窓〜アル・ナーフィザト(8)

 車は走り去り、俺はハマムの中に入った。
 中はサイードの言った通り、素晴らしい造りになっていた。脱衣所と休憩室を兼ねているホールなどは、まるでアラビアン・ナイトに出てくる宮殿のような様相だ。
 着ていた服を脱いで一枚の布を腰に巻くと、同じ恰好をした痩せた男が、俺を浴室へと連れていった。
 湯気の立ち込める部屋の中、男は大理石の壇上に俺を横たえると、俺の身体に石鹸をつけて洗い始めた。手、ふわふわした綿のようなもの、えらく痛いヘチマに似たものと、数通りの洗い方だった。
 最後に、その細い身体からは想像も出来ないような、力を込めた過激なマッサージをされた。
 俺はホールに戻って、天鵞絨のクッションに寄り掛かりながら、身体の汗が引くのを待った。従業員が飲み物はいらないかと勧めに来たので、コーヒーを注文する。
 しばらくして運ばれてきた、どろりとしたアラビア・コーヒーを飲みながら、俺はすっかり寛いだ気分になっていた。
 不思議にさっぱりとした気分だった。あの窓への執着から開放されると同時に、身体が軽くなったような気がする。
 この豪奢なホールも、俺の気分を変えてくれるのに一役かってくれている。壁に掛かった大きな絨毯、床を複雑な幾何学模様に彩る色大理石のモザイク。色ガラスの埋め込まれた、巨大な真鍮のシャンデリア。
 ふと、サイードの顔が浮かんだ。
 今夜、俺は生まれて初めて、男に犯される。
 そう思うと、ぞくぞくするような興奮に襲われる。もちろん不安もある。しかし今となってはもう、なるようになれという気分だった。
 自分がアラブのハレムにいる、寵姫のようだと思った。初めてスルタンに抱かれる準備として、身体の隅々まで清められたのだ。
 俺は自分の連想に、我ながら可笑しくなってくすくすと笑った。
 色ガラス越しのシャンデリアの光が、青いクッションを斑に染めている。俺はぼんやりとそれを見ていたが、あることに気付いてはっと息を飲んだ。
 クッションの一部が紫色に染まっている。赤い光に照らされているのだ。
 あの時。
 窓の色は紫。
 街は夕陽で赤く染まっていた……
 俺は慌ててコーヒーを飲み干すと、代金を払ってハマムを飛び出した。
 あの場所に出ると教えられた道を、全速力で走る。心臓が早鐘のように打っている。
 見覚えのある場所に出る。俺は息を切らしながら辺りを見回し、窓を探す。
 紫ではなく、青い窓を。
 やがて、それらしき水色の窓を見つけた。 俺は焦りに震える指でカメラバッグを開け、夕陽の色に最も近いカラーフィルターを取り出す。
 フィルターを指で挟み、それを透かしてその窓を見る。鎧戸は紛れもない紫色になっている。
 窓を一つ一つ丹念に見ていく。
 そしてついに俺は、あの窓を見つけた。
 興奮に身体が震え出した。大声で快哉を叫びたくなる気持ちを堪える。
 建物の三階、右から二番目の窓。
 俺はその場所をしっかりと記憶すると、行き交う車の間を走り抜けて、道路の向こうのその建物に走り込んだ。
 そこはアパートのようだった。弾む息を整えながら、階段を昇っていく。心臓の鼓動が益々激しくなっていく。
 目指す部屋のドアの前で、俺は暫く躊躇した。
 この部屋の扉を叩いたからといって、その後どうすればいいのだろうか。例えこの中にどんな人間がいるにせよ、それが俺と何の関わりがあるというのだ。
 このまま何もしないで帰るべきではないだろうか。
 しかし、俺はそう出来なかった。自分が見たものが何であろうと、この扉の向こうに何が待ち受けていようと、それを確かめずにはいられなかった。
 俺はゆっくりと手を伸ばすと、扉の脇の呼び鈴を鳴らした。
 微かな呼び鈴の音に続き、扉に近づいて来る足音が聞こえる。緊張に身体が小刻みに震え始める。
 扉が開く。
 次の瞬間、俺は殆ど悲鳴に近い声を上げていた。
 同様に扉を開けた人物も、驚きに大きな声を上げた。
「トシ!どうしてここが判ったんだ?」
 俺は驚愕に凍り付いたまま、扉を開けたサイードの顔を見つめていた。
 すると、ここはアハメッドの家なのか?すると、俺が見た男はアハメッドなのか?
 いや、そんな筈はない。だってあの時、俺はアハメッドの運転する車に乗っていたんだ。あの男がアハメッドである筈がない。
 頭が混乱する。何が何だか判らなくなる。
 サイードが俺の肩を抱いて、扉の中に招き入れた。俺は何も考えられないまま、操り人形のように部屋に入った。しかし何も判らないのに、漠然とした不安が、頭の中に拡がっていく。
 背後で扉の閉まる音がする。
 部屋の中に、嗅ぎなれた香りの煙が漂っていた。マリファナだ。
 不安が予感へと変わり、次第に高まっていく。一歩進む毎に、自分がとんでもない結論に向かっているような気がする。
 床に置かれたクッションの上に、アハメッドが座ってマリファナをふかしている。サイードは俺をその向かいに座らせ、自分もその傍らに座った。
 ガラスのコップが目の前に置かれ、湯気を上げる紅茶が注がれた。サイードが俺に何か話し掛けているが、その言葉は全く耳に入って来なかった。
 アハメッドの目が、濃い眉の下でじっと俺を見つめている。その瞳は酔ったように、とろりと据わっている。
 俺の口許に、サイードが紙巻きをあてがった。俺は何も考えずに、煙を深く吸い込んだ。
 ふとアハメッドが眉を顰めて、サイードを読んだ。サイードはクッションから立ち上がると、弟のシャツを脱がせ始めた。
 シャツの下から毛深く逞しい裸身が現れる。俺の中の不安な予感が、押し止めようのないほど巨大に膨れ上がっていく。
「……それは……?」
 俺は震える声でそう言うと、アハメッドの左肩を指差した。がっしりと張った肩に、白い湿布が貼られている。
「この間の事故で、ここを打ったんだ」
 サイードが言った。
「少し痛み始めたんで、取り替えてくれと言うんでね」
 俺は息を呑んで、サイードの指が湿布を剥がすのを見守った。
「ほら、見てくれ」
 サイードの声が、どこか遠くから聞こえてくるように響く。
「花のようだろ?」
 俺は恐怖に凍り付いたまま、アハメッドの左肩の痣を見つめていた。
「約束を覚えているな?トシ」
 サイードが言った。顔に嫌らしい笑みを浮かべて。
 その瞬間、俺の心は正気に戻った。俺は悲鳴を上げて、部屋から逃げ出そうとした。