイードは諦めたように言った。
「それなら最初の計画通り、痣のある男の方を探せばいい。ハマムを廻ってね。……見つかるとも思えないが」
 最後の言葉は小声だった。俺は無言のまま車に戻った。
 俺たちはハマムを廻り始めた。
 アハメッドが車を走らせ、停車した所でサイードが車から降りて、ハマムの入口を潜る。俺とアハメッドは車の中で、サイードが戻るのを待つ。
 早くて数分、遅いときは数十分後、サイードが頭を横に振りながら戻って来る。アハメッドが車を発進させ、次のハマムに向かう。
 正午を過ぎ、昼食を摂った時以外は、ずっとこの繰り返しだった。
 俺は半ば諦めかけていた。少なくとも、今日中に何らかの手掛かりが得られない時は、この事をすっぱりと忘れる決心をしていた。
 シートの傍らに置いた、カメラバッグを撫でる。
 外に出るときは必ず持ち歩いているバッグだが、この数日間、その蓋を開けたことはなかった。それどころか、あの窓の光景を見た日以来、一度もシャッターを押していない。
 俺は何の為にエジプトに来たんだ。金の為だけに写真を撮ることにうんざりして、自分の為の作品を撮りに来たんじゃなかったのか。
 それなのに俺はこの一週間を、余りにも無益に過ごしている。
 そんな自戒の念が起こりつつあった。
 午後三時を少し廻った頃、旧市街のハマムで残っているのは、あと一軒のみになってしまった。
 やがて車は、かなり古そうに見える立派な建物の前に停まった。
「ここが最後の一軒だ」
 サイードが建物を指差して言った。
「伝統のある、とても古いハマムなんだ。建ったのは百年以上昔で、中もとても立派な造りでね。……もっともその分、いささか古ぼけてはいるが」
 俺は感心しながら、その建物をつくづく眺めた。シンプルな黄色い外壁に配された、装飾されたアーチ型の壁龕が美しい。
 サイードが建物に入っていく。扉の脇には『アラビア風呂へようこそ』といった類の意味の記された、英語の看板が出ている。観光コースにでも入っているのだろう。
 俺は祈るような気持ちで、サイードの帰りを待った。二十分近く経って、サイードが例によって首を振りながら戻ってきた。
 何だか全身から力が抜けていくような気がした。
 惚けたような俺を気づかうように、サイードが言った。
「さて……と。どうする?よかったらアハメッドの家に寄って、お茶でも飲んでから帰ろうか」
 俺は黙って首を横に振った。サイードは俺の顔を覗き込みながら続ける。
「近くなんだぞ。この通りを真っ直ぐ行けば、さっきの場所に出るんだ」
「いや……」
 俺は無理に笑顔を作りながら答えた。
「俺はホテルに帰るよ。その前にこのハマムに寄ってからね。さっきの君の説明を聞いていたら、何だか入ってみたくなった。俺、まだハマムって入ったことないしね」
「それなら、終わるまで待っていようか?」
 親切にそう言ってくれたサイードを、俺は押し止めた。
「いや、本当にいいんだ。一人でも帰れるし、君は弟の所に寄っていきなよ。……少し、独りになりたいんだ」
 ドアを開けて車を降りた俺を、サイードは励ますように言った。
「それなら、無理強いはやめよう。後でホテルでな」
「ああ、ホテルで」
 俺は笑いながら答えた。
 サイードは意味ありげな笑みを浮かべている。俺はその意味を重々承知していた。